光届かぬところをすなわち闇と名付けた - 中編 -

 竜族の種族神ナドラガは神代の時代に邪悪なる意志に敗北し、その体を5つに分断されてしまった。邪悪なる意志の力は凄まじく、分断した肉体とその子供達である竜族を滅ぼさんと想像を絶する厄災にて責め立てる。竜族は種族神を失い、滅びの危機に瀕したのだ。しかしナドラガ神は母であり創世の女神であるルティアナから授かった秘宝にて、滅びを免れ己の民の命を辛うじて繋いだ。されど邪悪な意志は厄災を残し、じりじりと分断したナドラガンドを滅亡へ追いやっている。
 解放者が現れ、ナドラガ神が蘇り、竜族が救われる未来。
 邪悪なる意志がナドラガンドを滅ぼす未来。
 闇の領界の竜族は、突きつけられた二つの未来のどちらを選ぶ余裕もない。
 この日、カーラモーラ村の竜族は、ついに邪悪なる意志がナドラガンドを滅ぼす日が訪れたと覚悟した。

 先ず、空が落ちたかのような凄まじい音が響いた。
 耳の良い者は泡を吹いて昏倒し、衝撃が生み出した地震はカーラモーラ村を地面ごと突き上げた。毒の空気を寸断するために頑丈に作った家は、柱が折れ壁が崩れて片膝を付くように傾ぐ。普段なら無風の闇の領界を駆け抜けた強風は、外にあったありとあらゆるものを薙ぎ払った。肉が透明で光る骨が透けて見える飛び骨魚が吹き飛ばされ、家の軒先に置いてあった樽や壺が闇の向こうへ吸い込まれてしまう。地に倒れ込んだ村人達は吹き飛ばされずに済んだが、闇に吸い込まれた何もかもは、もう、戻ってこないだろう。
 真っ黒い空から家と変わらぬ大岩が毒の海に落ちていくのが、上弦と下弦の『月』から漏れる淡い光に照らされている。村にもちょっとした家具くらいの大きさの石が降り注ぐ。領界の地面が唸るような鳴動に、避難する子供は恐ろしさのあまり泣き叫び、母親は我が身を呈するように子供を抱きしめ安全と信じた場所に身を隠す。
 誰もが死を覚悟した第一波は、闇に反響した轟音が小さくなると共に収束していった。
 鼓膜が破れそうな轟音は鳴りを潜め、家から上がった火の手を男達が消火しているのを遠巻きに見る。村の入り口には、家からまろび出た村人達が互いの安否を確認し合うためになんとなく集まってきていた。ほぼ、カーラモーラ村の全員が集まっている状況だ。親しき者の無事な姿を抱きしめて号泣する声が響き、大丈夫か、怪我はないか、あちらの家の柱が崩れた、こちらの道を岩が落ちて塞いでいる、いや、大きな亀裂が走っている、といった話が囁かれる。
「村長!」
 誰かが声を上げると、人々の視線は全て声の向けられた先へ注がれた。
 狩人達を引き連れて足速に広場にやってきたカイラム村長は、村人達に瞬く間に囲い込まれた。村人達は口々に意味のわからない訴えを矢継ぎ早に言うものだから、よほど混乱しているのだろう。カイラム村長の口元を覆った髭が、神経質に引き攣れたのを見た。
「浄月の間の門を開け放て! 皆、満月の渓谷に急いで避難するんだ!」
 隣に立つ狩人に、火消しに走る男達にも避難を命じろと走らせる。
 ぞくりと、悪寒が背を走る。目が合ったカイラム村長の瞳は血走って、金というよりも赤金のように光っていた。その瞳に色濃く宿った恐怖に、僕は理由がわからないままに震え上がった。
「急いでって、このまま行くんですか?」誰かの呟きに、村人達が我に返る。
「家を見にいってからで良いですか?」「まだ、夫が見つからない」「なにか、食べ物を…」「着替えがあった方が」村人達が顔を合わせ一向に満月の渓谷に向かわない様子を、村長が一喝する。
「死にたい者は好きにするが良い!」
 あまり声を荒げぬ冷静な村長の怒号に、村人達は凍りついた。村長は闇の領界では光るように目立つ黄色い衣を翻し、浄月の間の門へ続く坂へ登り出す。取り残された村人達は顔を見合わせ、村の最も高い場所へ向かう篝火のような黄色い衣に続いて歩き出した。
 僕は静かになった空を見上げた。静か過ぎて不気味ではあったが、先程の瓦礫の雨を思えば落ち着いている。
 僕は皆と逆方向に走り出した。
 『サジェ!』と僕の名を呼ぶバジューの声が聞こえたけど、無視した。
