煮詰めた想いが苦すぎて困る - 後編 -

 海底都市ルシュカの神秘の珊瑚が放出する空気が届く限界の地域、ガイオス古海。さらに他の海域よりも深海に位置する為に、カシャルが泳いだことで取り込まれる空気はここまで届かない。息苦しさが常に付き纏い、重く冷たく伸し掛かる深海の圧力は、体だけでなく魂まで搾り上げていくようだ。
 深くなればなる程に光は届かず、まるで明かりのない夜に包まれているようだ。時折差し込んだ光が、天使の階梯のように闇を切り裂く。海に漂う小さい生き物達が光の中でちらちらと星のように瞬いている。
 そんな闇の底には、多くの物が沈んでいる。
 巨大な生物の骨の残骸。沈没した船。かつて地上にあった都市の跡。それらが、積もった砂を払うことで現れる舗装された道から見渡すことができた。古の何もかもが眠る場所。墓場以外形容仕様のない世界だ。実際に沈没した船には、未練がましい魂達が己の骨にしがみ付いてお宝を手にする夢を見る。
 冥界の水の底。梯を昇ることが出来ない魂達は、こんなところに沈むんだろう。そう、思わせる懐かしさが古海にあった。
「酷い魔瘴の臭いですね。闇の領界とは違う息苦しさを感じます」
 後を付いてくるエステラさんが、重たそうに頭を支える。
「ルビーと共に、沈没船の海賊達の元で待っていて良いのだぞ?」
 僕らは魔瘴が噴き出る海溝を目指して進んでいた。近づくにつれ魔瘴は濃さを増しているが、海に溶け込み拡散している魔瘴に対しては特別な詩歌の効果は弱い。アストルティアでもこれ程の濃度の地域は、出入りが禁じられる。即座に死ぬ事はないが、長時間居座ればそれなりに体調を崩すだろう。
 先頭を進んでいたラッチーが振り返り、寒さに歯の根の噛み合わぬ竜族達を見る。気遣われていると察したエステラさんが、しゃんと背筋を伸ばして『この程度、なんの問題もありません!』と空元気で答えた。
 ラッチーがどうする?と向けた視線に、僕は水掻きの抵抗で重い手を振った。
「もう、目的地だから行っちゃおう」
 水面から蜘蛛の糸のように細い細い光が、麗しき女性の額に落ちていく。しなやかな指先を踊るように優美に振って、腰まである長い髪が流れるように体の周りに添う。整った顔立ちはまさにウェディの誰もが目指した究極の美。穏やかな海のような柔らかい笑みの裏には、嵐のような荒々しい激情が潜んでいることを知っている。
 ウェディの種族神、マリーヌ様。
 見る目のある海賊達が惚れ込んだ女神様だったが、彼らの船は海のように自由で奔放なマリーヌ様には狭かったんだろう。石像の重みに耐えきれず海賊達の船は、女神様諸共このガイオスの海に沈んでしまったのだ。
 マリーヌ様の周囲には多くの瓦礫が流れては引っかかってしまって、腰の辺りまで丘のようだ。積み上がった瓦礫を両手両足を駆使して上がると、カシャルの加護の外の世界が一望できた。
「ここが、この水の領界で最も魔瘴が湧く場所だよ。今じゃあ数日に一回は歌いにくる」
 竜族達が言葉を失ったように立ち尽くす。
 先ず目につくのはマリーヌ様の背後を走る、この領界で最も深い海溝だ。幅だけでもルシュカがすっぽり入るほど広く、底は真っ暗な闇に浸されている。そこから同じ色の闇が魔瘴となって噴き出して幕のように視界を遮っているのだ。海溝の向こう岸は珊瑚や魚の影は殆どなく、魔瘴が海流に流されて晴れた一瞬だけ殺風景な荒涼とした海底が広がっているのが見えるだろう。
「この巨大な海溝から魔瘴が湧くのか…」
 ルアっちと魔瘴で死にかけたトビアスさんは、事態の深刻さに眉根に皺を刻む。
「神秘の珊瑚が放出する空気の流れの関係で、湧いた魔瘴は竜族達の生息圏には流れ込んではいない。でも、日に日に噴き出す量が増えていってる」
「対策が急がれますね」
 そう言いながらも、エステラさんは海溝を見渡して黙り込んだ。淡い珊瑚のようなコーラルピンクの長髪が、闇に向かって吸い込まれるように揺れている。両手杖を握っていない手が、険しく惹き結ばれた唇の下に添えられた。
 そりゃあ、打てそうな手は見つからないよね。蓋をするにも海溝は大きすぎるし、魔瘴が湧くのはここだけではない。水の領界は魔瘴によって平和が脅かされようとしているのを、指を咥えて見ていなくちゃならないんだから。
