氷の棺に眠る花 - 前編 -

 私とルアムさんが流れ着いた竜族の世界は、氷に閉ざされた極寒の地です。
 見渡す限りの全てが凍りついた大地に、様々な部位の巨大な骨が埋もれるように閉ざされています。底の見えぬ巨大なクレバスを橋のように背骨が掛かり、肋骨の森には宝石のように光る蔦が巻きつく。乱立する骨の合間を寒さに順応した魔物達の影が行き交い、透明な氷の中から手や足といった複雑な骨が天空のオーロラを見上げています。それらの骨の持ち主は実際に生きていたなら、一つの山と同じくらいの大きさでありましょう。巨大な骨格は筋肉を支えるべく大木の幹のように太く、この無慈悲なまでの寒さに晒されても劣化する兆しもないのですから。
 白夜の世界は氷の乱反射で虹色に色付き、澄んだ空気はどこまでもはっきりとした輪郭を保つ。生き物を拒絶するが故に、私達の生きている世界にはない美しさで満ちていました。
 この美しさを是非絵に留めたいと思いましたが、叶いませんでした。氷の領界の空気に晒されたスケッチブックは、触っただけでボロボロと崩れ去ってしまいました! なんということでしょう! 絵が描けないなんて、これ以上の拷問が存在しましょうか!
 仕方なくこの山ほどある氷を削り出して、彫刻に勤しんでいます。立体もたまには良いものです。
 氷の洞穴を利用して作ったこの空間も、私の作品です。
 エルトナの囲炉裏の形を真似た火元を中心に据えた、ピペ印の狩りの拠点。火元に利用しているのは、私が削った氷に金属を流し込んで描いた消えぬ炎の魔法陣。魔力を貯める性質をもつ金属を利用し、魔力を流し込めば少しずつ魔力を消費して燃え続けて煙の心配が要らないのです。本物の火よりも熱量は少ないですが、火の気のある無しは命を左右しますからね。床を這う冷気から逃れるために、少し高い位置の壁を掘り抜いて作った寝床。壁から生やしたテーブルや椅子も氷で出来ています。それらを毛皮で覆って、小さいながらも居心地の良い空間の出来上がりです。
 今、寝床の一つはご利用中。私達が狩りの合間に見つけた、遭難者が横たわっています。
 肩口で揃えたサラサラとした赤い髪、ほんのりと赤みを帯びた小さい鱗が体を覆っています。熱を生み出す程度に調整したギラの魔法陣を織り込んだ布と毛皮で巻き込んだ男性は、一見死んでいるかのように微動だにせず横たわっていました。その肌にも私が回復の魔法陣をびっしりと書き込まれているんです。
 応急処置が間に合いましたが、酷い凍傷でした。身体中の鱗が切り裂かれていて、深い傷は骨に到達しそうでした。失血死しなかったのは、この極寒の冷気で傷口が凍りついたからでしょう。リルチェラさんが治し方に詳しくなかったら、この竜族の男性は両手足と耳が無くなっていたでしょう。
「イーサの村じゃあ、見かけたことのない人ね」
 緑のクリクリとした瞳を瞬かせ、桃色のショートヘアを揺らしながら男の人を覗き込む。竜族の子供のリルチェラさんはそう言って、『知り合いか?』ってルアムさんの質問を否定しました。
 この氷の領界で暮らす竜族は寒さに強い。雪国のポンチョセットを着込んでいる私達と違って、リルチェラさんは普段使いの布の服に軽めの防寒着を着込んでいる程度で平気なんです。この死にかかった男性も、お世辞にも暖かい格好ではありません。どちらかというと、ダズニフさんの服に似た感じでしょう。
「この先の遺跡から来た竜族なのかな?」
 この氷原の東の果てには、大きな輪を立てたような遺跡があります。輪から放たれた赤い光が領界を覆う雲のような物を貫き、熱風が吹き込んできます。ルアムさんが向こう側に飛び込んで行ったら、自慢の尻尾が燃え出したとかで慌てて引き返してきたんですよ。『ハゲリポなんてマジ笑えない』『あれが、ダズ兄の故郷だとしたら洒落にならねーよ』そう、笑い飛ばしていましたっけ。
 わかんない。リルチェラさんは呟いて、昏睡している男性を覗き込みます。