 毒の海から立ち上る毒気から逃れるために上へ上へと築かれた村を、下へ下へと駆け降りる。降り注いだ瓦礫で崩れた道、飛び越えることもできない亀裂が走った道、目的の家へ行く道は大きく様変わりし、僕は遠回りをしたりしていつもの倍以上の時間をかけて到着した。
 開け放たれたまま家が傾いで動かなくなった戸を潜り、戸棚から投げ出された何もかもを踏み超えていく。一番奥の机の上に置かれた小箱が変わらない位置にあったことに、ほっと息を吐く。手にとって開けると、中身も変わらずそこにある。
 姉さんが生前大事にしていた物を詰め込んだ宝箱を、腰に固定したポーチにしまう。机の上に置かれていた僕の手帳を詰めて、しっかりと金具を止めたところだった。
「サジェ!」
 乱暴なまでに僕の名を強く呼んだ男に、僕はゆっくりと振り返った。バジューは息を荒げ、床に転がった僕の家の物を蹴散らしながら歩み寄ってくる。力強く掴かまれて、その痛みに乱暴な大人だなって抗議しようと思った。しかしバジューの腕には、毒苔が生える崖を登るための鉤爪がしっかりと固定されている。
「やはりデリダの遺品を取りに戻ったんだな。急いで戻るぞ!」
 強引に腕を引っ張る痛みに、僕は悲鳴を上げた。狩人としては身軽で痩身のバジューだが、子供の僕では抗えないくらいに力強い。
 僕はバジューの慌てように、可笑しさが込み上げてきた。
「バジューは今日が滅びの日だと思ってるの? 馬鹿馬鹿しいよ。本当にそうなら、放っておいてよ!」
 うるさい! バジューは叫ぶように言うと、僕を小脇に抱えて走り出した。坂道を全速力で登り、亀裂が走った道は傍の崖に鉤爪を引っ掛けて飛び越え、瓦礫が塞いだ道をまるで平らな道を進むように超えてしまう。あまりに危険な道を凄まじい速度で進んでいくので、僕はいつしかバジューにしがみ付いた。バジューも僕が手を離さないとわかったら、両手を駆使して猛然と進み出す。
 僕がいつものようにカーラモーラ村を駆け上がるのと変わらない。いや、それ以上の速度でバジューは瓦礫と亀裂に引き裂かれた坂道を駆け上る。荒いバジューの息が不安を掻き立てる。目の前の景色が線のように引き伸ばされ、まるで竜化して舞い上がるような速度だった。
 火の手が激しく上がって、火が爆ぜる音が聞こえる。大きな岩に崩れた家が、亀裂に引き裂かれた道が、僕の生まれた時から知っている故郷を変えてしまった。
 さっき村長が避難を命じた入り口広場には、もう誰もいない。
 いや、村の外から人影が飛び込んでくる。背の高い女性と、僕より少し背の高い男の子。男の子は見覚えがある。アストルティアという伝説の地からやってきた旅人の一人だ。男の子は僕らを見て『急いで!』と声を張り上げた。
「新月の海の上空が割れて、巨大な何かが落ちたんだ! 海がひっくり返る!」
 新月の海という言葉に、僕はバジューに抱えられたまま何気なくそちらの方角を見た。闇の王の棲家があるという、逆さまの塔を挟んだ村から最も遠い場所。全く『月』の光が届かない彼の地は、最も濃度の濃い毒の海が広がっているという。
 いつも無音の海が、唸っている。
 そう分かった瞬間に、全ての鱗が逆立つ。
 ナドラガ神の祠に続く海岸の道が黒く塗りつぶされて見えなくなる。真っ黒い海が押し寄せているんだ! それに息を呑んだ瞬間、地面が揺れた。村の側面にぶつかった海が、大きく爆ぜて飛沫を上げる。バジューは地面を蹴って飛び上がり転倒を免れると、急げ!と急き立てる声に向かって駆け上がる。
 僕は目が離せなかった。
 家が黒い海に飲み込まれていく。バキバキガラガラと音を立てて、あの揺れに傾いだ程度の頑丈な家が噛み砕かれていく。高笑いをあげて火に包まれていた家に黒い海は手をかけると、炎の声よりも大きな声を上げて家を掬い上げる。流されたと思った次の瞬間には、どぷりと炎ごと黒い海が美味そうに平らげてしまう。
 黒。黒。黒。これほどに、闇を見ることに秀でた目を呪う。泡立つ黒は渦を巻き、飛沫をあげ、激流となって村を飲み込んでいく。坂道を駆け上がり、バジューの足を掬おうと迫ってくる。