 ラッチーが口笛を響かせると、海溝の向こうから発光する魚影が向かってくる。ラッチーが袋に手を入れて巨大な肉の塊を取り出せば、光は高貴な姿の竜の形になった。龍宮王とも呼ばれる深海に暮らす魔物は、真っ白い鱗に虹を這わせ、知的な瞳で僕らを見遣った。音波のような鋭い音が、嘴のような硬い口が開くごとに耳を貫いた。
 苦しゅうないと言いたげに漂う真っ赤な腹を、ラッチーは手にした棘ウニで力一杯掻いている。あそこが痒い、ここが痒い。龍宮王は海の中でぐるんぐるんと身を捩った。
 魔物の言葉は訛りが強くて聞き取りはレディ・ブレラでも難しいが、ラッチーは辛抱強く耳を傾けてくれた。そうして手に入れた情報は、僕達が知り得ない海溝の底のこと。
「この亀裂の底 ナドラガの 鱗 いっぱい 落ちてる らしい」
「やっぱり」
 僕は表情が強張るのを堪えることが出来なかった。
 ナドラガンドの魔瘴の原因を突き止めなくては、いくら歌で押さえ込んでもイタチごっこだ。魔瘴は水の領界に無数に存在する海溝や海底から噴き出る。この領界の底に原因があると睨んでいた。
「どういうことですか?」
 僕はエステラさんとトビアスさんに向き直り、二人の瞳を覗き込むように見つめた。驚かないで聞いてほしい。そう静かに告げて、冷たい海底の水を肺の奥まで吸い込む。
 ふと、足の裏から振動が這い上がってくる。振動は海の水を揺らし、僕達の体を次第に大きく揺さぶって地面に叩きつける。地響きが突き上げたと思った瞬間に、指先すら溶かしそうな漆黒がマリーヌ様の向こうを覆い尽くしていた。
 まるで噴火だ。僕は海溝から湧き上がり海面へ膨らんでいく闇に、体の芯が冷えていくのを感じていた。これほどの規模、特別な詩歌では抑えることなんて出来ない。
 闇は今も湧き上がり際限なく広がり、ルシュカへ向かう海流に引っ張られつつある。このままではルシュカに多量の魔瘴が降り注ぐのは必至だ。
「なんてこと…」
 海面を呆然と見上げていた僕達の中で、一番早く立ち直ったのはエステラさんだった。
「ルシュカの民に避難を呼びかけましょう」
「俺達が言っても、ナドラガ神の災いだと聞く耳持たんかもしれん。今はルシュカの連中よりも…」
 頭振ったトビアスさんが突っ撥ねれば、来た道を振り返る。激しく地面が揺すり上げられると、瓦礫が引っかかって堆積した脆い地面が崩れていく。大きい瓦礫が海溝に一つ落ちれば、がらがらと大小問わず瓦解していく。地面と共に海溝に落ちてしまったら、先ず助からないだろう。
 逃げ道を失い、背後には死。僕達は突然の危機に言葉を失う。
「このまま 死ぬ! いけない!」
 ラチックが僕の腰を掴むと、マリーヌ様に向けて投げる。エステラさん、トビアスさんと次々に投げ込んで、僕らは美しいくびれにしがみ付くしかない。巨大でしっかりと地面に台座がついていたマリーヌ様の巨大石像は、この地震にもどっしりと構えてくださった。まさに大海の安定感。僕は種族神に一生ついていくって誓いを新たにする。
 トビアスさんが差し出した両手杖に捕まってラッチーが石像に辿り着いた時には、マリーヌ様の石像は膝の辺りまで露出していた。落下した瓦礫が海溝を刺激し、さっきよりも濃厚な魔瘴が噴き出す。逃げ場のない僕らは成す術なく魔瘴に包まれる。
 激しい咳が闇の中に響く。海溝に落ちずに済んだが、このままでは魔瘴に侵され死んでしまう。肺が軋んで声が出ない。
 どうすれば。僕はマリーヌ様にしがみ付く。
 手を離してしまえば、どこへ吹き飛ばされるか分かったものじゃない。神秘の珊瑚が放つ空気の外に吹き飛ばされれば窒息し、海溝に落ちれば水圧に押し潰される。このままでは魔瘴によって死ぬとしても、泳ぎが得意な僕ですら逃げ出すなんて選択は出来なかった。
『ぴぃ!』
 甲高い可愛らしい声が闇を貫いた。
 べん!と何かが頭上に当たったのか、マリーヌ様に鈍い衝撃が走る。腰に縋りついた僕達の元に転がり落ちてきたのは、白くて丸い、ドラゴスライムみたいな生き物だ。柔らかくて、暖かくて、天使の翼のような羽の先端は可愛らしい桃色だ。真下でしがみついていたトビアスさんの胸の中に、生き物は引っかかった。白い肌には美しい紋様が描かれ、真紅の瞳は涙目だが理性の光が灯っている。小さい嘴みたいな口元をもごもごと動かすと、ぴぃ!と甲高い声が迸った。
