リリスが歌う旅立ちの調べ - 前編 -

 聖都エジャルナ。炎の領界最大の都は、マティルの村に向かう際の指標として上空を通過したことがある。
 建物が犇き複雑に入り組んでいるのは、この煉獄の大地において安全な地域の少なさ故だろう。グレンにも匹敵しそうな人々の営みの中心に、炎を掲げた灯台のような塔がある。あれがエステラが所属する『ナドラガ教団』の総本山であるそうだ。
 様々な色の石をモザイク模様に敷き詰めた石畳の雑踏を眺めつつ、時折溶岩路から吹き込む熱波に汗を流す。溢れんばかりの品物が並ぶ商店街は、食材を筆頭に日用品に道具に武器に防具にと、この通り一つで全てが揃うほどに充実した店構えだ。特に道具はどれもが炎の領界の熱に耐えうる素材でできていて、竜族のセンスはアストルティアにはない異文化の雰囲気で眺めても飽きない。鱗を使った工芸品は、ウェナの螺鈿細工を思わせる輝きと繊細さ。ランプの無骨さ、武器防具の実直な仕事ぶり、頭上を覆う熱波避けの布の模様。どれをとってもアストルティアに似ているようで、違うのだ。
 カメラが壊れたことが悔やまれるが、光を歪ませるほどの炎の領界の熱気では無事でも使い物にはなるまい。実際にカメラを探してみたが、首を傾げられるばかり。鱗を切り貼りして精緻なモザイクとして描いた風景画が、この灼熱の世界で精一杯なのだろう。
「エンジュの買い物。長いなぁ…」
 自分がゼラリムの土産を品定めしている横で、ダズニフが疲れ果てたように呟いた。エンジュは店の奥で店員と熱心に相談しながら、ペンとインクを選んでいる。
 炎の精霊の加護を受け、身の回りの全ての物に防火機能を施した品を使っているエンジュ。そんな彼女の持ち物ですら、炎の領界の熱によって使い物にならなくなった。逆を言えば、この領界の環境に耐える日用品はアストルティアにはなかった最高の防火機能の備わった品々しかないのだ。アストルティアに戻っても、きっと使い続けるだろう品に一切の妥協をするつもりはない。そんな彼女の意気込みが、買い物時間の長さに表れていた。
「ダズニフの金で買うのだ。無駄遣いをさせまいと、納得出来る物を選び抜いているんだろう」
 特に紙は貴重品で、ノート一冊分にあたる束で上等な防具が一揃えできる値段になる。無駄遣いなど一切できないと、エンジュが思うのも当然だ。
「気にしなくて良いのに…」
 ダズニフは長く息を吐き出した。
 聖都エジャルナでは物品の購入はアストルティアと同じく通貨でやり取りされるが、アペカの村などの都以外の村々では物々交換や対価を労働で払うことが一般的だ。この買い物の代金は全て、金持ちと言えるほど蓄えているダズニフが持ってくれているのだ。ダズニフ曰く、いつの間にか貯まったらしい。
 実際に自分達の持ち物の殆どを新調した金額は、あまり金を使わないらしいダズニフに『気にするな』と言われても無理のある値段だ。
 痺れを切らしたのか、頭を掻きむしったダズニフが店の奥に飛び込んでしまった。二人が並べば神経質な甲高い声と苛立つ低い声が、側から聞いたら喧嘩かと思うようなやりとりを始める。互いを想っているのに何故に喧嘩腰なのやらと、呆れるばかりだ。
 買い物客の波は途絶えることはないが、二人の騒がしい声に自分の隣で足を止めたご老人がいた。
 背丈はエンジュよりも少し高い程度だが、竜族が纏う布の衣はがっしりとした体格を包んでおり、高齢の為に背が縮んでしまったのだろう。深い蒼の鱗は皺を刻むように撓み、厚ぼったい瞼のせいで閉じられた目元だが、威厳と穏やかさが滲んでいる。背丈の倍以上はある杖を突き、腰を労るように手を添える。背後に付き添いだろう偉丈夫の男は、唇を引き結んだ厳しい顔つきで自分を一瞥した。付き添いの持つ杖はエステラの両手杖の先端にあった竜と同じ彫刻が施されていて、神殿の関係者であると思われる。こんな男性を従えて、只者ではない雰囲気が伝わってくる。