「氷の領界の寒さは大人でも命を落とすんだ。助かると良いね…」
 リルチェラさんは優しいです。私はにこりと微笑んで、横たわる男性の額を撫でました。
 オーグリードの寒冷地は、アストルティアでも屈指の寒さを誇ります。火の神ガズバラン様の加護があるオーガでさえ、命を落とす雪深き世界。しかし氷の領界を経験した私にすれば、ランガーオ村の寒さなど温くすら思います。
 この領界でアストルティアの民が生きることは、出来ないと言って差し支えないでしょう。
 プクリポは自前の毛皮で寒さに強く、私もベビーサタンの特性でか寒さには耐性があるようです。おそらく、ウェディ族は冷凍魚になってしまうでしょうし、人間もエルフもひどい凍傷に苦しむかもしれません。極寒の地に生きるオーガや、夜の砂漠の寒さに慣れたドワーフは耐えられるかもしれません。推測であれ、アストルティアの民が生き抜くには厳しすぎる世界です。
 この領界に流れ着いたのが私とルアムさんであったのは、運が良かったと言えましょう。
 赤い髪の男性が横たわっている。その表現の重なりは、私の中で苦い感情となって吹き出しました。
 私の触れた指先から、薄い紅色の鱗は日に焼けた肌になり長い髪は短くなっていく。空間はランガーオ村の家に変わり、目の前の男性はケネスさんとなって横たわっていました。寒さを凌ぐ為の方法は変わらないのか、氷の領界とオーグリード屈指の寒冷地の内装は良く似ています。
 感染しないと分かって傍で看病できるようになりましたが、一向に良くなりませんでした。毒は命を奪いはしませんでしたが、体の中に留まり続け体力を削っていく。ケネスさんが喫煙すらしないんですから、相当苦しいのでしょう。私達を導いてくれる人が毒に倒れたことは、ラチックさんや私を打ち拉したのです。
 呼吸する度に苦しげな音を響かせるケネスさんは、薄目を開けて私を見る。
『そんな顔をするな。ナドラガンドの毒に耐性がないだけだから』
 ケネスさんは袖を捲り、腕に書き込まれた解毒の魔法陣を見遣りました。
『呪文と違って、一定の効果をずっと発揮する魔法陣の力は大したものだ。お前の魔法陣がなければ、アロルドはもう死んでいただろうな』
 視線を追えば、同じ毒に冒されたアロルドさんが横たわっていました。意識が戻らず昏睡が続き、マイユさんが名前を呼び続ける声よりも肺から響く雑音を響かせる。マイユさんの顔に塗れた悲痛の色は、今の私ではとても表現できそうにありません。
 世界宿屋協会やカミハルムイの博士達が、ナドラガンドが一瞬現れた時に降り注いだ毒を解析しているそうです。アストルティアには無い毒であるなら、解毒方法はナドラガンドにしか無いと言う。
 今、二人を助ける手段が存在しないことを、痛感しています。こんなに手を尽くしても、なんの力になれない。何も好転しない。ただ、無力さを噛み締めているんです。
 アンを攫われ、ケネスさんを救えない。こんな私が勇者の盟友だなんて…。
 私のきつく握り込んだ手を解いて、剣を握る故に歪になった指先が絡む。
『可能性を手繰り、失敗しても方法を変えて実現を目指す意志。それがお前の強みだ』
 赤と碧の瞳が優しく細められた。手を広げられ、指先が私の掌を踊る。
 がんばれ ピペ
 そう書き込んだ言葉を握らせるように、ケネスさんの手が包み込む。
『俺の天使様は死なせちゃくれねぇから、大丈夫だ。行ってこい』
 ソーラリアで私に盟友の可能性を授けてくれた、光り輝く羽と輪を戴く天使様。私はケネスさんの瞳に移ろう碧が彼女の色だと思い出して、握った手を組んで祈る。
 天使様。どうか解毒の方法が見つかるまで、ケネスさんを守ってください。
 私は組んだ手を解いで、横たわる男性を見遣りました。小さく呻く声が聞こえ、うっすらと目が開いたのです。私達が白目と思う部分が金色で、獣のような細い瞳孔が黒く縦長に走っている。もしかしたら、黒目が大きいのかもしれないと思ったりします。
