太陽の沈まぬ国 - 前編 -

 炎の領界には有り得ない、黒い炎だった。
 魔炎と呼ばれるようになった黒い炎を纏った巨鳥は、翼を広げるだけで巨大な竜二匹分に相当する。頭から尾の先までも、アペカの二階建ての家よりも巨大だった。硬い嘴で突かれようものなら硬い竜の鱗のベストを易々と食い千切って肉を抉り、高みから舞い込めば突風に吹き飛ばされ運が悪ければ溶岩に落ちていく。炎に慣れていた僕達でさえ、魔炎鳥の吐く黒い炎は身を焼き激しい痛みをもたらした。
 それでも、アペカの村の若い男性全員で挑んだ戦いは優勢だった。
 アペカの村は大きな都エジャルナとは違い、食糧は自分達で確保し、村も守っていかなければならない。若い男達は誰もが炎の領界の魔物達を討伐できる腕前を持ち、狩りをして無事に帰ることのできる力量を備えていた。魔法を使う者、火薬を扱える者、剣を弓を斧を様々な武器を手に、僕らは魔炎鳥を追い詰めていった。
 締め切った家の中のような、炎に照らされ覆われる炎の領界では限られた場所でしか見ることのできない黒。ぽっかりと赤い空間の中に穴が空いたような、深い底の知れない黒の勢いが明らかに弱まった。翼を広げても飛び立つことができず、体から黒い液体が落ちて赤茶けた大地に広がっていく。嘴を開けば黒い火炎の息も甲高い鳴き声もなく、喘ぐように息をしているようだった。
 誰かが『もう一息だ』と言った。その言葉は正しく、誰もがもう少しで村に災いを齎す魔物を打ち倒せると確信していた。僕らは頷き合って魔炎鳥を仕留めようと攻撃を繰り出そうとした。誰にも、油断はなかった。
 その時だ。魔炎鳥は最後の力を振り絞るかのように翼を広げ、飛び上がった。
 誰かが魔法を放ち、誰かが矢を射る。その全ては黒い巨鳥に命中し、空中でバランスを失ってマグマの中に落ちていった。落下したマグマが飛沫をあげ魔炎鳥を飲み込むと、僕らは歓声を上げた。
 やった! 魔炎鳥を倒したぞ! 今も後ろから挨拶してくるのではないかと思えるほどに、鮮明に覚えている声が喜びに満ちている。村の祭りでもここまで嬉しそうな声は出なかったろう。僕も嬉しくて大声で笑ってしまっていた。それくらい、僕らは精一杯頑張ったし、勝てるとは思えぬくらい魔炎鳥は強敵だった。
 『さぁ、帰ろう』と、どうして誰も直ぐに言わなかったのだろう。
 どうしてこの場で戦いに勝った喜びに、酔いしれてしまったのだろう。
 この僅かな時間に、魔炎鳥と戦った広い空間から村へ戻るための洞窟に戻ろうとさえしていれば、失われなかった命が沢山あったのに…。
 『おい。あれ…』不吉な予感が声になって、震える指先を誰もが追った。
 魔炎鳥が落下したマグマが渦を巻いている。次の瞬間飛沫をあげてマグマから魔炎鳥が起き上がった。ゆらりと長い首をもたげて顔を天に向けると、翼を広げて甲高い声を轟かせた。僕らと戦った以上に勢いを増した黒い炎が翼となって、広い洞窟の隅々にまで闇が広がり僕らを抱きしめようとする。巨鳥はマグマを浴び、嘴を突っ込んで煮え滾る赤を勢いよく食べ始めた。周囲は瞬く間に黒い炎とマグマの礫が降り注ぐ地獄と化した。
 昨日まで共に狩りをしていた友が、小さい頃から世話になっていた父のような人が、成す術もなく殺されていく。勢いを増した炎に包まれ、苦しみの声を上げてもがき黒い何かに成り果てた者。四肢をもがれ深く肉を抉り取られ、夥しい血を流して動かなくなる者。吹き飛ばされマグマの中に落ちてそれっきりの者。悲鳴が、絶望の声が、広い空間に木霊し、赤く照らされた空間から生き物の影が一つ一つ消えていく。
 最後に残ったのは僕と兄さんだった。
 後方支援を得意とする僕は、比較的後ろにいた。そしてその僕の無事を確かめようと兄さんが下がってきたからこそ、この瞬間まで生き残れたのだ。魔炎鳥が入り込めない洞窟まで距離はあるが、走れば逃げられるかもしれない。
 僕は兄さんの腕を掴んで『逃げよう!』と叫んだ。