 仲間達が言い合う姿を眺めるように顔を向けていた老人に、自分は竜族の祈りの仕草をしながら膝を折った。膝を折っても老人を見下ろしてしまう為に、深々と首を垂れる。
「失礼。仲間が騒がしくて申し訳ない」
 老人はこちらに顔を向けると、朗らかに笑った。
「これはこれは、竜族の祈りの作法で挨拶をしてくださるとは、嬉しい限りです」
「アペカの村に滞在している間、毎日のようにナドラガ神の祠に詣でていました。敬虔な先人に、認められる所作であること光栄に思います」
 老人は自分の所作が美しいことを手放しで褒めて、嬉しげに話しかけてきた。
「ナドラガ教団の礼拝にも、お見えになられるのですかな?」
「一般開放される日まで滞在せず、旅立つ予定です」
 すっと、通りから正面にあるナドラガ教団の塔と炎を見る。
 神を信仰する神殿に近い機能があるだろう、ナドラガ教団の総本山は誰もが入れる施設ではないらしい。
 全ての竜族が分け隔てなく入れる礼拝の日は事前に告知されるが、自分達はその前に支度を整えて氷の領界に旅立つ予定だ。エンジュは残念がったが、それぞれの領界に散り散りになった仲間を探すのが先決と言うダズニフの意見が通ったのだ。
「遠方からの客人をもてなすことが出来ぬとは、竜族として恥ずかしいことですな」
 いたく残念そうに眉根を寄せた老人は、背後に立つ厳しい男を見上げるように顔を向けた。その目配せに似た仕草に込められた意味を察したのか、男はやや困った様子で整った顎髭を摩った。
「我々は旅路の途中です。尊老殿のお気遣い、感謝します」
 自分は再度深く一礼すると立ち上がる。貴重な紙とインクとペンをたくさん詰め込んだ袋を抱えたエンジュを小脇に抱え、ダズニフが戻ってきたのだ。『こんな浪費は認められませんわ!』とキンキンと響く声が脳天を貫くらしく、ダズニフが空いている手で頭を押さえている。
 悪ぃ、待たせた。そう言いかけた顔が、ハッとしたように上がった。
 ダズニフは呼吸すら止めて凍りつき、虹色の光沢を持つ銀の鱗が艶のない白に変じていく。それは一瞬のことで小脇に抱えたエンジュをそろりと下ろすと、ダズニフは竜族の祈りの作法を老人に捧げる。深々と下げられた頭を上げず、絞り出すようにダズニフは言った。
「な…ぜ、こちらにおられるのですか? 総主教オルストフ様」
 エステラより聞いたナドラガ教団の長。この威厳に溢れた老人こそが、竜の種族神の信仰を束ねナドラガンドの民を見守る者なのだ。
 まぁ! エンジュが慌てて竜族の祈りを捧げる。
「エステラから帰ってきたと聞いたので、迎えにきたのです。神殿に寄らずに、旅立ってしまうつもりなのでしょう? 旅の道中、何があったか爺に聞かせてはくれぬのですか?」
「道中のことはエステラ殿に伝えてあります」
 祖父が孫に語りかけるような親しみに満ちた声と、頑なな拒絶すら感じられる声の温度差は奇異に映る。
「ダズニフの口から聞きたいのですよ。遠き伝説の地より参られた客人を、もてなしたい。若人への世話焼きという老人の道楽に、付き合ってはくれぬのですか?」
 自分はエンジュと顔を見合わせ、ダズニフの背に視線を向ける。ダズニフは頭を上げぬまま、更に深々と頭を垂れて『御随意のままに…』と呻くように言った。
 ダズニフの了承を聞き、老人は穏やかに眉尻を下げた。では、参りましょうと歩き出したオルストフ殿の背を見送りながら、自分はダズニフに囁いた。
「随分と了承を躊躇っていたようだが、何か理由があるのか?」