 激流の中には領界の魔物達の顔がたくさん浮かんでいた。その顔が恨めしげに僕を見て、どんなにもがき這い出そうとしても、闇は無駄だと引き摺り込む。滑る海にちらちらと光る反射全てが、飲み込まれた生き物達の目に見えた。引き摺り込まれたらどうなるのか。そのあまりの恐ろしさに、僕は半狂乱になって悲鳴を上げて暴れた。
 バジューの腕を振り解いた僕は地面に叩きつけられ、ごろごろと坂道を転がった。ようやく止まって顔を上げた鼻から温かいものが垂れて、口の中に鉄の味が広がる。
 びしゃりと黒い海の飛沫がかかった。黒が目の前にある。僕は突きつけられた死に、自分だけは大丈夫だという思い上がりを悔いた。バジューが迎えにきてくれなければ、彼が僕を抱えて全力で駆け上がってくれなければ、とうに死んでいたというのに…。体がなくなったかのようにピクリとも動かないくせに、鮮明な毒の匂いが鼻腔を貫き肺が軋む。お前は死ぬのだと毒の海はせせら嗤う。
「しっかりなさい!」
 襟が引っ張られて、一気に黒い海が遠のいた。
 海は恨みがましく腕を伸ばすように迫る。その勢いは僕らよりも早かった。僕の服を掴んでいる人の足を浸し、踝に、膝に、瞬く間に黒い海が這い上がる。悲鳴をあげると同時に、世界が回る。
 黒い海にほとんどが飲み込まれたカーラモーラ村が、逆さまの塔があるべき立ち方で、赤い肌に赤い角の女の人が僕に手を伸ばして、黒い海が黒い飛沫をあげて、何もかもがぐちゃぐちゃに回る。投げ飛ばされたと気がついた時には、僕は誰かに抱き止められていた。明るい隙間に黒い世界が見える。
 目の前で女の人が海に足を取られ、転んだ体に海が覆いかぶさる。
 女の人が顔を上げて、僕を見た。その顔は紛れもなくデリダ姉さんだった。あの日、僕を庇って毒の胞子を吸い込んでしまったデリダ姉さん。背負った背中に触れる姉さんの体温が失われていくのは、幻だったんだと思えるくらいはっきりと姉さんが僕を見て笑っているのを見た。
 僕は喉が張り裂けそうなくらい大声で姉さんを呼んだ!
 このままでは海に拐われて死んでしまう! もう、海は肩に手をかけ、頭を鷲掴みにする。いやだ! 姉さんを連れていくな! 僕から二度も姉さんを奪わないでくれ! 僕の魂の叫びを嘲笑うように、海は轟音を立てて横様に姉さんを掻っ攫っていく。もはや姉とわかるものは片手だけ。残された唯一の希望に、僕は飛びつこうとした。
 その手を、大人の男の手がしっかりと掴んだ。鉤爪を地面に蹴り付けて埋め込み、その鉤爪に足をかけて姉さんの手を両手に掴んで闇から引き摺り出す。バジューの命綱を村の男達が全力で引っ張り、バジューと姉さんが僕の上を飛び越えた。
 狩人達が力を込めて扉を押す。ばたんと大きな音を立てて扉が閉まり、遥か昔からあった閂が僕の知る限り初めて勤めを果たす。さらにもう一枚、分厚い石で作られた内扉がぴたりと空気を寸断するように閉じられた。
 扉の向こうから海が荒れ狂い村が壊れていく様が、轟音となって響いている。

 ■ □ ■ □

 満月の渓谷は『月』の光が降り注ぐ浄月の間を中心に広がる、カーラモーラ村を形成する山の頂上に位置する場所だ。入り口である門以外は強固で厚い岩盤で囲われているから、毒が入り込む余地はない。遥か高い場所から常に柔らかい光が降り注ぎ、この闇の領界でも唯一かもしれない毒に汚染されていない水が湧き、ここでしか見られない植物が茂る。狩りで手に入った食糧も『月』の光に晒して浄化する為に、村人達がおいそれと飢えることのない量が保管されていた。
 籠城に打ってつけの場所だ。
 浄月の間と呼ぶ広場は色鮮やかなモザイクタイルで、満ち欠けて巡る月が描かれている。厚手に編み込んだ布を敷きようやく落ち着いてきた村人達から少し離れた所で、最も重症の女性が横たえられている。
 見れば見るほど不思議な女性だ。肌は赤いが竜族の鱗と異なり、岩のようなのっぺりとした肌質をしている。角もあるが竜族の大きく後ろに反るようなものではなく、額と髪の生え際に肌と同じ質感で小さく生えている。それでも目鼻立ちが整い、狩人のように引き締まった体をした女性だ。老ドワーフと人間の男の子がアストルティアで暮らすオーガという種族だと説明すると、村長がなるほどと頷いた。