 もう、駄目だと思った。全員で挑んでようやく追い込めた魔炎鳥が、こうやって傷を瞬く間に治して仲間を次々と殺していく。とても勝機が見出せなかった。救うべき仲間はもう残っていない。僕らには逃げるという選択肢しか残されていなかった。
 兄さんは僕を洞窟へ追いやるように背を押した。僕は兄さんも後から続いてきてくれるんだろうと、全力で走った。火薬のツボが爆発した音がして、頭上の岩が崩れてくる。真後ろに響いた音に、兄さんが無事か不安になって振り返る。
 兄さんがいない。
 兄さんは何故か魔炎鳥の攻撃を避けながら、戦いの最中に落ちただろう魔炎鳥の尾羽を手にこちらに向かって走ってきた。目を見開き歯を食いしばり、血まみれの体が黒い炎に焼かれて爛れたその凄惨な姿が目に焼き付く。兄さんの武器を投げられ距離を取った魔炎鳥の隙を突き、兄さんは僕の前に辿り着いた。深い傷から止め処もなく流れる血を、焼け爛れた酷い火傷を見て、『もう助からない』と妙に冷えていく頭の中で僕の声が呟く。
 僕の手に真っ黒い魔炎鳥の尾羽を握らすと、その上から血まみれの手が包み込んだ。
『その羽を持って、炎樹の丘に行け! あの曲を弾くんだ!』
 兄さんは僕を突き飛ばすと、走れと叫んだ。その腕に火薬ツボが抱かれているのを見て、僕は咄嗟に駆け出した。背後から迸った爆風に吹き飛ばされ、僕は顔から地面にぶつかり、そのままゴロゴロと転がって洞窟の壁に当たってようやく世界が止まった。
 落盤の瓦礫がいくつか落ちて地面を叩く乾いた音が、妙に静まり返った闇の中ではっきりと聞こえた。誰もいない。皆は崩れた岩の向こうで死んでいて、僕だけが闇の中に傷と火傷だらけで横たわっている。涙すら出ることを許さない灼熱の空気は、吸い込むと体の内側が焼けるように痛む。皆の死が、兄さんが死を選んだことが、僕だけが生き残ったことが、死にたい気持ちが手に持った尾羽に手折られることが、否応なく突きつけられる。
 僕はこのまま魔物に殺されてしまえば良いのにと思いながら、血を吐きながら叫び続けた。

 仲間が全て魔炎鳥に殺され一人生き残った僕は、村に居場所がなかった。生き残った僕は毎日のほとんどをナドラガ神の祠で過ごす。祭壇の前で深々と祈りを捧げ、自分が生き残った罪を悔い、意味を神に問う。その行為は僕が唯一村人から咎められないことだった。
 アペカの村からナドラガ神の祠までの距離、魔物は少ないが全く出ない訳ではない。まだ傷の癒え切らない僕を護衛がてらに送り迎えしてくれたのは、アストルティアという神話の世界からやってきた旅人達だった。
 エジャルナのダズニフの友人だという彼らは、ダズニフが同胞の亡骸を遠方に弔っている間、アペカの村に滞在する。ルミラという大柄な女性は男手を失った力仕事を率先と行い、エンジュという小柄な娘も薬学や医療に詳しいらしく僕を治療してくれた。腕も立つらしく、魔物の討伐や狩りも行ってくれる。ナドラガ神の祠に祈りを捧げ、滞在を許された二人は仲間を失い傷心した村人達を確かに支えてくれていた。
 僕はそんな二人を羨ましくも妬ましくも思いながらも、心のどこかでほっとしていた。何も知らない彼女らは、僕のことを何も聞かなかったからだ。
 アペカから少し東に行った小さな洞窟に、竜族の種族神ナドラガを祀った祠があった。小さな祭壇の奥の洞窟の岩壁は大きく崩れ、広大な溶岩の湖を見渡すことが出来た。水のように流れ続ける溶岩から弧を描いて噴き上がる火柱、空を舞う火の粉と空を染め上げる熱に揺らめく空気。祭壇から覗き込む世界は、まさしく炎の領界を凝縮していた。その湖の中に竜の頭のような奇岩がある。僕らはそれが本物のナドラガ様の頭であると言われて育ってきた。
 竜族伝統の祈りを捧げたエンジュさんは、ナドラガ様の頭を見て首を傾げる。
「何故、ナドラガ様は首だけなんですの?」
