鳥篭の中から叫ぶ

 もう、父の顔を思い出すことは出来ない。俺と同じ燃えるような赤い髪と、広い背中ばかり覚えていた。己の姿に既視感を感じるようになり、父はナドラガ教団の神官だったのだと、今更ながらに思うようになった。名簿を辿れば名前くらいは見つけられただろうが、俺は探したことはない。
 子供の頃の記憶といえば、神殿を駆け回る足音と子供達の笑い声ばかりを思い出す。
「トビアス! 討伐隊が凱旋してくるってよ! 行こうぜ!」
 弾む声が通り抜ける時、ばしっと背中を叩かれた俺は顔を上げる。磨かれた神殿の廊下を、細い子供達の足が駆けるのが見えた。
 民を困らせる魔物を討伐した英雄の凱旋は、聖都を上げてのお祭りだった。列を成して英雄達を迎えた大人達は、飲めや歌えやの大騒ぎ。気分の良くなった大人達は、子供達にお菓子や食事を振る舞ってくれるのだ。食べ盛りの俺達は教団の食事だけでは物足りず、こうして聖都に繰り出しては腹を満たしていた。
 俺は笑顔で立ち上がり、先を走る兄弟を追いかける。
「待ってよ! 置いていかないで!」
 物心ついた時には、ナドラガ教団の神官長が運営する孤児院で暮らしていた。俺は他のたくさんの孤児達の一人。年長者の孤児が年少者の孤児の面倒を見る孤児院の暮らしは、子供達だけの家のようだった。
 俺が孤児院にいた時代、子供達を取りまとめていたのは神官長の子供だった。
 黒髪を熱風に翻し、虹を帯びた銀の鱗を赤金に染める。まるで太陽のように明るい笑顔で、孤児達を率いて神殿を縦横無尽に駆けていた。お話を聞いてもらったり、ご本を読んでもらったりするために、孤児達を率いて恐れ多くもオルストフ様の元に突撃したものだ。神官達の賄い飯をつまみ食いしたり、居眠りする神官の背中に蜥蜴を入れて悪戯したり、ナドラガ様の彫刻の上に乗って叱られたり、今思えば悪ガキだったに違いない。
 そんな悪ガキ共のリーダーは、牙を見せつけるように大きな口を開けて笑うのだ。追従する子分達を満足そうに見回して、効率よく気前の良い大人達を巡回する作戦を伝える。
「カメゴンみてぇに、もたもたすんなよ! おばちゃんおだてて、じじい共に甘えて、うめぇジュースや菓子にありつくぞ!」
 俺を含めた兄弟達が拳を振り上げ雄叫びを上げる。
 凱旋を出迎える音楽が響き出した聖都へ、俺達は繰り出した。先頭は腰まで伸びた黒髪を翻し、銀の鱗を輝かせ、どんな黄金よりも煌めく瞳を持ったナゼル。男顔負けのガキ大将と共に、俺達は楽しい楽しい子供時代を謳歌した。
 当然ながら子供のすること。楽しみの後は、拳骨で頭に大きなたんこぶが出来た。神官長は娘のナゼルにも容赦無く拳骨を落としたから、ガキ大将も目に涙を浮かべていた。
「あぁー! あのバカ親父! 本気で殴ることないじゃん!」
 俺達もヒリヒリと痛む頭を摩っては、痛い痛いと呻いている。そんな俺達の頭のこぶに、硬く目を閉じた整った身だしなみの少年が薬草を口に含んで、ふぅっと息を吹きかける。
 幼い子供には『いたいのいたいの、とんでいけ』って息を吹きかけて、本当に痛くなくなった!って驚かれるまでが一つの流れだ。最後に我らがガキ大将の頭を、少年は優しく撫でた。
「ナゼル。僕と父さんを大声で呼ぶから、都に降りてきてるってバレちゃうんだよ」
「だって、ダズニフが帰ってきたんだ。俺が一番におかえりって、言ってやりてぇじゃん!」
 ガキ大将ナゼルの双子の兄ダズニフは、優等生だった。言葉を覚えるよりも早く竜化の術を体得し、俺達と変わらぬ年齢でありながら大人の神官達と聖都の外へ行っていた。座学は大人達が教えることはないと言う。魔物を蹴散らし、民を守る。ナドラガ様の化身と評判の神童だ。
