水の都

 イサークの声が溶け込んだ空気という空気に反響して、世界を震わせるように響く。ウェディの細い体が胸を張り、背鰭が伸び上がり、特別な詩歌の輝きをより遠くへ放つように腕を広げる。朗々と紡がれる伸びやかな輝きが闇を鎮める。
 水の領界の竜族は、それを奇跡と言う。
 特別な詩歌はヴェリナードの女王の推薦を受けた歌唱力と魔力を持つ者が、賢者から教わる歌だそうだ。その効果は俺達には成す術もない魔瘴を鎮める力がある。だが、イサークが言うには一時凌ぎ程度の力しかないのだそう。
 魔力の込められ光る歌声が、世界に解けて消えていく。魔力も声も儚く解けて、暴力じみた海流の唸り声にとって変わられると、俺はレディ・ブレラを脇に挟んで拍手をした。イサークの照れ臭そうな顔が、俺は好きだったりする。
「いつも拍手ありがとうね、ラッチー」
 光の届かぬ洞窟とは違い、目を凝らせば夜空の色から新月の夜へ移ろう重たい闇。自重で起き上がることすら難しい巨大なそれは、捕まる所を探すように手を伸ばす。それでもイサークの美しい特別な詩歌で二度寝を決め込んで、足元の海溝に横たわった。降り注ぐ雪のような光をひたすら口を開けて貪る、巨大な魔瘴が海溝の底に微睡んでいる。
 噴き上がる海流は魔瘴の匂いを含んだ氷水を思わせる冷たさで、見下ろす俺とイサークを舐め上げる。イサークのローブが旗のように翻り、浮き上がった細身の体に俺は手を伸ばす。女のような細い指先が無骨な小手に触れると、細い体は柔らかく撓って踊るように俺の横に降り立った。預かっていたレディ・ブレラを受け取ると、深々と被って微笑む。
「歌い手殿。守り手殿。魔瘴を鎮めてくださり、ありがとうございます」
 背後に控えていた青い鎧を着込んだ竜族の男が、感謝を込めて頭を下げる。銀髪に青灰色の鱗のディカスという騎士も、頭を上げて俺と並んで海溝を覗き込んだ。
「魔瘴というこの不気味な黒き禍い。やはり、日に日に増えている気がします」
 元々ナドラガンドには魔瘴が存在しなかったが、俺達が水の領界に流れ着く少し前から魔瘴の被害が現れ出したという。濃度の濃い魔瘴に侵されれば命に関わる点は竜族も同じらしいが、規模はまだ小さく死者は出ていない。
 だが魔瘴が水の領界の至る所で噴き出してきている。あっちを鎮めればこっちが噴き出し、そっちが落ち着いたと思ったら、今まで魔瘴の被害が起きたことがない場所で魔瘴が噴き出しどっちと聞きながら駆けつける。俺達は毎日、水の領界のどこかで発生する魔瘴を鎮めて歩いていた。青の騎士団の団長であるディカスが直々に同行するのも、魔瘴の規模が大きくなって、いずれ災害になるのではという恐れからだろう。警戒はして足りないことはない。
「本当は特別な詩歌で鎮めると、魔瘴はそのまま引いていくんだけどねー」
 良い加減うんざりだねー。疲れ切った様子のイサークに、ブレラがぱかぱかと笑う。
『そりゃあそうさ。アストルティアの魔瘴は魔界から噴き上がってくるものだからね。潮の満ち引きみたいに、少し経てば魔界側に引っ込んじまうから一時凌ぎが有効なのさ』
 なるほど。俺はブレラの説明に頷く。
 グランゼドーラ王国に近い地域に暮らす魔物達の多くが、千年前の不死の魔王の侵攻の際に魔界からやってきた者の子孫だ。その地域に生まれたブラックチャックであった俺は、魔界から来た親戚を持つ魔物達の話を当たり前のように聞いていた。魔界はアストルティアの影のように、すぐ近くに存在することを知っている。だからこそ、俺は首を傾げた。
「ナドラガンド 魔界 近くない」
 魔幻宮殿の遥か上空に存在した、ナドラガンドの入り口である奈落の門。神話の時代でもナドラガンドは浮遊大陸だった。魔界とナドラガンドで挟まれたアストルティアから、魔界に魔瘴が流れ込むとはとても思えない。
 俺の言葉にブレラが深く頷いて、イサークの顔を覆った。ちょっとー。恨みがましい呻き声が漏れる。
『この魔瘴は、魔界から流れ込んだものじゃ無い。元凶が別にあるんだろうね』
 ブレラの言葉にディカスは思案するように腕を組む。
「竜の神は世に嘆きをもたらす。魔瘴も竜の神が生み出す災いの一つなのやも知れません」
「本気で言ってるの?」
 イサークが心底信じられないと、言葉に呆れを含ませて訊ねる。
