九人目のあなたこそが [仇] - 後編 -

 幼く小さな手が握るには、丁度良い太さと硬さのある木の棒だった。まだ磨かれておらず木の皮が残っている棒の感触を、俺は昨日のことのように思い出せる。
 ウェナ諸島の村は須く漁村で、櫂や銛、生簀の柵などを作るために、手頃な太さの木材がそこら辺に転がっていた。丁度良い長さにするために切った短い端材は、子供達の遊び道具だった。白い砂浜の上で、端材を持ち寄り勇者ごっこをする光景は有り触れたものだった。
 自分が運動神経が良いと自覚し始めたのは、鈍臭いイサークの存在だった。
 口を開けば変な訛りのあるイサークは、孤児院の子供達に笑われてから挨拶すらしなくなった。いつもトンブレロソンブレロのトロを抱いて、長い乱れた髪の隙間から他人を恨みの籠った目で睨みつける。喋らないのですぐ手が出て、年下も年上も泣かす乱暴者だった。それでも所詮子供。力もなく鈍臭いイサークに他人を怪我させる程の力はなく、大人達は親から離れたことで不安で堪らないのだろうと思っていたらしかった。
 そんなイサークを止めるのが、いつしか俺の仕事になった。
 イサークは嫌いだった。
 言うことは聞かないし、喋りもしない。叩いて、引きずるように孤児院に連れて帰ることが、本当は嫌だった。それでも誰もイサークの心を開かせることはできず、その気になれば魔物のいる平原を突っ切って祈りの宿まで行けてしまう。結局、叩いて言うことをきかす役目を、俺がするようになった。
 すごく嫌だった。痛いくせに声も出さずに食いしばって、涙を浮かべた恐ろしい目で見てくるイサークが嫌いだった。どうして俺がこんなことをしなくちゃならねぇんだって、イサークを連れ戻すよう頼む大人達を恨む。このまま魔物に食われたり、貰い手が現れたりして、いなくなってしまえば良いって心のどこかで思っていた。
 あ。
 久々に聴いたイサークの声は、この世の者とは思えない不気味さだった。丁度良い太さと硬さのある木の棒から這い上がってくる鈍い衝撃が、腕を伝って全身を貫く。ぽっかりと空いたイサークの口が、恐ろしい洞窟のように真っ暗だった。大きく目を見開いたまま、伸ばしっぱなしの髪が引っ張られるように浮かび上がる。白い砂浜の上に、波の音とは違うざりっとした音が耳にこびりついた。イサークの瞬きせず開いたままの目尻から、一筋の涙が伝ったのを俺は呆然と眺めていた。
 起き上がらない。動かないイサークを見下ろして、俺はどうしたんだろうと手を伸ばす。俺の小さい手が、イサークの肩を掴んで揺らしても動かない。動かない。どうして。どうして動かないんだ?
 ぶうぶうと、イサークがいつも連れているトロが鼻先を押し付ける。
 ぶうぶう。ぶうぶう。トロの鼻息がうるさい。ぶうぶう。ぶうぶう。ぶぶぶぶぶ。
 イサークの乾いた目玉が、ぎょろりと動いた。目玉が小さく裂けて、赤い血が涙のように転がり落ちた。
『よくも僕を殺したな。ヒューザ』
 今ならレンダーシア訛りと分かる冷えた声色が、黒い闇から漏れた。
 はっと息を呑んで体が強張ると、目の前に深海の色の瞳がある。目の前に屈んだ大人の姿のイサークの肩が、驚いて跳ねた。荒い息とあの当時の心臓の五月蠅さが再現された重い体が、ソファーに縫い付けられたように動かない。
 へらりと笑ったイサークは、手にした毛布を畳みだした。
「ごめんねー。起こしちゃったね」
 声変わりを経た、低く柔らかいウェナ訛りが耳朶に触れた。
「慣れないことをしてるから、流石のヒュー君も疲れるんだね。もう少し寝てて大丈夫だよ」
 俺はそう言われて、体の中に沈澱している怠さの正体を思い出した。
 ヴェリナード王国のオーディス王子の影武者をする俺は、周囲に影武者であることを悟られないように王子の日課をこなしていた。朝のウェディの種族神マリーヌへの礼拝、ウェディの王族の務めである恵みの歌を歌う女王に付き添うこと、他の国の使者や国民との謁見などだ。王子として発言しなければいけないことは、事前に本物のオーディスから指示がある。決まった動作さえ覚えていれば、背筋を伸ばして立っているだけで十分なことばかりだ。
