奇跡の軌跡

 あんまり、良く覚えてないんだよなぁ。
 あ、嘘だと思っただろ? 疑り深いと禿げちまうぞ。
 確かに父ちゃんやルアムやピペやリルチェラとお話しても、意味が伝わるし言ってる言葉も理解できる。食べ物の食べ方とか、服を着るとか、魔物はおっかない生き物だとか、生きる為に必要なことは覚えてる。
 でもな、あたしの名前も、あたしが知ってるはずの誰かも、あたしが住んでいた場所も、あたしがしなきゃいけないことも、何も覚えてない。真っ暗な中に自分だけが立たされてる感じ。どこにいけば良いのか、どうすれば良いのか、全然分からないんだ。でも何かしなきゃいけないことがあって、それはとても大事なことで、無我夢中で真っ暗な中を駆けずり回ってた。頭がぼんやりして何してるかわかんなかったけど、何かしてた。その何かがとても大事なことだってのは、何となく分かってたんだ。
 時々、どんなに頑張っても体が動かないことがあった。そんで、動けるようになったら、しなきゃいけないことをする為に動くんだ。何をしているか自分でも良く分からない。だって、周りは真っ暗なんだもん。見えてるのかもしれない。聞こえてるのかもしれない。でも、あたしは何も分からないんだ。ぼんやりしてて、思い返すと真っ黒に塗りつぶされてる。結局、良く覚えてないってなっちゃうんだ。
 だからさ、ビックリしたんだ。誰かが、あたしを抱き上げたんだ。凄くあったかくって、耳にとくとくって落ち着くような音がしてさ、優しく包み込んでくれるんだ。
 ほら、あたしは生きる為に必要なことは覚えてるから、これはおっかなくない、いいものだってのは分かったんだ。凄く安心して、あったかくて、優しくて、凄く懐かしかった。何も覚えてないあたしだったけれど、やらなきゃいけない何かと、これに縋りたい気持ちで、体が引き裂かれて泣きたくなるくらいだった。
 なんだろう。誰だろう。知っている。誰かだった。あたしが忘れている何かのひとつだった。
 ぼんやりが晴れて、暗闇からあたしを抱き上げたそれが浮かび上がった。心配そうにあたしを見る金色の一対の瞳。淡紅の鱗が光の中で朝焼けのように光っていて、真っ赤な髪が炎のように鮮やかだった。瞳以外は全然違う、知らない誰か。でも心配する眼差しを、視線が交わったから広がる安らぎを、支える腕から伝わる暖かさを、指先にまで行き渡った優しさを、あたしは知っている。
 閃光のように、知らない誰かと知っている誰かが結びついた。
「父ちゃん…!」
 そうだ、父ちゃんだ! この感じ、父ちゃんだ!
 父ちゃんに抱きついた瞬間、世界がぱっと明るくなった。ぎゅっと迫る身を切るような寒さ。父ちゃんが包んでくれる暖かさ。明るい空の下から垂れ下がる七色のオーロラ。ボロボロになった大きな廃墟。足元に近づいてくる、赤い瞳のプクリポ。
 あたし、ルビーの記憶はこの瞬間から始まったんだ。

 ■ □ ■ □

 父ちゃんは竜族の皆の為に頑張ってる。今はカチンコチンに凍りついた『恵みの木』を復活させて、氷の領界に住む全ての生き物が飢え死なないように走り回ってんだって。あたしと出会った時は、極光の魔鉱石を手に入れる為に危険なアヴィーロ遺跡にやってきたんだってさ。弱い村人の代わりに、危険を顧みねぇ父ちゃんマジ勇者。カッコイイけど、命を大事にして欲しい。
 村長のおっちゃんが氷の上に身投げして額押し付けて感謝してたんだから、父ちゃんって本当に凄いんだな。
 父ちゃんやルアムの活躍で、これから恵みの儀ってのが行われるんだって。
 今は『恵みの木』に一番近づける場所に向かって、緑の者って奴を載せた神輿が静々と進んでいく。造花や収穫した果実を模した物で飾り付けられた神輿は、食べ物をめいいっぱい積んだ荷車のようだった。神輿の後をイーサの村の人達が『恵みの木』を讃える歌を歌い、魔物避けの鈴を響かせて続いた。