 この日を境に、トビアスと名乗った男性は快方に向かっていきました。

 元々はダズニフさんの為にと作った毛皮のコートは、背格好が似てるトビアスさんに使ってもらうことになりました。ルアムさんの尻尾が即座に燃えた温度の領界に生きる者なら、防寒具という概念自体が存在しないのでしょう。着るだけで冷気を遮断する暖かい衣類の存在に、彼は目を満月のようにして驚いていました。
 寒さのあまりに空気中の水分が凍って輝き、強風が全ての熱を拭い去る輝く嵐。その嵐が凪いだ頃合いを見計らい、私達は南にあるイーサの村を目指し始めました。
「トビアスの兄ちゃん、ごめんなー。ソリなんか引かせちゃってさー」
「気にするな。この寒さに調査の進展が全く見込めない日々が、ようやく終わるのだ。この地を生きる者に邂逅し、生活を営む村に辿り着けるならソリを引くなど容易いことだ」
 どうやら雪国のポンチョのフードを被ったままの私達は、小さいのも相まって竜族の子供に思われているようでした。幼子に狩りの獲物を満載したソリを引かす訳にはいかないと、トビアスさんは率先とソリに結んだ紐を引っ張ります。
 部外者である私達は、トビアスさんがイーサの村に行きたいという申し出を断りたかった。しかし真っ直ぐで真面目な彼が、私達の後を追ってくる様子をありありと描くことができました。背後で寒さに倒れたり、氷の割れ目に落ちて死んでは、寝覚めも悪いでしょう。
 トビアスさんからは、アン達を誘拐し多くの仲間や人々を傷つけたアンテロのような邪悪さを感じませんでした。それでも出会って間もない間柄です。イーサの村に招いて万が一災いを齎すなら、責任持って対処する。そんな覚悟を感じるような神妙さで、ルアムさんはトビアスさんを村へ連れていくことを決めました。
「寒すぎて植物も動物もあまり見かけないな。ここの民は、どのように生き延びているのだ?」
 氷の上を軽快に滑るソリを引きながら、トビアスさんは白い息を吐きます。その息は吐いたそばから凍りつき、輝きながら地面に向かって落ちていく。落ちた地面は分厚い空色の氷で覆われていて、草花も生えず、生き物の影をより黒々と浮立たせます。
 トビアスさんと並んでいたリルチェラさんが、可愛らしい唇を尖らせました。
「イーサの村の人達は『恵みの木』から食べ物をいただくの」
「恵みの木?」
 オウム返しに問い返した言葉に、リルチェラさんが説明し始める。
 氷の領界には数々の遺跡として、広く竜族が暮らしていた形跡が残っています。しかし、氷の領界で竜族が暮らしているのは、イーサの村だけなのです。その理由はただ一つ。『恵みの木』の存在でしょう。
 恵みの木はこの全てが凍りついた氷の領界において、数少ない凍つかぬ植物でした。巨大な幹はグランゼドーラの三対の塔に匹敵するような太さを誇り、肉厚の葉は白夜を隠す程に茂る。その大樹には、大柄な男性でも一抱えはある大きな果実が実るのです。成熟の過程で味や栄養が変化する果実のおかげで、この地に生きる竜族は極端な栄養失調にならずに存続できています。アストルティアにはない大樹でした。
 そんなことを掻い摘んで説明したリルチェラさんは、言葉を続けます。
「でもお肉類は恵みの木からいただけないから、魚を釣ったり、獣を狩ったりしてるの」
「このような厳しい環境で釣りや狩りなど、危険ではないのか?」
 目を丸くしたトビアスさんの驚きは当然でしょう。獲物とすべき生き物はどれも凶悪で、体も動かさず寒風に晒されては凍傷を免れることはできません。しかし、生きる為には避けることはできないのです。
「本当は南の方が食い出のある生き物が多いんだけどさ、今はちょっと行けねーんだ」
 先頭で警戒していたルアムさんは、振り返らずに言います。彼の鮮やかな赤い尻尾がなければ、水色のポンチョは世界に溶け込んでしまいそうです。