 問題はオーディスが、将来王国の担い手になるための授業だ。
 代々女王が治めてきたヴェリナードだが、オーディスの代で数百年ぶりの王が戴冠する。王として国を担うために、ヴェリナードの歴史や文化、帝王学に戦いでの戦略運営術など様々な座学がある。座学に関しては教師の話を聞いているだけでいいと言われているし、実際に何を言っているかはわからなかった。ただ、生真面目な顔で聞き流せばどうにかなった。
 どうにもならないのは、歌の授業だ。
 ウェナの女王は常に歌と共に治世を行う。オーディスの歌の授業も、連日と言える頻度で存在した。歌の授業だけは聞き流すことはできず、歌うことを強いられる。先程ようやく終えた歌の授業を思い出して、俺は重いため息を吐いた。それを見てか、イサークが吹き出した。
「ヒュー君は相変わらず歌が下手だね。良い声なのに、もったいないなぁ」
 畳んだ布団を口元に押し付け笑い声を殺しているが、イサークの肩が震えている。今は喉の調子が悪いと言って教師を騙しているが、いつまで騙し通せるか分からない。
「うるせぇな」
 俺の苛立ちをイサークは気にもせず、毛布を片づけテーブルに広げていた作業を再開する。ウェナの様々な植物を煮出して染料にした糸を縒りて紐とし、真珠やシーグラス、螺鈿細工のビーズを編み込んだ手の込んだ逸品を作っている。紐の色や石の組み合わせや編み方で意味が異なり、イサークの作っている物は厄災を退ける願いが込められている。露天で見かけたら良い値段がしそうな、複雑で美しいブレスレットだった。
 手元に視線を落としたまま、イサークは俺に話しかける。
「メルー公が迎えに来たら、僕は離れるからね。王族の方との夕食とテーブルマナー講座は、もう少し頑張りなよー。いきなり離席したら、皆びっくりしちゃうでしょ?」
 鼻歌混じりに手を動かし続けるイサークに、俺は舌打ちした。
「別にテーブルマナーが嫌だった訳じゃねぇ。なんか、居辛かっただけだ」
 ふーん。相槌を打つイサークは、たった今出来上がったブレスレットを押し付けてくる。
「孤児院のご飯だって、結構賑やかだったじゃん。ヒュー君は独り飯に慣れすぎちゃたの?」
「お前はどうなんだよ?」
 俺の問いに、イサークは材料や道具を箱に片づけながら穏やかに笑う。
「僕は賑やかなご飯は好きだよ。衛士団の人達はあまりウェナの外のご飯を知らないからさ、僕が外で覚えてきた料理を振る舞ってるんだー。今日はガートランドの肉料理を作るの。ガートランドの味付けはウェディ好みだから、絶対気に入ってくれる自信あるんだー」
 俺の知っているイサークは、孤児院の誰かと一緒に食事をしなかった。一人分の食事を持って、外でトロと食事を分け合って食べていた。あの暗い憎しみに淀んだ瞳を、固く引き結んだ口を、俺以外もう誰も覚えていない。
 笑っているイサークが、俺は心底気味が悪かった。

 迎えに来たメルー公が、少し散歩をしようと中庭を歩く。ヴェリナード城の中庭は海の水を引き込んだ、巨大なアクアリウムだ。建国時代の柱が飛び石のように水面から顔を覗かせ、そこから透き通った海を覗き込めば色とりどりの珊瑚や鮮やかな海藻、熱帯魚の群れを見ることができる。
 遠くから響く潮騒に落ち着くはずの気持ちは、重いものだった。
 この後は王族の皆と顔を合わせて夕食を食べながら、メルー公からテーブルマナーを学ぶ。俺が礼儀作法と無縁の暮らしをして拙いナイフとフォークの扱いでも、手を取って根気強く教えてくれる女王の夫の存在はありがたかった。それにテーブルマナーは剣術のように型を覚えてしまえば、それほど難しいものではなかった。
 俺の気を重くさせるものに、気が付いているのだろう。メルー公は寄せては返す波のように、穏やかな声で俺に語りかけてくる。包み込むような優しさに、俺の体が思わず強張る。
「孤児院に預けられていたのなら、色々事情もあろう。我々は誰一人欠けることなく円満で幸せな家庭を築けているが、それが当たり前ではないことを忘れていたようだ」
「そういう訳じゃ…」
 濁した言葉を、優しい笑みがただ受け止める。