 エンジュさんは緑の髪を赤く色づかせ、もっとよく見ようと祭壇の奥へ進む。赤い縁の眼鏡を掛け直し、瞳を眇めて見入っている。アペカの村の子供達の服から、細い足が出てつま先立ちになる。ここからでは溶岩の照り返しが強くて、ナドラガ様の頭が本物なのか岩なのかはわからない。それが本物か偽物か、どうして首だけなのかなんて、誰も疑問に思ったことはなかった。
「知らないよ。ただ、他の領界にはナドラガ様の他の体の一部があるらしい」
「引き裂かれてしまったということですの? まぁまぁ、種族神が実体をお持ちだなんて新鮮ですわ」
 目を見開き、感心しきりで頷いている。聞けば、アストルティアの種族神は信仰はされているが、神託が降りる程度の伝承しかないらしい。だからエンジュさんは、種族神とは霊的な存在で実体がないと思っていたそうだ。神の一部と称される御神体も限られた数しかなく、ナドラガンドの信仰が新鮮だと楽しげに語る。
「ダズニフさんが言うには、ナドラガ神が復活した暁には竜族を救ってくださるのでしょう?」
 僕は頷いた。ナドラガ様が復活すれば、僕らはこの地獄のような苦しみから救われる。炎の領界の全ての竜族が信じているだろう。
「そうだ。君達の種族神だってそうだろう?」
「いいえ。私達は種族神に対して、復活させるという概念がありませんわ。加護を賜るよう祈ったり、幸運を感謝することはありますが、種族神が私達に何かをしてくださるという具体的な内容の信仰はないですわね。プクリポの神であるピナへト様は幸運を授けてくれるとは言いますが、験担ぎの一種という認識らしいですの」
 エルドナ様も僧侶に祝福を授けてくれるそうですが、何も変化はないそうですものねぇ。そう、おっとりと呟く。
 僕は驚きに目が飛び出そうになった。何に驚いているかも理解できないうちに、カラカラになった喉を空気が音を立てて通って言葉になる。
「じゃ…じゃあ、君達は何に縋って生きているんだ?」
 エンジュさんは『そうですわねぇ』と、顎に手をやりじっくりと考えている。
 僕らはナドラガ様が救ってくださる日を迎えることを支えに、生きていると言っていいだろう。この目の前の炎の暴力に、どう抗えるというのだ。溶岩流に飲まれた村は数知れず、炎に焼き尽くされ息絶える竜族は大地に転がる石の数より多いに違いない。日々を生き延びていくので精一杯で、それ以上何か出来ることなどない。
「私は私の心の赴くままに生きていますわ。やりたいことをして、やりたくないことは断ります。師の教えを胸に、恥ずかしくないよう誇れる行いをしたいですわね。あらあら、まぁまぁ。これでは、私はただの我儘さんですわね」
 口元に手をやり、ころころと鈴を鳴らすような声で笑うエンジュさんを呆然と見る。僕が答えを思いあぐねている間に、彼女の笑い声がぴたりと止んだ。口元がにっこりと笑っているが、真剣な目が僕を見据えている。
「疑問に思っていたのですけれど、竜族とは生まれながらに役割でもおありですの?」
 僕が目を瞬いた。何を言っているのか、理解できなかったのだ。
「ダズニフさんですら、役割に拘る所がありますわ。『アペカの村のギダ』は魔炎鳥の討伐で死ぬ役目だったんですの? 貴方ったら生き残ったことが、そんなにも予想外だったのかしら」
 何を言っているんだ? 理解出来ない言葉に戸惑いよりも怒りが湧いた。その怒りは小さい火種のようなものだったが、僕の抱えるありとあらゆる感情に燃え移り巨大な炎になった。
 傷ついてようやく辿り着いた村の入り口で、村長の『どうしてお前だけが生き残ったのだ!』と怒鳴り散らす声が耳に木霊する。生き残り村に辿り着いたのが僕であることが間違いだったのだ。兄さんや他の勇敢な仲間の誰かであれば、村長はあんなにも怒りを顕になどしなかったろう。仲間の中で最も非力な僕が生き残ったことを、村の者は仲間を見捨て一人逃げてきたのだと思っているようだった。
 そんなことない! 僕も兄さん達と頑張って戦ったんだ! 魔炎鳥は圧倒的な強さだったんだ!
