サキュバスが夜を手招く - 後編 -
炎の領界から氷の領界へ訪ねる人の玄関口、円環の遺跡の周辺はイーサの村より賑わっているかもしれない。ここは炎の領界から熱風が吹き込んで比較的暖かい場所なのだけれど、お客さんは皆、口を揃えて言うんだ。
「なんて寒さだ! 死んでしまう!」
「見渡す限り全てが、凍った水なのか! 信じられん!」
初めてのお客さんはそんな驚きの声を澄んだ空気に解き放ち、ぎゅっと自分の体を抱きしめて縮こまる。それでも好奇心が勝って、この驚嘆と不思議に満ちた世界を顔の穴という穴をめいいっぱい開いて堪能し始める。でも目尻が裂けそうなほどに見開いて空から下がるオーロラを見上げた目は痛みだし、空いた口が凍りついて閉まらず、鼻水が氷柱になって悲鳴をあげるんだ。炎の領界からのお客さんが一度はやるんだよね。
少し前からトビアスさんやエステラさんがいるナドラガ教団の偉い人が、氷の領界の安全性が確かめられたって交流が始まったんだ。お互い寒過ぎ暑過ぎで死にそうだから、円環の前にはナドラガ教団とイーサの村からそれぞれやってきた守衛さんが立っている。装備が軟弱の場合は危険だと止め、進む者には人里までの道筋や役に立つことを教える。
そしてこの円環前の広場では、それぞれの領界では手に入らない貴重品の交渉をするんだ。
「氷は多めに切り出してきている。水はいくらあっても足りないのだろう?」
そう氷を切り出してきた大工さんの言葉に、炎の領界の狩人達が嬉しそうに感謝の言葉を言う。
ここにやってくる氷の領界の狩人達のソリの殆どは、大人の身長程の縦横に奥行きがある大きく切り出された氷の塊だ。真四角に切り出された氷はソリに縄で固定され、透かした向こうが見えるほどの純度を誇る。この氷は遺跡の下に休憩所として作っている小屋の材料だけじゃなく、炎の領界で貴重な水にする為にも使われる。大きな壺の中身は、聖塔周辺の海の水だ。炎の領界でこの海水を蒸発させて塩を作るんだって。凍った魚も積み上げられていて、向こうでは未知の食材って肝試しで食べられてるらしい。
「こっちは食糧だ。今回は好評だった酒類を多めに持ってきてみたぞ」
そう言って叩かれた大樽に、氷の領界の狩人達が歓声を上げた。
炎の領界は食べ物がほとんどだ。とにかく、氷の領界は恵みの木と海以外で食べ物を手に入れるのが難しいから、見たことのない食べ物が沢山運ばれてくる。野菜に果物。肉類。保存が効くように加工された瓶詰めから、発酵して全く別のものに変化した不思議な食品。民芸品だって言う、身を飾ったり家に飾る小物もある。
並べた品々を前に、彼らは価値を探り合うように話し出す。
どの品も自分達の領界では手に入らない素材や食料ばかり。出来る限り公平に、お互いに損をしないようにと、激しく長い論戦を繰り広げる。どれだけの危険の末に、この品がここにあるのか。この品がどれだけ自分達にとって貴重であるか。それを語り、説得し、納得した上で物々交換が行われる。悪いことをしないように、守衛の役割をする人達が立会人になるんだ。
あたしは、目の前で繰り広げられる賑わいを楽しげに眺めている。恵みの木から果実を収穫するよりも楽しそうに見えるのは、皆の目に宿る明るい希望の光が輝いているから。領界が繋がり、出会いがあり、新しい発見に心がワクワクが止まらない。暗くって押し込められて死に怯えるばかりだった日々が、変わっていくのをあたしは感じていた。
円環の遺跡が受け止める赤い光が、誰かが通過して強く瞬いた。
円環の光を背に受け黒く沈んだ小柄な影が現れると、私を目指して駆け寄ってくる。細い腕を大きく広げ、赤い瞳が視界いっぱいに迫ってくる。飛び込んできた同じくらいの体を、あたしはしっかり抱きとめた。
「リルチェラ!」
「ルビーちゃん!」
元気な声に、嬉しさが込み上げてくる。ぎゅっと抱きしめてくる手がお互い強くなって、そのままぐるぐる回って可笑しくなって笑い声が止まらなくなっちゃう。ようやく、ちょっと疲れて止まると、少し力を抜いて元気そうなルビーちゃんの顔を見る。竜族にしては色の白い鱗が、ほんのり赤く染まっている。大きく開けて笑った口が、むずりと引き結ばれると『はっくしゅん!』とくしゃみが飛び出た。
「ルビーちゃん。リルチェラちゃんと会えたからって、はしゃいでいると風邪をひくよ」
そう毛皮のコートをルビーちゃんの肩に掛けたのは、吟遊詩人のギダさんだ。
毛皮のマントを羽織り、黄色に炎の鳥の刺繍を施した赤い布を掛けた、旅人風の竜族の男の人。でもその人の何が一番目を引くって、耳に掛けられた耀く大きな鳥の羽だ。燃える炎の金色と赤の間を揺らめいて、先端の丸い模様の中には青い神秘的な光が宿っている。炎の領界に生きる聖鳥の尾羽だというその羽は、強い命の力と熱を放っていて、ギダさんの金色の髪が半分赤銅色に染まってる。
ルアムさんとピペちゃんのお友達と知り合いのギダさんは、イーサの村に足繁く通ってきてくれている。その竪琴で音楽を奏で、炎の領界の物語を語って聞かせてくれるんだ。逆にイーサ村の老人達に伝承や物語を聞かせてもらうと、一回で全部覚えちゃうの!
