煉獄に荒れる灼熱の風 - 前編 -

 すごいな。ギダさんが零した感動の声に、私も彼の視線を追いました。
 炎の領界最高峰のフェザリアス山でも、もうじき頂上というべき高さまで登ってきましたわ。フェザリアス山を取り巻く聳え立つような峰々は全て眼下に下り、赤い空の彼方まで溶岩に泡立つ荒波のように続いておりますの。溶岩の流れが、火柱が、小さい小さい竜族の村々が、熱気に揺らめく地平線を覗き込むように見渡すことができました。
 複雑に流れ込む熱波の気流に嬲られるような気分も、素晴らしい眺望に幾分穏やかになれますわね。
「炎の領界は、こんなにも広いのか…。アペカの村にいたら、気がつけなかった」
 アペカの村は遠くて見えそうにありませんわ。
 ギダさんの言葉に、私はフウラの操るカムシカに乗ってエルトナの空を駆けた日を思い出していましたわ。はしたなく悲鳴を上げて、涙目になってカムシカにしがみ付きながら見たエルトナは、視界に収まることが出来ない程に大きかったのです。
 世界って、なんて大きいのでしょうと感動したものですわ。
 勿論、知識として大きさを知っていましたわ。でも実際に目にすると、知識を得て知ったふりをしているに過ぎないと思いましたの。
 そして、ふと寂しさが過ぎりました。世界樹に呑まれて見えない、小さい小さいツスクルの村。私はあんな小さな村で、炎の精霊を疎んじる森の精霊達から身を縮めるように生き、息を潜めるように知識を貪っていたんですのね、と。自分が悩んでいた何もかもが、とても馬鹿らしく思えたものです。
 幼い頃は疎ましかった炎の精霊の加護も、外の世界に出れば恩恵でしたわ。ウェディなら音を上げエルフも近寄らないドワチャッカ大陸のゴブル砂漠の炎天下すら、私にとっては少々汗をかく程度。炎の精霊の加護は私に炎の民オーガに引けを取らない、熱の耐性と防寒を授けてくれたのです。メラ・ギラ系やイオ系統の呪文の威力も、僭越ながらエルフ族屈指の威力と自負できるものがありますわ。
 知識は実体験を経て、確かなものとなって私の中に蓄積される。
 そうして辿り着いたナドラガンドという伝説の竜の大地を見ると、私は随分と遠くまで来たと思うのです。でも助けるべきフウラがいる場所は、もっと先にあるはず。進むには、ただ道を往くだけでは不十分なのです。
 目を焼くほどの鮮烈な赤、紅、緋。舐め上げるような熱気の苛烈さ。水のように地を流れる溶岩。炎の厄災に見舞われたというナドラガンドの地に流れ着いた時、私は決して怖気付いたりはしませんでした。
 どうにかなるでしょうという、楽観的なものを感じていられたのはものの数分のことでしたわ。まず、衣類が駄目になりましたの。炎の加護で焦げ付きやすいために、防火を特別施した糸で織られた呪い師のローブ一式が、瞬く間に黒く焦げていく。ダズニフさんが気を利かせて服を貸してくれなければ、私もルミラさんも、裸でナドラガンドを歩く痴女になるところでしたわ。
 肌身離さず持っている手帳は、かつて炭にしてしまった経験から火炎の強い魔獣の皮をなめした物であったので無事だったのは不幸中の幸いですわね。私もルミラさんも炎の加護のお陰で火傷は負いませんでしたけれど、アストルティアから持参した荷物の殆どが使い物にならなくなったのは痛手ですわ。
 正直、侮っていましたわ。
 私は己の読みの甘さに、思わず歯噛みしました。アストルティアに一瞬だけ現れ齎された影響など、目の前に広がる全貌に比べれば片鱗でしかなかったのです。この環境に長く滞在できるのは私達に齎された加護のお陰。ただ運が良かっただけでしょう。
 これでも炎の領界と氷の領界が繋がった為に、気温が下がったというのだから笑い事ではありませんわ。アンテロが無造作に私に手を振り下ろし殺めようとした時の、あの憎悪に満ちた瞳を思い出す。こんな無慈悲な環境を強いられては、世界を呪ったとてなんら不思議ではありませんわ。アペカの村の民は己が生きることで精一杯。ダズニフさんのような考えが、稀なのだろうと思うほどに炎の領界は過酷極まりない世界でした。