「こいつ、氷の領界で魔瘴を食った奴じゃないか!」
 驚きの声を上げたトビアスさんの胸に、神聖な見た目よりもずっと無邪気に生き物は擦り寄った。控えめに言って、とても可愛い。再会を喜ぶように胸の中でぐりぐりと頭を押し付けていた生き物は、一声鳴くとツンと尖った口をぱかっと開いた。
 風が動いた。
 海の中なのに風が動くなんて、変な表現だ。だが、それは確かに風だった。
 生き物は海の水を吸い込むことなく、魔瘴だけを吸い込み始めたのだ。僕達の髪や服を引っ張りながら、殺そうと包み込んでいた魔瘴が吸い込まれていく。窒息してしまいそうな息苦しさが和らぎ、僕らの周囲が晴れ渡る。
 ふわりと生き物は翼を羽ばたかせると、マリーヌ様の頭上まで舞い上がった。
 まるで積乱雲のような真っ黒い魔瘴の塊が、白い生き物に収束していく。吸い込んで、吸い込んで、黒はどんどん小さくなっていく。海溝から噴き出す魔瘴の勢いは衰え、深海の深い藍色が迫ってくる。そして僕らの目の前で、ついに白い生き物はあの大量の魔瘴を吸い込み切った。
 けぷ。
 魔物は息を吐き、よろよろと飛んでいく。姿が岩影の向こうに消えた時、誰かが『助かった』と漏らした。
 僕もマリーヌ様の腰に力無くもたれ掛かった。マリーヌ様にだらしなくもたれ掛かるだなんて恥ずかしいことだけれど、本当に奇跡以外何て言えば良いんだろうって運の良さだった。
「少し休んだら、ここを離れよう」
 もう、特別な詩歌は必要ないほど、古海は本来の穏やかな深海の姿に戻っていた。
 マリーヌ様の石像の周囲の瓦礫は、今の衝撃でほとんどが崩れ落ちた。僕とラッチーは泳げたけど、エステラさんとトビアスさんは泳げない。僕が手を引っ張って安全なしっかりした地盤までエスコートしたよ。勿論、終始真面目顔だったよ。頑張って泳ごうとしてるんだもの。例えプクリポの犬掻きより酷い泳ぎ方だって、絶対に笑っちゃいけない。
「あの生き物が来てくださらなかったら、死んでいましたね」
 硬い地面を踏み締めて、エステラさんは改めて皆の無事を喜んで微笑んだ。全くだと頷いたトビアスさんは、そのままサラリと赤い髪を揺らして首を傾げた。
「しかし、なぜ現れたんだ? 氷の領界とは別の個体なのか?」
 その割にはトビアスさんに懐いてる感あったけどなー。魔瘴が湧く場所に現れて、魔瘴を食う。魔物は魔瘴に対して凶暴化すれども死にはしない耐性があるが、魔瘴を摂取する存在はいない。それにあの白い生き物はカシャルに似た神聖な気配がする。吸い込んだ魔瘴を浄化する力があるという推測の方が、しっくりとくる。
「現れるべくして、現れたんだと思う」
 僕の言葉に、皆の視線が集まった。僕は一人一人の目をひたと見て、ゆっくりと告げた。
「ナドラガンドの魔瘴は、ナドラガ神の体から噴き出しているんだ」
 神を侮辱するような発言にトビアスさんの目に怒りが滲んだが、ぐっと飲み込んでくれた。静かに、僅かに震える声で『どういうことだ?』と問い返す。
「先ずはアストルティアに流れ込んだ魔瘴は、魔界から噴き上がったものだ。彼の地の魔瘴は魔界に由来する。魔瘴は元となる原因が必ず存在するんだ」
 魔界に近いが故に長く魔瘴に晒された地域は、魔瘴が侵食して汚される。中には魔瘴石という高純度で魔瘴が結晶化した物質が生まれ、それ単体で所持者の健康を害する魔瘴を放出する。理由は一つではないが、アストルティアの魔瘴被害は偏に魔界の魔瘴に理由がある。
 竜族達が魔瘴を知らなかった事実から、分断されたナドラガンドは魔界の影響を受けていない。分断される前、神話の時代に魔瘴の原因がナドラガンドに齎された。不思議なことに魔瘴の原因は存在するのに、それは眠ったように動かなかった。
 動かなかった理由。動いた理由。それは何か。
「着目したのは魔瘴が現れた時期。君達が解放者と呼ぶダズダズが、炎の領界を解放した頃だ」