「竜の神って、君ら竜族の種族神ナドラガ様のことだろう?」
 俺は元々魔物だから信じる神はいないが、アストルティアの種族にはそれぞれ神がいる。種族神の子供達は種族神と同じ姿形を持ち、何かしてくれる訳ではないが自分達を生み出した大いなる存在として崇め奉っている。俺としては人間になったからって、グランゼニスって神を信じようとは思えない。星降りの日までの間、星となって微睡む魂を守る星空の守り人の方が信じられた。
 驚く俺と呆れるイサーク見ても、竜の神が悪い奴だと言い切るディカスは動じない。
「その通りだ。我らの伝承では、ルシュカを中心としたこの地が海に没したのは、竜の神のせいであるのだからな」
 俺とイサーク、イサークが被っているブレラが顔を見合わす。実は水の領界に伝わっている伝承は、俺達がダズニフから聞いているものとは大きく違っていた。
 かつてこの地は、天の海に築かれた貿易都市ルシュカを中心に栄えていた。しかし竜の神のせいで水の領界として分断されて、この地のほぼ全てが海中に没してしまったのだ。竜族の民の生命が泡となって消えようとした時、ルシュカの姫が命を賭けて海底に住まうカシャルに救いを求めた。カシャルが姫の願いに応え、竜族は海底で暮らせるようになったと言う。
 その種族が命の危機を感じ救いを求めるなら、己の種族神に求めるものだ。だが、過去の水の領界の竜族は、ナドラガ神ではなくカシャルという存在に救いを求めた。
 ダズニフが暮らしていた炎の領界では、長い長い年月、信仰しても救いがなかったんだろう。今を生きる竜族が、ナドラガ神を見限っても不思議ではない。
 だが、ダズニフは竜の神ナドラガに敬意を払っていた。悪魔神官が讃える破壊の神がどんなに胡散臭かろうと、俺はそれにとやかく言うつもりはない。しかし、己の種族の起源を否定するのは、俺でさえやりすぎではと思う。
「お二人の話では解放者という存在が、全ての領界を繋ごうと動いているとか…。カシャル様のご加護が満ちたこの地では、竜の神の影響は災いでしかありません」
『あのねぇ、ディカス。竜の神が災いの原因だと決めつけて、視野が狭めちゃうのは悪手だよ。あたし達がすべきことは、魔瘴が噴き出る場所や時間の情報を可能な限り集めて、ルシュカの民を守ることじゃないのかい?』
 ブレラの嘆息混じりの言葉に、己の仮説に絶対の自信を感じさせるディカスが目を瞬かす。少し考えるような間を置いて、素直に頷いた。
「歌い手殿の言う通りですな。団長という立場ながら、感情が先走ってしまいました」
 それにしても、何度見ても素晴らしい芸ですね。生真面目な顔が綻ぶ。
 ちなみにブレラの発言を、水の領界の竜族はイサークの腹話術と思っているらしい。子供らに大人気だったりするんだよな。
 立ち上がったディカスが、魔瘴が鎮まった安堵からか穏やかな声を掛けてくる。
「報告のために、フィナ様の元にご足労いただけますか?」
 頷いた俺達は、身を翻した青い鎧の後ろをのんびりと歩いていく。水の中でふわふわと頼りなく、重い空気をもがくように進むのがもどかしい。吐いた息がごぼりと泡となって、海面を目掛けて駆け上がった。
 俺とっては息苦しい世界は、美しく煌びやかだ。海底に着地した光は輪を描いて踊り、見上げる海面は晴天の色の光で満たされている。ぼこぼこと湧き上がった泡を見送れば、頭上を魚の群れが通過して目を焼く光が陰る。
 イサークはとんと地面を蹴ると、飛び上がるように水中に舞い上がった。手を大きく広げて円を描くように水を掻くと、俺達よりも大きな水掻きが水を押し出してぐんと体を押し出す。長い深海の色の髪が線を描いたと思えば、大きく広がって揺らめく。水を含んで広がるローブの中で、海の輝きを受けて光る青白く細い体の線は海月のようだ。珊瑚礁はさまざまな青の中で、赤や黄色の鮮やかな花畑のように何処までも続いている。その中を蝶や小鳥達のように、食べ物とは思えない色や柄の熱帯魚達と踊るように泳いでいる。
「歌い手殿は本当に気持ち良さそうに泳がれますね」
 頷いた俺の視線の先で、イサークは歌い出す。水の中でも伸びやかに澄んだ声が、海の中に溶けた空気を伝ってどこまでも広がっていく。海の水が震えて瞬き、魚や珊瑚に砕いた真珠のような輝きを振り撒く。