「新月の海に呑まれかかったというのに、まだ生きているのが不思議なくらいです」
 女性を診ていた医師が、しかし、と渋い表情で首を振った。
「満月の渓谷に次に『月』が差し掛かるまで、まだ日数があります。それまで生きていられるか…」
「なんとか、ならないのか?」
 聞いた僕こそ、どうにもならないことを知っている。
 闇の領界の毒は『月』でしか解毒できない。
 その『月』は、『満月の渓谷』『上弦の月の谷』『下弦の月の丘』を決まった周期で巡る。数日前に上弦の月の谷に『月』の光が降り注いだので、次に『月』の光が差し込むのは下弦の月の丘となる。轟音が鳴りを潜めて一日が経過したが、村を飲み込むまでに迫った海が引き、巻き上げられた毒が落ち着くまで満月の渓谷から出ることもできないだろう。
 満月の渓谷に『月』が差し掛かるのを待つのが、最も安全で確実な方法だ。それまで、この人が生きている保証はない。死にゆくことを黙って見ているしかできない無力さを、僕は拳を握りしめて悔やむ。
「数日前から竜族以外の者の姿を見かけると狩人から聞いておったが、まさかマイユ嬢じゃったとはな。何故にここに居るんじゃね?」
 老ドワーフが真っ白い白髪を撫でながら、女性と共に村に飛び込んできた男の子に訊ねる。僕よりも少し年上だろう青紫の髪の人間は、唸りながら女性を見下ろす。
「なんでもアロルドさんを助ける方法が、ナドラガンドにあるという話を聞いて飛び出して来たそうです」
「この娘は厳重なガートランドから抜け出して来おったのか! 馬鹿かね!」
 老人は意識のない女性に向かって激昂する。何事かと後ずさった村長達に、男の子は向き直る。
「アストルティアに邪悪なる意志が現れたお話を、以前しましたね。この女性は邪悪なる意志が狙っている人物でして、アストルティアで保護されているはずだったのですが…」
「うまく乗せられてしまいおったのじゃろう。邪悪なる意志の仲間を誘き出すために囲い込んでおったのを、招きの翼一枚持たせるなりして、懐に飛び込ませるとはやり手じゃわい。この調子じゃあ、ダストンもナドラガンドに来ておるじゃろうな」
 苦々しく吐き捨てた老人を宥める男の子を見据え、村長は小さく頷いた。
「この女性を狙って、何者かが襲撃する可能性もあるということか。皆に危険が及ばぬよう考慮しよう」
 深々と感謝の言葉を述べて頭を下げた男の子に、村長は頭を上げるようにと言う。
「しかし…妙に暗いな」
 怪訝な顔を上へ向けた村長に釣られ、その場の誰もが上を見上げた。満月の渓谷は夜目の利く竜族には、眩しいくらいの光が常に差し込んでくる。しかし、今は暗く翳っていた。
「あの『月』の光が差し込む場所は、どこに繋がっておるのかね?」
 老ドワーフがランプに灯を灯した。火の熱を帯びて揺れる光ではなく、月のように一定の光を放つ白い光が目を灼く。ちかちかする視界の向こうで、老人の嗄れた声が村長に問う。
「闇の領界の頂きに『楽園』あり。彼方より照らす『月』は全てを癒す。確かめた者はおらぬが、そう昔から言い伝えられている」
 確かめた者はいない。僕はその言葉を噛み締めた。
 闇の領界の漆黒に覆われた空の向こうには、『月』に照らされた毒も病もない『楽園』が存在するという。古から存在する伝承には不確かさがあるが、僕はその伝承は真実だと思っている。
 村には厳重に保管された禁書がいくつか存在する。定期的に書き写され、今に繋げられた先祖の言葉だ。その言葉には、こう記されていた。
 『楽園』には悪魔が棲む。強大な悪魔の力の前に、多くの同胞が討たれた。その恐ろしさに、我々は『楽園』を禁忌の地と定めるに至らしめ、道を封印す。
 毒も病もない『楽園』。今、領界に満ちる毒に侵され病に臥す僕達には、望んでも得られない理想郷だ。存在したならば手放すなんて、あり得ない。どんな犠牲を払っても『楽園』の悪魔を一掃し、そこに留まろうとしただろう。しかし多大な犠牲を払っても悪魔は倒せず、先祖は『楽園』を諦めカーラモーラ村を興した。その筋書きは十分にあり得るだろう。
 でも、謎がある。
 結果的に『楽園』から竜族を追放した悪魔達の目的は、何なのだろうか?