 アストルティアでダズダズに聞いた話から、おおよその時期を割り出す。その時期が、水の領界で初めて魔瘴が発見された時期に近かったのだ。
「さらに領界が解放されて被害が深刻化している」
 領界が繋がり、分断されていたナドラガ神の肉体が共鳴しているとしたら。まだ、全ての領界が解放されていない状況で、この規模の魔瘴が噴き出している。
 あの白い生き物が何者かは分からないが、竜族の目撃例が無いなら魔瘴の噴出をきっかけに現れたと考えて良いだろう。おそらく、ナドラガンドが魔瘴によって滅ぶ可能性を予測していた誰かがいる。
 全ての領界が解放されれば、何が起こるのか。
 トビアスさんの桜色の鱗が赤みを増して、ぞわりと逆立ったように見えた。ぐっと噛み締めた奥歯の音が、水を伝って僕の耳に触れる。怒りを感じるほどに寄せられた信頼を傷つけることが、たまらなく辛かった。
 吸い込んだ息は体を芯まで凍てつかせ、己の熱で温めて言葉を乗せる。
「水の領界の伝承である『竜の神は嘆きをもたらす』。それはナドラガ神の体より噴き出す、大量の魔瘴のことだと思う」
「貴様も、ナドラガ様が災いを齎らす存在だと言いたいのか!」
 ついにトビアスさんの腕が僕の胸ぐらを掴んだ。怒りよりも、動揺が感情を激しく揺さぶって混乱しているんだろう。エステラさんが間に割り込もうとするのを、僕は手で制した。
「邪悪なる意志によってナドラガンドにばら撒かれた魔瘴を、ナドラガ神が体の中に封じたかもしれない。経緯はわからないけれど、分断されたナドラガ神の体に大量の魔瘴が蓄積されている可能性は無視できない」
 ナドラガ神を悪し様に言った訳ではないと伝わったのか、トビアスさんから手の力が抜けていく。絶望を突きつけられたように、見開かれた目は虚空を覗き込んでいる。
 エステラさんが震えるトビアスさんに寄り添い、僕を見る。
「嵐の領界の民は、厄災に苦しめられているやも知れません」
 解放者の責務はよく分からない。それでも、ダズダズの声には故郷の民の苦しみを知るからこその、在らん限りの苦しみが込められていた。あんな苦しい声で竜族を救いたいと言ったダズダズに、僕だけじゃない、皆が力になれればって思ってる。
「勿論。嵐の領界の竜族を助けないって選択肢はないよ」
 魔術的にも循環は大きな意味を持つ。
 領界全てを解放したとしても、最後になるだろう嵐と炎の間を繋がなければ循環を避けることができる。でも魔瘴の勢いが止まらなければナドラガンドは滅ぶ。それでも、嵐の領界を解放すれば、ナドラガンドの全ての竜族を救済する事はできるだろう。
 全ての竜族を救うことと、ナドラガンドの崩壊が天秤に掛けられる。釣り合うことのない、必ずどちらかが大きく傾いて落ちる天秤。
 平穏な生活を営む水の領界の竜族が、他の領界の竜族の苦しみを見て見ぬフリをする理由に納得いく答えが導き出された。助けようと思っただけで自分達の生きる場所が崩壊するのなら、見えない同胞など存在しないものとすればいい。
 だが、それはナドラガンドが隔絶されていた今までの話だ。
「水の領界の竜族は間違ってる。アストルティアに避難する選択肢だって、今の僕らなら選べるはずだ」
 竜族の隠れ里にいたオルゲンさんを中心に、ナドラガンドの竜族を受け入れる。土地が足りないなら、僕らの伝手で大陸の王族に交渉することだって出来るはずだ。
 そう訴える僕の言葉も届かず、エステラさんは青白い顔で項垂れた。
「全ての領界を解放すれば、ナドラガ神が我々を救ってくださる。我々を見捨ててしまわれるだなんて、そ、そんなこと…」
 悲嘆に暮れた声に、胸が押し潰されそうだった。信じていたものが覆され、寄る方を失った絶望感。幼い日の僕はその絶望感に泣き叫んだが、誰も助けてはくれなかった。暖かいトロの温もりだけが、突きつけられた絶望から守ってくれた。
 僕は運が良かった。でも、彼らは?
 絶望から守り今に縋り希望まで持ち堪える言葉が、僕には思い浮かばない。
「ダズニフ 救う 言った」
 ラッチーの声が彼らの希望の名前を告げる。ダズダズは彼らを決して見捨てない。そして、僕らも竜族を救いたいダズダズの力になりたいと思っている。
 信じる必要なんてない。
 僕らは、竜族を救う。ただ、それだけだ。