永遠の都

 俺とルアムは順調に東へ進んでいた。
 氷の領界の遅々として進まぬ調査の日々を思えば、翼でも生えたかのような進捗具合だ。一日の行程で進める範囲内に存在する拠点を目指しながら、風の強さや俺の体調でその日の行進を決める。輝く嵐に遭遇した時は数日間拠点で足止めされたが、氷の領界を生き抜く術を教えられて充実した時間を過ごした。
 イーサの村は巨大な氷山の一角にあり、氷山は南北を分断するように存在する。東へ向かう道すがら、海があるという南の様子は一切わからなかった。しかし北側の氷原は村の北にある巨大な氷が隆起した断崖絶壁が途切れると、見晴らしの良い光景が広がる。
 コートの上に重ね着た防寒用の外套が強風に煽られ、思わず杖で体を支える。
 氷原は音を立てて割れては、生き物のように身動ぐ。氷達は犇き沈み込み、時には突き放し、静かに蠢きながら遥か彼方まで並んでいた。分厚く圧縮された氷は表面は白いが奥は透き通った青い光を宿し、白夜の光が透かされれば青は七色に変ずる。氷の反射によって白く照らし出された白夜に、悠々と色移ろうオーロラが地に向けて垂れ下がる。輝く風は強い風に吹き払われ、氷の大地と白夜は遥か遠くで地平線となって結ばれていた。
 その氷の中から生き物の骨にしては巨大すぎるものが、天を目指すように突き出ている。
 骨。俺は口の中でその単語を転がした。炎の領界はナドラガ様の首が祠に祀り上げられているが、氷の領界は骨なのだろう。邪悪なる意志との戦いで、ナドラガ様の御身諸共にナドラガンドは分断されたという。全ての領界が解放された時、分断された御身は繋がり、ナドラガ様はナドラガンドに降臨し我ら竜族をお救いになる。
 どんな御姿なのだろう? 目の前の骨の通りに、見上げるほどに巨大なのだろうか? それとも、我ら竜族と変わらぬ御姿なのだろうか?
 ふと、不安が込み上げる。
 生き物は四肢を切り裂かれれば、死ぬ。邪悪なる意志に敗れ去り、伝承によって蘇るそれは、本当にナドラガ様であるのだろうか?
 氷原はいくつもの巨大な氷の陸地で構成されている。巨大な背骨がその陸地同士を橋のように繋いでいたが、巨大な闇が覗く割れ目からは体温を瞬く間に奪う極寒の風が噴き上げる。強風に煽られて闇に吸い込まれれば、二度と戻ってくることはできぬだろう。ルアムは背骨で陸地を跨ぐ時は、命綱を渡し、丸一日を掛けて渡った。
 骨の橋を二つ渡った頃から、目に見えて風景が変わった。
 氷の上に壊れているが人工物が増え始めたのだ。家の基礎らしい四角く配置された石。アーチであろう崩れて欠けた柱。綺麗に形を整えた岩を積み上げた壁が残っているものもあった。地面の氷の下には舗装された道が透けて見える。
 ルアムが足を止める。氷の領界に溶けてしまいそうな水色のポンチョから覗く、目印の赤が動いた。
「あれがアヴィーロ遺跡だ」
 それは氷原を一望できるだろう丘の上に広がる、巨大な遺跡だった。巨大な滑車らしいシルエットが見え、闇に向かって太い縄のようなものが垂れ下がっている。人が通る道の下に、二本の鉄が並んで敷かれた道が縦横無尽に走っている。近づく間一度も消えることのないオーロラによって、かつての栄華は白く照らし出されている。
 頑丈な石を積み上げて作られた堅牢な都市には、破壊の傷跡が生々しく残っている。魔物の襲撃で滅んだ集落を彷彿とさせるような、爪痕や壁が破壊された跡が至る所にあるのだ。場所によってはステンドグラスが形を留めており、爆発や地殻変動ではなく魔物の襲撃によって滅んだことが窺えた。
「気をつけて行くぜ。この遺跡は、なんでか知らないけど凄く魔物が集まってくるんだ」
 俺の予想を肯定するように、ルアムは緊張した面持ちで遺跡に足を踏み込んだ。
「じょーちゃんが言うには、魔力を含んだ鉱石がこの都市のあちこちに残されてる。その鉱石は晒した属性に変化する特質があって、その鉱石を採掘するために発展したんじゃねーのかって話だ」