「ナゼルの声なら、小声だって僕は聞き逃さないよ」
「そこはでかい声が良いんだよ。でかい方が、俺の気持ちがいっぱい詰まってそうじゃん!」
 ナゼルはダズニフのことが大好きだった。俺達の前では頼れる大将でも、兄の前では妹だ。目の見えないダズニフはおっとりとしていて、ナゼルが手を引いてやらねば食事の場にも出てこない。兄の手を引いて世話を焼くナゼルは姉のようで、その世話を嬉しそうに受けるダズニフは弟のようだった。双子は特に兄だ妹だと気にしていなかった。
 ダズニフは丁寧にナゼルの柔らかく波打つ髪をかき分け、そっとたんこぶに唇を落とした。水晶のような銀を透かしていた赤が薄れて、頭皮が白くなっていく。
「凱旋の宴会でいっぱいご馳走が出るんだから、待てば一緒に食べれたのに」
 頑固だなぁ。ダズニフは呆れた言葉を、ナゼルは笑い飛ばす。
「俺達はダズニフと違って英雄じゃないから、ご相伴に与っちゃいけねぇだろ。俺達は俺達の方法で、美味しい物にありつくんだよ!」
 ナゼルはただのガキ大将ではなかった。魔法の才能は両親の神官長夫婦をとっくに超えていて、死んでいなければどんな重症者も癒してしまう。黙って座っていれば、お姫様のように美しかった。乱暴な物言いだったが、ナゼルの真っ直ぐな考えは今でも好感が持てる。
 ダズニフはふんわりと笑って、取り出した皮袋を俺に差し出してきた。中には焼き菓子や飴がぎっしりと詰まっている。甘いクリームが挟まったもの、砂糖が焼き付けて光っているもの、本物の宝が詰まった袋みたいだ! 幼い兄弟達が両脇から覗き込んで、俺は踏ん張らなきゃいけない。伸びてきた小さい手から逃れるように、俺は袋を持ち上げた。
「貰ってきたから、皆で食べよう」
 兄弟達が争うようにお菓子を行き渡らせ、美味しいと頬を膨らませて笑う。そんな賑やかな光景を嬉しげに見ていた双子は、性別も性格も全く正反対だったが鍵と鍵穴のようだった。
「今度の祭りは俺と一緒に行くぞ! 良いな! ダズニフ!」
 快活なナゼルの声に、ダズニフは微睡むような笑みを浮かべて頷いた。
「うん。一緒に回ろうね、ナゼル」
 手を繋ぎ笑顔を交わす双子。大人達は双子のことを神の器と呼んだが、俺達はただ二人が大好きだった。俺を含め何人かの兄弟は、将来神官になって二人を支えようと心に決めていた。
 ダズニフが死ぬなんて、あり得ないことだ。
 俺は強く拳を握り、闇の領界と繋がっている円環の前に立っている。闇の領界から吹き込む強風は、口の中から全ての臓腑を吐き出すような悪臭を知っている者にしか感じられない程度の臭いを含んでいる。それらは俺の衣を吹き抜けて、水の領界の温い潮風と混ざっていく。
 生き残ったエステラの報告によれば、常闇の聖塔でダズニフの放った決死の一撃は塔を崩壊させ、邪悪なる意志と名乗った敵諸共毒の海に落下したという。闇の領界ではガノとルアムを中心に捜索が続けられているが、未だ見つけられていない。死亡と断じられても生還した俺の進言で、ダズニフは行方不明となっていた。
「父ちゃん」
 袖を引かれて見下ろせば、紅玉の瞳が不安げに揺れている。
「ダズニフって友達のことが、心配なのか?」
 ルビーはその小さな手を胸に置き、ぎゅっと身を硬らせた。腰まで伸びたまっすぐな小豆色の髪が、小刻みに震える体に揺らされている。
「あたしもリルチェラが死んでんのか生きてんのか分かんなかったら、心配で不安で心がそわそわしちまう。生きて、無事でいて、会いたいって気持ちでいっぱいになる」
 良い子だ。俺を父と呼ばなければ。俺は熟そう思う。
 真っ白い上等なレースのドレス、傷一つない美しい鱗。優しい心。この子は大事に育てられたに違いない。それなのに記憶もなく、独りナドラガンドを彷徨っている。俺はルビーの前に膝を折り、細く小さな肩を包み込むように手を置き、深く項垂れる頭をゆっくりと優しく撫でる。