「北の氷原は食べられる獲物が多くないから、滅多に狩りに来ないんだ。兄ちゃんやお仲間がイーサの村の狩人と遭遇しなかったのは、そのせいだと思う」
 勿論、南の海辺も魔物は強く危険です。しかし、危険を冒してでも得られるものは多い。
 北の氷原は魅力的な狩り場ではなかった関係で、輝く嵐をやり過ごせるような拠点がありませんでした。私達はまず拠点となる場所を作り、そこを中心として狩りを始めました。トビアスさんが遭難した時に助けられたのは、幸運であったのです。
「滅多に狩りに来ない場所に、敢えて来ている。何か理由があるのか?」
 この方は真面目故に視野が狭いかと思いましたが、そうでもないようです。探るように問うた言葉に、ルアムさんが少しこちらを向いた。引き結んだ口元が解れると、白い息が輝きながら凍りつく。
「もう、理由が見えてくるよ」
 肋骨の盛り上がりに沿うように出来た氷の丘を越えると、イーサの村が見えてきました。水を汲み上げる風車を中心に、切り出した氷をレンガのように積み上げた村です。寒さを避ける為に家同士が連結しており、見た目以上の戸数が寄り集まっています。
 しかしその村よりも、目に留まるのは村の背後に聳え立つ巨大な『恵みの木』でしょう。揺らめく玉虫色に支配された世界において、極彩色と言える鮮烈な緑。まるでその村に覆い被さるように、その枝葉は広く茂っているのです。
「木が…凍っている?」
 木の根元は分厚い氷に覆われ、葉の一枚一枚から滝のような氷柱が伸び地面に到達している。果実が一つも実っていない巨木は、氷に飲み込まれつつあったのです。
 呻くようなトビアスさんの呟きに、リルチェラさんは頷いた。
「数ヶ月くらい前に、凄く強い輝く嵐で凍りついちゃったんだ」
「これでは村人達が、生きては行けないのではないのか?」
 ルアムさんが肯定するように相槌を打つ。
「『恵みの木』が凍りついちゃって、南の海へ続く道も氷に塞がれちゃったんだ。村が蓄えた食糧も、底を付きそうでさ。オイラ達が率先して狩りに出ているんだ」
「それは問題の解決にはなるまい」
 小柄な私達が引くことを想定したソリに乗った狩りの成果を見下ろし、トビアスさんは苦々しく言う。私達だけの食い扶持なら十分な量でしょうが、村人を養うには圧倒的に足りはしない。危険に見合った量ではないそれを、竜族の大人が一人もいない私達がしていることにも言及しているようでした。
「教団に食糧援助の申請をしたとして、どれくらい早く許可が降りる…? 炎の領界も食糧事情は逼迫している。反対者は必ず現れてしまうだろう」
 トビアスさんは金色の目を眇め、顎に手をやって考えをまとめるように呟く。そんなトビアスさんのコートの裾を、ルアムさんがツンツンと引っ張りました。
「そう、急くなって兄ちゃん。なんでも、この村には伝承があるんだ。こんなぜったいぜつめーのきゅーちをドンデン返す、とっておきのネタらしーよ」
 眉間に皺を寄せるトビアスさんに、ルアムさんはニッと笑いかける。
「トビアスの兄ちゃんがすることは、先ず挨拶。どんな舞台も自己紹介しねー奴には、お客さんは見向きもしねーんだぜ?」
 う、うむ。ルアムさんの言葉を、トビアスさんは痞えながらも飲み込みました。良い人ですね。
 まるで神の御業。手を差し伸べるように与えられた大樹を、当然、この凍てつく領界の竜族は大切にしていました。決して収穫し過ぎず『恵みの木』の恩寵が損なわれぬよう、熱心な信仰が捧げられていました。誰もがこの災いを呪い、信じられぬと現実から目を逸らす。解決策を模索する日々は、減り続ける食糧と引き換えに過ぎていくばかりです。
 目の前に広がる凍てついた絶望を覆す希望が、未だ機能していないのは明白です。食料が尽き皆が死ぬ未来を先送りにするには、限度があります。それを我が事のように心配し、解決しようと思いあぐねている。ルアムさんは、やっぱり人を見る目があります。
 この人なら、村を救う為に力を貸してくれると思いました。