 なるほど、氷の領界の無味乾燥とした空気にしては、随分と濃厚な魔力の気配がするのはその為か。
 ルアムが建物の影に身を潜め、俺達もそれに習う。理由は俺にもすぐわかった。
 遺跡の天井は崩落し、ステンドグラスを通った色が石畳を舐める元広間。そこには巨大な鉱石の原石が鎮座していた。聖都エジャルナの大門を通過出来まいと思う、大きな一つの塊だ。その色は優雅に頭上を彩るオーロラと同じ、様々な色彩が移ろう美しさ。
 極光の魔鉱石と表現するならば、これ以上のものは存在しないだろう原石だった。
 叶うならずっと見惚れていたい美しさだったが、気を引き締めて手前に焦点を合わす。
 淡く色彩を移ろう光の前を、黒々と塗りつぶされた影が右往左往している。種類はバラバラで、かなり多くの魔物の姿がある。縄張りを争う至近距離、弱肉強食の摂理が発生する触れ合うような接近。天敵と呼べる組み合わせが擦れ違っても、反応がない。しかし、魔物達は何の諍いもなく石の周りを徘徊しているだけだ。
 魔物の様子を訝しんだ俺に、ルアムが説明する。
「あの極光の魔鉱石周辺が一番魔物が集まってんだ。気づかれたら、あの場の魔物が一斉に襲いかかってくる」
 ルアムがピペとリルチェラを連れて来なかった脅威の一つを、ミトンが差し示す。
「特に危険なのは、氷の領界最凶の魔獣イーギュアだ。必ず群れで行動するから、戦おうと思っちゃいけない」
 白銀の毛皮に覆われ、薄い青を帯びた立て髪を持つ巨大な魔獣だ。その口元が大きく裂けて鋭い牙が並ぶ顔の横に、筋肉で盛り上がった腕が左右2本づつ。どっしりとした四肢が巨躯を支え、獰猛を体現するための礎になっている。今は魔鉱石に気が向いているが、全身の鱗が浮くのを抑えられない。
 作戦は最も近い拠点に来た時に、既に話し合っていた。先制で最も身の軽いルアムが極光の魔鉱石に取り付き、必中拳にて魔鉱石を採取する。そうして即離脱するのだが、魔鉱石に接近した時点で魔物達には気取られてしまうだろう。その為にルアムが撤退する隙を作るのが、俺の役目になる。互いの力量は氷の領界を共に渡ってる間に把握した。
 両手に装着した爪のベルトを、さらにもう一段階きつく締めながらルアムは大きく息を吸う。にっと、ルアムが笑みを深くした。俺に不安を一切感じさせない、幼さとは無縁の一流の戦士の気概を垣間見る。
 ショータイムだぜ。そう、ルアムが自信に満ちた声で宣言した。
 ルアムの周囲でふわりと空気が動く。次の瞬間突風にまで練り上げられた風の力は、瞬く間に小さい体を極光の魔鉱石の真上に飛ばす。爪が闘気に閃光を放った次の瞬間、魔鉱石の大岩が甲高い音を立てた。空中に停滞したルアムの周囲を、大岩と爪がぶつかり合って砕けた破片が舞い上がる。
 魔物達の視線が集まり、咆哮が轟き、殺意が集中する。それらにウインクを返したルアムは、魔鉱石に足を掛け破片へ視線を投げる。そして魔鉱石の大岩を蹴ると、破片の中で最も大きい石を手にした。
 俺は隠れていた物陰から飛び出し、ルアムに集中していた魔物達の背後を取る。
 冷たい息を肺の奥まで吸い込む。体が内側から冷え切り胸が痛むのを堪え、俺は腹の底から声を張り上げた。
「ヒャダルコ!」
 流石は氷の領界。炎の領界では反映すらできなかった呪文は、ルアムの着地点を中心に瞬く間に巨大に展開した。氷は無数の鋭い牙を並べた無数の竜の顎となって、周囲の魔物達に向かって牙を剥く。氷の牙は瞬く間に魔物達の赤に濡れ、その体に噛み付いて離さない。
 ルアムと魔物達の間生まれた氷の竜の壁は、確かな隙と中央に降り立った者に安全をもたらした。小柄な体にはやや大き過ぎると思う足は地面に付き、靴に固定した金属の爪が蹴る力を氷を伝える。次の瞬間にはルアムの小さい体は俺に飛び込んでくる。
 はずだった。
 ルアムが薄く氷が張った石畳の上に降り立つ、ほんの一瞬前、ぴしりと小さく音が響く。小柄な体にはやや大きすぎると思う足が接地した瞬間、魔鉱石の前にいた全てを巻き込んで床が崩落した!
