煮詰めた想いが苦すぎて困る - 前編 -

 女って生き物は泣き止まない。昔っから苦手だった。
 海底都市ルシュカの一番奥の最も高き場所。巫女フィナの寝室は、この領界で最も贅を注ぎ込んだ空間だ。絹のような質感の透き通ったシーツと、沈み込んで埋もれてしまいそうな寝床。民が丹精こめた刺繍の施されたクッションや、神獣カシャルやスライムつむりのぬいぐるみ。テーブルや椅子といった家具は全て磨かれた珊瑚で出来ていて、毎日清掃されて藻一つ生えていない。姿見の縁取りには真珠が散りばめられ、櫛やカップといった普段使いの小物はお姫様が持つ宝物みてぇだ。
 生活感のない空間で、フィナはベッドに身を投げて顔を埋めている。小刻みに体を震わせ、嗚咽がずっと俺の頭の中に響き続けている。気の利いた言葉が一つ言えねぇのに、細い指は俺の腕を必死に掴んで引き留める。仕方なく傍に座って背中でも摩ってやるが、フィナが泣き止む様子は全くなかった。
 ひくひくと痙攣するような体とは裏腹に、緩やかな水の流れに青い髪がふわふわと揺れている。それに指を絡め、角の間を軽く握った甲で触れる。
 俺以外の誰も、フィナの声は聞こえない。この鬱陶しい嗚咽も、俺の耳にしか届かない。そんな俺がフィナ直属の騎士なんて役目を与えられるのは、めんどくせぇが仕方がないことだった。
「めんどくせぇなぁ…」
 イサークとラチックが連れてきた、炎の領界からやってきた竜族達。あの二人が認めただけあって、悪さをするような奴らではなかった。ディカスの胸ぐらは掴んだが、どっちかってぇと喧嘩腰だったのは水の領界の連中の方だったろう。
 それでもフィナの顔つきが変わった。血の気が引き青ざめた鱗。目尻が裂けそうな程に見開かれたのは、来訪者の存在が信じられなかったからだろう。わなわなと震える唇の隙間から、歯の根が合わぬ音がかちかちと漏れる。そしてフィナは叫んだのだ。
 帰って! 喉が張り裂けそうな声だった。
 確かに水の領界に魔瘴の被害が出始めて、フィナは不安そうだった。それでも、イサークの詩歌によって抑えられて、ほっと詰めた息を緩めた。声の発することができねぇからほぼ無言のフィナだったが、周囲が感情を汲み取ることが上手かったし、俺もなんだかんだで分かるようになってた。
 だが、フィナの声が聞ければ、意志が伝わるなら、それが一番良いに決まってる。
 フィナが、喋るならな。
 喋らねぇから、困ってるんだ。女って本当に訳わかんねぇ。
 俺は前髪を掻き上げて、そのまま外に広がる世界を覆う海面を仰いだ。水面に近いここからは、燦々と光が差し込んでくる。見下ろせば温く穏やかな海に、珊瑚と魚達が舞う。平和な日々と活気ある竜族達。ルシュカで暮らせば暮らすほど、故郷と言える村の懐かしさが迫る。
 それは水の領界だけの穏やかさなんだ、と。他の領界では今も苦しみ死んでいく竜族達がいるのだ、と。イサークの言葉も、トビアスという神官の叫びも、嘘偽りは欠片も感じなかった。
 嵐の領界の竜族を助けたいと言うあいつらに、なぜ協力してやらないのだろうと疑問が浮かぶ。
 フィナは喋らないが、病気の民がいれば見舞い、死の淵に立たされた竜族がいれば寄り添い、悲しみに沈む者がいれば肩を抱き苦しみを分かち合った。無言であっても行動でその優しさを示してきたからこそ、ルシュカの民はフィナに惜しみない敬意を表して慕っているんだ。
「分からねぇな」
 嗚咽が小さくなって俺の声が届いたのか、フィナの肩がぴくりと跳ねた。
「お前なら領界が違っても竜族を救いたいって、言うと思ってた」