 反発したい声が喉に詰まって苦しかった。吐き出しても誰も信じてくれないと、思っている自分がいる。だから、村の者達から見えないようにひっそりと隠れるように日々を過ごす。
 このまま、消えてしまいたかった。今だって、死にたくてたまらない!
 でも、兄さんの握らせた魔炎鳥の尾羽が、その上から重ねられた兄さんの血塗れの手が、それを許さないんだ!
「僕みたいな役立たずが生き残って何になる! 僕の兄さんは村の皆に頼りにされるような、賢くて、力があって、優しい、凄い男だった。僕よりも兄さんが生き残るべきだったんだ!」
 突然、目の前に火が弾けた。
 炎の領界の熱に比べれば温いくらいの火の玉は熱くも痛くもないが、いきなり目の前で弾けた光に驚く。目が眩んでチカチカする視界の中で、エンジュさんが口に手をやり声をあげて笑っていた。
「あらあら、申し訳ありません。随分とお兄様のお心を無碍に扱った物言いだったもので、無性にメラの花が見たくなってしまいましたの」
 一頻り笑うと、子供のように小柄な彼女は僕を覗き込んだ。
「お兄様は貴方のお兄様であるからこそ、貴方に生きて欲しかったのではないかしら? 貴方を守り生かすために、お兄様が出来る限りのことをした結果、貴方を生かすことが出来た。それを成し得たお兄様は、確かに貴方や村の皆様が頼りにする素晴らしい殿方ですわね」
 炎の領界には無い、不思議な匂いのする女性だった。村の唯一の水源の近くに茂る、苔や草に似た匂い。竜族の手の感触とは違う、柔らかく暖かい手のひらが僕の頬に触れる。指先が頬に伝った涙を拭ったようだった。
「 『アペカの村のギダ』は役立たずなんですの? お兄様がそうお思いなら、命を賭けたりしませんわ。貴方の強さを、貴方のお兄様こそが最も信じておられるはず」
 僕は息を呑んだ。兄さんは僕の自慢の兄だったけれど、兄さんも僕を自慢の弟だと言ってくれていた。僕の何が自慢できるほどに優れているのか、兄さんに聞いても笑ってはぐらかされる。それでも、僕は兄さんが自慢するほどの弟なんだと、誇らしかった。
 それに。僕は目の前のナドラガ神の弟妹神の民を見下ろす。
 彼女は僕が皆を見捨てて逃げ出した臆病者だと思っていない。僕が仲間達と戦って、兄さんに助けられた結果生き残ってしまったと思っている。彼女らは村人達の話しか耳にしていないだろうに、僕を見て、僕のことを信じてくれている。
 エンジュさんが、きゅっと口の端を持ち上げた。
「ねぇ、ギダさん。私、貴方のお兄様が託した宿題に、とても興味がありますの」

 ■ □ ■ □

 アペカの村は溶岩地帯の上に、網目のように広がる岩場を利用したような村だ。炎が貫いて開けた風穴を縫うように、人々の生活の道が繋がっている。熱風を遮る植物はほとんど見当たらず、吹き荒む熱風から逃れるように頑丈な石で出来た家が建っている。村の中央の井戸から炎が噴き出し、ひび割れがあればちらちらと炎が滲み出る道を登った先に僕の家があった。
 登ってくる姿が見えたのか、ルミラさんが家の内側の鎖を引いて扉を開けて待っていてくれる。僕らは熱気から逃れるように家の扉をくぐった。
 薄暗い室内の闇に目が暗む。熱気から逃れるために、アペカの家は基本二階建てだ。小さく作られた窓には鎧戸がしっかりと閉じられて、隙間から赤い炎の光が差し込んでいる。ごうごうと外を熱波が駆けていく音が響く中、闇の中から浮かび上がった石畳の床の上には生活感に溢れた様々な物で溢れかえっていた。大きな竜の鱗を加工した樽や箱、耐熱性のある魔物の皮で出来た日用品。狩りで使う武器、干し肉が壁に吊るされ、色とりどりの果物が箱から顔を覗かせ、水が入った壺が多く並べられている。外の炎が激しい時は家に篭り耐える備蓄品は、ルミラさん達のお陰で減らずにある。