あたしは『アペカの村と聖鳥』の物語が大好きで、何度も聞かせてもらったんだ。
「こんにちわ、ギダさん!」
あたしの挨拶にギダさんは穏やかに返してくれる。あたしの事情を知らないのもあるけど、イーサ村の人達と違って優しくて大好き。お土産にこっそり甘いお菓子をくれるの。
「さぁ、今回は闇の領界に初めて向かうんだ。ここで元気を使い切って疲れてしまったら、お見送りに間に合わなくなるよ」
闇の領界が解放されて、これから水の領界への道が開かれる。
この炎と氷の領界が繋がったように、闇の領界が更に先の領界と結ばれる。伝承では闇の領界の隣は氷と水の領界だ。どの領界とも交流がないから、どんな危険があるか行ってみないと分からない。先遣隊は命の危険もある、とても危ないけど大事な役割だ。その先遣隊をルビーちゃんがお父さんって慕ってるトビアスさんと、エステラさんが担うことになった。
ルビーちゃんがトビアスさんのお見送りがしたいって、炎の領界からやってきたんだ。本当はトビアスさんに闇の領界は危ないからって置いていかれたらしいんだけど、ギダさんに我儘言って付いてきたんだろうなって思う。ギダさん、押しに弱そうだもん。
「今回の顔合わせも、ギダさんが炎の領界代表なんだね」
ギダさんは不安いっぱいの顔を青くして、自分の角を撫でる。
今、目の前で当たり前に行われる、炎と氷の領界の住民の交流。これは、領界が解放されたら、すぐに誰でも出来るようになる訳じゃない。氷の領界の場合は『恵みの木』の凍結が直って、領界が解放されて安全が確認されて、さらにそれぞれの領界の人が顔合わせをするんだ。やっぱり、知らない人同士、いきなり仲良くなりましょうって怖かったりするでしょ。最初はご挨拶からなんだって。
「あたしも氷の領界代表に選ばれちゃったから、すごく緊張してる」
「僕よりも堂々としてるよ。リルチェラちゃんは凄いなぁ…」
ギダさんがお腹を抑える手から、キリキリと何かが捩れる音がする。炎の領界の竜族でイーサの村まで頻繁に来る、根性のある人だって皆認めてるんだけどなぁ。
「おーい! 二人とも急ごう! 父ちゃんが行っちゃうよー!」
少し先から手を振るルビーちゃんの声に、ギダさんが普段よりも大きい荷物を背負い直す。ルビーちゃんが手ぶらだから、彼女の荷物も持ってあげてるんだ。それなのに、お世話になってる本人は生意気さん。あたしは、ルビーちゃんの鼻を摘んで、息が出来ないようにする。
『ふぁにふんはよー!』と鼻声で覇気のない文句を言ってくる。
「もう! ルビーちゃん! 我儘ばっかり言わないの!」
あたし達のやりとりに、ギダさんが朗らかに笑った。赤い尾羽も笑っているように、キラキラと輝いている。朝一番の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだような、清々しくて良い気持ちになる居心地の良さ。
あたしが鼻から手を離して駆け出すと、ルビーちゃんも負けじと追いかけてくる。楽しくて、見慣れた道がいつもよりも眩しい。
ルアムさんやピペちゃんと出会う前のあたしじゃ、想像できない日々。
こんな日がずっと続けば良いのに。そう思って『違う』って心の中で頭振る。
ダズニフさんが解放者として全ての領界を繋げようと、頑張ってくれている。氷晶の聖塔であたし達を守りながら、凍って砕けないように蕾に注ぐ体力を渡してきた力強さ。あたしはダズニフさんの命の暖かさを感じながら、こんな人がナドラガンドの竜族を救ってくれるって思ったんだ。
トビアスさんはイーサの村の人達が見ない振りをし続けたことを、真っ直ぐに見ている。声を荒げて、損をするとか傷つくとか考えないで、正しいことをしようと走るんだ。ルビーちゃんを見る目がすごく優しくて狡いなって思ってると、あたしにも笑いかけてくれるの。
ルアムさんやピペさんは、竜族じゃないけれど、竜族以上に皆のことを考えてくれている。二人が氷の領界のあちこちに拠点を作って色んな所に行けるようにしてくれなければ、狩りをして村人に食料をくれなければ、イーサの村は多くの人が飢え死んだだろうと言われている。
ダストン様は自由になって、凄いガラクタを探しにいくんだって旅立っていった。
あたしも皆みたいに、出来ることがあるはずだ。したいことが、あるはずだ。
だから、頼まれたことや出来そうなこと、みんな挑戦していきたい。出来ないとか、無理って言って動かないんじゃ何も変わらないって、教えてもらったんだもの。
こんな日がずっと続くんだ。
あたし達がこんな日を作って、未来へ続けていくんだ。