 それなのに迸ったのは拒絶と涙。あれから何を聞いても無言を貫かれて、俺はフィナの気持ちが分からなかった。黙り込んで枕に顔を埋めたフィナを見下ろし、俺は溜息を吐いた。
 水の領界で連日湧く魔瘴を鎮められるのは、特別な詩歌の歌い手であるイサークだけ。守り手のラチックがナドラガ神の神官二人を追従させることを了承すれば、それを否定する術は奴以上の実力者のいない青の騎士団には存在しない。イサーク達は神官達を引き連れて、水の領界の魔瘴の調査をしていると報告に聞いた。
 魔瘴は危険だ。魔物はより凶暴になるし、濃度の濃い所に踏み込むなんて命を捨てにいくようなものだ。それを、イサークとブレラとラチックというたった三人で行っている。
 俺だって行きたい。あの鈍臭いイサークが死んだら、色々と面倒だ。
『心配なのね…』
 脳裏に直接響く不思議な声色だったが、なぜか嫌な感じはしない。フィナはシーツに顔を半分埋めながら、俺を見上げている。どうして? そう唇だけが問いかける。
「つまんねぇ昔の出来事のせいで、あいつはほっとけねぇんだよ」
 聞きてぇか? そう問いかけると、フィナは涙が引っ込んだ瞳を瞬かせて頷いた。現金な女だ。そういう所も、俺は苦手なんだ。
 イサークが結構良い評価する俺の声が、フィナの部屋にゆったりと広がっていく。

 レーン村の思い出は、幼馴染のルベカの鼓膜が破れそうな声と、強い日差しとセットだ。レーン村の村長の娘ルベカは時々、突拍子のつかないタイミングで妙なものにハマった。そして、彼女は周囲を巻き込んで、巻き込まれた俺は大変な目に遭うんだ。
 ルベカは父親の煙管を口に咥え、椰子の葉を切った口髭を尖らせた唇の上に乗せて俺達の前を仰々しく歩いていた。普段ならスライムに負けない軽やかな足取りを、のっしのっしと亀のように足の裏を砂浜に埋め込むように歩いている。立ち止まったルベカは、集まったフィーヤ孤児院のチビ共を仁王立ちで見回した。
「しょくん! われわれは このレーンむらに ふりかかる ナゾに いどまねば ならない!」
 はーい。まだ、指をしゃぶるのを止められねぇチビ達が、ぴんと手を上げた。
「なぞって、なぁに?」「いどまねきって、なぁに?」
「ふっふっふ! よぉくぞ、きいてくれた!」
 始まったよ。孤児院では年長になる俺は、ルベカ劇場に魚の腑を噛み締めたような顔になる。
 数日前、レーン村に滞在した吟遊詩人が語ったのは遠い国の昔話。バズズに苦しめられていた町を救う為、英雄は不思議な力でバズズと周囲の森を真っ白く染め上げてしまう。真っ白になったバズズはシルバーデビルになり、町の人にこらしめられて森の奥に逃げて二度と悪さをしなかった。そんな物語だった。
 モーモンをイカ墨で、真っ黒に染め上げでもしたんだろうか? 洗って、綺麗にして、解決!ってなるのを手伝えってか? めんどくせぇなぁ。俺はすがめて狭まった視界の中で、『じゃーん!』と何かを取り出すルベカを見る。
 ルベカの手に握られていたのは、子供の掌に収まる程度の石の円盤だ。綺麗な魚の鱗のような模様が刻まれ、模様の奥から青白い光を放っている。一眼見て普通じゃない、不思議なもの。チビ共は撒き餌に群がる小魚になって、ルベカの手の中のナゾを覗き込んだ。
 なにこれー! なんだこれ! ひかってる! ふしぎー! チビ共の声が潮騒をかき消す。
「みたことない プチアーノン みたいなのが、おとして いったの! なぞが ぷんぷん!ってかんじ じゃない?」
 ルベカは謎が気になる子供達の輝く瞳に、嬉しくて仕方なさそうに笑った。円盤を持っていない手で天を指差し、その指を振り下ろしてチビ共に突きつける。