 エンジュさんが僕の治療をしてくれる関係で、二人は僕の家に滞在している。
 竜族の家は基本的に先祖代々受け継がれているので、この家も僕と兄さんだけでは広すぎるくらいだった。異種族の二人が共に暮らしても、狭さを感じない。
 お茶を淹れそれぞれに落ち着いてきた頃合いを見計らい、僕は一階の納屋から大きな箱を取り出した。テーブルの上に置き、蓋を開けるとエンジュさんとルミラさんは身を乗り出して覗き込んだ。
 兄さんが握らせた魔炎鳥の尾羽は先端部分。戦いの最中で切断されて本来の半分に満たないが、この大盾を収める箱が丁度良いくらい魔炎鳥の尾羽は大きい。全体的に黒っぽいがまるで宝石のように艶めいている。血のような炎の色、高温の灼熱の白、鈍い黄金の輝きが、渦を描くように移ろう。
「立派な尾羽だ。魔炎鳥は火喰い鳥などの魔鳥族とは比べ物にならぬ、巨大な鳥のようだな」
 今ではいなくなった若者の代わりに、老人達の教えの下で狩りをするルミラさんが頷く。彼女らの服は炎の領界の熱気でダメになってしまい、今のルミラさんは魔炎鳥との戦いで亡くなった仲間が愛用していた火炎竜の鱗で出来たベストを着ている。
「手に取って拝見しても宜しいかしら?」
 エンジュさんに僕は頷く。小さな華奢な手が尾羽の下に滑り込むと、尾羽は空気のように軽く浮かび上がった。ふわりと宙を泳ぎ、彼女の手のひらの上にゆっくりと収まる。
 エンジュさんの目元が眇められると、尾羽が火に包まれ緑の瞳がぱっと赤に色づいた。
「穢れた炎の名残を感じますわね」
 火は一瞬で消え、ちらちらと残った火の粉の中で輝く尾羽を白い手が撫でる。
「邪悪さを感じるのは表層だけ。羽自体には聖なる者に属する清らかさすらありますわ」
「ふむ。これほどまで強大な大鳥相手に力を合わせて討伐できぬなら、違う手段を考えねばならない。その尾羽に残った穢れを祓う方法が見つかれば、魔炎鳥を鎮められるのではないか?」
「問題は穢れを祓う方法ですわね」
 僕は目の前で進む話に息を呑んだ。
 アペカの村の者達は、もう諦めているんだ。魔炎鳥に挑んだ村の総力と言える男達が全滅し、エジャルナのナドラガ教団に出した救援要請の返事は未だ来ない。かの教団の助けがないなら、この村は魔炎鳥に滅ぼされる運命なのだと村人達は思っているのだ。運命を受け入れることが、当然のことなのだと僕達は思っている。
 なのに彼女らは、魔炎鳥に挑もうとしている。兄さんから託された尾羽から、活路を見出そうとしている。
 どうして。疑問が膨らんでくる。彼女らはアペカの村の者でもないし、竜族ですらないのに。
「ギダ。聖なる力を持った鳥…そんな存在を知らないか?」
 いつの間にか肩に手を置かれ覗き込まれていた。逞しいがっしりとした手のひらの力を感じながら、己を覗き込むまっすぐな視線を見返す。僕の言葉を待っている彼女らの視線が、兄さんを思い出させる。
「聖なる鳥…」
 知らない炎の領界の竜族はいない。
 聖鳥。炎の領界を舞う、ナドラガ様よりも身近な信仰の対象として崇められる炎の鳳。死した魂を安息の地へ導き、炎の領界を見守り続けるという。その翼は炎の領界の空を余す所無く巡り、僕達の生きる世界を凝縮した恐ろしくも美しい姿で悠然と舞う。
