闇の中を歩く者

 さぁ。今日から君達二人の家だよ。
 そう、私達兄弟の手を引っ張ってくれた虹を帯びた銀色の鱗の神官長は、穏やかな声で帰還を告げた。扉が開け放たれ、私達よりも年下の子供達がまろび出る。子供達の眩しいばかりの笑顔に、炎の領界の過酷な環境で生きて来た私達は面食らったものだ。
 私達兄弟は故郷を失ったばかりだった。私達が頭上を舞う聖鳥に血の涙を流して祈っても、燃える地面を踏み締め炭化する足を叱咤して駆け回っても、何一つ救うことができなかった。子を庇って抱いていた母子を、炎に包まれた噴石が射抜くように潰した。溶岩流が親も友も朝に挨拶を交わした村の人々を飲み込み、目の前で故郷という存在を炎の領界から消してしまった。私達の顔は絶望に塗れ、血肉が焼け焦げた匂いが逃げ場はないと嘲笑い、炎に包まれ耳をつん裂く断末魔の悲鳴は今も耳の奥に木霊している。
 皆がそういう顔をしていると思っていた。
 この神官長が営む孤児院に招かれるのは、炎の領界によって地獄を見てきた子供達だからだ。例え故郷が存続しようと、魔物は圧倒的に強く、過酷な暮らしは変わらない。炎に炙られて渇きに悶え、食う物に常に困り命懸けで狩りをする。弱き者は淘汰され、油断をすれば力ある者も死ぬ。今日は誰が死に、明日は誰が保たないだろうと世間話をする。それが炎の領界の暮らしだった。
 この領界に喜びなど存在しないと思ったのに、目の前には嬉しそうに笑う子供達がいる。
 そんな戸惑いから始まった孤児院の暮らしは実に平穏だった。喉の渇きもなく、飢えもなく、熱波も気にせず溶岩流の心配もせずに熟睡できる日々。昇天の梯の先のような暮らしだ。神官長は本当の父のように優しく愛情を注ぎ、同じくナドラガ神に仕える神官である奥方も母のように優しかった。私達を兄のように慕う年下の孤児達を、私達も実の弟や妹のように可愛がった。
 それでも、故郷を失った痛みを忘れたことは一度もない。
 私は神官長にナドラガ神に仕える神官になりたいと頼み込み、修行に明け暮れた。神の教えを読み解き、呪文を学び、武芸の修練に寝食を忘れてのめり込んだ。弟も私の修行に付き合って、頭角を表していった。あまりに己を追い込んで弟が倒れ、神官長に諭された回数は両手の指の数をとうに超えた。
 神官長に謹慎を言い渡され、書斎に押し込まれたある日。「ナダイア兄さん」と控えめな声に導かれて扉を開けると、食事を持って来た神官長の息子が扉の前に立っていた。固く両目を閉じているが、私の顔へ鼻先を向けてふわりと笑う。
 礼を言って受け取ると、神官長と同じ鱗の光が部屋の隅にある椅子に腰掛けた。食べ終わった食器を持って戻ってくるように言われているのだろう。私が黙々と食事をしていると、ぶらぶらとした足を見ていた顔がすっと上がる。ねぇ。静かな空間に声が染み込んだ。
「兄さん達は何に怒っているんですか?」
 心臓を鷲掴みにされた気分だった。孤児院に来て穏やかな日々を過ごしているが、故郷を失った日に灯った憎悪の炎が燃え盛って我が身を焦がしていた。それを神官長にすら悟られなかったのは、その憎悪の矛先が無力な己に向かっていたからだ。
 聖鳥の信仰が篤い地域だった。私達兄弟は、親や村人達に習って熱心に祈りを捧げていた。ナドラガ神の神官として祈りを捧げる今の私は、あの日から全く変わっていない。祈るばかりでは何も変えることはできないと、私達はあの日に突き付けられたではないか!