「きみたちは この めいたんていルベカちゃんの じょしゅだ! まずは うみべで いろちがいの プチアーノンを みつけるぞ!」
 おーっ! チビ共の声が弾け、駆け出していく。
 あんな稚魚みてぇなチビ共の面倒、誰が見るんだよ。めんどくせぇなぁ。俺が歩き出そうとして、横に立っているはずの腐れ縁に視線を向ける。海と青空の世界を、すっと黒い影が横切ってルベカに詰め寄った。
「ルベカ、海に近づいちゃいけない」
 不満そうに唇を尖らせるルベカの気持ちはわかる。海は穏やかに凪いで、空そらは雲一つ見えない快晴だ。海の男達でさえ帆を畳んで丘に上がり、女達が海に潜って貝を取るような日。そんな日に、海に近づくななんて言う大人は誰一人いない。
 胸にトンブレロを抱きしめていなければ鼻先が触れるほどに、影はルベカに迫った。
「君の命の輝きが呑まれてしまうよ」
「イサーク、へんなの。こもりうたは ねるとき うたうのよ?」
 ルベカは尾が水を叩いた飛沫のように笑い声を上げて、チビ共の後を追っていく。
 残されたイサークは、トンブレロのトロを抱きしめたまま立ち尽くしていた。そんな腐れ縁の顔を、俺は横から覗き見て息を呑む。
 深海色の長い髪をの隙間から、恐ろしい目がルベカの背に向けられていた。冷たくて、硝子玉のようで、奥で激しい憎悪が渦巻いている。
 なんで、そんな目でルベカを見る?
 何日も眠り続けてから見せたことのない目が、ぎょろりと俺に向いた。心臓を掴まれ握りつぶされるように痛んだ。波の音が消え、遠くから聞こえるチビ共の声も届かなくなり、海風がぱったりと感じられなくなる。死が俺を飲み込もうとしている。
 ひゅっと、喉を空気が抜けていく。
「ヒューザにいちゃん! イサークにいちゃん! いこーよ!」
 チビの声が世界を連れてくる。潮騒が、海風が、暑い日差しが押し寄せ、止まって動かなかったイサークの瞳がゆっくりと瞬く。深海を覗き込むような深い青。湧き上がる泡のような光が、深海の色からさまざまな青を照らし出した。椰子の葉の影が動いて日が差すと、瞳はレーン村の穏やかな明るい青になった。瞳は柔らかく細められた瞼に縁取られて、チビ共に向けられる。
「今行くよー!」
 にっこりと笑みを浮かべた横顔の向こうで、チビ共へ振った腕がゆっくりと降りる。
「ごめん。生きた人に向ける目じゃなかったね」
 ばくばくと激しく動く心臓で、海の中で喋るような息苦しさの中を喘ぐ。
 俺が一度殺して、目覚めた時には別人になっていたイサーク。それでも、今の眼差しは死ぬ前のイサークだった。暗い顔で俺達をじっと眺めて、トロに顔を埋めて、誰とも口を利きやしない。変な訛りを笑われたから全く喋らなくなって、黙って誰にも心を開かない問題児。
 そんなイサークの存在を、今思えば似ていると思った。
 俺は今でも他人との付き合い方が上手じゃねぇ。本当は優しく声をかけてやりゃあいいのに、口から出る言葉は雑で音はざらざらと不快を詰め込んでいる。面倒だったけど、チビ共が怪我したり泣いた方が面倒だから結局助けてやる。イサークの激しい感情の種類が、誰にも心地よいものじゃねぇのに安堵した。俺だけじゃねぇ。俺より酷い奴がいる、って。
 イサークが来て皆が嫌がることを俺に押し付けるようになったのを俺も嫌がったが、俺に役割が与えられたことを心の何処かで誇らしく思った。今思えば、クソガキの発想だ。
 それでも他人が嫌な面倒ごとは俺も嫌で、イサークが疎ましかった。
 何度もこの世界から、いなくなれば良いと思っていた。
 一度死んで、いなくなったと思った。だが、居るのか?