 村人達は『恵みの木』が蘇る期待に踊るような足取りで、事情が良く分からない子供達も上機嫌な大人達にウキウキする。そんな様子を遠巻きに見ながら、あたし達は殿を努めるように最後尾をのろのろと進んでいた。
「なぁ、リルチェラ。本当に自分のために、お願い事を使わなくて良かったのか?」
 極光の魔鉱石を譲っていただけるなら、何でもいたします。そう氷に鱗が張り付いて剥がれちゃって、額から血が流れて痛々しい村長を思い出しながら、隣を歩くリルチェラに話しかける。
「うん! 恵みの儀式が成功したら、緑の者のダストン様を自由にしてもらうの! ダストン様はあたしに助けてくれって言ったけど、あたしは弱いからそれはできなかった。でも、お願いして叶うなら願うしかないじゃん!」
 イーサの村の人達はリルチェラに優しくない。ルアム達から聞いてるだけじゃなくて、こうして恵みの儀式へ向かう為に一緒にいる間に向ける目がとても冷たいんだ。あたしだった、こんな奴ら見捨てちまえって言っちゃう。
 満面の笑顔のリルチェラに、滅茶苦茶良い子だよなって思う。思わず結婚しよう!って告白しちゃうよ。でも、いきなり告白じゃビックリさせちまうよな。
 そうだ! 良いこと思いついた!
 あたしはリルチェラの前に飛び出して、綺麗な緑の目をまっすぐに見た。
「じゃあさ、リルチェラ! あたしと一緒に父ちゃんの子供になろうぜ!」
 父ちゃんは竜の神様にお仕えする神官で、親のいない子供を保護するのもお仕事なんだって。あたしも一応保護って形で、父ちゃんと一緒に行けるんだってさ。リルチェラだって父ちゃん母ちゃん居ないんだもん。条件としては申し分ないっしょ!
 実は父ちゃんも似たようなこと言ってたんだ。やっぱり、あたし達、通じちゃってる親子なんだよ。
 ふふん、さいっこうの提案だよな! 我ながら賢過ぎて怖いくらいだぜ! やっぱりあたしが姉ちゃんだよな。によによと口元が締まりなく緩むのを威厳たっぷりに引き結びながら、リルチェラの『そうだね!』って返事を待ってる。
 でも待ってて来たのは頭の上にぱかんって良い音立てて、落ちて来た衝撃だ! びっくりして振り返ると、腕を組んで眉間の皺がふかーく刻まれた父ちゃんが立っている。
「こら! ルビー! 勝手に俺の子供を増やすんじゃない!」
「いーじゃん! 一人も二人も変わんねーだろ?」
 ったく、素直じゃねーんだから! あたしが逃げ出すと、父ちゃんも『こら! 危ないから走るんじゃない!』って追いかけてくる。もー、ここが魔物達が徘徊する氷原だって、ちゃーんと分かってるってーの!
 葉と地面を繋げる氷柱を避けながら進んでいた行列が前から詰まり出して、ついに最後尾まで伝わってきた。あたし達は詰まって広がった人集りが見つめる先を、後ろから覗き込む。神輿の前に立った村長が、いっぱいの視線を受け止めて頷くと勿体振ったように両腕を広げた。
「これより、恵みの儀を執り行う!」
 ダストン様が極光の魔鉱石を持って、凍りついた『恵みの木』に向かい合う。
 緑の太い指がガッチリと掴んだ極光の魔鉱石からは、煙のようにオーロラが立ち上り空を七色の光で彩った。
 物知りなリルチェラは、あたしとピペに氷の領界に伝わる御伽噺を聞かせてくれる。
 極光の魔鉱石は氷の領界に暮らす竜族の御伽噺の舞台、アヴィーロに存在した魔石のひとつだ。拾った魔石に導かれ、神居ナドラグラムの警護長に出世した貧しい子供の話。小さな魔石から始まった物々交換の果てに、大きな城を手にした商人の話。魔石の研究をする個性的な魔法使いの物語は、何種類もある。研究で迷惑を振り撒くドジな魔法使い。研究の成果で都市を守る偉大な守護者。癒しの魔石を生み出して多くの命を救った救世主。
 その数々の魔石の頂点にあるのが、極光の魔鉱石なんだって。