 まるで遺跡そのものが崩れ落ちるような轟音と衝撃が、俺を足元から掬う。杖を頼りに何とか転倒を堪えると、俺は目の前に開いた大穴を覗き込んだ。
「ルアム! 無事か!」
 崩落した穴は真っ暗で、嗅いだことのない悪臭が落下して舞い込んだ空気と掻き混ぜられて舞い上がって来た。ぱらぱらと瓦礫が落ちる音、闇の中から魔物達が呻く声が聞こえてくる。口元を腕で覆って目を凝らす俺の声に、返ってくるのは激しい咳き込む音だ。
 光が煌めくと、オーロラの輝きを宿す石が闇から飛び出してくる。甲高い音を立てて少し離れた床の上に落ちたのは、ルアムが採取した極光の魔鉱石だった。なぜ、ルアムは上がってこない。胸騒ぎに鼓動が早鐘を打つようだ。
 ルアムの身軽さなら、一瞬であれ空を飛ぶような真似事が出来る。そんなルアムが持って行けと言わんばかりに、極光の魔鉱石を投げ渡して来た。魔物に押し潰されてしまって身動きが取れないのか?
 俺が飛び降りようと身を乗り出すと、ルアムの声がようやく返って来た。苦しげな肺の奥から込み上げる咳の合間に、血反吐を吐くような声が飛び出してくる。
「来ちゃ、ダメだ! こんな、魔瘴、じゃ、助からねーよ!」
 魔瘴? 何のことだ?
 最初は闇に目が慣れなかったのかと思ったが、穴の中は真っ黒い水に浸されたように闇が支配している。悪臭は吸い込む度に、胸が軋むほどの息苦しさをもたらす。毒の霧か何かなのだろうか。
 解放者を助けるべく先遣隊としての使命を考えるならば、ルアムを見捨て極光の魔鉱石を持って行くべきだろう。ルアムもそう願うように魔鉱石を投げ渡して来た。俺に生きろと、見捨てろと、苦しい中で叫ぶ。
 目の前に突きつけられた選択に、食いしばった歯の音が脳髄を突いた。
 氷原で命を救われ、短い期間であれ命の危険が伴う世界を共に渡り歩いた。朗らかな笑みを浮かべ、先を歩く姿は小さいながらに頼もしかった。イーサ村の長が曰く凶悪な魔獣の出るアヴィーロ遺跡に行くという俺に、案内どころか最も危険な採取を買って出た勇敢さ。
 そんな彼を見捨てる。まだ生きている彼に背を向け、死体になってしまうことに目を瞑れというのか?
 それは、俺が、俺こそが許さない。
 俺はナドラガ神に仕える神官として民の模範となり、誇れる竜族としてありたいのだ。こんな幼子一人の犠牲の上に、民を導く神官として立とうなどとは片腹痛いわ!
 大きく息を吸い込み肺の隅々まで冷え切った空気を満たす。次の瞬間息を止め、石畳を蹴って穴の中を満たしていた闇の中に飛び込んだ!
 白夜に照らされ凍った空気が散らつく視界は、瞬き一つの内に指先すら溶かす黒に塗りつぶされる。黒に包まれた瞬間、全身の鱗が逆立つほどの言い様のない不快感が全身を駆け巡った。不快感は強烈な吐き気を伴ったが、着地した感覚は不快感から意識を逸らしてくれた。
 飛び降りた石畳から着地した場所まで、少し高い天井を備えた2つ下の階程度の距離だろう。白夜の光は届かず、見上げる先に光はなく、周囲は滑る闇に浸されている。肌に纏わり付く呪いの様で、この闇はただの闇ではない。邪悪で悪意に満ち、殺意が込められている。息を止めていても長時間晒されるのは命に関わるだろう。
 瓦礫と魔物達の体の一部を踏みつけ、慎重にルアムが落ちただろう穴の中央へ目を凝らす。俺のヒャダルコによって致命傷を受け落下の衝撃に動けない魔物、動けない魔物や瓦礫の下敷きになった魔物。しかしそればかりではないだろう。俺は即座に反応できるように杖を構えながら、周囲を警戒する。
 闇の中に小さい砂粒のような光が見えた。目を凝らし近づけは、見慣れた輪郭を浮かび上がらせている。極光の魔鉱石を砕き、その微粉をくっつけたルアムの柔らかい毛皮のポンチョの裾だった。それがひらりと宙を舞う。鋭いナイフの様な軌跡が、光る裾を掠った。
「ルアム!」
「兄ちゃん。くる、な、って言った、じゃん!」
 竜の牙と変わらぬ大きさのヒャドを放ち、光に駆け寄る。信じられないとばかりに目を見開いた顔が、闇に慣れた視界の中から浮かび上がる。そして視線を向けた先を追って、体が一気に冷えて行く。
 俺とルアムを白銀の魔獣が見下ろしている。爛々と光る双眸は紫の光を帯び、殺意に満ちた咆哮が屠れる命が増えたと喜びを顕にする。白銀の魔獣は3方から俺達を取り囲んでいる。
「イーギュア、だ! あの、程度じゃ、死な、ない!」
 戦うな。ルアムの言葉が脳裏を掠めた。この闇の中、崩落が巻き込んだ様々が折り重なる不安定な足場、戦いの場にするには圧倒的に不利な条件しかない。
 俺は領界の冷気によって増大したヒャダルコの呪文を放つと、俺達と魔獣の間に広い竜の背が立ちはだかった。防壁代わりになればと展開した呪文だったが、イーギュア達はまるで真綿を千切るように氷の竜の背を爪で砕いて行く。
 止めていた息が限界を迎えて黒い空間の空気を吸い込んだが、明らかに毒と言えそうな空気だ。俺は激しく咳き込み、肺が喘鳴を響かせる音を聞く。
「考え、なしに、来たのか、よ! 一緒に、死んじゃう、じゃん! ばか!」
 だからって、生きている者を死地に置き去りにできるか!