「そうだな。俺もルビーと同じ気持ちだ」
 瞳が涙に潤んで美しかった。でも俺の悲しみと不安を感じ取ろうとしたルビーの心に、切なさが募る。俺のために、そんな不安そうに眉根を寄せなくても、唇を震わせなくても良いのに。こんな顔をするから、教団に送り返すことも出来ずに同行を許してしまっている。
 教団の指示にて、次の領界の調査が始まっていた。
 ごうごうと音を立てて海風が世界を掻き混ぜ、泡立つ海が雨粒のように降り注ぎ荒れ狂っている。降り立った島から米粒ほどの大きさに見える、聖塔の頂上部分以外の青空の下は全て海。竜化したエステラですら墜落の危険性があると危惧した乱気流はあれど、地上は穏やかであった。青空は夕焼けの色に染まり、薄暗い夜が曙色に彩られた後に青空に染め抜かれる。どこまでも広々とした開放感と、寒くも暑くもない潮風。
 水の領界の竜族が暮らすという海底都市ルシュカ。そこへ至るための準備が、ようやく整った。
 目的地へ発つ最後の時間を円環の前で過ごしたのは、ダズニフが間に合うのではないかいう期待からだった。俺はルビーに力強く笑って見せる。
「だが、ダズニフは死なん。あいつは、いや、あいつ『ら』は絶対に死なない」
 俺は円環の奥に蠢く闇へ視線を向けた。
「早く来い。俺がこの領界の解放者になってしまうぞ?」
 ナゼルが死に、ダズニフは変わったと誰もが言った。だが、共に孤児院で暮らしていた兄弟である俺達には分かるのだ。
 ダズニフは、ナゼルと共に生きている。

 □ ■ □ ■

 きらきらと揺蕩う水面の輝きが、真っ白い砂が堆積した海の底を撫でる。踏み出した足元から白い砂を巻き上げて目にも止まらぬ勢いで後退する海老を見ていると、急深を覗き込んでいた細身の男が振り返った。
 無造作に流した深海の色の髪が、駆け上がる海流に巻き上げられる。柔らかい笑みの似合う骨と皮だけのような痩身の体は、海の青に溶けてしまいそうだ。アストルティアに暮らすウェディ族の若者イサークは、黄色い大きなツバの帽子を両手で抑えながら俺達の様子をじっと見つめる。エステラ、ルビー、そして俺と順繰りに見つめた垂れ目は、嬉しそうに細められた。
「苦しそうな様子はなさそうだね。でも、具合が悪くなったら直ぐ知らせてねー」
 言葉が出なかったら、手を振ってくれても良いよー。細く長い指の半分に迫りそうな水掻きを見せるように振ると、風を読むように顔を上げる。そして『行くよ』と囁いて身を投げる。
 海流に身を預ければ、空を飛ぶように眼下の光景が流れていく。青く染まった世界を真っ黒く切り裂く海溝。鮮やかな珊瑚礁に群れる小魚、黒い影を投げかける巨大な魚。海の中に漂う無数の白い泡は凄まじい勢いで背後へ流れ、顔はまるで強風を受けるような圧が掛かる。
「とうちゃん! おっきい魚だよ! すげー!」
「少しは大人しくしていろ!」
 興奮したルビーを守るように、その小さな背中に回した腕に力を込める。
 肺に水を満たせば死に至る。そんな生物の本能として備わっている常識を覆すことは、想像以上に過酷なことだった。溺れないと分かっていても、溺れるように海水を肺に満たすことは苦行に他ならない。慣れるのに随分と時間が掛かってしまった。
 ごぼりと大きな泡が俺の顔に押し付けられると、白い泡の向こうでエステラが離れていく。ルビーが『あっ』と手を伸ばそうとする前に、大きな影が飛び出した。大楯と海の流れを利用して、違う方向へ流されていきそうなエステラに瞬く間に追いつく。
