リリスが歌う旅立ちの調べ - 後編 -

 魔炎鳥が討伐され聖鳥が戻って来たという話が、聖都エジャルナの民に浸透して行っています。
 竪琴を奏で柔らかい声で、都にやって来た吟遊詩人は歌う。アペカの勇敢な若者達が魔炎鳥に討たれた悲劇に、子を持つ親や夫のいる妻は涙する。アストルティアからやって来たナドラガ様の弟妹神の民が、竜族の若者と協力し炎の山を登り聖鳥の尾羽を手にする冒険譚に、子供達が嘘だと囃し立てながらも目を輝かせた。アペカの民が力を合わせ生み出した清らかな炎の森に魔炎鳥を追い落とし魔炎鳥が討伐されたという顛末は、勇敢な戦士達がジョッキを掲げて歓声を上げたのです。
 吟遊詩人の正体は、ギダさんでしょう。炎の領界の過酷な環境では、危機を打開する吉報は珍しい。竜族が巨大な存在を打ち倒したという明るい知らせは、都の民の鬱屈とした感情を大いに慰めたのです。
「エステラ様! こんにちわ!」
 ナドラガ教団が第二の故郷という子供は多い。弾ける子供達の声が、元気いっぱいに挨拶します。
 過酷なる炎の領界では、日々村が消え民が死んでいく。孤児となった子供達は不幸な身の上ではありましたが、生き残る事ができたという意味では幸運でした。保護した子供達は一旦教団が預かり、親が迎えに現れれば親元に戻り、里子として希望した夫婦に引き取られる。しかし神官となることを希望すれば、神殿で見習いとして住み込みで修行できました。私もその一人。
 螺旋階段を降り切った所で、賑やかな声の主と邂逅しました。まだ指をしゃぶってしまう癖の抜けぬ幼子から、あどけない顔立ちの子供まで様々。見習いの神官服を着た子供達に、私は穏やかに応じました。
 ねぇねぇ、エステラ様。そう言いながら子供達が私を取り巻き、裾を引きます。その一人が教団の敷地の庭へ向かう廊下を指差して言いました。
「神殿の庭に竜の子供がいるの! あっちでね、丸くなって寝てるんだよ!」
 まぁ! 私は目を丸くする。
 ナドラガンドには多くの竜が生息しており、人里に迷い込む竜も少なくありません。竜族の大人は子供達に迷い込んだ竜に近づいてはいけないと、口を酸っぱくして教え込みます。特に子育て中の母竜は、ナドラガンドの如何なる魔物よりも凶暴で恐ろしい存在。早急に対応しなくてはなりません。
 こっちこっちと導く子供達と辿り着いたのは、教団の神殿から出て外壁へ至る外庭です。神官達も滅多に寄り付かぬ為に子供達の遊び場となった庭は、炎の葉が茂る木が影すら消すように密集している。その一角の茂みを指差せば、確かに丸くなって眠っている小さい影。
 竜の幼体は形が良く似ている。鱗の色すら変わる竜も存在し、銀色の鱗の色や黒い角などで判断するのは早急でしょう。私が子供達に下がるよう囁くと、銀の鱗の竜がぴくりと体を震わせた。瞼を閉じたまま顔を上げ、鼻面を空へ向けるとぴすぴすと鼻息を響かす。くあっと大きな欠伸をして体を伸ばすと、小さい竜はこちらを向いた。
「エステラ? なにか よう?」
 卵から生まれたばかりの幼体が発した声は、幼体に相応しい甲高い声。愛らしく響いた声は私の名を呼んで、虹を帯びた銀の鱗で覆われた頭をくりんと傾げる。その鱗と角の色。開かぬ瞼。思い当たる者はあれど、戸惑いを隠すことはできませんでした。まるで岩影の火竜の尾を跨ぐかのように恐る恐る、私は小さい竜に問いかける。
「ダズニフ…ですか?」
 うん。そうだよ。銀色の竜の幼体は肯定すると、小さい手足をよちよち動かし歩み寄ってきます。子供達が危ないものではないと判断したらしく、わっと小さい竜を囲んで撫で始める。ダズニフは大人しく撫でられ、抱きしめようとする子供に抱えられる。その光景は大変微笑ましいものです。
 私は胸がざわつくのを感じました。妙に息苦しくて、言葉にならない感情が渦巻いているのを自覚する。
 子供達の喜びに輝くような笑顔の中心に、私達ですら滅多に見る事のできない竜の幼体の丸っこくて小さい体がある。丸いお腹を撫でる小さい手達。膝の上に乗せて嬉しそうな顔。かわいいとはしゃぐ声。それらは眩しいほど尊く、私も思わず愛想を崩してしまう世界でした。
 夢中になる子供達に、私は手を叩き声を掛けました。
「さぁ、皆さん。学びの時間になりますよ。神官様を待たせてはなりません」
 名残惜しそうな子供達でしたが、ダズニフが『またな』と言うと、思い思いに手を振って去っていきます。私はダズニフと並んで子供達を見送り、その姿が見えなくなると隣を見下ろす。様々な竜の姿になることのできるダズニフですが、竜の幼体のような見た目のは初めて見ました。正直に言うと、どんな意図があってその姿になっているのか皆目見当つきません。