 ヴェリナードの王族は仲が良いのだと、共に食事をすると熟思い知らされる。昨日はセーリアにメルー公がサンダルを贈ったのだが、そのデザインはオーディスが似合うからと選んだ物だったと赤面した二人。実はブーツを贈っていたと恥ずかしげに告白する女王。『まだ、靴を履く文化に慣れていないけれど、いつかは履きます』と、はにかむ笑みを浮かべたセーリア。その互いを大事に思いやる言葉のやりとりは、俺の居場所はここではないと突きつけられるようだった。
 家族。親の顔も知らない。じいさんと一緒に暮らしていた事だけは朧げに覚えているが、物心付いてすぐに唯一の肉親も死んでしまった。家族なんて俺には縁のないものだ。
「今日は私と二人きりで食事でもどうだね? 男同士の場だから、話せることもあるだろう?」
 昨日は堪らず席を立ってしまったが、こんな形で気遣ってもらうつもりはなかったのに…。優しさに居心地の悪さを感じてしまうことに、罪悪感が募る。
 それはそうと、一つ聞きたいことがある。メルー公はそう前置きをして、世間話をするように言葉を続けた。
「イサークは幼馴染なのだろう?」
 ぴくりと、体が強張る。そんな俺の様子を見て、メルー公は淡々と言葉を続けた。
「幼馴染の割に、君は彼に随分余所余所しい。もしかして、あのイサークは偽物なのかね?」
 今、若き王族を狙った誘拐犯に対して厳戒態勢のヴェリナードだ。影武者であったとしても、俺に対して王族と変わらぬ警護が付いているのは感じている。その中で、影武者であれ王子に付いているイサークが、俺の態度で誘拐犯かその協力者にすり替わっているのではという疑念が湧いたのだろう。
 俺は穏やかな口調の割に油断のない視線を向けるメルー公に、頭振って見せた。
「いや、本物だ。誘拐犯の仲間かって勘ぐってんのかもしれねぇが、それはない」
 俺とイサークの間ではいつものやりとりだが、他人から見れば違って見えるらしい。イサークへの態度が余所余所しい理由を説明しなければ、メルー公を納得させることはできないだろう。孤児院の誰にも話したことはなかったが、不思議と言葉はするりと紡がれていく。
「海に引き摺り込まれたウェディが、海から戻ってきたら別人だったって話がある」
 ウェナ諸島の子供なら一度は耳にしたことがある怪談に、メルー公は頷いた。
 海の底に引き摺り込まれた者が、ふらりと戻ってくることから話は始まる。頭から爪先まで濡れそぼった以外は何一つ変わらなかったが、引き摺り込まれた者の魂は海底に沈み、海の底にいた別の魂が肉体に入り込んで戻ってきた。周囲の者を殺したり混乱させる展開もあるが、最終的に肉体を火で浄め海底に沈めて帰すという終わりは何処も同じ。
「イサークも一度死んで息を吹き返したら、別人になっていたんだ。誰にも心を開かない乱暴者が、愛想の良い優しい奴になった」
 その変化は劇的だった。
 俺の目の前で息が止まりどんどん冷えていく体を、トンブレロのトロが飛び跳ねて踏みつける。青い豚が被った帽子が『大人を呼んできな!』と大声で俺をどやしつけた。俺が大人達を連れて戻ってきたときには息を吹き返していたが、意識は一向に戻らなかった。大人達が葬儀を考え始めた頃、イサークは突然目を覚ました。そして流暢なウェナ訛りで助けられたことを感謝し、穏やかな海のような声色で皆に迷惑をかけたことを謝ったのだ。見た目は子供なのに、老人のような大人びた雰囲気だったのを心底不気味に感じたのを覚えている。
 メルー公は少し目を見開いたが、笑みを崩すことなく相槌を打った。
「良い変化じゃないか。命を救われて、感謝の気持ちを覚えたんじゃないかね?」
 その言葉を、俺は何度もレーン村で聞いた。大人達は皆、そう思っていた。
 イサークは変わった。穏やかで優しくなって、孤児院の子供達は次第にイサークに懐くようになった。呪文の才能も、歌の上手さも、頭が良くて何事も要領良く出来るのも、元々イサークが持っていたものだったろう。イサークは朗らかに笑いながら、人々の輪の中の中心に立つようになっていた。
 良い子になった。良かった。誰もがそう言った。でも、俺は…。
「俺はそうは思えない」