 神の器が拐かされる一連の事件の首謀者の行いを、ダズニフさんは『ナドラガンドのため』と評しました。その言葉が正しいなら、私達アストルティアの民とナドラガンドの民の認識が、乖離し過ぎていることが根源にあると思われますの。何も知ろうとせずフウラ達を取り戻そうとするなら、私達のしていることはアンテロと何ら変わりないでしょう。
 私は知識を基礎として、行動の全てに繋げていく。その方法が一番合っている。
 ナドラガンドの伝承を。大地を多い尽くす厄災を。そこに生きる竜族達を。炎の熱。焼ける匂い。そこに適応した植物や獣達を糧とし、生きていく。そうして得たものは、私の血肉で出来た経験という名の知識となるのです。
 先頭を歩いていたエステラさんが、振り返りましたわ。曙色の絹糸のような細く長い髪は巻き上げられ、熱波に白い衣が赤々と照らし出される。この生き物が命の危機を感じる熱の中、穏やかな目元と薄い唇が微笑む様がまるで炎の女神様のようですわ。彼女のしなやかな指先が、溶岩の流れに照らし出される洞穴を示して言いました。
「もうすぐ聖鳥の幽居です」
 迷いなく進むエステラさんの足は、確かにフェザリアス山に刻まれた山道を辿っていました。噴火で流れ出た溶岩に覆いかぶさり途絶えることがあっても、道は山頂に向かって伸びている。溶岩の河の上には石橋が渡され、足場が不安定な崖には掴まれるようにと杭が打ち込まれ鎖が続き、歩きやすいように削られ、青く光るナドラダイト鉱石が目印のように置かれているのを見るに、今も巡礼者がやってくるのでしょう。もしくは、山を見たら登りたい竜族が訪れるのかもしれませんわね。
「エステラさん。故郷のことを思い出すのは、お辛いんじゃありませんの?」
 フェザリアス山は四方八方から吹き荒れる熱気のために、空を飛ぶ生き物が近づくのは危険な地域だそう。マティルの村に残るギルさんにルミラさんが付き添い、匂いが判別しにくい故にダズニフさんも彼らを守るために来なかった。私やギダさんは、エステラさんの記憶を頼りに聖鳥の生態を調べに山を登っているのです。
「お気遣い、ありがとうございます。大丈夫ですよ」
 振り返ったエステラさんは、そう言って、にっこりと笑いましたの。
「正直申しますと、故郷では確かに聖鳥を信仰していましたが、私はその信仰を学ぶには幼過ぎたのです。お役に立てず、申し訳ないです」
 マティルの村の痛ましい過去は、こんな笑顔を浮かべられる程に昔のことではないそうですわ。過酷な世界が痛ましい出来事すら大事ではないと暈してしまうのか、ナドラガ神への信仰が絶望を癒す程の救いとなるのかは分かりませんわね。ただ、謝罪は余計ですわ。
「謝る必要はありませんわ。エステラさんのご助力に、私は心から感謝しておりますの」
 ツスクルの村は、世界樹の信仰が生活にまで根付いた村でした。マティルの村の生活に潜む信仰と意味を、私は懐かしい匂いのように嗅ぎ分けて理解することができたのです。祭壇に残った儀式に使うだろう細工が施されたトーチの中身の配合は、祭りのひと月前に素材を家族と集めに行った思い出で判明しましたわ。聖鳥の消えぬ炎。聖鳥の棲家。こうして山道を迷いなく登れるのも、幼き日のエステラさんに教えた大人達のお陰。だからこそ、お辛いんじゃないかと思うのですけれど…ね。
 熱が渦巻く洞窟を抜けると、頂の火口を覗く場所に出ましたわ。湧き上がり水のように流れ落ちていく溶岩の熱気が、顔面を舐めていく。それらを見渡せる開けた場所は、植物の生えぬ火山にはない光景でした。まさに鳥の巣。植物を集めて敷き詰めたちょっとした広場程度の場所に、炎を帯びた巨大な羽がいくつも落ちているのです。
 魔炎鳥が居ないか見上げれば、赤く照り返す噴煙の中で雷が光っていますわ。
 私は小走りで、最も手近な場所に落ちていた羽に飛び付きましたわ。剣のように真っ直ぐな風切り羽は、小柄なエルフ族である私と大差ない大きさです。持っているのも訝しむ程に軽いですけれど、微風ですら体が持っていかれそうな程に風を受ける。硬質で光沢のある羽根は炎に包まれて、真っ赤な紅玉で出来ているような美しさですわ。炎の精霊の加護がなければ、火傷していましたわね。
