太陽の沈まぬ国 - 後編 -

 炎の領界最高峰のフェザリアス山は、天に向かって伸びる火災旋風のよう。垂直に等しい斜面に真っ赤な溶岩が滝のように流れ、真っ黒い噴煙は赤く染められ雷を孕む。フェザリアス山を中心に火山灰が降り積もる殺風景な山岳地帯に作物や生き物は少なく、マティルの村は山へ向かう者が立ち寄れる最後の人里でした。
 特にフェザリアス山に暮らす聖鳥への信仰が厚い地域で、領界各地から巡礼の竜族がやってきたのです。崖を途方もない歳月を掛けて削り抜いた村は、上へ上へと家を重ねたような作りで、通路からは巡礼者達が聖鳥に加護を祈願する出身の里の紋様が織り込まれた布が翻る。村の地下から湧く温泉で、村人達は巡礼者をもてなしていました。村の若者達は老人から山の登り方を学び、先導者として巡礼者達を山の頂へ連れて行く。巡礼者達はお礼として様々な食料や工芸品を置いて行くので、資源の少ない村で食べることに苦労したことはありませんでした。
 そんな聖鳥の信仰厚い村に生まれついた私は、さも当然と言わんばかりに親と共に毎日聖鳥に祈りを捧げていました。男は楽器を学び、女は唄を歌い、巡礼者達と聖鳥に捧げる。聖鳥は赤い空の下を太陽のように輝いて舞い、時折落ちてくる羽は炎を帯びて宝石のように美しかった。
 私達も時が来れば、聖鳥と共にこの地を見守って行くのです。
 父も母も近所に暮らす親戚も幼馴染達も、遠方から遥々やってくる巡礼者達が口を揃えて言いました。私も神々しい神鳥を指差し、弟に得意げに言ったものです。
 様々な人の往来と、聖鳥へ祈る日々と、満ち足りた幸せな家族との時間。その幼少期の思い出の最後に、ふと翳りを見せた小さな出来事が地獄の始まりでした。
 それは一定の時期で見られるような、ちょっとした流行り病だと思われました。
 烈火に包まれ業火に焼かれる炎の領界は、常に灼熱と言える気温です。かつては冬眠したという竜の特性を少なからず引き摺っている我ら竜族は、頑強な体であっても弱る時期がある。丁度その時期に病が流行るので、時期は少し早いが村人の何人かが罹っている病はそれだろうと思われたのです。実際に病に臥せたのは体力のない子供や老人だったので、誰もが納得してしまいました。
 過酷な世界で力を合わせ希望を捨てることなく生きても、弱い者はあっけなく淘汰されてしまう。最初に病に罹った子供や老人を聖鳥の炎で焚き上げ葬儀を終えた頃には、村人の中に静かに流行り病が浸透していきました。流行り病と思った症状は、健康な者達をあっという間に蝕み殺していったのです。
 村人達が流行り病と思っていたものが、恐ろしい死病と気がついた時にはもう手遅れだったのです。
 村は感染が広がらぬように自ら閉鎖し、巡礼者達と山を目指して数ヶ月と村にいなかった若者をエジャルナのナドラガ教団へ向かわせました。父が母が、多くの村人が巡礼者が次々と感染し、死の恐怖に怯える中で夫婦の神官様が来てくださったのです。
 領界の村々のその年一番誉れ高き者が、聖鳥へ礼拝するためにやってくる。私が見てきた巡礼者達は、逞しい若者であったり、美しい女性であったり、賢い者、信心深い者と様々でしたが、どれも素晴らしい方々でした。
 しかし神官様達は違う。神官様自身が輝いているような、神々しさがあったのです。村人達の病床の傍に膝をつき優しく声をかけ、甲斐甲斐しく苦しむ手を握り回復呪文を施す。神官様達がお見えになって、村人達は助かると希望を新たにしたのです。
 まだ病気に罹っていなかった私に、神官様は優しく微笑んで言ってくださったのです。
「大丈夫ですよ、エステラ。直ぐに皆が元気になりますからね」
 私は嬉しさのあまり神官様の胸に顔を埋め、大声で泣いてしまいました。村が助かる。皆が死んでしまう、全てが失われる恐怖が、神官様の父のように包み込んでくれる大きな手に拭われていきました。

 神官様の献身的な看護のおかげで、病に罹る人は増えても死ぬ人は目に見えて減りました。寝る間を惜しんで様々な薬草を試し、記録を取って、どうにか村人達を治そうと力を尽くしてくれたのです。夜遅くまで聖鳥の風切り羽が収められたランタンの光の下で、神官様達は頭を突き合わせておられる。その真剣な横顔を見ながら、私はお二人によく飲み物やお夜食を持っていたものでした。
 女性の神官様は私の姿を見ると切なそうに目を細め、時々抱き締めさせて欲しいと手を伸ばした。