 膝の上に置いた手を握り込むと、目を閉じているにも関わらず見るように顔が動く。
「私は世界を変えたいのだ」
 力が欲しい。絶対的な力がなければ、救済は訪れない。
 私は握り込んで血が滴った手の力をゆっくりと抜き、開いた手のひらを黒髪の上に置いた。血が髪から額を伝い口の中に入ってしまって、怯えるような表情を覗き込む。
 何も知らない子供だった。炎の領界の過酷な環境も、無慈悲な世界に苦しめられる人々の営みも、明日をも知れぬ命の儚さも、存在しなかったように一夜で消える故郷も、何も知らない無傷の珠。父の跡を継ぎ神官長になり、神の器と噂される妹と共に教団を率いることを望まれる未来。その神聖さに、私はなぜか祈るような心地になって向き直る。
 竜族が救われる世界を手に入れる。その為に手段は選ばない。
 私は子供の顔に伝った血を綺麗に拭い取った。
「ダズニフ。お前は何も知らなくて良い」
 清らかなまま、俺の変えた世界の上に立て。お前はそうなる為に生まれて来たんだ。

 ■ □ ■ □

 全く、だらしのない解放者だ。
 私は不平不満が噴き出すのを、堪える事ができなかった。
 闇の領界に踏み込んで一刻も経たない内に、我らが解放者は胃の中を空っぽにし意識を失った。氷の領界から流れ込む冷気が毒を押さえつけているというが、嗅覚が鋭敏なダズニフには焼石に水である。私は仕方なく気絶した男を担ぎ上げ、『月』が墜落し解毒手段がない闇の領界を駆け抜けなくてはならなかった。
 嘔吐物に塗れた服を脱がし清潔な布で包みはしたが、闇の領界に満ちる毒を含んだ悪臭とダズニフにこびり付いた嘔吐物と胃酸の匂いで鼻が曲がりそうだ。先を行くエステラが大丈夫かと再三聞いてきたが、答える気力はもう無い。とにかく、一刻も早く目指すべき満月の渓谷に辿り着かねばという一心だ。
 その点、先行する氷の領界で出会ったプクリポと同じ名前の少年は無駄がない。
『鈴の音は魔物を引き寄せてしまうので、外してください』
 人間の少年は、私に開口一番そう言った。
 闇の領界の闇に溶け込むよう毛皮の服を黒く染め、腰にナイフを、背に弓を背負った一端の狩人の雰囲気を漂わす少年の背を追う。鈴を外せ。その言葉は濃厚な闇の中で視覚に頼らぬ狩りをする、魔物達の存在を示唆する。従わねば困るのは私であり、同行者の同胞達だ。こんな年端もいかぬ少年の指示に従わねばならなかったのも、そんな合理性と善意の為だった。異種族で年下の指摘には不快感があったが、それを表に出す事はナドラガ教団の神官長たるこのナダイアには相応しくない事だった。
 少年の合図に従って止まり走り、毒を放出する植物や魔物達を回避する。氷の領界と繋がった円環の遺跡から、この地の竜族が暮らす集落まで一気に駆け抜ける。薬草を煮出した液に浸した布で口で覆っても防ぎ切れない悪臭と慣れぬ環境は、瞬く間に我々から余裕を剥ぎ取っていく。少年は休憩を一切認めなかったが、足を止めてしまえば動けなくなるだろう。
 最低限の人数で来て正解だったと、熟思い知らされる。
 必死さ故にかカーラモーラ村に到着しているのにすら、気がつけなかった。
 『楽園』から『月』が墜落した事で起きた津波の傷跡は深く、村の家の半分は瓦礫と化している。家は押し潰されて流され、散乱した瓦礫が見渡す限りに散らばっている。崖の窪みや無事だった家に引っかかった瓦礫が、我々が見上げるほどに高く積み上がっていた。炎の領界で見慣れた廃墟のような様相に、確かな騒めきを聞き取って初めて人の住処だと認識した。
 坂道の突き当たりにある大きな扉が開け放たれ、中を窺うように人集りが出来ている。唯一の解毒方法である『月』が昇っていない状況で、毒に侵される可能性がある渓谷の外に出てくる理由があるのだろうか? ざわざわと互いに顔を見合わせて、奥を覗き込むカーラモーラ村の村人達の背に少年が声を掛けた。
 振り返った痩せぎすな妙齢の女性達は、少年の顔を見るなり甲高い声を響かせた。
「ルアムちゃん! 良く戻って来たわね。ねぇ、あの人間、貴方の知り合いなの?」