 エジャルナに来てからは、遠巻きに見られ避けられていると感じていた。竜族ではない自分達に向けられたものかと思ったが、彼らの視線や嘲笑の先にいたのはダズニフだった。気にするなと笑うだけで臆する様子はないダズニフを思えば、オルストフ殿の誘いに逡巡するのに、こちらは戸惑うくらいだ。
 エンジュが反対側に回り込んで、項垂れる顔を見上げた。
「ナドラガ教団の竜族はアストルティアの民に、どのような感情を抱いておいでですの?」
 なるほど。エンジュはダズニフが誘いを渋ったのが、教団に自分達を快く思っていない者がいるのだろうと推測したのか。若い神官であるエステラも知識として把握している以上、アストルティアを知らぬ村人達よりも複雑な感情を抱いているに違いない。エステラは自分達を好意的に受け入れたが、他の者がそうとは限らない。
「竜族にとってアストルティアは伝説で語られる、存在も定かではない世界。何かしらの感情を抱くほどには、意識出来る者は多くは居りませぬでしょう」
 そう、穏やかな声で答えたのは、先をゆっくりと歩くオルストフ殿だった。
「確かにナドラガンドの民が、今を生きることに必死で余裕がないとは推察いたします。だからこそ、ナドラガ教団のように他者を救える知識と余裕を持つ者ほどに、思うところがあるのではと思うのです」
 溶岩石を敷き詰めた石畳を軽快に蹴り、エンジュは竜族の老人の一歩後ろに迫る。賢い双眸が真摯な輝きを宿し、真面目さから感情を削ぎ落とした言葉が述べられていく。
「正直なところ、ナドラガンドの現状は過酷と表現するのも躊躇うもの。今の竜族の民の苦しみを放置する現状の一端を、我らが種族神が担ってしまっているのなら恥ずべきことと思うほどです」
「貴女はナドラガ様の弟妹神ではありません。自身を責めてはなりませぬよ」
 老人は眠気を感じるほどに穏やかに言う。
「確かに炎の領界の過酷さを思えば、己の無力に苛まれることは多いことでしょう。だからこそ、種族神ナドラガ様がお目覚めになる日を待ち望んでいるのです」
 こつこつと石突が石畳を突く音を響かせ、老人の声は古き歴史の重みを伴って自分達に語りかける。
「今、我々は各地の異変の対応に奔走しております。魔炎鳥の被害はその一つに過ぎず、今も多くの民が焼け死んでいます。神代の時代にナドラガンドを穢した邪悪なる意志の力は強く、長い長い抵抗の日々の果ては目の前。迎えるはナドラガ様の目覚めではなく、我らの敗北による滅びの日です」
 アストルティアでは穢れに満ちた原因は語り継がれなかったが、ナドラガンドでは『邪悪なる意志』なる存在が原因であると伝わっているのか。確かに魔炎鳥が汚された原因は掴めず、エンジュも何らかの外因的要素があったのではと言っていた。それが『邪悪なる意志』とやらに原因があるなら納得だ。
 オルストフ殿は憂に満ちた声で言う。
「分断されし残り4つの領界も、文献で知る限り悍ましい厄災に見舞われているのでしょう。実際に氷の領界は全てが凍りき、同胞の生存を確認することが困難な状況です。同胞達を救う為に、我々は全ての領界を解放することを目指しています」
 そこまで話して老人は足を止めた。
 自分達も立ち止まって先を見れば、ナドラガ教団の総本山である神殿へ続く長い階段の手前だ。オルストフ殿は腰に添えていた手で拳を作り、とんとんと励ますように叩いた。『これが大変なのですよね』と、独りごちる。
「先日、私は揺蕩う炎が黄金に染まるのを見ました。恐らく、魔炎鳥が浄化され聖鳥に戻った吉報を映したのでしょう。しかし、私はそれだけとは思っておりません」
 期待に胸を馳せるような弾んだ声色が言葉に滲んでいる。その声色は、竜族の隠れ里で出会ったオルゲン殿を彷彿とさせた。停滞した日々を憂い、動き出した未来に希望を抱かずにはいられない。竜族の忍耐の日々の一端に触れ、自分は竜族の苦難を想う。