 『楽園』を我が物にする為だとしたら、諦めたとはいえ可能性がゼロではない竜族の放置は得策ではない。先祖との抗争を思えば共存の道はないだろう。竜族を滅ぼす為に、『月』の光が差し込む穴から攻め入る。いや、追撃の必要もない。『月』の光が差し込まないように蓋をするだけで、闇の領界の竜族は瞬く間に全滅する。
 顎に手をやり思案する僕の後ろに、歩み寄る気配がした。声は我に返った僕の頭の上からした。
「登って覗いてみようか?」
 体を捻り見上げると、そこにはカーラモーラ村の村人ではない竜族の男が立っている。明るい茶色の皮を鞣した服は、村では見たこともない異国の服装だ。竜族の特徴を全て持っているけれど、僕達よりもアストルティアから来た旅人達に似た雰囲気が男から漂ってくる。
「クロウズ。出来るのかね?」
 男は頷きながら、確認するように渓谷の中を見渡した。さらさらと薄い金髪の髪が揺れる。
「毒気の薄いこの渓谷の中なら、大丈夫だろう。狭くて翼は広げられないが、よじ登ることは出来るはずだ」
 この渓谷をよじ登る? 誰もが途中から垂直に切り立つ断崖を見上げている。爪を引っ掛けることはできるが、岩盤が硬すぎて金属の釘一つ打ち込むことができない岩肌が、薄明かりに吸い込まれるように続いている。毒苔を削ぎ取る狩人でさえ、無理だと首を横に振るに違いない。かつて三日三晩一睡もせずに崖を登り切った若者がいたそうだが、そこは山の頂上でしかなったという。
 光が溢れ力が風のように渓谷に吹き荒れた時、背後には白銀の竜が立っていた。地面を踏み締める足には鋭い爪が僕らを写し、体を支える太腿や腹筋は芸術品と見惚れるほどの威厳を放つ。まるで金属のような青白い銀は、狭い空間の中で身を縮めるように翼を畳んだ。
 竜化の術。僕は目玉が飛び出そうなくらいに、僕に覆いかぶさるように屈み込む竜を見上げた。こんなことができる竜族なんて、伝説の中だけかと思った!