 イサークが嫌いだった。魔物に食われてしまえと、どこかへ行ってしまえと、思ったこともあった。そして俺の知っているイサークは、本当にこの世界のどこにもいなくなってしまったのだ。
「俺がイサークを殺したんだ。だから、イサークは変わっちまったんだ」
 絞り出したような声は、驚くほどの罪悪感に塗れていた。メルー公が俺の二の腕をさすり、言葉をかけようと口を開いた時だった。突然背後にいた護衛の兵士が、水の中に落ちた。まるで意識を失ったかのように、頭から何の構えもなく落ちて水が弾ける音が波の音を押しのける。
 メルー公も俺も、すぐさま剣を抜き放ち背を預けあって周囲を見回す。
 護衛として見えない位置に控えていた兵士達が、次々に倒れていく。声もなく、いきなり意識を失う。恐ろしい悲鳴をあげて、倒れ込み起き上がらぬ兵士もいた。騒ぎを聞きつけ駆けつけた者も、次々に倒れていく。
「なんだ? 何が起きているんだ?」
 俺もメルー公も周囲に目をこらす。隠れる場所もない開けた場所で倒れた兵士の側には、人影すらない。夜気とは違う肌寒さが、むき出しの肌を撫でて嫌な予感だけ存分に掻き立てていく。
 頭上を赤いものが飛び過ぎ、水面に浮かんだ氷の海亀の上にプクリポが降り立った。イサークの連れの赤毛のプクリポは、毛を逆立て周囲を油断なく見回す。
 何が起きているのか問う合間もなく、ルアムという名のプクリポは仄かに光を帯びた爪で何もない空間を切り裂いた。次の瞬間白いモヤのようなものが爪に引っかかり、恐ろしい声をあげて光が炎のように燃え移って消えていく。それを息を呑んで見ていた俺達の頭を叩くように、鋭い声が響き渡った。
「僕が指示を出すまで、動くな! 冥界に落ちるぞ!」
 振り返ると、イサークが足早に駆けてくる。真理のローブの上に青いメロディアスーツを引っ掛けた長身が、黄色いトンブレロソンブレロの鮮やかな色と共に暗がりから飛び出してくる。俺達の無事を確かめると、険しい表情のままトンブレロソンブレロに指を掛ける。
「レディ、少し無理をさせるけど頑張って…!」
 イサークの空色を彷彿とさせる肌の色が、深みを増していく。増大する魔力と共に、周囲の温度がどんどん冷えてウェナの海にはない水の匂いが押し寄せてくる。イサークが腹の底から搾り出すような低い声で、単調な音を連ねていく。まるで心臓の鼓動のような間隔で発せられた音が一つ紡がれる毎に、イサークの周囲に氷のピラニアが生み出される。それは数を増やし、群れとなって中庭からヴェリナードの王宮内を悠々と泳ぎ出す。
 イサークが両手を天に向けて広げ、高らかにザラキーマの呪文を歌い上げた瞬間に全てが一変した。氷のピラニアの群れが、獲物に襲いかかったのだ。虚空に食いついたピラニアが何かを食い破るように身を捩れば、白い何かが引き千切られていく。引き千切られた白にピラニアは群がり、次々に食い尽くしていく。兵士の身にくっついた物を引き剥がし、逃げ惑う全てを逃すことはない。
 その圧倒的で一方的な虐殺を指揮する姿は、身震いするほどに美しかった。
 イサークががくりと膝をつく。飛び出そうとした俺を、ルアムの爪が遮った。
「オイラが良いって言うまで、動いちゃだめだ」
 有無を言わせぬ緊張感に張り詰めた声に、歯噛みする。俺は何もできない無力さに拳を握りながら、赤い猫耳の後頭部からイサークへ視線を移した。
 イサークが床に両手を付くと、静かに穏やかな歌を歌い出す。中庭の水底から氷のクラゲ達が浮かび上がってくる。クラゲの触手は何かを捉えるかのように丸まっていて、優雅に揺蕩いながら倒れた者達の上を漂った。触手が離れると、クラゲを形作っていた氷が粉々に砕けていく。
 ぴくりと、倒れていた者が動き出す。水が激しく泡立つと、勢いよく水面に顔を出した兵士もいた。
 さらにイサークが歌を変えると、押し寄せた水の匂いは遠ざかり嗅ぎ慣れた潮風が吹き込んでくる。ルアムが爪を下げたと同時に、俺は駆け出して中庭の水に落ちそうになったイサークを抱きとめた。
「イサーク!」
 生きている者とは思えないほどに冷え切った体に、鳥肌が立つ。肌の色は暗く燻み、唇は血の気を失っていた。弱い息を継ぎながら、頭から転がり落ちたレディ・ブレラに手を伸ばす。俺が拾って胸の上に置いてやると、安心したように眉尻が下がった。