 氷の砕ける音がまだ止まらぬうちに、さらに氷の呪文を足下に放つ。甲高い音を立てて氷の竜が頭上を目掛けて背伸びをする。魔力を込めて竜の首を胴体を、氷で作って行く。その竜の肩に足掛けている俺達は、さっきまで守ってくれていた竜の背中が完全に壊されるのを見た。イーギュア達は俺達を肩に乗せ、大きくなって行く竜に爪を振り下ろした! 氷の領界の極寒の気候で素早く構築できたはずの氷の竜だが、それ以上の速さで三体の魔獣に破壊されて行く。俺達を乗せた竜が大きく傾いだ。
 ひっ。ルアムが息を呑んだ声と、吸い上げられるような空気の動きを感じたのは同時だった。
 ルアムが魔瘴と呼ぶ黒い空気が、上空に巻き上げあられる。まさに黒の端を掴んで引っ張り上げるように、黒い空気は筋状になって崩落した穴に向かっていくのだ。崩落した遺跡の無残な姿と崩落に巻き込まれた魔物達の亡骸と、俺達を殺さんとするイーギュア達の姿を白夜の光が照らす。視界が晴れて行くのと同時に、息苦しさも消失した。
 俺は息苦しさに集中力が分散してしまった氷の構築に、改めて意識を集中させた。黒い霧が瞬く間に晴れて行く状況に一瞬でも気を取られたイーギュア達を、勢いよく広げた氷の翼で薙ぎ払う。足が地面を踏み締め尾が生まれると、二体まとめて叩きつけて動きを封じ込める。
 ルアムも息苦しさから解放されたのか、ヒャドの呪文を響かせる。崩れていない床に氷の双葉が芽吹くと、瞬く間に蔓を伸ばし蕾をつけ大輪の花を咲かす。手の届く位置にまで垂れ下がってくると、ルアムは氷の蔓に飛びついた。
 竜が傾ぐ。残ったイーギュアが氷の竜に体当たりをし、その鋭い腕で薙ぎ倒そうとしているのだ。流石氷の領界最凶と呼ばれるだけあり、太い竜の足でさえ一撃で粉砕して行く。
「兄ちゃん! 急いで!」
 ルアムが登り切ったのを見上げ、俺は倒れゆく竜を蹴って蔦を掴もうと手を伸ばす。ルアムが呪文を制御したのか、掴んだ時には蔦は足掛けやすい長さにまで伸びていた。氷の竜が転倒し、尾の下敷きになっていた二体のイーギュアにトドメとなって降り注いだ。断末魔の叫びから逃げるように俺は蔦を登る。
 安全な場所に四つん這いになって辿り着くと、大きく息を吐く。ルアムを見捨てないで済んだこと、互いに無事であったことが、言い様のない安堵になって体から力が抜ける。
 しかし、一体なぜ、黒い空気が動いたのだろう? 何気なく穴を振り返ると、細い筋になって残りわずかとなった黒い空気が吸い上げられていた。流れる先に視線を向けると、上空に、それは浮いていた。
「なんだ? あれは…」
 白い、生き物が浮いている。頭に翼と尻尾のようなものが付いており、真っ赤な大きな瞳の下で窄めた口が黒い空気を吸い上げている。攻撃的な部位はなく、白と桃色の紋様のような模様が神聖な雰囲気を醸す。強いて言えばドラゴスライムに似た形をしていた。白い生き物は黒い空気を吸い上げると、可愛いらしい鳴き声を一つ上げ、遺跡の外へ羽ばたいて行ってしまった。
 それを並んで呆然と見送ったルアムは、ようやく『わかんない』と呟いた。
「魔瘴を食っちゃう生き物なんて、聞いたことねーよ」
 ルアムは転がっていた極光の魔鉱石を拾い上げた。手の平くらいの大きさの魔鉱石が割れていないか確認して、腰のポーチから出した皮に丁寧に包んでからしまう。魔物達が再び集まる前に退散しようと、先を歩き出した。
「魔瘴とは何だ?」