「ダズニフ。どうして、そのような姿に?」
「いちばん つかれが とれるんだ」
 私はぷひぃと溜息を吐いたダズニフを見下ろし、徐に声を掛けました。
「私も、さ、触っても、良いですか?」
 見た目は愛らしい竜の幼体でも、中身は私よりも年上の竜族の男性です。子供達には気を遣って赤子のように扱われているのを我慢していただけで、本当は嫌なのかもしれません。自分でも笑ってしまうほどに、おずおずと問うたのです。
「ふぅん? エステラ こんな よわっちぃ すがたに きょうみ あんの? まぁ、いいけど」
 どうぞ。そう私に鼻面を向けて動かないダズニフに、そっと手を伸ばす。
 固く閉ざされれた瞼を見るに、竜族の姿と変わらず目は見えないのでしょう。それでもいきなり頭を撫でられるのは嫌なのかもしれません。私は手を引っ込め、ダズニフの前にしゃがみ込む。なだらかな背に手を伸ばし、首の後ろから羽の付け根に向けて鱗に沿うように撫でる。幼体の鱗は薄く柔らかく、手のひら越しに脈打つ熱を感じる。本当に生まれたばかりの竜族の赤子のようです。尻尾に指を向ければ絡むように動き、前足に指を向ければ握りやすいようにか上げてくれる。おもちゃのような爪の下には、まだ固くなっていない肉球がある。柔らかい。ダズニフがゴロゴロと喉を鳴らして笑った。私の手の下に頭をねじ込み、手のひらを押し上げる。
「そんな もむなよぉ。くすぐったいなぁ」
 なにこれ、かわいい。
 ちょっと雷に打たれたような衝撃が走りました。
 ぷしゅん。なんとも可愛らしいくしゃみをすると、銀色の竜の幼体は成人した竜族の姿になりました。
 その衣は炎の領界で、最も素晴らしい職人が織り上げたのでしょう。純白の中に複雑で繊細な紋様が施され、光沢のある糸が白熱する炎にも揺蕩う水面にも吹き荒ぶ風にも見えるのです。目の見えない彼には与り知らぬことでしょうが、高貴なる身分の身なりだと誰もが思うでしょう。
 で、何か用があるのか? そう黒髪を掻き回しながら、ダズニフが私に問います。
「子供達が竜の子供が庭にいると教えてくださったんです」
「あぁ。昼寝をしていただけだったが、迷い込んだと勘違いしちまったのか。悪いことしたな」
 手櫛で柔らかい髪を整えるダズニフに、私は居住まいを正して告げました。私の早まる鼓動が聞こえたのか、ダズニフは何かに勘づいたように私に顔を向けました。
「ダズニフ。貴方に同行するよう、オルストフ様より命じられました」
「解放者として働いてるか見張るってか? 信用のねぇこった」
 ダズニフが教団を去った理由は、聞く限りではご家族が次々に身罷られたからだと聞いています。妹さんが亡くなられ、立て続きにご両親は私達マティル村の疫病の治療のために出向いて殉職してしまう。絶望した彼が神の手をも振り払ったことは仕方がなかっただろうと、同情的に語る神官は多いのです。
 しかし、同時に歴代神官長を輩出する一族故に、ダズニフが責任を放棄したと無責任さを罵る者も少なくありません。現神官長であるナダイア殿は明言を避けてはいますが、厳しい人柄を思えば快くは思っていないでしょう。
 そんな中でオルストフ様は改めて解放者ダズニフの支援を宣告し、吹き込んだ新たな風としてアストルティアの民の保護を通達しました。ナドラガ様の弟妹神の民とはいえ未知なる存在に意を唱えた神官は多く、オルストフ様の声がなければ今頃どうなっていたことか…。
 私は憤慨に高揚した気持ちのまま、口を開きました。
「ダズニフ! 貴方はオルストフ様の期待に応える責務があるのです!」
 ダズニフは黙り込むと、しばらくして重苦しい息を吐き出しました。『分かっている』と呟いた声を『全く理解していません!』と怒りで潰す。
 妬ましいほどに羨ましい。
 オルストフ様は我らを我が子のように慈しみ、父のように見守ってくださる。どんな失敗も、どんな無礼も、あの穏やかな笑みで許してしまわれる。成長も、成果も、己のことのように喜んでくださる。注がれる愛情は、故郷を失った私を満たしてくれました。あの方の為なら私は何でも出来ると確信しています。
 しかし、オルストフ様はありのままの我々を慈しんでいるだけ。解放者として竜族を救うと、成長を期待するのはダズニフだけなのです。ダズニフに代わり氷の領界を解放しようと挑む神官達が挙って欲する感情は、未だにダズニフ以外に向けられることがない。
 何が私に足りず、ダズニフに何があるというのだ。私はあの方の期待に応える為に、血の滲むような神官としての修行も、大人の竜族ですら音を上げる竜化への厳しい道すら踏破したのに…!