 確かに、お祈りしたらご利益ありそうな凄そうな石だな。ゴツゴツした石を掲げぎゅっと握り締め、リルチェラがダストン様と慕う緑色の肌のドワーフが祈り出した。イーサの村の人達も次々に膝を折り、このまま枯れたなら共倒れの運命にある木の復活を一心不乱に祈る。
 リルチェラは隣で手を組んで祈り出したけれど、父ちゃん達は周囲に視線を向けている。きっと魔物が襲って来たら、村人達を守るつもりなんだろう。
 あたしは凍りついた『恵みの木』を見上げた。太い幹が空に向かって伸びて、わって上から覆いかぶさるように沢山の葉が茂る。凍っているけれど、知らない木だった。でも、その木の内にある力は悪い感じじゃなくって、むしろ華々しくて気持ちを明るくしてくれる。
 何も起きない。そう皆が思って瞑った目を薄く開けて、隣が祈ってるか確認し始めた頃。地面が小さく揺れ出して、ぱらぱらと細かい氷の欠片が降って来た。
「祈りが届いたのか?」「『恵みの木』が復活なさるのか?」
 村の大人達が喜びの声を上げる中、あたしは込み上げる不吉な気配に胸を掴んだ。木の下から、嫌な感じがする何かが這い出そうとしている。父ちゃんのコートの裾をぎゅっと掴むと、父ちゃんがあたしの手を優しく握ってから前に出る。
 大きな、誰かを守る為に前に出た背中。その背中の向こうから、真っ黒い蔓が伸び上がった! 真っ黒い蔓は葉っぱが茂る枝まで伸び上がり、鞭を振るうように氷柱を薙ぎ倒していく。降り注ぐ氷柱は、剥き出しの大剣の雨のように地面に降り注ぐ! 柱のような太い氷柱が横倒しなって、地面が大きく揺れた! 喉が裂けそうな悲鳴が、転んで氷に鱗が剥がれた激痛に上がる叫びが、何事かと驚いた声が次々と迸った。
「大根役者め! 自分が開けた幕すら閉じられねーなら、チケット代返せっつーの!」
 飛び出したルアムとすれ違うように、打ち据えるように蔓が向かってくる。あまりの速さに顔を打たれると思った瞬間、光の壁に阻まれて弾き返された。父ちゃんの足元にピペがいて、氷に突き立てた短剣から円を描くように光が湧き上がっている。氷に刻まれた魔法陣が、蔓の攻撃を全部弾き返している。
 攻撃を防いでいるのを確認して、父ちゃんはピペを見下ろした。
「ピペ。村人達をまずここへ避難させるから、魔法陣の維持を。リルチェラ、ルビー。村の狩人が下がって来たら、彼らに村人と共に村へ逃げるように指示を出せ」
 こくりと頷いたピペに託すように、父ちゃんもルアムを追って村人達の混乱に突撃していく。
 次々に逃げてくる村人達で元気な奴はそのままピペの魔法陣を素通りして、村まで走っていってしまう。そんな元気のない奴らは、誰かに支えられながら這うように逃れて来た。ピペの魔法陣の中が安全だとわかると、力尽きたようにへたり込む。もう10人以上の村人が魔法陣の中に集まっていた。
 リルチェラは集まった村人達の中に、狩人がいないか探しに行ってしまった。
「何なんだ! 恵みの儀は失敗なのか?」「我々は『恵みの木』を怒らせてしまったのか?」「痛い、痛いよ」
 戸惑う声や痛みで泣く声が、全部恐れ慄く悲鳴に変わる。蔓は絡み合い巨人の手のようになって魔法陣に振り下ろされる! ぴしりと光に亀裂が走る。再び振り下ろそうと振り上げた手に向かって、ピペが作った氷細工が投げ放たれる。拳とぶつかった瞬間に爆風が発生して蔓がバラバラに吹き飛んだ!
「すげーな! ピペ!」
 ぺろりと舌を出して笑ったが、その舌が凍りつきそうだったので慌てて口の中にしまう。
 喜んだのも束の間、村人達が悲鳴を上げた。蔓がミチミチと音を立てて絡まり、まるで山みたいな巨人の上半身になる。蔓が束ねられ凄まじい強度になった太い両腕が氷柱を薙ぎ払うと、鼓膜を破りそうな轟音を響かせ砕かれ飛び散る。魔法陣にまるで柱のような氷柱が次々と突き刺さり、勢いは失ったが貫通して中にまで入ってくる。
 こんな氷柱の嵐の中じゃ、村へ逃すなんて無理じゃないか?