 竜族でも見ることができないだろう筋肉隆々の体躯は、随分と離れていても黒い点となって青い空間に浮かんでいた。イサークと共にこの地で合流したラチックが徐々に近づいていく間に、線に見えていた塔は太く見上げるほどに迫り、塔の下に広がる巨大な都市が眼前に現れた。
「なんて大きな都なんでしょう…」
 炎の領界の聖都エジャルナよりも、巨大と思わせる都だった。塔の手前にある巨大な神殿が建つ丘を中心に、石造りの街並みが広がっている。巨木を思わせる珊瑚礁が、海流に身を揺すられて歌うように泡を撒く。水泡は珊瑚礁の七色の光を受け、まるで貴石の欠片のように輝きながら都に住む竜族達に降り注いでいく。道行く竜族の多さと、活気を示すように溢れる品々。輝くような笑顔と、満ち足りた生活をしているのか福代かな体格が目立つ。
 今まで巡った同胞達を思えば、何もかもが違っていた。
 確かに水の領界の厄災は、この地の竜族の全てを奪うに値する厄災だった。陸地は円環の遺跡のある狭い島だけ。あの島で生きられる人数を考えれば、全滅は避けられなかったであったろう。
 それでも生きている。苦しみも、悲しみも、辛さも、他の領界の同胞を思えば細やかなものだ。それが良かったと安堵を覚えたし、胸が軋むような妬みも湧き上がらずにはいられなかった。
 海流は勢いを失いゆるゆると海底へ降り立つと、俺達は海底都市ルシュカの門の前に立っていた。イサークとラチックが俺達に振り返る。
「ようこそ ルシュカ へ」
「さぁ。巫女様に会いに行こうか」

 水の領界では、今、魔瘴の被害が出ているらしい。
 あの氷の領界で成す術もない厄災である魔瘴だが、イサークは歌で一時的に押さえつけることが出来るそうだ。歌い手と呼ばれるイサークと、その護衛である守り手のラチック。恩人として歓迎された二人の前に障害はなく、俺達は二人に追随するだけで海底都市で最も高貴な立番の女性との謁見が叶った。
 この地で信じられている神獣カシャルの巫女、フィナ殿。
 長く伸ばした青い髪は緩く波打ち、丁寧に手入れされて飛沫のように輝きを宿している。白磁のような鱗、目元に化粧が施され紅が彩る唇。衣は簡素な白であったが、そこに水面の揺らめきが映り込んで世界に二つとない美しい装束と成す。胸元に光る羽を象ったようなネックレスが、耳や額を飾る赤い宝玉よりも存在感を醸していた。しかし、碧の海の色の瞳は深い悲しみに伏せられ、唇は引き結ばれている。立場がなければ今直ぐにでも立ち去りたい拒絶が、彼女からひしひしと感じられていた。
 エステラと並び、俺は深々と最高位の礼をする。
「名高き巫女様にお目通り叶い、感謝申し上げます。私はナドラガンド炎の領界より参りました、ナドラガ神に仕える神官のエステラと申します」
「同じく、トビアスと申す」
 顔を上げ見た巫女の顔は、瞬きすらしていないようだ。水の流れで衣が揺れていなければ、まるで背後にある巨大な貝の玉座に彫刻された石像だと思うだろう。横に控えていた騎士が、一歩進み出て巫女と俺達の間に立つ。俺達に礼をする仕草もなく、胸を張り高圧的な態度を見せた。
「我はこの領界の守護を司っている、青の騎士団の長を務めるディカス。こちらに座すフィナ様は、神獣カシャルの巫女として神秘の珊瑚を守る尊きお方。お声を交わすことは罷り通らぬ」
 なんという傲慢。俺は思わず歯噛みした。
 ナドラガ神のお言葉を伝える総主教と崇められるオルストフ様でさえ、どのような立場の者とも言葉を交わす。初めて見える者も、武器を携える者も、どのような年齢立場も問わず、自愛の眼差しと温かい言葉を掛けてくださる。このフィナという巫女のように踏ん反り返り、無言を貫き、拒絶の姿勢を隠さない。同じ竜族を導く立場として、天と地の差があった。