「お前は、本当にイサークなのか?」
 俺だったら『何を言ってるんだこいつ』って、顰めっ面する問いなのに、柔らかい垂れ目が優しく俺を見ていた。俺がイサークが変わったことを不審に思ってるって、コイツは知っている。
 一度口を出た言葉は、止め処もなく迸る。
「俺がお前を殺したから、イサークじゃない誰かがイサークの中にいてイサークのフリをしてるんじゃないのか?」
 押し出された血の量に、ずきずきと こめかみが痛む。痛みを堪える為に閉じた目が生み出した闇の中で、イサークの朗らかな声が響いた。まるで良い夢を見た朝に言う『おはよう』のような、雲ひとつない晴天の下で伸びをして『今日は天気がいいね』と言うような、さも当たり前を心地よい声で言う。
「ヒュー君はどんな答えが欲しいの?」
 どんな答え? 俺はトロの帽子が吐いた火炎の息を浴びたように、顔が熱を帯びるのを感じた。
 僕はイサークだよと言われたいのか。それとも、違うよと言われたいのか。
 違う。俺は頭振る。
 お前が何者なのか知りたいんだ。ルベカが言うように真実が知りたいんだ。俺の望みの為に嘘なんか要らない。あんな絶望に心を閉ざして爆発するように癇癪を起こした子供が、全てを達観した老人が赤子を見るような優しい顔をする。目覚めたイサークは村の誰よりも大人だった。
 今も俺の頬を両手で包み込み、笑顔で覗き込む顔は俺と同じくらいの子供じゃない。子供らしい丸みを失い大人びた顔立ちになっても、髪の間から見える細められた垂れ目に笑顔がよく似合っていた。誰にとっても心地よい声は優しく、手は柔らかく他人に触れる。
 うっすらと開いた唇から笑った吐息が顔にかかる。
「君は僕のこと理解しようとして、腹が立つほど優しいよね。でもね、しなくていいよ」
 完璧なウェナ訛りが、突き放すように言葉を紡ぐ。
「自分に都合の悪いことを、無理に知ろうとしなくて良いんだよ。皆、都合のいい自分を認識してもらって、心地よく生きて行きたいんだ。何もかも理解したいだなんて、服を脱がせて全てを見たいと願うことと一緒。大人になったらわかるよ」
 分からねぇ。今でも、大人になっても、わからねぇ。
 都合がいいって、なんだよ。心地よく生きて行きたいって、なんだよ。俺が知っちゃいけねぇのか? 俺の質問に、答えちゃくれねぇのかよ!
「ヒュー君。ルベカを海に近づかせないで」
 頬から両手が離れ、イサークは足速にチビ共の後を追いかけ始める。だけど、鈍臭いイサークの足だ。俺は直ぐに追いついて『なんでだよ?』って問い返した。
 イサークの真剣な横顔は海辺ではしゃぐルベカに向けられている。
「子供達がオバケ退治に行く5つ目の神話を、知ってるでしょう? でも、今回は子供だけじゃダメだ。大人の力も借りないといけない。どうにかしないと、ルベカの命の輝きが闇に呑まれてしまう」
 最後の方は、もう俺に向けた言葉じゃなかった。
 どうしよう。どうすれば。イサークの髪に引っかかった言葉が、足跡でぼこぼこの砂浜に落ちる。
 イサークはルベカの名探偵ごっこに辛抱強く付き合ってやった。調査と称した爺婆への聞き込みは、可愛い子供が訪ねてきた喜びのあまり海の鴎よりも軽やかになった自慢話に夕暮れまで付き合った。村長がルベカに頼んだ仕事を引き受け、村長の家の掃除に数日かかりっきり。孤児院のチビ共と釣りに行って、釣った魚を干物にする。運悪くスライムを踏んづけて派手にすっ転び腰を打った郵便配達員の代わりに、トロと一緒に祈りの宿まで何往復もする。別にルベカ関連のことばかりじゃないが、頼んだら基本断らないイサークは忙しなく村を歩き回っていた。
 そんな良い子のイサークの元に養子縁組の話が舞い込んだのは、少ししてからのことだった。