 あぁ。ディカスが喜びを声に滲ませた。
「カシャル様だ」
 まるで貝が抱いた宝石の光沢を持つ巨大なイルカだ。歌うイサークへカシャルは悠然と近づいていく。長身のイサークでさえ丸呑みにされてしまう体格差だが、上へ下へ入れ替わり、踊るように回り、互いの肌を愛撫するように優しく寄り添う。まるで恋人達が戯れるのを見せつけられているようで、俺はちょっと顔が熱くなる。
 頭から尾に向かって光沢が模様のように流れる。海底火山の熱気が湧き上がる泡の中では金色に、深海の押さえつける圧力の中では新緑の翠に、空に舞い上がり飛び上がる時は夜空の漆黒に、様々な色に変わっていく。胸鰭は大型船の櫂のように大きく、背には鳥の翼のようなものが生えている。その巨体が空を舞い海に飛び込めば、真っ白い雲のような大量の空気が海に流れ込んでくる。カシャルは真っ白いドレスを纏ったように、大量の空気を含んだ白い海水を率いて海面を貫く塔へ向かう。
「カシャル…様 か」
 純白の中に色移ろう紋様は神聖さすら感じる。既に塔の周囲を彗星のように旋回するカシャルは、勇者と共に大魔王と戦う運命を持つというペガサスに似た気配がするんだ。元々俺が魔物であるからか、神聖な気配はざらざらと心を撫で回し不安を掻き立てる。
 だが、足取りは軽くなり、息苦しさは薄らいでいく。
 カシャルのお陰で海水の中の空気が満ちていっているのだ。
 あの空気が海の中に満たされ、俺達もこの水の領界に暮らす竜族も海底で生きることができる。それは紛れもない事実だった。

 剥き出しの岩肌のような地面は舗装され、遥か遠くに見えていた塔は伸し掛かるような圧迫感を感じる程に迫る。天水の聖塔と呼ばれた塔の根元には、カシャルの名を冠する神殿を中心とした海底都市ルシュカが広がっている。真っ白い石を切り出し積み重ねた街並みには、街路樹や花の代わりに、海藻や珊瑚が茂っている。色とりどりの熱帯魚を追い回す子供達。壁にびっしりと生えてしまったフジツボをこそげ落とす老人。屈強な男達から釣果を受け取った女達は、話に花を咲かせながら驚くべき手際の良さで魚を捌いていく。
 活気に満ちたルシュカの中で、最も目に留まるのは大樹のような巨大な珊瑚だろう。
 その前に一人の女性と、ディカスと色違いの鎧に身を包んだ騎士達が並び、ルシュカの民が遠巻きに祈りを捧げている。視線が注がれている女性は、青い穏やかな波のように揺らめく髪を長く伸ばし、竜族の象徴たる角が見える。
 巫女様。フィナ様。彼女の名前を期待を込めて呼ぶ声が、海の底を揺るがす。
 その後ろ姿が彼女自身の身長よりも長い両手杖を高々と掲げると、ぴたりと声は静まり静寂が満ちる。白いドレスが海流にゆったりと広がり、海面から降り注ぐ光が刹那の紋様を描く。
 『カシャル様。この身より、この血より、感謝を捧げます』『我らの喜び、我らの支え。唯一の救い。白きイルカよ…』竜族達の祈りの声にさざめく海の中で、女性の掲げた杖が眩く輝いた。
 町の中央にどっしりとした幹のように根付き、街全体を覆う枝のように様々な色の珊瑚が広がっている。光に呼応するように珊瑚の先端からぷつぷつと泡が滲み出て、真っ白い葉が突如茂ったかのように溢れ出す。カシャルが海に取り込んだ空気の大半は、この『神秘の珊瑚』と呼ばれる珊瑚が蓄え時間をかけて放出するのだそうだ。
 儀式を終え杖を下ろしたフィナの傍に立つ、騎士が人々に宣言する。
「我らカシャルの民は何時如何なる時も、神獣カシャル様と共にある!」
 家の窓から、玄関の前から、沿道から見守っていた人々が歓声を上げた。『我らの命の源。カシャル様のお恵みに感謝を…!』『カシャル様の巫女フィナ様と、守護者である騎士団に栄光を…!』熱帯魚の色とりどりの鱗が、花吹雪のように投げかけられる。
 振り返ったフィナの元にディカスが歩み寄ると、まるで王に傅くように膝を折る。
「歌い手殿と守り手殿と共に魔瘴を鎮め、青の騎士団団長ディカス、只今帰還しました」
 フィナは何の感情も乗らない自然に閉じた口元を動かさず、立ち尽くしている。垂れ目の柔らかい印象と緩く波打つ髪が、凪いだ海の穏やかで物静かな印象を与えていた。所作の全てがゆったりとしていて、遠目から見れば石像か人形かと思うくらいだ。