 少年が女性達の間から中を覗くと、はっと息を呑んで飛び込んでいく。様々な色彩の鱗であっても色艶が悪く表情に活気がない、幽鬼の群れのような村人を掻き分けて続く。一方的に複数の男達が誰かに問い詰める声が、今にも殺し合いに発展しそうな鬼気迫るものを含み出す。
 その中で最も語気を強めているのは異国風の服を纏った竜族の男だった。
「なぜ、こんなことをする! シンイは知ってるのか?」
 茶色い獣の皮で出来ているだろうコートを翻し、竜の鱗で出来たベストが詰め寄った拍子にきらりと光る。垂れ目気味の瞳の上で眉がぎゅっと寄る。
「黙ってないで、何か言ったらどうだ!」
「テンレス兄さん!」
 少年は異国風の男とカーラモーラ村の狩人達の輪の中に、躊躇いなく飛び込んだ。隙間から見えたのは、少年が縋り付いている赤と緑という奇抜な色彩だった。良く良く見れば体に沿った硬い印象を与える服なのだが、その赤と緑のせいで誠実さは遠退き、胡散臭い印象が全てを押し潰してのさばった。
「ナダイア様。あれを…!」
 後ろから追いついたエステラが、短い声を上げて上を指差した。
 空中に異国の服を着た女性が浮かんでいる。両手両足はだらりと弛緩し、白銀の房がついた尻尾が長い髪と共に地面に引かれている。その女性の前に少年は立ちはだかり、強い語気で訴える。
「兄さん! マイユさんは多量の毒に侵されて、動かして良い状況じゃない。連れていくことは許さないよ! それでも連れていく理由があるなら、僕に教えてよ!」
 あれが報告にあった神の器と、それを奪う賊という訳か…。
 私はダズニフを傍にいるカーラモーラ村の男に託すと、杖を構えて賊を観察する。両手には武器らしき獲物は持っておらず、魔力に秀でていると報告にあった通りのようだ。掲げられた黒い手袋を嵌めた手が握られると、甲高い音を立てて神の器が水晶のような物に閉じ込められてしまう。
 兄と慕う者の声を無視し、神の器を持っていくつもりか!
「毒に侵されし弱者を狙う卑怯者よ、今すぐその怪しげな術を解きなさい!」
 エステラが飛び出し、一息に魔力を高める。
 曙色の長髪が炎の熱気に広がり、聖鳥が翼を広げたように翻る。掲げた炎は瞬く間に拳大の炎の塊となり、噴石の礫のように賊に向かって降り注ぐ。妨害の為に威力はないが速度に特化したメラは、賊だけでなく少年や賊を囲んでいた狩人達にも降り注ぐ。驚いて身を竦めた時には、もう回避することはできまい。次の瞬間には炎は爆ぜ、悲鳴が上がる。
 もうもうと湧き上がった煙の中から、奇抜な色合わせの賊が飛び出してくる。その賊に向かって、エステラが次々と炎の礫を放っていく。
 私は嘆息を飲み込んで痞えそうになる。
 賊が神の器を持ち帰ろうとするのを阻止する為に、先制することを意識し過ぎている。エステラは真面目だが、真面目過ぎて配慮を欠くことが度々あった。速度を重視し威力はないものの、賊の周囲にいた村人達まで巻き込まんでも良いだろうに…。
 煙の内側から竜の翼が大きく開き、煙を吹き払った。煙の中から現れた白銀の竜は、狩人達や少年を庇うように抱き込むように屈めていた身をゆっくりと起こす。腕の中から周囲を伺う狩人達や少年が這い出してきて、全員無事だと確認した竜は降り注ぐ火の粉から守るように翼を広げた。
「びっくりした。いきなり、メラを投げてくるだなんて…!」
 私は賊の拘束に奮闘するエステラを見遣る。回避に徹する賊に魔法は当たらず、時々光の鏡で炎が反射される。エステラ一人で賊の拘束は不可能だろう。
 視線を戻した私は、竜に軽く会釈をする。
「私はナドラガ教団の神官長、ナダイアという。竜化の術を使う者よ、村人達の守りを任されてはくれぬか?」
 闇の領界の毒を考慮して、供も引き連れず最低限の人数でやってきている。ダズニフは使い物にならぬ以上、村人達を守る人手が足りない。竜化の術が使えるというだけで、非凡な才能を持っていることが証明されたも同じだ。ナドラガンドの竜族ではないようだが、こうして村人達を庇ってくれたなら任すことができるだろう。
 私の言葉に竜は不服そうに首を巡らせ、賊を睨みつける。