 ピペは事前に刻んでいた未完成の魔法陣に、最後のひと刻みと短剣を突き刺し新しく魔法陣を発動させた。
 暴れ回る蔓の巨人は、だんだん攻撃が激しくなってくる。砕けた氷が舞い上がって砂煙のように見える激しさの中で、父ちゃんの攻撃魔法だろう閃光が爆ぜる。あんなデカい奴、どうやって倒せば良いんだ?
「あぎゃぎゃ! なんなんですか!」
 蔓の巨人の手から、オーロラの光が溢れている。極光の魔鉱石の光だ。あの石を持っていたのは確か…
「ダストン様!」
 リルチェラが声を上げ魔法陣から飛び出そうとするのを、あたしは咄嗟に背中に抱きついて留めた。蔓の巨人が黒々とした腕を振り回して暴れ回って、砕けた氷柱だけじゃなく、揺さぶられた木からも鋭く尖った氷が剥がれ落ちてくる。何も考えも力もないあたし達が飛び込んで、助けられる訳ないだろ!
 ばっと緑の光が溢れて、力が抜けていく。これが、リルチェラの言ってた変な力ってやつか!
「危ないよ! リルチェラ、死んじゃうって!」
「嫌だ! ダストン様が死んじゃう! 助けなきゃ!」
 リルチェラは、あたしの腕を振り解こうとばたばたと暴れる。
「ダストン様はあたしを救ってくれたんだ! 変な力を怖がらないで、ポンコツって良く分からないけど、あたしのこと大事だって言ってくれて、笑って、触ってくれて、嬉しいこといっぱいしてくれたんだ! そんなダストン様を、あたしは、どうしても助けたいの!」
 ボロボロと泣いて、涙が凍って鱗を傷つけて剥がれ落ちる。赤い血がリルチェラが顔を振ると顔に掛かった。がむしゃらな力に、あたしの力はもうすっからかんだ。全然力が入らなくって、腕が振り解かれちゃう。目の前の暴力の嵐みたいなのに突っ込んだら、リルチェラは間違いなく死んじゃうよ。だめだよ。死んじゃだめだって!
 置いて行かれて、迎えに来てくれないなんて、もう、二度と嫌だ!
 さっと足元を小さい影が駆け抜けて、リルチェラの前に回った。ピペだ。小さいピペはミトンを外すと、素手でリルチェラの頬を力一杯挟み込んだ。強い緑の光がリルチェラに触れたピペの手から溢れる。
「ピ、ピペちゃん…!」
 ぎゅっとピペが顔を寄せ、リルチェラの顔を覗き込む。ふるふるとピペの体が震え出したけれど、手はリルチェラの頬から離さない。ついに尻餅をついたピペを見て、リルチェラは力尽きたあたしにも気がついてくれた。ぐったりと座り込んだあたし達の前に、リルチェラは涙目でへたり込む。
「二人とも、ごめん! あたしにいっぱい触れたら危ないって知ってるのに、どうして!」
「リルチェラが死んじゃうかも知れない方が、元気がなくなるよりも嫌なんだもん」
 それに元気がなくなったって言っても、意外に早く回復してくれるんだな。さっきは生まれたての竜の赤ちゃんみたいにへにょへにょだったけど、もう体を起こせるくらいになって来たぞ。
 巨人が地面を叩きつけると、氷の地面が大きく波打った。大きな亀裂が走って、ピペが氷に刻んだ魔法陣にヒビを入れる。光が消えて、守っていた力が霧散していく。
 ピペは目を尖らすと、カバンの中から爆風を起こす氷細工を取り出した。四角い透かし彫りの板を箱みたいに組み合わせた中に、模様が刻まれた氷の玉が入っている。それを両手に一つずつしっかり握らせたのを確認して、ピペは素早く起き上がって、あたし達の背中に回り込んだ。背中をぎゅっと、巨人の方へ押し出す。
 行けって言ってるんだ。この武器を持って、助けに行ってこいって言ってるんだ。
「行こう! リルチェラの大事な人を、助けるんだ!」
 うん! リルチェラが力強く応じて、あたし達は全力で駆け出した!
