ルシフェルが囁いたその果実の味は - 前編 -

 海底都市ルシュカの神秘の珊瑚。エルフの種族神が生み出したとされる世界樹を彷彿とさせる巨木のような珊瑚の根元には、海底都市ルシュカの共同墓地があるのです。大人の身の丈程の大きな石碑の周囲には、長年供えられた花の種が根付き美しい花畑が広がっています。海面から注ぐ月明かりのような柔らかい光を珊瑚が移ろう七色に変え、色とりどりの花々は生命の輝きを放っています。私は祈る手を組んだまま、神秘の珊瑚が放つ細やかな空気が筋状になって海流に流されていくのを見上げる。
 普段なら先祖や友人を弔う為だけでなく、憩いの場としても人が絶えぬ場所。しかし、今は青の騎士団によって人払いがされ、私以外は誰もいません。
 ゆっくりと背後から近づいた者が傍に並ぶ。背の高い男性が石碑に向かい合い、膝を折って頭を深々と下げて祈り始める。無言のまま随分と時間が経った頃、男はゆっくりと手を解き緩慢な動きで立ち上がると、私に向き直って竜族における最上位の礼を捧げたのです。
「カシャルの巫女、フィナ殿。お初にお目に掛かる。私はダズニフ。炎の領界から参りました、解放者と呼ばれている者です」
 知っている。解放者の気配は水の領界に入った瞬間から感じていました。
 炎の領界を舞う聖鳥の力を宿し、氷の領界の命を支える恵みの木の気を取り込み、闇の領界を見守るパティチャカの呼吸を得た男。懐かしいアストルティアの匂いもした。まるで邪神に堕ちる前のナドラガを彷彿とさせる、太陽のような大きな気配。虹色を帯びた銀の鱗は、遥か昔ナドラガを信仰したエジャ聖堂を預かる司祭の末裔だと分かる。黒髪は海にふわふわと柔らかく浮かび、その下に見え隠れする瞼は固く閉じられている。竜族では珍しく竜の頭を持った男は立ち上がると、うっすらと微笑むように顎門を開けた。
「今日は貴女に宣戦布告を告げに参りました」
 心地よい声色が告げた言葉は、恐ろしい破滅の引き金。
 しかし、驚きはありませんでした。あの忌むべき神を信仰する神官達がきた時から、避けることが出来ぬ運命でした。神官達が何も知らぬまま、邪神ナドラガを復活させようとしている。他の領界は、長き贖罪の日々で伝承が正しく伝わらなかったのでしょう。
 私が喋れぬことを聞いているのでしょう。私が何の反応もなく立ち尽くしているのを、目が見えぬ解放者が気にする素振りはありません。
「無論、イサークから聞いています。引き裂かれ各領界に封印されたナドラガ神の体に、多量の魔瘴が蓄積されている可能性。そうでなくとも、領界を解放する毎に魔瘴が噴き出し、全ての領界が解放し繋がればナドラガンドは魔瘴に沈み滅ぶ…とも」
 するりと出たイサークの名前から、解放者はアストルティアに一度出向いたことがあると聞いたのを思い出しました。
 マリーヌ様が愛した美しい歌声と、舞うように泳ぐ子供。魔瘴を抑え付ける稀有な歌声を持つ彼は、魔瘴の原因にも到達した。なんて勇敢で賢い子。マリーヌ様の器が気になってしまうのは、繋がっているマリーヌ様の影響もあるのかもしれないわ。マリーヌ様は、見た目だけで靡く方じゃなかったんですもの。
 彼が導き出したナドラガの肉体に蓄積した魔瘴は、ナドラガンドが滅亡するに値する量であることに間違いありません。だからこそ水の領界では『嘆きを齎す竜の神』と伝え継いでいるのです。
 今までのナドラガンドは分断されていた為に魔瘴の被害はありませんでしたが、炎と氷の領界が繋がったのを契機に魔瘴が発生し始めています。彼の言葉から、魔瘴が危険なものであるとも分かっているようです。
 そこまで知っているなら、なぜ?