 何かしてくれる訳ではない。ただ、僕らの頭上を舞うばかりの鳳。
 それでも僕らは聖なる鳥と崇め、僕らは死後の魂を預ける。その翼に魂を宿し、天空から僕らの子供や家族を見守りたいと願ったのだ。願いが叶うのかは知らないが、誰もがそう信じて疑わなかった。
「魔炎鳥が聖鳥だって? そんなことが…」
 それでも、最近は聖鳥を見ていない。聖鳥は気まぐれで、連日現れる時もあれば一年も姿を見せぬこともある。姿が見えないと言っても、どこか遠くの空を巡っているのだろうと思う程度でしかない。
「心当たりが、おありなんですのね!」
 ばんっ! とテーブルに勢い良く手を突き、ぐらりとコップが揺れた。ずいっと輝く瞳が迫ってくる。
「さぁ、ギダさん! 聖鳥のことを知る限り全てお教えくださいませ!」
「僕が知ってるのは、伝承の一節くらいだ。大したことじゃないよ」
 地上から遥か高みを飛んでいる聖鳥しか、アペカの村人は知らない。伝承の一説だって信じられてはいるが、本当のことかどうかなんて分からないんだ。
「だが、実際に生きて空を飛んでいるのだろう? 殺す寸前にまで追い込めたのなら、それは生物だ。寝ぐらがあり、食事を摂り、縄張りがあるはずだ。穢れた理由を探ることも忘れてはならない」
 ルミラさんの真面目な声が、真剣に魔炎鳥を殺そうと頭を突きつけて話し合った仲間達の声と重なった。本当に彼女らは魔炎鳥のことを知ろうとして、最終的に魔炎鳥を殺めるか鎮めるかのどちらかに結びつけようとしている。
「貴方達は聖鳥の住処にまで行くつもりなのか? 何を食べるかを知って何になる! 意味が分からないよ!」
「アペカの村には世話になったのだ。魔炎鳥で苦しんでいるなら、取り除いてやりたいではないか。自分達が出来そうなら、やらぬ理由は存在しない」
 僕は真面目な声を叩き潰すように、テーブルを叩いた。
 なんでアペカの村とは無関係な貴方達が、そんなことをするんだ。世話になったと言っても衣食住の世話くらいで、男手を失って狩りをしたり僕の治療をしてもらったりで助けられているのはこっちだ。
 苦しんでいるから、助けてやりたい。誰もがそう思ってる。そう出来たら、どれだけ良いかって思ってる。
 それでも、出来ないんだ。魔炎鳥が強すぎて、炎の領界が厳しすぎて、僕らは生きるので精一杯。選べるのはいつ死ぬかくらいなんだ。誰かを助けるなんて、僕らには大それた欲望なんだ!
「魔炎鳥を倒すっていうのか? 貴方達、気は確かか!」
 睨み返した瞳は、全く輝きを失わなかった。竜族の誰もが宿している、諦めたような暗い色がない。領界の眩い炎の中でも自ら光を取り込み輝くような、息を呑むような美しい瞳だった。
「死人みたいな顔をしてらして、文句ばかり一人前ですのね! つべこべ言ってないで行きますわよ!」
「ギダ。自分達はナドラガンドを知らない。案内役として同行してはくれないか?」
 がしりと、小さい手と大きな手が僕の肩を掴んだ。彼女らは僕の顔を覗き込んで、にっと笑顔を浮かべる。
「さぁ! 私達で、アペカの村を救いますわよ!」
 私達って僕も入ってるってことなのか? きっとそうに違いないと、力強く離さない手が物語っている。逃げ出しても追いかけてきそうで、兄さんの手と託された尾羽が立ち向かえと訴えてくる。
 僕は戦いも得意ではない役立たずのギダなのに、なんで僕なんだ。僕は僕を選んだ二人を見る。
 なんなんだ!この人達!