 俺の問いに赤い瞳が瞬いた。小さく唸って、言葉を選ぶように話し始める。
「あの黒い霧みたいなものを、オイラ達は魔瘴って呼んでる。最悪死ぬこともある、毒を含んだ空気みたいなもんだ。でも魔物は平気で凶暴化する。どこから湧いてくるのか、どうすれば消し去れるのか、全然わからない」
 ルアムの険しい顔は魔瘴の厄介さを物語る。
「氷の領界はかなり探索したつもりだけど、魔瘴が湧く場所に遭遇したのは初めてだ」
 このアヴィーロに来るまでに利用した拠点は、ピペを中心にして新たに作ったものばかりだ。ルアム達はこの氷の領界を最も知っていると断言して過言ではない。それで初めて遭遇したのなら、頻繁に起こる現象ではないだろう。
 実際に初めて見たし、遭遇した同胞もいない。伝承の類では聞き及んだことのない魔瘴という現象。教団の神官達にも共有すべきことだな。
 幸い生き残ったイーギュアに出会すことなく、互いに口数少なく遺跡の出口を目指す。ふと、先導をしていたルアムが足を止めた。俺はその理由に思わず息を呑み、ルアムを追い抜いた。
 遺跡へ向かう道の上に竜族の子供が倒れている。腰まで伸びた赤小豆の実の色のまっすぐな髪に、リルチェラより少し年上の印象の女の子だ。氷の領界の住人ですら寒々しく感じるだろう、肩口が開きレースをふんだんに用いた白いワンピースのドレス。装飾品はやや古風な雰囲気がした。体に外傷はないが気を失っている。
 俺はコートの上に羽織った防寒用の外套を外すと、少女を包み込む。このまま拠点に連れて行こうと抱き上げると、眉根が寄る。小さく唸ると、ゆっくりと瞼が上がった。紅玉を彷彿とさせる真っ赤で美しい瞳が覗く。
 ぼんやりと焦点が合っていない瞳が何気なく向けられていたが、次第に表情がしっかりしてくる。
「大丈夫か?」
 俺がそう訊ねると、紅玉の双眸が飛び出しそうなほどに見開かれる。愛らしい口元が開き、清楚な見た目にしては威勢の良い声が迸った。マントの中から抜け出した細い手が、首にかけられ抱きついてくる!
「父ちゃん…!」
 と!
 とうちゃん!
 それは彼女の父親に向けられるべき呼称であるのだろう。待て、彼女が父親と勘違いできそうな異性は俺しかいない。ルアムも男ではあるが、少女よりも明らかに小さく年下のはずだ。いやいやいや、そうじゃない。俺は…俺は、未婚だ! 子供などいない!
「え! その子、トビアスの兄ちゃんの子供なの? お父さん追いかけて、ここまで来ちゃったってかー」
 足元から見上げてきたルアムが、驚きながらも納得した様子で言う。俺は少女を抱えながら、大声で反論した。
「違う! 相手もいないのに、子供を授かれるものか!」
「父ちゃん、こんな可愛い娘を忘れるだなんて! 酷い! 竜でなし!」
 うるうると赤い目を潤ませてはいるが、完全に演技だとわかる。流石にルアムも察したらしく、呆れた顔で少女と俺を交互に見遣っている。
「とりあえず、置き去りはかわいそーだし、連れてこーぜ」
 首から手が離され『やったー!』と天を突く。元気いっぱいで抱き抱えるのすら一苦労の少女に四苦八苦しながら、俺はどうにかルアムの後について行く。ピペやリルチェラと合流するまでには、この少女に父ではないと言い含めなくてはと思ったが無駄な気がして胃が痛む。今後のことを考えると、気が重くて頭が地面に落ちてしまいそうだった。
 氷の領界の数々の出会い。
 これが後の俺に大きな影響を齎すなど、この時の俺は予想だにしていなかった。