 浮かんだ疑問を発してもいないのに、解放者はまるで説法を説くように言葉を続けました。
「フィナ殿、貴女は聞いた筈です。この水の領界以外、少なくとも炎、氷、闇の三つの領界の竜族は果てしなき厄災に苛まれていることを。その厄災は遥か未来、竜族が赦される時まで続く」
 解放者は『…もしかしたら、貴女は既にご存知だったかもしれませんね』と口の中で囁いた。
「他の領界の竜族に手を差し伸べる決断をしなかった貴女を、私は非難しません。水の領界の伝承から、貴女はナドラガ神と魔瘴の関係を知っていたでしょう。そして、貴女はルシュカの民という手の届く限りの竜族に多くの幸福を与えてくださった。ナドラガ神に代わり、深く感謝申し上げる」
 感謝を込めて深々と下げられた黒い頭が、ゆっくりと上がった。彼がこれほど緩慢に動くのは、私に害意がないことを示す為なのでしょう。海水に満ちた青の騎士団の者達の殺意の中で、解放者は務めて穏やかに語り続ける。
「イサークとラチックを見た貴女なら、今のナドラガンドがアストルティアと繋がっていることを察しているでしょう。今の竜族にはアストルティアに避難する選択が選べるのです」
 神々によって奈落の門は破壊され、隔絶されたナドラガンド。しかし、海の中でヒューザを見つけた時、私はナドラガンドとアストルティアが繋がったことを知ったのです。
 それでも、私は他の領界の竜族を助けたいという、神官達の願いを拒絶したのです。ヒューザの言う通り、フィナならば協力を惜しまないに違いないのに。魔瘴が溢れナドラガンドが滅ぶとしても、生き延びる道が存在するにも関わらず。
 私が噛んだ唇に解放者は触れる。血が出ますよ。そう窄めた口が囁く。
 解放者は神秘の珊瑚を見上げるように顔を上げた。ルシュカに満ちる民の声に耳を澄ますことに、海に満ちる香りを嗅ぐことに、たっぷりと時間を使った後に私に向けられた。
「この豊かで平穏なルシュカがあったからでしょう。民を守る為の貴女の判断は正しい」
 ふわりと笑った顔は、先程の宣戦布告を告げたとは思えぬ慈しみに満ちていました。そんな笑顔で解放者は言う。
「しかし、私は違う」
 解放者は過去を思い返すように顔を上げ、言葉を泡にして吐き出します。
「私は多くの同胞の苦しみを見てきました。渇きと熱に炙られ死ぬ命を数え切れぬ程、この手で弔ってきました。魂が凍りつき生命を奪われる極寒の絶望が、この身に刻まれています。かつての同胞の罪である毒が齎した、内臓の全てを吐き出させるほどの苦しみを忘れることはありません」
 それが竜族に課された贖罪の日々。それだけの大罪を竜族は犯したのです。
 だが、私は卑怯者だ。
 水の領界の竜族は、神獣カシャルの恩恵によって平穏な生活が約束されている。他の領界の竜族が苦しみ死に罪を贖っていると言うのに、この領界の竜族だけは、私の目の届く範囲の民だけは、その贖いから逃れられてる。
 不公平だ。そう罵られても反論は許されない。私は大罪人だ。竜族が罪を贖う機会を奪い、他の竜族が贖っている現実から目を逸らす。
「私は赦しの時が来るのを、待つつもりはありません」
 解放者は私の目をひたと見つめるように、顔を向ける。
「結果、ナドラガンドを滅ぼすことになったとしても、今、私は竜族を救いたい」
 なんと愚かな。
 いつか罪が許された時、竜の民は永年の罰から解放され救いが訪れる。悠久の時を耐え忍んできたのに、なぜ、残りの時を待つことができないのです?
 私はその言葉を吐くことはできませんでした。心の底から私の声が溢れて、本来諭すべき言葉を痞えさせる。
 いつかとは何時なのか? 明日なのか、来年なのか、百年、一千年。…いいえ、今はもう神話の時代が経るほどの時間が過ぎ去っているのです。この水の領界の竜族は平穏に包まれ寿命を迎える幸福を得られましたが、贖罪の日々を送る竜族達がどれほどの不条理に苦しんだか、想像を絶することでしょう。これから、何人死ねばいい? 何万、何億、星の数にも等しい、最早罪と関係のない命が罪を償う為に死んでいく。
 いつまでこの地獄は続くのでしょう?
 私はいつまで、罪を重ねていかねばならないのでしょう?