 孤児院を出る方法は二つ。一つは里親希望の大人に引き取ってもらう。もう一つはウェナ諸島での成人の年齢に達したら、孤児院を卒業する。レーン村に卒業した孤児達が残ることもあったが、大抵は少し離れた大きな町であるジュレットで暮らしているそうだ。
 イサークを引き取るとやってきたのは、旅の僧侶だった。
 別に旅の僧侶はこの近辺では珍しくない。レーン村とジュレットの間にある祈りの宿は、巡礼地シエラの最寄りの宿だ。世界中の僧侶が巡礼の為に訪れるそこは、ウェナ諸島とは思えない多種多様な種族でごった返している。
 ただ、その僧侶は護衛に剣士を連れていた。
 魔物の対処の仕方も修行の一環だと言って、巡礼者達は基本的に護衛をつけない。確かに白髪の目立つ男だったが、巡礼に来るだけあって足腰のしっかりした一端の冒険者だ。そんな僧侶はフィーヤ孤児院にやってくると、イサークを養子に迎えたいと申し出たのだ。
「なんだか、へんな ひとたち だったわね」
 イサークを見送った足で浜辺に向かい波を蹴っていたルベカの言葉に、俺も頷いた。
 今まで何度も里親に引き取られる兄弟を見てきた。里親は自分の子供になる孤児達を穴が開くほど見ていたし、迎えると決めた子供を嬉しそうに傍に置いた。器用な子供を弟子にしようと職人や商人がやってくることもあって、色々と比べたり試させたりして決めた子供を頼もしげに見下ろしていた。
 だが、あの神官は違う。
 イサークを見て硬い表情を浮かべ、言葉を聞いてぎこちなく頷いた。バルチャのじいさんも暗い表情で会話に加わっていた。護衛だろう剣士もイサークと神官のピンと張り詰めた気配に、気怠そうな表情を硬らせたくらいだ。異様な引き取りは示し合わせたように滑らかで、里親に引き取られることが決まると行う送別会すらなかった。
 まるで大魔王でも退治にしにいくみたいな感じだったな。
 ねぇ。ルベカが蹴り上げた波飛沫が、夕暮れの光を反射して輝いた。
「ヒューザは なにも きいてないの?」
 なんで俺に聞く。俺は小さく舌打ちして、記憶を逆さにひっくり返す。昨日から一昨日へ、一つ月が満ち欠ける時を遡っていく。そうして、思い出す。
『ヒュー君。ルベカを海に近づかせないで』
 あれが始まりだった気がするが、別にルベカを海に近づかせないことと旅立ちは関係ねぇな。そしてその直ぐ後に言った5つ目の神話の話。孤児院のチビ共は5つ目の神話で、子供達だけで滅んだ城に巣食うオバケ退治に行く話をイサークに良く強請った。明かりを消した孤児院の中で語られるイサークの雷の演出は、本当に身が竦んで、初めて聞くチビはちびる程怖いのだ。
「オバケ退治がどうたら言ってた気がする」
 オバケかぁ。ルベカは人差し指を顎に当てる。
「きもだめしの せきひの ことかしら?」
 レーン村の西にある慰霊の浜は、白い砂浜と嵐の日でも穏やかな波の入江だ。浜辺に降りる岸壁はやや急ではあるが、この浜辺で見る夕焼けは最高だろう。この浜辺の片隅に、今の慰霊の浜の由来になった慰霊碑が建てられている。
 結婚を目前に控えた男女が、その浜辺で立て続けに死んでしまったのだ。
 花嫁は海に引きずりこまれて溺れ死に、花嫁の死に絶望した花婿はその場で己の心臓に刃を突き立て死んでしまったと言う。花婿の血は砂浜を赤く染め、いくら波で洗っても落ちなかったと言う。その赤い砂の上に、石碑を建てたらしい。レーン村の子供達には肝試しで有名だろう。
「え? ちょっと まって、めいたんてい ルベカちゃん。ひらめいちゃったかも!」
 まだ探偵ごっこブームが過ぎ去ってなかったのかよ。
「ウェディが うみで おぼれるって、おかしくない? あらしのうみ なら わかるけど、あんな おだやかな はまべで おぼれるなんて へんよ!」