 リルチェラの大事な人は巨人に掴まれたままだ。大声で叫んでいるから、握りつぶされてはいないみたい。片手だけで暴れ回ってて、氷柱の雨霰は随分と穏やかになってきてる。だからって父ちゃんやルアムが優勢になった訳じゃない。巨人は馬鹿デカいし、父ちゃんの魔法で体の一部が吹き飛んでも新しく伸びてきた蔓で元通りだ。
「どうしたら良いんだろう?」
 助けに向かって、実際にどうしたら助けられるのかって考え出したら、手段がなくってお手上げだ。駆け寄りながら考えてるけど、巨人はどんどん迫って、どんどんデカくなっていく。
 真っ黒いし生き物みたいに動いてるけど、あれは植物だ。炎で燃えるかと思ったけど、寒さが手伝って炎が勢い良く燃えることができない。まるで枝に付いた火を払うように、蔓が火を振り払ってしまう。
「思ったんだけどさ、どうしてアイツは上半身だけなんだ? 足とかないの?」
 何のために出て来たか知らないけど、村人とか殺すつもりなんだろうなって思う。でも、相手は上半身だけじゃん。逃げられた奴らは逃したまんまで良いの? 足とか生やして追いかけなくて良いのか?
 飛んできた氷柱が前の地面に突き立って動かなくなるのを確認して、リルチェラが止めた足を再び動かす。
「植物だから根っこがあるんじゃないかな。根っこを伸ばして蔓を出すんなら、足は要らないんじゃないかなぁ?」
 なるほど。あたしは分厚く絡んだ胸を指差した。動き回る両腕と違って、あそこだけは地面に接してる。
「根っこを狙おう。ピペから貰った氷細工で、根っこをぶっ飛ばすんだ!」
 持っている氷細工は両手に1つずつで全部で4つ。さっきピペが投げた時の威力を見れば、イオラくらいの威力があったと思う。胸の奥にあるだろう根っこに行く為に、胸に穴を開けるのに1つ使う。残り3つもあれば根っこを吹き飛ばせるだろう。
「そうだね! 根っこや茎から外れた植物は枯れちゃうから、ダストン様を離すかもしれない!」
 あたし達は顔を見合わすと、力強く頷いた。
 駆け寄ってくるあたし達に気がついたのか、巨人の腕がこちらに向かって振り下ろされる。避けれそうにない! あたしは手に持った氷細工を、振り下ろそうとした腕に向かってぶん投げた。箱のように組まれた氷細工が拳に触れて砕けた瞬間、中にあった玉が爆発したんだ! 思った以上の爆風に、あたしもリルチェラも吹き飛ばされて、地面に転がった氷柱に引っ掛からなきゃスタート地点に逆戻りだったかも!
 きっと、この板状の氷細工はマホトーンの魔法陣を形作ってるんだ。魔封じの力を箱の形にして、中にイオラの魔法を封じ込めてるんだ。凄いな、ピペ。逆にあたし達もこの氷細工を壊さないようにしないと、ぶっ飛ばされちゃうってことだ。
 追撃を父ちゃんの魔法が吹き飛ばす。驚いた顔の父ちゃんを遠くに見ながら、あたしは巨人の胸に向けて氷細工を投げた。巨人の胸の手前で落ちた氷細工が砕けると、爆発が起きて胸をつくっていた蔓が弾け飛ぶ。作戦通り!
「やった…! いや、まって、早いって!」
 蔓があっという間に伸びて来て、空いた穴が塞がりそうだ。間に合わない!
 赤い風が飛び降りてくると、鋭い爪があっという間に蔓を切り刻んだ。にっと笑ったルアムは、すれ違い様にあたし達を捕まえようとした蔓を両手の爪で切り裂く。あたし達はギリギリセーフで闇の中に滑り込んだ!
「ルビーちゃん、伏せて!」
 リルチェラの言葉に従って伏せると、あたしを捕まえようとした蔓に向かって投げた氷細工が爆発した。なんか、自分でも思うけどおめでたいな。だって、胸の中に入り込んじまえば安全だなんて、なんでそんなこと思ってたんだろう?