「この水の領界の同胞達が神獣カシャル様の下で幸いな日々を過ごされていること、心より嬉しく思っております」
 事前にイサークとラチックより、この地の詳細は知らされていた。この海に満ちた空気は神獣カシャルのお陰であり、神獣の力に縋らねば生きていけぬ水の領界の竜族の事情は心得ている。ナドラガ神の信仰が薄いことも、理由は定かではないが敵視すらしていることも知っている。
 それでも、この巫女の傲慢さが、この騎士の不遜な対応が気に入らぬ。俺達は同じ竜族であるのに、なぜ、そんな敵意に満ちた視線を向けられねばならぬのだ。
 噴き出す不信に身悶える中、エステラが騎士に向き直る。
「我々は総主教オルストフ様の導きの元、断絶させられたナドラガンドを解放する道半ばにおります。厄災を耐え凌ぐ同胞達を繋ぎ、苦しみを分かち助け合う。どうか嵐の領界へ至る為に、ご協力いただきたい」
 この領界は今までの領界と違い、救うべき厄災はない。ならば、このまま嵐の領界へ至ろうと交渉するのは当然だった。
 一刻も早く通り抜けたいものだ。何気なく騎士から巫女へ視線を向ける。
 驚きに体が強張った。
 巫女の目から涙が零れ落ちた。海の水と濃度の違う涙は、泡のようにふわふわと漂う。震える肩を抱き、声を殺して泣く巫女の目から涙が次々溢れ出して止まる様子がない。
 なんで泣くんだ? 泣くような話題じゃないだろう。
 敵意を勝手に向けられ、拒絶の態度を示される俺達の方がよっぽど泣きたい。
「あ、あの…。巫女様はどうして…」
 困惑して巫女と騎士を往復するエステラに、騎士は押し隠していた敵意を露わにした。淡々とした声色には怒りが滲み、今にも剣を抜くような殺意を鱗一枚下に潜めている。俺はエステラの腕を引いて下がらせ、騎士の前に出る。騎士の刺さるような視線を真っ向から受け止める。
「異教の神官よ。今直ぐこの領界から立ち去るのだ」
「なぜだ? 我々は貴殿らの不利益になる要求は一切していない」
 氷の領界も闇の領界も、同胞達は生きていくことで精一杯だった。炎の領界とて決して余裕があるとは言えない。逆にこの領界の豊かさや平穏さを思えば、率先と同胞の助けに動くべきだ。
 なのに、なぜ拒絶する。この騎士は、この巫女は、同胞のことなど どうでも良いと思っているのか?
「この領界においての神は、救いの白きイルカ神獣カシャル様だ。世に嘆きをもたらすと伝承にある竜の神の信奉者など、この領界に招き入れるべきではなかった」
 事前に聞いていなければ、激昂して殴りつけてしまいそうだ。俺は歯を食いしばり、怒りを飲み下して冷静を装う。
「そのことと、嵐の領界の同胞を救いたい意志に何の関係がある?」
「全ての領界を解放し竜の神を復活させる、解放者の伝説は知っている。災いをもたらす竜の神の復活を唆すのはオルストフと言ったな? 貴様らは解放者と名乗らぬ故に、解放者も別にいるのだろう。竜族を根絶に至らしめる裏切り者どもよ!」
 思考が灼熱で真っ白に焼け落ちた。
 気がつけば腕が動いて、胸当てと首の間に見えていたインナーを掴んでいた。
「貴様! ナドラガ神だけでなく、オルストフ様やダズニフを侮辱するのか!」
 神を侮辱する言葉は、救いのない人々を思えば許容できた。炎に焼かれた同胞の無念を思えば、白銀の死神に遭遇して凍死しそうになった時、闇の領界で終わりなき毒の苦しみに喘ぐ同胞を見て、俺はなぜ救ってくれぬのだと恨みさえした。
 それだけ、厄災は強大なのだ。邪悪なる意志は狡猾なのだ。
 俺達は手を携え、厄災に満ちた世界を生きていかねばならない。それがナドラガ教団の教え。オルストフ様が説く導きだ。正しいと、俺は胸を張って言える。