 もう良いのでは? 罪を犯したのは自分であるはずなのに、何を言っているんでしょう。しかし心の底で囁かれた言葉は、かつて大事な存在と分け合った果実のように甘い香りを漂わせる。
「これは誰の命令でもありません。ナドラガ神の教えを伝える総主教オルストフによって、導かれた選択でもありません。苦しみ悶える同胞達の懇願に応えたものでもない。全てが私が選んだ選択であり、私が背負う責任です」
 固く閉ざされた瞼がうっすらと開く。真珠のような七色の輝きが表面を滑る瞳が、歪んだ私を映し込んでいる。
「私は竜族の誰よりも傲慢な意志によって、竜族の全てを救わんと望んでいます」
 あぁ、この男は正しくナドラガの子供だ。そう確信するのです。
 ナドラガはどの種族神よりも傲慢でした。女神ルティアナの長子であり、特別な寵愛を受けた空の神。彼は他の兄弟神にはない、様々な特権を持っていました。衝突の絶えない兄弟神の調停。竜族という斗出した種族を司ること。そして女神ルティアナより賜った『創世の霊核』。
 女神ルティアナがお隠れになった後、彼がアストルティアの神々を束ねるのは必然でした。
 それは彼の傲慢さ故。
 彼はその傲慢さで弟妹神の不和を許しませんでした。母であるルティアナの望むアストルティアの平穏を成すために生まれる、ありとあらゆる対立を、彼はその傲慢さで押し潰してしまう。
 この解放者に、弟妹神から兄と慕われし頃のナドラガが重なって見えたのです。
 フィナ殿。呼び掛けた解放者の瞳は、もう閉じられていました。
「明日、水の領界が最も明るい時刻に鐘が鳴る頃、私達は天水の聖塔へ踏み込みます。目的は嵐の領界への道を開くこと。民に危害を加えることはしませんが、避難も戦いの準備も望むようになさってください」
 そうして、解放者は深々と礼を捧げる。
「私達の正義のどちらがより正しいかは、もはや言葉ではなく行動で比べるしかないのです」
 美しい所作で踵を返す解放者の向かう先には、炎の領界からやってきた二人の竜族が、水の領界の為に尽くしてくれたイサークとラチックがいたのです。連れ立って離れていく背中を、私はただ見送ることしか出来ませんでした。
「フィナ…」
 ヒューザの優しい声色が私に掛けられ、肩を支えられたことで激しく震えているのを初めて知る。私を慕う水の領界の竜族達が、遠ざかる背中を忌々しく見つめていました。
 この争いは私が作り出してしまったのだ。
 これが、私に課される罪。
 私は両手で顔を覆い、座り込んだのです。

 □ ■ □ ■

 青の騎士達が慌ただしく代わる代わる私の元にやってくる。
 魔瘴から守っていただくよう神獣カシャルに祈祷するという名目で、民は神殿に集めること。神殿と町の守りに最低限の人員を配置し、残りは天水の聖塔で賊を迎え撃つこと。指揮はディカスが、守りの要はヒューザ担ってくれること。私はそれらを上の空で聞いていました。
 フィナ様。目を凝らすとディカスが私の前に膝を折り、深々と首を垂れていました。見渡せば彼の後ろに多くの騎士達が、壁際には神殿で働く多くの民が畏まっている。ある者は私に敬意を捧げ、ある者は私を通じて神獣カシャルに祈る。
「どうか、悪しき存在からルシュカを守る為、カシャル様のご加護を…」
 そう、それがフィナの存在意義。私はルシュカの民を守る為に存在するのです。
 神々が竜の民に与えた天罰の一つとして、ルシュカが海底に沈みました。海底は牢獄のように竜族を海底に繋ぎ止めたのです。多くの竜族が遥かな海面を目指して泳いだことでしょう。しかし、荒れ狂う海面が生み出した激しい濁流に、いかなる屈強な竜族をも海面に到達することはできなかったのです。
 海流に揉まれて叩きつけられ即死する者。吐息を与えられ、死にゆく母に縋りつき泣く子供。海の中の魔物達に蹂躙され、次々と食い殺され赤く染まる海。神に祈り静かにこと切れる命。水の領界として分断された世界は、生きとし生けるものを滅ぼす地獄と成り果てたのです。
 嘆きは海の隅々まで響き渡り、苦しみは血となって海に満ちていく。カシャルは地獄となった海の片隅で、耳を塞ぎ目を閉じて震えていたのです。
 神獣は悲痛な声で泣く。命が消えていくのが辛い。苦しむ声が痛い。
 一縷の望みを神獣に託す為、都から決死の部下達の吐息を継いで姫は進軍する。息が尽きた者はその腹を切り裂いて魔物を誘き寄せ、力がある者は姫の体を押して一刻を争う道を進んだ。屍が転々と転がる道を振り返ることなく、姫は耳を澄まし神獣の声を追う。
 来ないでと神獣は訴える。全てが静かになれば楽になる。放っておいて、と。
 しかし、ついに姫は神獣の元に辿り着いてしまったのです。