「いかん! 楽園に近づいてはならん!」
 竜のどこに命綱を掛けるかで揉める三人組に向かって、村長は声を荒げた。大人の狩人達を思わせるまっすぐな瞳で、男の子は止め立てる村長を射抜く。
「カイラムさん。先日の轟音と災害、そしてこの暗さ。『月』に何かがあったんじゃないでしょうか? 確認して対策を立てないと、全員が死ぬことになりますよ」
 淡々と告げられた言葉は、誰の胸にも秘めていた危惧を的確に突いた。村長は歯を食いしばって黙り込む。
 迷っているのだ。
 『楽園』に乗り込み悪魔を刺激したら、村人に危険が及ぶかもしれない。しかし、本当に『月』に何かがあったとしたら、何もしない僕らを待ち構えているのは死だ。どちらに進むにも危険が付き纏う。
 僕は黙って睨み合う旅人達と村長の間に、ゆっくりと歩み寄った。
「村長。僕も一緒に行く」
 するりと出た言葉に、村長は目を見開いて驚いた。
「サジェよ。異種族の娘に命を救われたとは聞いている。だからと言って、お前が危険に身を晒す必要はない」
「確かにこの女性を助けることで、命を救ってもらった借りを返したいと思っている」
 村長の後ろにいたバジューの顔が曇ったのが見えた。
 村人達は僕の姉デリダが、僕を庇って死んだことを知っている。僕がこの女性に姉さんを重ねていると皆は思っているし、その通りだと僕は認めるだろう。あの黒い海に攫われる瞬間のこの女性は、確かに姉さんだった。僕を助けてうっすらと微笑みを浮かべた姉さんの顔を、僕は見間違えることはない。
 僕は唇が持ち上がるのを堪えられなかった。
「『月』の光溢るる神秘の地、『楽園』。…ずっと憧れていた」
 姉さんが僕を猛毒から身を挺して庇ってくれた時から、僕の背で冷たくなっていくのを止めることが出来ないと理解した時から、僕は『楽園』を目指していた。
 それを姉さんが死んだ理不尽を受け入れられないからと、同情する人がいた。
 それを姉さんが居なくなった喪失感を埋めるためだと、憐れむ人がいた。
 それを悲しみを繰り返さない為の行いと、誇らしく頷く人がいた。
 姉さんが死んだ理不尽は、確かに身を焦がすほどに憎らしかった。姉さんが居なくなった喪失感は、確かに胸に穴が空いたような空虚感があった。言われてみれば同じ悲しみを繰り返さないという大義名分も、ちょっとだけあった。
 でも、そうじゃない。違うんだ。
 僕はまっすぐカイラム村長を見た。いや。村長の向こうにある、ようやく辿り着ける『楽園』を見た。
「この人達について行けば、誰も見たことがない未知なる世界を見ることができるんだ」
 分からないことが分かるようになることが快感だと気が付けば、もうのめり込むしかなかった。村からほど近い場所にある遺跡に足を運び、村の禁書を盗み見て、秘密が詳らかになるのが楽しかった。そこに村人達が語る尤もらしい理由なんか、何も含まれちゃいない。
 僕を突き動かすのは、ただ一つ。『楽園』への好奇心。
 村長が息を呑む。痛みを堪えるように唇を引き結び、ゆっくりと溜息のような息を吐く。
「お前も『楽園』に魅入られたか…」
 村長の大きな手が僕の肩に置かれると、そっと押される。その力に促されるままに、僕はアストルティアから来た旅人達に向き直った。両肩に置かれた村長の手の熱が、肩を伝って僕の体に染み込んでくる。
「ガノ殿、ルアム君、クロウズ殿。このチビスケをよろしく頼みます」
 村長の下げられた頭がようやく上がると、瞬く間に男の子が僕の体に命綱を掛ける。老人が見たことのない結び方で固く結ぶと、三人を繋いだ縄を竜の足首に繋いだ。弾き飛ばされて崖に叩きつけられた時に即死しないようにと、男の子がスカラの呪文を重ね掛ける。そうして準備が整った時に、ようやく三人は名乗る程度の素っ気ない自己紹介をした。
 クロウズの背に先に登ったルアムの後ろによじ登ると、ガノが僕を支えるように真後ろに付く。鱗の質感は僕の鱗と変わらないが、その大きさは一枚で丸盾と変わらない。鱗をしっかりと掴み、足に力を込めて竜の体を挟んだ。
 竜は気合いらしい声をあげて渓谷を登り始めた。巨体にとっては渓谷は細道程度の隙間で、両手両足を駆使してするすると登っていく。見上げる村人達もあっという間に小さくなって、モザイクタイルや緑に溶け込んでしまう。
 絶壁を登り切ると、そこは確かにカーラモーラ村が築かれた山の頂上だった。見渡した視界は毒に霞んで、逆さまの塔以外は闇に沈んでいる。
 見上げれば『月』の光が差し込む穴が、覆いかぶさるようにある。カーラモーラ村をすっぽりと飲み込んでしまいそうな、何と比較するべきか表現が見つからないほどの大きな穴だった。白い光に満たされているそこは、僕が切望した『楽園』だ。
 竜は大きく翼を広げると頂上を蹴って、光へ飛び込んだ!