 握り込んだ手に爪が痛いほどに食い込み、震えが全身に伝っていく。
「じいさんは何を期待しているんだろうな」
 ぽつりとダズニフが呟き、炎に照らし出された炎の領界の空を見上げるように顔を上げる。
 オルストフ様はどのように呼ばれても受け入れてくださる。孤児の幼子達がお爺様やお父様と呼んでも、飄々と笑いながら応じてくださる。しかしダズニフの一族だけは、本当の親族のように接しておられる。総主教の傍に常に寄り添い、最も神に近い器足らんと優秀な竜族の血を束ねた一族の末裔。
 ダズニフの妹さんは実際にナドラガ神の器と称される、類い稀な才を持っていたそうです。私が厳しい修行の果てに手に入れた竜化の術を、ダズニフは言葉を覚えるよりも早くに身につけたとか。
 彼の何気ない言葉の端々に、彼の何気ない仕草の一つ一つに、彼が特別であることを意識せざる得ない。
「炎の領界を解放し氷の領界に繋げ、俺はアストルティアに行って得難い経験をしてきた。竜族が抱えている問題は、領界を全て解放しただけでどうにかなるようなものじゃないと思ってる」
 ダズニフは教団に戻り、オルストフ様を筆頭に多くの神官の前でアストルティアでの出来事を語りました。伝説の地アストルティアで、平和で穏やかに暮らす弟妹神の民達。そこに現れ神の器を拐かす、ナドラガンドからやってきた邪悪なる意志。ナドラガンドに戻ってこれず、アストルティアで生き延びた竜族の子孫達。神の器として誘拐された友を救うためにナドラガンドへやってきた、ダズニフの仲間達。
 ダズニフは最後に深々と頭を下げ『俺の仲間達を偏見なく受け入れてほしい』と言ったのです。
 私はマティルの村でダズニフを見て驚いたのは、彼の変わりようでした。
「俺は解放者としての責務と並行して、仲間の為に力を尽くしたいと思う。そういう意味じゃあ、お前にとっちゃもどかしい事を選択する場面もあるだろう」
 重く垂れた前髪の向こうから、固く閉じた瞼の向こうから、ダズニフの視線を感じる。彼が耳を澄まし匂いを嗅ぎ、相手を感じ取ろうとする集中は全てを見透かされるような居心地悪さを感じるのです。
 エステラ。そう、彼が私の名を呼びました。
 固く引き結んだ口元をふわりと解き、笑うように綻んだ唇が言葉を紡ぐ。
「お前はお前の信じる道を選べ。俺は俺で勝手に選んで進むからさ」
 なんて勝手なことを…! 私は声に怒りを含んでしまうのを、堪えることができませんでした。
「貴方は竜族の同胞より、仲間を優先するというのですか?」
 竜族の救世主である解放者。総主教オルストフ様の期待を受けし者。ダズニフの選択は、このナドラガンドの未来と同じことでした。我らが希望とされし解放者は、我々竜族よりアストルティアの民を優先するかもしれないと曰うのです。
 そんなことが許容されて良いのでしょうか? 竜族の民は今も苦しみ、救いを求めているのに…!