 魔炎鳥が戻ってこないからと、欲張りは厳禁。一つ羽を掴んで洞窟の入り口へ駆け足で引き返すと、ギダさんとエステラさんを引き連れて洞窟の中に戻ります。熱気や魔炎鳥から身を隠せそうな場所に陣取って、採取した羽をじっくりと調べる為ですわ。
「良かったですわ。この羽には炎が宿っていますわね」
 エステラさんが仰るには、聖鳥の羽に宿っている炎は決して消えないそうですわ。ですが、マティルの村に残されていた聖鳥の羽にはもう炎は残っていませんでした。ランプとして用いる為に小さくしたせいなのか、年月の経過で失われてしまったのかは定かではありません。
 どちらにせよ、聖鳥の棲家に残っていた羽に炎が残っていることが重要なのです。
 羽は艶めき、押せば元に戻るほどの弾力も備えている。魔炎鳥の被害が出始めた頃合いより前の物と思えば、状態はとても良いですわ。撫でた掌にギダさんのお兄様が託してくださった、尾羽の一部と同じ力を感じます。
「やはり、魔炎鳥と聖鳥は同じ存在と見て宜しいですわね」
 ギダさんに運んでいただいた荷物から、火薬を詰める密閉性の高い小壺を取り出す。壺から布の包みを一つ取り出して、しっかりと蓋を閉じる。この布はマティルの村に残っていた特別なトーチの中身と同じ配合の草木を包んでいるのです。布の上を羽でそっと撫でれば、鮮やかな朱の炎が移りました。
 聖鳥の炎が安定して燃え続け、その炎が聖鳥の羽と同じ力を持っていることを確認する。
「これに、ルミラさんから頂いた髪の毛と、私の精霊の炎を合わせて燃やして…」
 荷物から断熱性の高い獣の皮に包んだ、一房の白金色の髪を少し取って炎に焼べる。それに炎の精霊に声を掛けて生み出した炎を灯すと、聖鳥の炎は金色に輝いたのです。美しさと神々しさに、私達はそれぞれにため息を吐いてしまいましたわ。
「なぜ、ルミラさんの髪の毛を燃やすのですか?」
 エステラさんの問いに、私は笑いました。
「オーガの民は炎に己が一部を焼べることで、特別な炎を生み出せると信じておりますの。熱くなったり、明るくなったり、吹雪や雨でも消えないなど様々な効果があると信じられているそうですわ。たまには神頼みも宜しいんじゃないかしら」
 実際に、良い結果になったのです。ガズバラン様、さまさまですわ。
 マティルの村でも様々な条件のもとに、魔炎鳥の尾羽を浄化する術を模索しましたが上手くは行きませんでした。効果が見込める全ての要素を、聖鳥の炎がまとめ上げる様は奇跡のように映りましてよ。
 ギダさん。私が声を掛けると、炎を見つめていた顔がパッと上がる。
「お兄様から託された、魔炎鳥の尾羽を焼べてみてください」
 ギダさんが唇を引き結び、荷物の中から大盾をしまう箱を取り出しました。防火の力が優れた竜の鱗と獣の皮で出来た箱の蓋を開けると、真っ黒い炎が噴き出す。まるで聖なる存在を威嚇するかのように膨れ上がった黒に、金も張り合うようにその輝きを強めたのです。
 ごくりと生唾を呑んだギダさんが、箱を持ち上げ金の上に黒い炎を這わす尾羽を落とし込みました。
 瞬間、黒と金が膨れ上がる!
 あまりに大きく膨れ上がったものですから、私達は地面を転がるように逃げ出したのです。そして岩陰から遠巻きに黒と金の炎の戦いを、見守ることとしました。黒い竜が金の鳥の喉笛に噛み付けば、金の鳥の翼が黒い竜を打ち据える。互いに絡れ入り乱れる攻防は、多くの火花を散らし、何度も炎が高き天井に届くほどに燃え盛る。ギダさんが祈るように固く握りしめた手が、震えるのが見えました。
 長かったような一瞬のような時間が過ぎると、黒い炎は明らかに勢いを失い、金の炎だけが静かに燃えていました。恐る恐る近づいた私達でしたが、ギダさんが一歩進み出て炎の中から魔炎鳥の尾羽を取り出しました。
 あれほど黒い炎に包まれた禍々しい尾羽の一部は、そこにありませんでした。赤い宝石のように美しく輝きながら、本来の姿を取り戻した尾羽はギダさんによって掲げられたのです!