「貴様は見たことがあるのか!過酷な厄災を前に、ただ生きる為に精一杯な同胞を! 苦しみに悶え、罪なき赤子も年端も行かぬ子も敬愛した親も死すしかない無慈悲な絶望を!」
「それは災いを齎す竜の神を信じている罰だ!」
 互いに胸ぐらを掴み合い、唾を掛け合いかき消さんばかりに怒鳴り合う。
「全てに手を差し伸べると言ったオルストフ様を! 全てを救ってみせると進むダズニフを! 貴様が侮辱するなど、俺が許さんっ!」
 同時に手を離し、俺は杖を、相手が剣を抜こうとする。一触即発の合間に影が滑り込んだ。
「あんた、喧嘩を売りに来た訳じゃあねぇんだろ? 熱くなってんじゃねぇよ」
 怠そうな声が水を差し、燃え盛るような闘争心が瞬く間に萎んでいく。怒りが溢れて騎士の顔しか見れなかった視界がすっと引くと、間に入った男が見えた。燻んだ金色の髪、イサークと同じ海の色、そして何が不満なのか整った顔を台無しにする仏頂面の男だった。
「ヒューザ殿。貴殿には関係のないことだ」
 騎士が間に入った男に訴えるが、男の仏頂面は凄みを増し眉間の皺が深く刻まれる。舌打ちをして見遣った視線を追えば、巫女が硬く目を閉ざし身を震わせて叫んでいるように見える。しかし、口からは何の声も迸ることはなく、苦しげに喘いでいるようにも見えた。
 騎士にヒューザと呼ばれたウェディ族の男は、ひくひくと耳らしい部分を動かす。
「どいつもこいつも、うっせーなぁ」
 間に入った男は俺と騎士の胸を押し、間合いを開けさせた。
 俺の背後に立っていたラチックが肩に手を置くと、ずしりとした重量と共にピクリとも動けなくなる。そのままくるりとラチックを軸に回転させられると、とんと肩を押された。
 何をするんだ。口から吐くべき言葉は、次の瞬間に喉に痞えた。
「父ちゃん…」
 涙を浮かべ体を震わすルビー。俺が激昂し怒鳴り合い、今にも殺し合いに発展しそうな様を見て、恐怖に身を竦めてしまったのだろう。父と慕った男が豹変する。それが自分に向けられていないにしても、恐怖を感じずにはいられなかったのだろう。
 俺は頭から血の気が引き、凍えるように体が冷えていくのを感じた。そのまま膝を折り震える背に手を回すと、暖かい体が胸に飛び込んできた。恐怖が薄まるよう願いを込めて頭を撫で、さらさらとした髪に俺も顔を埋める。甘い香りが、細く柔らかい感触が、あんなに激っていた怒りを拭い去っていく。
「すまない、ルビー。怖い思いをさせてしまったな」
 ぐずぐずと鼻を啜るルビーを抱く俺の背に、イサークの硬い声が響いた。
「ディカスさん、言い過ぎだよ。彼らの真摯な声に侮辱で返して、正直ガッカリだよ」
 肩に触れたラチックの手に促されるまま、俺達はカシャルの神殿を後にする。俺の肩に顔を埋めるルビーを抱き上げたまま、俺はエステラに小さく頭を下げた。
「悪かったな。交渉を決裂させてしまった」
「貴方がオルストフ様を深く敬愛し、ダズニフと親しいのは分かっています。それに、間違ったことは何一つありません。貴方が私の前に立っていなければ、ディカスという男の横っ面を引っ叩いていました」
 エステラは口元に手をやり鈴を転がすように笑ったが、目は笑っていない。
 ダズニフの両親である神官長夫婦が身罷られると、孤児院の運営はオルストフ様が直に担うようになった。最初に引き取られたエステラはオルストフ様を父と慕い、教団の誰よりも敬愛している。引っ叩くのも手のひらではなく、その両手杖の竜の飾りの最も尖った部分を当てに行ったに違いない。
 あの騎士は胸ぐらを掴まれた程度で済んで良かったと、感謝して欲しいものだ。
「ここで諦める訳にはいきません」
 あぁ。俺は頷いた。平和に溺れ、苦しみから目を逸らす者達の言葉に、負けてはいけない。
 俺達の肩に、竜族の未来が託されているのだから。