 握り込んでしまった手に顔を向けたダズニフは、低い声で答えたのです。
「もしお前から見て、俺が竜族の存在を脅かすと思うなら命を奪えば良い。勿論、簡単には命などくれてやらん。全力で抵抗して逆にお前が死ぬかもしれん。俺は俺の選んだことを妨げるなら、同胞とて容赦はしない」
 鼻から抜けるように、嘲笑う吐息が漏れた。
「解放者など、誰でもなれる」
 私は手のひらを勢いよく開き、大きく振り上げた!
 それは閃光のような感情でした。怒りも憎しみも嫉みも何もかもが白く溶けて、全ての思考を消し去ってしまった。こんな感情を私は知らない。それでも、体が動く。
 私の手首はダズニフに握られてしまい、彼の頬から弾けるような音は響きません。急制動が掛かった体がダズニフに握られた手首に向かって引き攣って痛み、痛みが溶けていたあらゆる負の感情を浮かび上がらせるのです。
 放しなさいと口を開こうとして、翼の羽ばたく音と強風が吹き荒れました。ダズニフから身を離そうと力んでいた体がバランスを崩し、ダズニフのもう一方の手が腰に添えられ支えられる。
 ダズニフの背から、飛竜が飛び立ったのです!
「ダズニフさん! 行って参りますわね!」
 エンジュさんらしい声が、頭上を通過する飛竜から降ってきます。
 彼女らは一度アストルティアに戻る。炎の領界の過酷さに、竜族ではない彼女らが耐えられているのは奇跡に他ならない。彼女ら自身も炎の加護があったから生き延びられていると、自身の運の良さに言及するほどでした。だからこそ過酷な環境故に安易に追従しないよう伝える為に、ダズニフがアストルティアへ向かった道を辿るとのことでした。
 彼女らと共にやってきた仲間が同じ領界にいなかったことを考えると、アストルティアからナドラガンドへやってくる際に、辿り着く領界も選ぶことができないのでしょう。どの領界も悍ましい厄災に見舞われている。彼女達の警告はアストルティアの民に必要なこととされました。
 さらに飛竜を駆ることで、炎の領界に戻れなくとも対応出来る可能性が増すとのこと。なんとも逞しいお嬢さん方です。
「気をつけて行けよ!」
 飛竜に向けてダズニフも叫ぶように言い、送り出しました。
 飛竜の羽ばたく音は瞬く間に遠ざかり、聴き慣れた熱波の音が押し寄せる。ダズニフは手の力を緩め、私の腕はするりと引き抜かれる。少し痛む手首を握りしめ、私はダズニフを見上げました。
「私は貴方を解放者とは認めることが出来そうにありません」
 言われ慣れていると言いたげな表情に、私は憐れみを抱くことができませんでした。
 遠巻きに侮辱のように揶揄されていた相手であれば、可哀想と思えたかもしれない。揶揄する言葉を曰う者に、何を知ってそう言うのかと怒りすら憤りを感じたかもしれない。 
「それでも貴方が解放者であることを、覆せる存在はナドラガンドに今はいない」
 盲目であっても、前代未聞の竜化の術の才を持ち、竜族として最も恵まれた血筋の末裔です。力は言うに及ばず、信仰の理解も知識も生まれた頃から注がれているなら、私ごときが及ぶわけもない。それでも仲間と楽しげに笑い親しみを込めて接する姿は、かつて見た神官様のように甲斐甲斐しい。
 この男が解放者であることは、必然に思えたのです。
 それでも、疑問がつきまとうのです。
 どうして、解放者は我らが竜族を優先してくれぬのでしょう。我らが竜族を解放し救ってくださる存在のはずなのに、なぜ、彼は幸せな世界に生きる弟妹神の民を贔屓するのか? 貴方は我ら竜族のために、生きてはくれぬのですか? 我らを見捨ててしまうのか?
 私はぐっと唇を引き結び、ダズニフを見上げました。
「貴方が真に竜族の解放者として相応しく在るよう、このエステラ、性根を叩き直して差し上げます」
 私が導くのだ。共に歩き、先を示し、この解放者に竜族を救う道を進んでもらうのだ。それが出来るのは、オルストフ様より同行を命じられた私しかいない。
 ダズニフが小刻みに体を震わせたことを訝しんだ、次の瞬間。ぞろりと鋭い牙が並ぶ竜の顎は、私の頭を丸呑みしてしまうほどに大きく耳元まで裂ける。楽しげな笑い声が、大きく開かれた口から迸ったのです。
「そりゃあ、楽しみだなぁ!」
 ま、頑張ってみろよ! そう、ダズニフの大きな手が、私の手を掴んだのです。