「本当はあの男を問い詰めたい所だが、こんな派手な魔法の応酬じゃ怪我人が出てしまうな」
 竜はふぅと溜息を吐く。キラキラと光の粒子が吐息に混じって空気の中に溶けていく間、じっと考えていた横顔が頷いた。私に向き直り理性に満ちた金色の瞳が瞬いた。
「分かった。村人達を守ろう」
 『感謝する』と竜族の祈りの仕草で応えると、竜は狩人達と共に満月の渓谷の入り口へ向かって進んでいく。それらを見送っていた私は、傍で動かず矢を番える少年を見た。
「君も下がれ。兄と慕う者に狙いを定めるのは無理だ」
 良く見れば手の震えを抑え込もうと、手は真っ白になるほど握り込まれ、歯をきつく噛み締めている。瞳は賊を睨みつけているが、体は決めた決意の実行を躊躇っているようだった。私の言葉に青紫の髪が勢い良く横に振られた。
 冷えて落ち着いた声色が、決意を秘めて紡がれる。
「兄を僕こそが止めなくてはいけないんです」
 ひたむきな兄への想いに満ちた真っ直ぐな瞳が、弟に重なる。
 共に同じ方向を向いていたが、こうして敵対する未来があったのかもしれない。私の考えを間違えだと道を違えたとしても、私の弟はこのような真っ直ぐな目で私を正そうとしただろう。愚直なまでに真っ直ぐで、全て兄のためにと私を中心に考えていた弟だった。献身とも言える弟の想いが、制止した私の腕を下ろさせた。
 少年が弓を構えて視線を上げる。
 満月の渓谷は闇の領界の中とは思えぬ、正常な空気で満たされていた。切り立った崖に三方を囲まれた最奥は、月の満ち欠けが描かれたタイルで彩られ、天から降り注ぐ光を受け止めている。賊は軽くタイルを蹴ると、ふわりと浮かぶように崖に着地した。そう、崖に足をかけ、地面と水平に立つ。崖を流れていた小さい滝の水が重力から解き放たれて浮かび上がり、水の球となって空間いっぱいに散りばめられていく。
 放った炎が水の球に接触し、次々と相殺されてしまう事態にエステラが攻撃の手を止めた。
「これは魔法? 重力を操っているのでしょうか?」
 賊の手が振り下ろされると、水の球が降り注ぐ。地面のタイルを破壊するような殺傷能力はないが、それなりの大きさの水の球にぶつかれば殴られたような衝撃が走るに違いない。イオを唱えて爆発で散らそうとするが、水の球は次々と生まれてくる。足元のタイルは濡れて滑りやすくなり、両手杖で破壊すると水の重さに手が痺れた。
 根本を断たねばならない。
「二人共、水の流れから離れろ!」
 私は魔力を練り上げ、高らかにマヒャドの呪文を解き放った。小川となって流れる水が凍りつき、遡るように滝を凍てつかせていく。竜の鱗のように凍りついた川面は、一枚一枚に私達の影を写し込む。
 少年が火を付けた矢を射掛けると、水の球が集まった一角の中央に滑り込んで爆発する。水の球は霧雨となって降り注ぎ、満月の渓谷に虹を掛けた。数を減らした水の球の中を、エステラの炎が飛んでいく。
「次の炎は簡単に消せませんよ!」
 炎の礫はまるで生きているかのように、水の球の間を飛んでいく。本来は投擲のように投げ放つようにしか発動しない魔法だが、細い糸のように魔力を繋ぎ止め操作することが可能だ。だが非常に繊細な魔法制御能力が必要となる。流石は若くしてナドラガ教団の幹部に上り詰めた新星。エステラの集中力と制御能力の高さに舌を巻く。
 水の球を掻い潜って迫る炎の礫を、賊は壁を走って回避する。
 さらに少年の放つ火薬を仕込んだ矢が放たれ、賊に炎と爆風が雨のように降り注ぐ。
 賊が渓谷の崖を駆けているから、カーラモーラ村の民に呪文が当たる心配はない。しかし、速度と威力を両立することは難しい。私は両手杖を捧げ持って練り上げた魔力を、突いた地面に展開させる。暴走魔法陣の淡い光が舞い上がり、その上に立つ者に魔力が満ちていく。
 エステラの魔力の練度が魔法陣の力によって加速する。拳大だった炎が、頭くらいの大きさに瞬く間に膨れ上がる。直線に放たれた炎を難なく避けた賊を、エステラは腕を振るって炎を操り追尾する。さらに少年が賊と炎の合間に矢を射掛ける。炎が矢を食い破った瞬間、火薬の匂いが広がり炎の勢いが人を飲み込むほどに膨れ上がった!