「黒い炎が消えましたね!」
 エステラさんの驚きの声が、洞窟内を反響しました。
 そう、魔炎鳥の尾羽を覆っていた黒い炎は一片も残らず消え、聖鳥の羽と同じ美しいものに変じている。ついに、ついに魔炎鳥の穢れを祓う方法を、私達は見つけることができたんですわ! 私は弾んだ声で、呆然と尾羽を見上げるギダさんに話しかける。
「この金の炎なら、黒き穢れた炎を祓える。それを確かめることができたのは、ギダさんのお兄様のお陰ですわ」
「兄さんのお陰…」
 縺れる舌が呟いた言葉に、私は頷きました。そっと紺色の鱗に覆われたギダさんの手に私の手を添えると、私を見た金色の瞳と視線が重なったのです。
「ギダさんの友人の皆様が命を賭けて、魔炎鳥が力でどうにかなる相手ではないと示してくださった。ギダさんのお兄様が託した尾羽のお陰で、魔炎鳥を鎮める可能性を見つけることができたのです。皆様の死は決して無駄ではなかったんです」
 アペカの村は、彼らの死を無駄にしようとしていた。村長はナドラガ教団に救援を申し出ていたそうですが、応じられる者は誰も居らずせめてもとエステラさんだけがやってきた状態だったそうですわ。
 このまま魔炎鳥の被害が続けば、村は棄てられることでしょう。
 そしてその予感は、村人達の胸の中に遠くない未来として存在していました。亡くなった殿方を悼みはすれど、殿方に続いて魔炎鳥に挑む者は誰もいなかったのです。
 嘆かわしい。このままでは亡くなった殿方達の死は、何の意味もない無駄なものになってしまう。殿方達が魔炎鳥に挑むのを見送った自分達の責も、生き残って戻ってきたギダさんに押し付けている。そうなるなら、殿方達が挑む前に村を棄ててしまえば、よろしかったのに! 私は腑が煮えくり返りましてよ!
「ギダさん。貴方の頑張りが、この結果に導いたんですわ。よく、耐え忍びましてよ」
 ギダさんも諦めてはおりましたわ。それでも、彼はお兄様とご友人達の死を背負っておいででした。独りで背負うには重過ぎて潰されてしまいそうでしたが、彼は捨てはしなかったのです。
 だから私とルミラさんは、彼に協力しようと思ったのです。
 彼が本当に彼らの死を無駄にして、何もかもを棄ててしまうなら、私達は魔炎鳥に挑もうとはしなかったでしょう。私達は結局は他所者。そこの住まう民の決定を覆すことなど、出来はしないのですから。
 金色の眦から、はらりと貴重な水分が流れてしまいました。
「…エンジュさん。あ、ありがとう」
 どういたしまして。にっこりと微笑むと、私は手を顎に沿わせて俯きました。
「問題はこの程度では全く足りぬということ…」
 祓う方法は確立できましたが、本番では魔炎鳥を相手にしなくてはなりません。その巨体全体を覆う黒い炎に対して、松明で燃える程度の金の炎では呑まれてしまうのは明らかですわ。
「炎は火種から無限に増やすことができますでしょうが、魔炎鳥の黒い炎の火力に勝らねばなりません。聖なる炎で燃え盛る谷底に放り込むくらいの、規模と火力が欲しいですわ」
 炎の領界はマグマか、剥き出しの岩肌の大地で占められています。マグマの上に炎を広げたとしても、魔炎鳥がマグマを摂取して回復したことを考えれば得策ではありません。岩肌の上に魔炎鳥の火力に勝る火を用意できるほどの、可燃物を用意できるかというと難しいでしょう。私のメラガイアーは結局は点の攻撃であり、面で包み込んでしまえる火力がどうしても必要なのです。
「炎樹の丘…」
 ギダさんの呟きに私は顔を上げました。
「炎樹の丘の周囲は、炎の樹の森が広がっている。その炎の木にこの聖なる金の炎を移したら、広大な金の炎の森になるんじゃないだろうか。その上に魔炎鳥を落とせば…」
「最高の案ですわね! 沢山松明を作って、アペカの村の方々にも手伝ってもらって森全体にこの金の炎を行き渡らせましょう。ダズニフさんに魔炎鳥を森の上に叩き落としていただければ、完璧ですわ!」
 森ならば魔炎鳥の傷を癒すマグマは存在しない。なんて、魅力的な案なのでしょう! ギダさんのように地元に精通しているからこそ、今、するりと導き出された最も優れた案を私は手放しで賞賛しました。
 ちょっと、紺色の鱗が紫に色づいていますわ。照れていらっしゃらないで、胸を張ってよろしいのに。
「さぁ、私達全員で、お兄様やご友人の弔い合戦ですわ! 」
 必ずや勝利を手にして見せますわ。
 亡くなった方々が掴み損ねたものを、今度こそ、全員で掴みにいきますわよ!