 宮殿の方から駆け寄ってきたザイナーが、イサークの顔を心配そうに覗きこむ。
「何が起きているんだ? 説明できるか?」
 俺の傍で油断なく剣を構えているメルー公に、ルアムが答える。
「あの白いのが大量に冥界から呼び出されて、穴だらけになったんだ。その穴が見えなくて落っこちたのが、気を失った人達。白いのは兄ちゃんが一掃して、冥界に落ちた魂も戻して、穴も塞いだ」
 でも。ルアムが赤と青紫の瞳で、周囲を油断なく見回す。
「呼び出した奴は近くに潜んでいる、という訳か。若き王族を狙う輩であろう。ザイナー、イサークを連れて下がるんだ。大量の魔力を消耗しているから、魔法戦士団の元に連れて行き応急処置をさせるように」
「了解しました」
 ぐったりしたイサークを抱え上げると、ザイナーは駆け足で宮殿の闇に飛び込もうとした。ザイナーが何かに気がついて足を止めたのに目を向けた時、細身のウェディよりも頭一つ高く二人分の横幅がある白い影が立ち塞がるようにいるのが見えた。咄嗟にザイナーが身を翻そうとして、脇腹に拳がねじ込まれ吹き飛ばされる。
 高い水飛沫をあげて落下したザイナーは、イサークを抱えていない。俺が慌てて視線を白い影に向けると、赤い毛玉がメラのように飛び出していく。大きく振りかぶった爪は虚空を切り、イサークの首を掴んだ白い影は中庭の水面の傍らに立っている。
 それは深々と白いフードを被って、どんな顔かわからない。フードと一つにつながっている真っ白い外套は、足元まですっぽりと体を包んでいた。しかし、そこから突き出された腕は豚猫のような、鍛え抜かれて大木のように太い筋肉隆々の腕だ。片手でイサークの首を掴み、軽々と持ち上げている。
 血の気の失せた顔が、砂浜のように白くなっている。
「冥界に通じた生者か。我が目的の障害となる可能性の芽は、早々に摘み取らねばならない」
 イサークをそのまま水面に突き落とす。
「イサーク!」
 俺はすぐさまイサークを追って水面に飛び込んだ。
 透き通った美しい水ではない。粘着くような重く冷たい水は、真夜中の海のように真っ黒く俺を飲み込んだ。下から泡が沸き上がり、俺の顔に当たって頬を撫でて登っていく。手を伸ばすと何かを掴む。そのまま無我夢中で掴んだ何かを掻き寄せると、幼いイサークが胸に収まった。
 ボサボサに伸び切った髪の奥から、暗い瞳が俺を睨みつけている。
「僕は君が嫌いだよ。僕のこと、何にも考えてないんだもん」
 探していた。ずっと探していた、俺の知るイサークだった。
 するりと魚のように腕から抜け出した小さい体に再び手を伸ばすと、薄い氷の板に阻まれる。小さい手が上を指差すと、月明かりのような柔らかい光が揺れているのが見えた。
「この氷を蹴って、水面を目指すんだ。そうすれば帰れるよ」
「なら、一緒に帰るぞ!」
 氷を叩く俺を見て、子供は不快そうに目を細めた。耳に馴染みのない、レンダーシア訛りが批難めいた色を帯びる。
「どうして、君と戻る必要があるんだ? 僕が戻るのも行くのも決めて良いじゃないか。君はいつもそうだ。君が、僕のいく先を決める。どうして、君が決めるんだよ?」
 どうして。大人達にそう言われたから。連れ戻すのが、俺の役目だったから。子供の時はそうだった。今は、違う。確かに互いに自分で決めれるようになった。俺にイサークのことのを決める権利はない。
 それでも。俺は渾身の力を込めて氷を叩いた。音を立てて砕けたことに驚いた子供の手首を掴む。
「お前のことなんか知ったことか! 俺の手の届くところにいる限り、お前がなんて言おうが、連れて帰る!」
 手首を掴んだまま、重い水を蹴って水面を目指す。光が近くなり水は温み軽くなる。レーン村の海の匂いがして、そのまま水から勢いよく顔を出した。吸い込んだ潮の香りのする空気が、肺いっぱいに満たされる。
 そして思わず体が強張った。目の前に蛇がいて、細い瞳孔の瞳に驚いた俺の顔が写っているのだ。ちろりと伸びた舌が、俺の鼻先を舐めた。
「見つけた」
 蛇の瞳が怪しく光った瞬間、俺の意識は黒い水の中に再び沈んでいった。