「いい子ね。エステラ。私達にも貴女より少しお姉さんの子供がいたのよ」
 過去形であることに私は全てを察しました。こんな素晴らしい神官様達にも、大事な人を亡くして癒えぬ傷があること。その傷があっても、他人のためにこうも尽くしてくれる献身に深く心打たれたのです。
 疫病との戦いは長く続いた。完治した者は誰もいないまま、村の半数が死んでしまわれた。
 それでも村人達は懸命に自分達を助けようとしてくれる神官様達を見て、誰も絶望したりはしなかったのです。いつしか私達は聖鳥に祈ることはなくなり、ナドラガ神に祈りを捧げ、神官様の語る説法に耳を傾ける日々を過ごすようになりました。
 父の後を追うように逝った母を、聖鳥の炎で焚き上げてしばらくした頃でした。
 神官様達が立て続けに病に罹ってしまわれたのです。
 それからは全てが瓦解するほどの勢いで、全てが失われていきました。看病が行き届かず体力を失い、気がついたら冷たくなっていた人。病状が悪化したが間に合わなかった人。今まではゆっくり進んでいた病状が加速し、バタバタと立て続けに命が奪われて行く。ついには弟まで発病してしまったのです。
 村に残った最後の子供達を救おうと、神官様達は手を尽くしてくれました。
 しかし、女性の神官様が亡くなってしまうと、男の神官様も病に屈したように病状が悪くなっていきました。彼は今までの全ての知識を授けてくれて、弟を救うために頑張りなさいと病床から励ましてくださったのです。彼の瞳にはまだ強い力があり、絶望に膝を折りそうな私を支えてくれたのです。
 今際の際に、彼は私の手を握って言いました。
「私は多くの民の命を救うことが出来ませんでしたが、心を救うことが出来たと思っています。絶望を和らげ、希望を与えることが出来たこの村での闘病は、私にとって最も素晴らしい日々でした」
 この村にさえ来なければ、死なずに済んだというのに、どうしてこんな言葉が言えるのだろう。今の私でさえ同じ立場に立たされて、慈しむ笑みを浮かべ穏やかに感謝を述べることが出来るだろうか。その清らかさに私は心打たれてしまったのです。
 神官様は私の名を呼んで、テーブルの上にある紐で丸めた魔獣の皮紙に目を向けました。
「私達の最後の言葉を綴った手紙です。もし、息子に会ったら読んであげてください」
 読んであげる。不思議なお願いだった。彼らの息子は文字が読めぬほどに幼いのかと思ったが、それを確かめる前に神官様は息を引き取られた。もう片手で数えるほどの生き残った村人も、一つ一つと指を折る。最後に残ったのは私と弟だった。
 神官様の教えを全て試し、弟を助けようと必死に頑張った。寝ずに、呼吸する姿を目に焼き付けるように目を離さず、食事を摂らせようと、水分を飲んでもらおうと頑張った。頑張った。頑張ったんです。頑張れば助かると思った。私には都合よく奇跡が起こると自惚れたのです。神官様達ですら出来なかったことを、子供の私が出来る訳がないというのに。
 ついに弟が息をしなくなると、私は部屋の窓から静かな静かな村を見渡しました。
 音もなく火山灰が降り注ぐ村は、私の心臓の音しかしませんでした。部屋のベッドには弟が眠るように横たわり、聖鳥の礼拝堂にまだ神官様が横たわっているはず。どの家のどの部屋にも、もう火葬できなくなった村人達が眠っている。
 涙すら出なかった。
 炎の見えない村ではありましたが、炎の領界の空の下で焼け付くような暑さから免れる場所はありません。目は熱に乾き、舌は石のように硬く縮み、喉はくっついて空気すら通さない。
 どうして、私は病に罹らずにここに居るのだろうと思った。私は、ただ残った食糧を食い潰しながら息をしていた。このまま食べ物がなくなって、お腹も空かなくなって、眠ったら皆と同じになれると思った。そう、なりたかった。
 炎の領界に夜は来ない。どれくらい時間が経ったか、眠っているのか起きているのかすら曖昧で、重い体が岩で出来たベッドの上に溶けて広がって行くような感覚。誰もいない静かな村で微睡み、私という意識が消えて行こうとした時でした。
 人の声を、石階段を登る足音を聞く。村人達が私を迎えに来てくれたのかと思ったけれど、慣れ親しんだ声は一つもなかった。急に恐ろしさが込み上げてきたが、何も出来ることはない。音は近づき、暗く霞んだ視界を覆うほどに誰かが顔を寄せた。口から息を吸い出されたように、空気が流れる。
 そっと手が額を撫でると、耳元に温かい息がかかった。