 言われてみれば、確かに。俺はルベカの言葉に頷いた。
 ウェディ族で泳げないなんて、魔物に腕や足や鰭を食い千切られたような理由がなけりゃあ、あり得ねぇ話なんだ。もしくは酒に溺れて海の底に引かれていった飲んだくれ。空と海を掻き混ぜたような大嵐じゃあ、どんなに泳ぎが得意な奴も溺れるだろう。
 だが、石碑には『海に引き摺り込まれた』とあるんだ。
 結婚を控えた花嫁がもし泳げない状態にあったとして、普通海に近づくか? 慰霊の浜で死んだ花嫁は、なんで海に行ったんだ? レーン村はウェディ族でも古いシェルナーの風習が残っていて、花嫁も花婿も用事があればシェルナーに依頼して代行してもらうもんらしいじゃないか。
 俺の同意を満足そうに見ていたルベカを見遣る。
 妙に黒い波が立つ。なぜ、波だと思ったのだろう。確かにルベカの後ろには、日が沈んで真っ黒な海が広がっている。星空の光を吸い込んでキラキラと光る夜の海と違い、ルベカの背後に立った波は一切の光のない漆黒だった。吹きつけた風は温いウェナの気候では考えられないくらい冷え切って、潮の香りではなく腐って爆発した魚の臭いがする。黒い波がルベカの足首を浸す。
「え?」
 ルベカが大きく目を見開くと、その瞳が軌跡を残すほどの勢いで落ちていく。
 まるで足首を掴まれたように、ルベカが前のめりになって倒れる。咄嗟に肘をついて顔面から砂浜に突っ込むことはなかったが、砂浜の上に腹這いになる。そのままルベカの体がずるずると海に引き摺られていく。
「え! なにこれ! 冷たい!」
 ルベカが慌てたように自分の体の跡が残る砂浜を掻く。ルベカの指がくっきりと砂浜に刻まれ、線を引いていく。
「ルベカ!」
 俺はルベカの手首を掴む。ルベカを引き摺り込む力は凄まじく、踏ん張った俺の体がじりじりと砂浜へ引き摺られる。黒い水がルベカの胸を濡らすと、ルベカの悲鳴は悲痛なものになる。身を捩って俺の名前を必死に呼ぶ。
 ついに俺の足が黒い海に浸ると、俺の足首を凄まじく冷たい手が掴んだ。今までに感じたことのない力で、足首ごと骨が砕かれちまいそうだ。黒い海の水は冬の海よりも冷たかったが、足首を掴む手はもっと冷たく握られた部分の感覚が失われていく。
 ヒュー君。ルベカを海に近づかせないで。そう言ったイサークの声が脳裏に反響する。
 これが近づかせるなって言った理由かよ! こんなにヤバいんだったら、俺は絶対ルベカを海辺に立たせなかったぞ。なんで言わねぇんだよ…!
「イサークの馬鹿野郎がぁあっ!」
 そう叫んだ瞬間、ルベカの足元目掛けて黒い鮫が横様に襲いかかった。ルベカの体が急に軽くなり、俺の足を掴んでいた力が緩む。俺は力の限りルベカの腕を引くと、まるでコットン草を引き抜くように軽々と俺の腕に引き上げることが出来た。
 そのまま逃げるように俺はルベカを抱えて、海から遠ざかる。砂を蹴り、草を踏み分け、椰子の木が何本も前から後ろへ流れていく。助かったことに泣き叫びながら抱きつくルベカの肩越しからは、もう海は見えなくなっていた。
 それから何度か月が満ち欠けた頃、イサークがレーン村に戻ってきた。お疲れ様と能天気な笑顔で労う顔に、俺は拳を叩き込んで出迎えてやった。
 護衛の剣士がイサークを養子に迎えたいと申し出たが、神官がダメだと揉めていた。なんだか良くわからないが、イサークは卒業までフィーヤ孤児院で世話になるらしい。
「それで ルベカちゃんは わかったの! はなよめは あいつに ころされてしまったの!」
 まーだ、名探偵ごっこ終わってなかったのかよ。