 『恵みの木』の一際太い根の下に出来た巨大な空洞から、黒い幹みたいな蔓の根本は確かに生えていた。頭上に人の頭程度の白く光る花が沢山咲いていて、巨人の内部を照らし出す。その太い根本は氷の領界に突き立つ太い骨みたいな太さがあって、血管みたいながどくどくと脈打ってる。葉っぱは丸く広がった形だが、縁はギザギザと鋭い。そして枯れた花からは大人くらいの毒々しい色の果実が実り、その果実が葉に擦れると実が割れて中身が滴り落ちる。黒い、嫌な匂いのする液体が地面に零れ落ちていく。凍らない滑った液体は、もう沼のように踝まで溜まっている。
 背後で爆発が起きた。リルチェラが最後の氷細工を投げて、蔓を追い払ったんだ。あたし達は全ての手を使い切ってしまったんだって、なんか他人事のように思ってしまう。でも、無理だ。この中で爆発してあの実が全部潰れただけで、『恵みの木』は完全に腐って死んでしまう。なぜか、そう思った。
「ルビーちゃん、ど、どうしよう…」
 リルチェラの血の気の失せた顔が、花の光で真っ白く浮き上がった。その奥に蔓が不気味に蠢いてる。
 リルチェラァァア…! ルアムの声だ! この分厚い蔓も貫通して響く、よく通る声が遠くから聞こえる。
「触れ! 触るんだ!」
 触る。リルチェラが自分の両手に視線を落とし、はっと気がついたように息を呑んだ。そのまま駆け出すと、脈打つ幹に勢い良く抱きついた!
 緑の光が勢い良く脈打つ幹を登り、葉を撫で、花々の光を圧倒し、果実を包み込み、無限に枝分かれする蔓の先端まで駆けて行く。迸る光に体が引き離されそうになるリルチェラを、あたしは後ろから支える。力が抜けるけど、構ってなんかいられない!
 緑の光が視界全体を覆って行く。あの巨人の内部に満ちていた鼻が曲がりそうな悪臭も、身を斬るような氷の領界の冷たさも感じない。清々しい空気に、甘い花の匂い。暖かい力はルアムやピペや父ちゃんの気配がする。それだけじゃない。竜族や魔物の沢山の命の気配が光の中に混ざっている。
 遠くから木の葉が擦れるような微かな音で、リルチェラの名前が囁かれる。
『緑の者よ。よく、来てくれました』
 緑の光の先、巨人の手に捕らえられたリルチェラの恩人が持った極光の魔鉱石が太陽のように輝いている。
『緑の者とは、氷の領界の命と『恵みの木』を繋ぐ者。『恵みの木』は皆に恵みを与えると共に、皆からも恵みを授かるこの地の循環の一部。さぁ、貴女がこの地で生ける者から与った力を、『恵みの木』へ解き放つのです』
 リルチェラが一際強い太陽のような光に向かって祈れば、ありとあらゆる緑が溢れ出す。芽吹いたばかりの新緑。水分を失って乾涸びた緑。日を透かした透き通る緑。葉の表と裏で違う緑。雨粒を受け止めた潤んだ緑。日陰の青み掛かった碧。宝石のような生命ではなく芸術のような美しさを秘めた翠。緑。翠。碧。みどり。ミドリ。一色の微妙な違いそれだけで、あたし達は森の中にいるようだった。
 覆っていた緑は、赤く、茶色く、黄色く色づいて解け、大地に落ちて土と混ざる。
 押し寄せる緑の匂い。足元から小さい芽が地面から顔を覗かせて、重い頭を持ち上げるように伸び上がり、大輪の花の蕾となって花開く。大地に降り積もっていた落ち葉の影から、昆虫や動物達が顔を覗かせる。思い思いに翅を広げ、伸びをして、巨木の居心地の良い場所を目指して行く。
『この度の伝承も無事果たされました。気の遠くなる歳月が過ぎ去ろうと、変わらずに果たされることを願っています』
 雨が降り、虹色が空気を彩った。『恵みの木』の氷は全て溶け落ち、寄生していた黒い植物も冷たい空気に粉々に砕けて消えて行く。氷に閉ざされた世界とは思えない、鮮やかで命に満ちた空間がそこにあった。
 赤い天道虫が翅を広げ視線の先を登って行く。朗らかな笑い声のような木の葉擦れに、赤が飛び込んでいった。
 氷の領界の竜族に危機が訪れし時、極光の魔鉱石を携し緑の者が現れて救わん。
 リルチェラが教えてくれた伝承の内容を、ふと思い出した。