「まだ、体は動かさないほうがいい」
 私は驚きのあまりに、体が引き攣った。
 聞き間違えるはずがない。その声は、私が看取ったはずの神官様のものだったのです。大きく目を見開くと聖鳥の羽が入ったランタンが吊るされ、薄暗い闇が部屋の隅に追いやられている。声の主を探して視線を巡らせば、石の寝床の横に椅子を据えて男が座っていた。
 漆黒の柔らかい髪に虹色を帯びた銀の鱗の男。その真っ直ぐに伸びた背筋を、顎を軽く引き胸を堂々とはった頼もしい姿勢。神官様は私の額に顔を寄せ、大きく息を吸った。噛んで含ませるようにゆっくりと、私に話しかける。
「村に続く道の途中で気を失っていた。風向きで流れたガスを吸ってしまったんだろう。頭を打っていたようだから、まだ横になっていた方が良い」
 私はようやく先程まで見ていたのが、夢だと理解した。
 私はマティルの村に向かう途中で、意識を失い昏倒したのだ。幼い頃から漏れ出すガスに気をつけるよう、村人の誰からも言われてきたのに。礼を言おうとしたが、乾き切った口は言葉を紡ぐことが出来なかった。傍の男は慎重に私の頭を支えると、水の注がれた硝子の器を口にあてがった。喉を滑り落ちていく蒸留しても微かに残る温泉の香りが、とても懐かしかった。
 夢と現実がようやく認識できるようになれば、相手が神官様ではないことに当然気がついた。それでも、彼が神官様にとても似ているのには理由がある。重く垂れた前髪の隙間に硬く閉ざされた瞼が見える。彼こそが神官様達のご子息、ダズニフだったのです。
 ありがとうございます。そう紡ごうとした言葉は、喉の上から押さえつけられた手に遮られる。眼前に迫ったダズニフは私に小声で問うた。
「お前は誰だ? 染み付いた香木の匂いは教団の神官が用いる物。ギダの言う通りお前は教団の神官だろう。俺を追ってきたのか? 何が目的だ?」
 まるで魔物と相対しているような、拒絶に近い警戒。私を上から覆いかぶさるように覗き込んでいるダズニフが、息を詰めて私の一挙一動を集中して探っている。心臓の音に耳を傾け、呼吸の速さを肌で感じ、微細な匂いの変化すら感じ取ってしまうだろう。盲目故に竜族としては斗出した感覚を持つダズニフは、私の体の内側や魂を直に見つめているようでした。
 僅かに緩められた手を感じ、私は掠れた声で答えました。
「私はアペカの村の救援要請を受けて、一人村に向かった神官です」
「たった一人で解決できると思ったのか?」
 アペカの村より救援要請の魔獣の皮で出来た書類が届いた時は、魔炎鳥の飛来が村の者の命を脅かすという内容。しかし、遅まきながらに来て見れば、魔炎鳥を討伐しようとした村の若き男性達がほぼ全滅したという痛ましい結果を迎えていました。
 炎の領界に点在する多くの村が縋る存在。それが聖都エジャルナに存在する種族神の名を冠した、ナドラガ教団です。そこへ救援要請を出すと言うことが、何を意味するのか私は良く知っています。
 困っているのだ。助けを求めた伸ばした手を握ってもらえぬ悲痛な思いを、私は良く知っている。アペカの村が最終的に放棄され滅びる結果になろうとも、心に立てた誓いを果たせずとも、少しでも人々を救うために私は一人アペカの村に向かったのです。
 ダズニフは呆れたように息を吐いたが、小さく否定の言葉を呟いて息を飲み込んだ。
「氷の領界を解放すれば、俺に相応しくない解放者の肩書きを奪える。功績に目が眩んで協力者が得られなかったか。浅はかなこった」
 見透かされている。竜族から嘲笑され狂った愚か者と揶揄される、炎の領界の解放者。私は今まで遠巻きに見つめ、狂っているという周囲の評価を信じ切っていた己を恥じました。教団に属さぬが故に自由に炎に炙られた空を舞い、人々に寄り添って実際に何人もを救ってきた行い。彼はその見た目を裏切らぬ、ご両親の何もかもを引き継いでいるのです。
 竜化の術を用いることができ、呪文や武術に優れ、深き見識を持つ、民が想像する優秀な神官。しかし、その数は多くはありません。特に今はダズニフが炎の領界を解放し、氷の領界に繋げた時期と重なってしまったのもアペカの村の悲劇の一端を担ってしまっています。日々最低限を行う神官以外は、氷の領界の調査の為に出払ってしまっているのです。
 声を掛けられる者全員に訴えて得た結果は、せめて私だけでも行こうという決意でした。
「アペカの村で貴方とその協力者が聖鳥を調べにマティルの村に向かったと聞いて、追ってきたのです」