 ルベカは村の高台の泉の周囲をのしのしと亀のように動き回りながら、饒舌に名推理を語る。日向ぼっこをするトカゲでも見てようものなら、『よそ見をしない!』と雷のようなキンキン声が降ってくる。聞く側も妙な緊張感に晒されながら、迷探偵の前に立たされる。
「はんにんは きっと いきているわ! ひげきは くりかえされる!」
 胸の前に手を組んで悲劇的な声で叫んだルベカに、イサークは拍手を送った。
「すごいね、ルベカちゃん。でもね、もう、悲劇は起きないよ。犯人は死んでしまったんだ。ルベカちゃんも、海に近づいて大丈夫だよー」
 ほんとうに? そう何度も疑り深く訊くルベカに、イサークは根気強く大丈夫と答える。何度も何度もしつこく繰り返したが、イサークの言うことをルベカは信じることにしたらしい。ぐっと真一文字の唇に、真剣な瞳がイサークを見つめる。
「ぜったい へいき?」
 ぐっと突き出した拳に、イサークもこつんと拳を当てる。
「勿論。マリーヌ様に誓うよ」
「イサークが いうなら しょーがないわね! じゃあ、いれいのはま なんてダサい なまえじゃ なくなるね!このしんじつ いただきます!」
 ありがとうねー。イサークがへらりと笑う横顔を見る。
 ルベカを海に近づけるなと、俺に頼んだ。
 もう、悲しいことは起きないと断言した。
 死んでしまったと、犯人の死を見てきたと告げる。
 イサークは全部わかっていたんだ。そう思うと腹立たしくなってくる。ルベカが危ねぇって分かっておきながら、どこほっつき歩いてたんだよ。大事な時に居ねぇんじゃ、意味ねぇじゃねぇか。
 満面の笑みのルベカに笑顔を返すイサークは、ぐるりと俺に顔を向ける。笑顔を貼り付けたまま、怒りを含んだ棘のある声を投げかけてきやがった。
「ヒュー君。きちんと伝えたのに、馬鹿呼ばわりしないでよ」
 俺が何時馬鹿呼ばわりしたってんだ。俺はイサークの頭を拳で小突いた。

 なんつーか、イサークは鈍臭いんだよ。魔法は使えるかもしんねぇけど、戦闘は前向きって感じじゃなくて絶対仲間って言ってる連中に迷惑掛けてる。この前なんか冥王とかいう魔族を仲間と倒してきたと笑って話してきやがったけど、嘘じゃねぇにしても足手まといだったんじゃねぇのか?
 本当に頼りねぇから、危ないところなんか行くんじゃねぇって思うんだ。
 そんなことを恨みがましく言っていると、フィナがくすくすと笑い出した。
『イサークが大事なのね、ヒューザ』
 大事じゃねぇ。そんな否定を舌打ちにして返すと、フィナは微笑んだ。
『愛憎は表裏一体。マリーヌ様は好きな人ほど愚痴が多い方だったの』
 マリーヌ。その名前を、フィナは愛おしそうに呼ぶ。
 ウェディ族の種族神マリーヌ。俺はそのマリーヌと繋がる、特別な命なのだという。俺の魂を通して世界を感じ、俺の目を通して世界を見る。別に特別な力もない、性別すら違う俺が女神と繋がっているだなんて、なんだか変な感じだ。
 歌が上手くて、なんでも器用に出来るイサークの方が、よっぽどお似合いだ。
『貴方はマリーヌ様に良く似ているわ』
 フィナが俺の手を胸に引き寄せると、安堵したかのように丸くなる。すうすうと穏やかな寝息が聞こえてくるのに、時間は要らなかった。本当は振り解いて腐れ縁のあの面倒な背中を追いかけたかったが、女を放って出てきたと知られりゃあ、烈火のように怒るだろう。
 イサーク。俺の呟きが泡になって昇っていく。
 お前の横に居られれば、お前をすぐに助けてやれる。それなのにお前の横に立とうとすれば、するりと何処かへ行っちまう。今は追いつくことすらできねぇで、焦ったさが募るばかりだ。
「無茶すんじゃねぇぞ」
 燻る熱の中から、答えの見つからない疑問が浮かび上がってくる。
 俺は、お前の何なんだろう。