「竜族の希望である解放者が現れ、アストルティアより風が舞い込みました。竜族が生き永らえている今に訪れた変化は、希望を手にする最後の好機でありましょう」
 老人が振り返る。穏やかながらに炎の領界の全ての民の信仰を一身に背負った、ナドラガ神に最も近い男性。彼の言葉は神託のように厳かに、自分達に告げる。
「解放者は竜族の希望。ナドラガンドを救う、唯一無二の存在です」
 自分もエンジュも、思わずダズニフを見る。
「お客人方。どうか我らが希望を支え、ナドラガンドの為にお力添え頂けないでしょうか?」
 見られたダズニフはといえば、苦虫を潰したような顔で俯いていた。普段は粗野な振りをしている男が、ナドラガンドと全ての竜族を背負って立っている。言わなかったのは、自分達には一切関係のない事としたかったのだろう。とはいえ、知っていようといまいと、為すべき事は変わらない。
 自分はエンジュと顔を見合わせ、頷き合った。ダズニフは自分達にとって、もう大事な仲間だ。
「勿論。ダズニフに協力を惜しむつもりはありません」
 しかし、不思議なことだ。自分は鋭い付き人だろう竜族の男の視線を感じながら尋ねた。
「オルストフ殿。なぜ自分達を信頼してくださるのですか?」
 厳粛な性格を公言するような付き人の表情に、自分達を信じるような素振りはない。例えダズニフと行動を共にしているからと言って、竜族の命運を伝説の世界からやってきた良くも知らぬ旅人に預けるなど危険すぎる。この付き人から感じる憤りは、至極真っ当に思えた。強大な『邪悪なる意志』を前に、託した使命を投げ出すやも知れぬ。可能性はこの竜族の地に縁がないからこそ、断言できぬ程度に存在した。
 自分が付き人と睨み合っているのに気がついたのか、老人が『ナダイア、おやめなさい』と嗜めた。
 ついにオルストフ殿は階段に挑む決意を固めたのか、ゆっくりと段を登り始めた。
「貴女方はアペカの村を救ってくださった。そして、エステラが貴女方が信頼に足る存在と、ナドラガ神に誓って断言したのです。あの頭の固いエステラに、どんな魔法を使ったのか私が知りたいくらいです」
 ほっほっ。笑い声なのか段を登る掛け声なのか、軽快な声が弾む。
 実直な若き女性神官を思い出す。彼女の一歩下がって俯瞰するような眼差しは、自分達を見極めていたのだろうとは感じていた。真面目な彼女が一度でも守るべき民に害意を齎すやもしれぬと疑念を抱いたなら、それを翻させることは非常に難しい。ましてや、竜族ではなく伝説の地アストルティアからきたナドラガ神の弟妹神の民。未知である存在に、普段以上の警戒をしたに違いない。
 彼女の言葉で信頼に足ると言い切るなら、エステラは教団から厚い信を得ているのだろう。若いのに大した女性だ。
「貴女方はダズニフを見捨てはしない。だからこそ、信頼に足ると言えましょう」
 思った以上に強かな御仁だな。自分は温和な老人の認識を改めた。
 階段を登り切ったオルストフ殿は、自分達に振り返った。にこりと微笑み、手を広げる。
 彼の背後には荘厳な神殿へ続く、開かれた門があった。アストルティアの教会のように長椅子が並んだ先には、様々な輝石の鱗が頭上の灯台の炎を映し込み七色に移ろう天翔ける巨竜の像がある。今にも動き出しそうな姿は雄々しく、まさに女神ルティアナの長子の堂々たる佇まいだった。天空をイメージした壁画には、大地から芽吹く植物や花、海や火山、雪や風といったアストルティアを彷彿とさせる彫刻で飾り立てられている。礼拝堂らしい空間を照らす5つの光は、5つの領界を表しているのか全て違う色と光を湛えている。
「ようこそ、ナドラガ教団へ」
 一拍の間を置いて、老人は年相応の顔いっぱいに親愛を滲ませた。
「そして、おかえりなさい。ダズニフ」