 そんなフィナの横から、ずいっと荒々しい手が遮った。
「こんな往来のド真ん中じゃ、恥ずかしいってよ」
 荒々しい不機嫌さを隠さない声を発したのは、イサークと同じウェディ族の男。長剣を背負い、前がはだけて逞しい腹筋を見せる動きやすい服装のこの男こそ、アンテロに連れ拐われたはずのオーディス王子の影武者ヒューザだった。
 アンテロの部下に引き渡され、ナドラガンドへ運ばれたはず。そう問い詰めれば、本人は気が付いたらこの水の領界の海に落ちていて、溺れかけていたのだと言う。
 本人の言葉を否定する理由がない俺達は、ただヒューザの無事を喜ぶだけだ。
 ディカスを先頭に神殿へ歩き出した列の最後尾を、イサークとヒューザは並んで進む。
「相変わらず、厄介事に首を突っ込みたがるんだな」
 ヒューザの絡むような声に、イサークは小さく肩を竦めた。
 魔瘴を鎮める特別な詩歌の歌い手は、歌を習う時に魔瘴に脅かされる全ての者に手を差し伸べるよう種族神に誓うという。だから水の領界の竜族達を助けている。俺には にこやかに説明してくれたことを、イサークは素気なく幼馴染だという男に言った。
「特別な詩歌を歌う者の責務だよ」
 そうかよ。居心地悪そうにヒューザは相槌を打つ。
「また、遺跡のある島に上がるのか?」
 イサークが頷く。
 実は俺達はルシュカを拠点にしていない。水の領界で唯一の島、円環の遺跡がある陸地で暮らしているのだ。島の魔物達と話し合って、雨風凌げる小屋と俺達が食っていける程度の畑を作らせてもらった。俺達はそんな島から、毎日海流を使ってルシュカへ通っている。
 それは、俺達が海の水で呼吸することに慣れないからだ。
 カシャルの力で海に溶けた空気のお陰で、俺達は確かに溺れずに海底で活動できる。しかし、体は肺を水で満たすことに凄まじい拒絶を示す。息苦しく、溺れるような感覚は苦痛以外何物でもないのだ。
「海の底の暮らしも慣れれば悪くねぇだろ。静かで時が止まったような、穏やかな日々が繰り返されるレーン村みたいな場所だぜ。ルシュカはよぉ」
 カシャルの巫女専属の騎士として、ルシュカに滞在し続けるヒューザはしみじみと言う。今もこんなに息苦しくて辛いのに、慣れれば悪くないなんてとても同意できない。
「こんな海の底までオレを探しに来たんだろ? これでも、お前には感謝して…」
 ばづんっ!と黒い光が爆ぜる。小さく弱いドルマだったが、鼻先で弾けた力に歴戦の剣士であろうヒューザも驚いて言葉が途切れる。そんなヒューザの整った顔に指先を突きつけたイサークは、長い髪の下で陰る暗い表情で囁いた。
「僕はヒュー君の感謝の言葉なんて聞きたくもない」
 何事かと集まってくる騎士達の壁を掻き分けるように、フィナが歩み寄る。労わるように腕に触れたフィナの手をヒューザは掴み、『大丈夫だ』と囁いた。
 俺も人に向かって攻撃呪文を放ったイサークと、ヒューザの間に割って入る。
「イサーク 危険 いけない」
 落ち着かせる意味で触れた細い肩は、小刻みに震えている。
 ブレラの影になって、俺にしか見えない表情に見覚えがある。世界が崩れて一人放り出された、恐怖と絶望に塗れた顔。初めてピペに出会った時、あの子はこんな泣きたくても泣くことができず息が痞えて窒息しそうな顔をしていた。
 俺はイサークを抱えて、暇乞いもそこそこに歩き出す。足は一歩ごとに大股になり、小走りになったと思った次の瞬間には全速力で駆けていた。
 海水で満たされて、息苦しくて、魔瘴の臭いがかすかにして、泡と共に何もかもが掻き回される。ダズニフの語るナドラガンドとは違う、穏やかで幸せに満ちた世界。ナドラガを否定し、カシャルに依存して生きている水の領界の民。被害を増していく魔瘴。ヒューザの存在が、俺の知るイサークを壊していく。
 なんなんだ。なんなんだ。震えるのは俺自身か、それともイサークなのか。
 描いたような平穏な世界の裏で、何もかもが噛み合わない。噛み合わない場所が砕けて、壊れて、止まって澱んで取り返しがつかなくなりそうだ。
 俺には救いを求める神はいない。だから、この領界に辿り着いてくるだろう仲間を想う。
 早く。早く来てくれ。
 どこか、この世界は、おかしい。