「…っ!」
 轟音と共に炎が賊を飲み込み爆ぜた。直撃した賊が落下していくのを見て、受け止めるつもりなのか弓を手放し少年が全力で走り出す。私もそんな少年に向かってピオラの呪文を放った。加速の呪文は少年を後押しし、少年は兄を受け止められるはずだった。
 賊の体が淡く光る。なんらかの補助呪文を自らに掛けた反応を認めた次の瞬間、賊は崖を蹴り一気にこちらに詰め寄った。武器を持たず武術を想定していなかった私達は、肉薄して来た賊に驚いてしまった。
 その驚きが、隙となる。
 賊の手がエステラの額に突きつけられると、ぱっと光が迸る!
 ぐらりと体が傾ぐと、頭から地面に倒れていく。メダパニで錯乱し、体の平衡感覚が保てなくなってしまったのだろう。慌ててエステラを抱きとめ、私はすれ違う賊に向けて振り返り様に両手杖を突きつけた。練り上げた魔力で血が沸き立ち、両手杖を持った片腕がはち切れんばかりに痛むが、その痛みを堪え鋭く呪文を唱える。
 一喝と迸るドルマドンの魔力が、空間を揺らして大きく弾ける。
「この人数を相手に、神の器を連れ出すことは出来そうにないな…」
 咄嗟にマホターンを展開したらしいが、光の鏡は大きくひび割れバラバラと賊の足元に崩れていく。賊は悔しげに顔を歪めると、懐から銀色の小箱のような物を取り出した。銀の立方体が賊の手のひらから離れ浮かび上がると、細かい音を立てて動き出す。
「逃さんぞ…!」
 私の追撃のドルマドンが頭上から落下したが、光の壁に阻まれ消失する。賊がちらりと、矢を番えて狙いを定める少年を見遣った。同じ青紫の髪と瞳の兄弟の視線が重なる。
「ルアム。邪悪なる意志は、お前の直ぐ傍にいる…!」
 光が賊に覆いかぶさると、移動呪文とは全く異なり痕跡ひとつ残らず掻き消える。完全に賊の姿が消えた瞬間、甲高い音を立てて神の器の女を包み込んでいた水晶が砕け散った。神の器が重力に引かれて落ちていくが、エステラを抱えていた私も、矢を番えていた少年も間に合わぬ位置にいる。
 少年が弓を手放し、全力で駆ける。私は咄嗟に神の器にスカラを掛ける。
 間に合わない。少年の絶望の顔が、神の器に隠れた時だった。
 神の器の下に竜族の若者が滑り込んだ!
「バジューさん…!」
 少年が神の器を抱き留めた狩人の横にへたり込むと、男は眩い笑顔で親指を立てて見せた。少年は神の器が無事であることを確認し安堵の笑みを浮かべたが、その笑みはぎこちなく歪んでいる。
 兄を射殺さねばならなかったのに、出来なかった。兄は神の器を回収できずに撤退し、殺さずに済んだ。複雑な心境に揺れる瞳から視線を逸らす。
 『俺が兄者の作る未来の礎となる』そう、自信に満ちた真っ直ぐな視線を思い出す。武術に秀で並外れた胆力を持っていた、自慢の弟だった。あれ程の逸材を失った教団の損失は測りきれないし、誰よりも私の築き上げた未来を見て欲しかった。
 私は弟に誇れる兄であり、弟を幸せに出来る兄でありたかった。もう後者にはなりえない。それでも、志を貫くことで弟に報いたいと思っている。
 種族も違う。価値観も違うだろう。しかし血を分け、魂が繋がるほどの親愛を向けてなお、悲壮な顔をせざる得なかった少年に哀れみを感じずにはいられなかった。
 沸いた怒りは少年を労わることも、賊を罵ることも出来ず、小さく唇を噛み締める。
 弟を守れなかった私が、他人のことは言えぬのだから。