 確かに村長が教団の応援が私だけと言う事実に、落胆を隠しませんでした。これで村は滅ぶだろうと確信すらしていたでしょう。しかし、村長の目は絶望に染まっていなかったのです。小さい星のような希望を、村長は私に語って聞かせてくれたのです。
 真っ直ぐにダズニフを見る。真剣な表情は目の見えない彼が認識することはできないだろうが、だからと侮れば全て見透かされてしまうだろう。全ての感覚を集中し、彼に体全体で訴える。
 すると、手がするりと首から離れ、ダズニフが小さく頷いたのです。
「嘘を言ってる音はなさそうだ。お前の言葉を信じよう」
 そして肩を震わせて、ダズニフが部屋の入り口に顔を向けた。
「そんな身構えられちゃあ、笑っちまうだろう。大丈夫だって。殺しやしねぇって言ってんだろ?」
「ヒヤヒヤしましたわ! そのお嬢さんから呻き声一つ漏れたら、ダズニフさんの頭にメラミを放っていましたわよ!」
 部屋に飛び込んできた思いも由らぬ者に、私は目を丸くしました。
 ダズニフと顔を突き合わせるように怒鳴り合っているのは、子供かと思うほどに小柄な女性。竜族の伝統的な衣から、棒のように細い手足が覗いて、身長と変わらぬ赤い宝石の嵌った両手杖を持っています。鮮やかな緑の髪がふんわりと頭を包んでいて、頭が妙に大きく見えてしまう。しかし、驚くのはその背に生えた透き通った翅。興奮しているのか、ぱたぱたと忙しなく羽ばたいています。
 そんな二人の間に割り入ったのは、長身のダズニフに負けぬ逞しい女性だ。
 赤い肌は鱗ではなく岩のような質感を感じさせ、頭の角は竜族のそれよりもあまりにも小さい。狩人が好む丈夫な火炎竜の鱗のベストを着込み、肩には肌と同じ質感の円錐型の突起が生えている。背に背負った縦横幅も彼女と変わらぬ大剣の下に、長い尻尾が揺れていて白金色の長髪と同じ質感の髪が先端に生えている。
「互いに興奮するな。自分とて女性に害をなそうとしたら、渾身の力でチャージタックルしにいくつもりだった。ギダなど顔を青ざめてさせて、可哀想なくらいだったのだぞ」
 そう女性の傍から顔を覗かせたのは、細身の竜族の男性でした。金髪の前髪の下には不安げな双眸がこちらを伺っている。竪琴を抱く腕は震え、紺色の鱗が恐怖に身が竦み重なり合って黒にすら変じているようでした。
 魔炎鳥の討伐に向かったアペカの若い男性達の唯一の生き残りギダさんの肩を、ダズニフは労るようにさすりました。
「悪ぃな、ギダ。怖い思いをさせちまったな」
 全くです! 憤る女性とダズニフが再び言い争う。しかし殺気はなく、冗談の応酬のような親しみを感じました。楽しそうに笑うダズニフに、私は驚きを隠せませんでした。
 あまりの衝撃に言葉を失い茫然としていると、大柄な女性が私に気がつきました。生真面目な顔だが口元を僅かに微笑ませるだけで、匂い立つような母性を感じさせる。彼女は私の傍にゆっくりと歩み寄ると、小さく竜族の祈りの仕草をしたのです。
「驚かせてすまない。自分達はダズニフと共にナドラガンドへやってきた、アストルティアの民だ」
 古の文献に見たことがあります。かつてナドラガンドがあったアストルティアには、ナドラガ様の弟妹神の民が暮らしていた。地上に暮らす弟妹神の民を見守ることが、竜族の務めであったと語る神話。彼女らは文献にあった民の姿と酷似していたのです。大柄な女性は己をルミラさんと名乗り、連れの小柄な女性をエンジュさんだと紹介してくださいました。
 ダズニフがアストルティアに行ったことも驚きだったが、その民がここにいるのはそれ以上だ。
 私は寝床から身を起こし、小さく頭を下げました。
「名乗るのが遅くなって申し訳ありません。私はナドラガ教団の神官、エステラと申します」
「…エステラ?」
 エンジュさんが賑やかに色々と問うてくる向こうで、顎に手をやって考え込んでいたダズニフがふと漏らしたのです。隙間に滑り込んで妙に皆の耳に届いた言葉に、皆がダズニフに振り返る。
「マティルの村の唯一の生き残りの?」
「はい。そうです」
 私が肯定するとダズニフは口を引き結んで、ゆっくりと手を伸ばして肩に触れようとしました。長い髪に指先が触れると、彼の手はそれ以上近づいてはこない。私が宙に泳いだ手を取ると、ダズニフの肩が驚いたように跳ねたのです。
「大丈夫です」
 今の私にはやるべきことがある。今の私なら出来ることがある。
 それだけで、生きる望みが湧いてくるのです。