 姫は後一つ吐息を零せば息絶えてしまう。数多の岩に体をぶつけ傷だらけの体、包んだ衣は襤褸布のよう。それでも、その希望を目の前に輝く瞳に、他者のために燃える魂に、カシャルは目を逸らすことができませんでした。
 姫は最後の息を民の為に使った。
『今まさにルシュカは沈もうとしている。死にゆく民を助けて欲しい』
 カシャルは今まさに息絶えた姫の願いを聞き届け、生き残った竜族を救いました。以後、姫と同じ姿の巫女が数百年に一度生まれる。次代の巫女は姫の名前と巫女の使命を引き継ぎ、今へ続くカシャルの祈りとルシュカの平和を紡いできたのです。
 私はルシュカの民達さえ生き長らえれば、それで良い。それがどれだけ自分勝手で愚かであると分かっても、私はルシュカの民達を愛しているのです。
 私が一つ頷くと、民は更に深く頭を下げたのです。張り詰めた空気が、カシャルの守りを得たことで緩んだのを感じました。
 傍で舌打ちが小さく聞こえた。
「甘っちょろい連中だな。イサーク達はカシャルが出てくるのも覚悟で来るだろうに…」
 私にしか聞こえな呟きに、私は静かに目を閉じる。
 各領界の塔には領界を繋ぐ鍵である円盤を守護するものが存在し、更に各領界を見守る神獣達も存在します。解放者達が水の領界に至るまで、どのような困難を乗り越えてきたのかは、イサーク達から伝え聴くことは出来ませんでした。それでも神々が用意した試練を突破する慧眼が、守護者を打倒する力が、神獣達が認める意志が彼らにはある。カシャルの加護を得られたからと言って、決して安心してはいけない相手なのです。
「フィナ様。そろそろご準備を…」
 騎士に促された私は神獣カシャルに懇願する為、神殿の最も高い塔に登る。登り慣れた階段であるのに、水の中ならば僅かな力で浮き上がる体が、まるで水圧に押し潰されるように重く軋む。それでも足を止めることは許されず、私は裁きの場に進み出るが如く塔の頂に着いた。騎士は少し離れた所に待機する。
 最も明るい時刻の水の領界は、魔瘴の被害に悩まされる日々の前のように凪いでいました。水面の明るい光が昇天の梯のように真っ直ぐ海底に届き、神秘の珊瑚の泡が星のように深海の闇に散りばめられる。海の生き物達は赴くままに泳ぎ、ルシュカは夜のように静かに微睡んでいる。これからの争いを思えば、嵐の前の静けさでしょう。
 時を告げる鐘の音が響く。私は両手杖を両手に握り、海の向こうの暗がりを見据えました。
 ごぉぉおおん。ごぉおおおん。水の中を鈍い音が揺さぶる軌跡を描きながら、音は水の領界の果てを目指して旅立っていきます。その音を追って海の彼方に目を凝らせば、一匹の巨大な竜の影が聖塔を目指して迫って来る。
 その速度はカシャルの全力に匹敵し、銀の鱗が光を破る毎に彗星のように軌跡が目を灼く。長い首を銛のように伸ばして海を破り、大きな櫂のような四肢でその巨体を押し出す。背には解放者の仲間らしい人影がしがみ付いているのが見える。
 私は首飾りに手を掛け、翼の飾りを包み込んで祈ります。
 どうか、水の領界の竜族達を守る為に、お力をお貸しください。
 水の領界に満ちるカシャルの力が、生き物の力を形作る。一つは海底火山の灼熱を体に刻み、炎の翼を生やしたイルカ。一つは氷山の氷を体に纏い、泳ぐ軌跡に氷の結晶を撒き散らすイルカ。豊かな海の命に彩られた最後の一体が高らかに声を上げると、残り二体が応じて海の水を揺るがせたのです。
「カシャルって、一体だけじゃなかったのか!」
 瞬く間に迫る三体のカシャルに、首長竜が驚きの声を上げる。首にしがみ付いていた女性神官が、両手杖を片手に迫る一体に火炎球を見舞う。海水と反応し熱水の幕が出来上がり、氷の力を持ったカシャルが慌てて身を翻しました。
「海賊の襲撃の際には三体に分かれたらしいよー」
「予定通り、カシャルは貴様に任す! 我々を出来る限り塔の近くに降ろせ!」
 言われなくたって、分かってらぁ! そう叫びながら首長竜は、迫る三体のカシャルの攻撃を巧みに避けていく。バギムーチョが生み出した渦潮を突破し、海流を利用し頭突きを避け、身を捻って叩き込まれる尾を間一髪で避ける。回避に徹し塔を目指す竜が神殿を抜けると、一拍の間を置いて凄まじい水圧が私を押す。よろけた私を護衛の騎士が支えている間に、天水の聖塔を旋回する竜の背から解放者の仲間らしい影が降りていく。
 聖塔の入り口に呪文を放つことで生まれる閃光が迸った。氷の鰯が矢のように入り口に降り注ぎ、戦いの騒めきが不快な揺れとなって海に広がってくる。
 仲間を下ろした首長竜は塔の前に陣取る。恐らく、神獣カシャルと戦うつもりなのだろう。
 首長竜を覆う虹を帯びた銀色。解放者が竜化しただろう姿を見据えながら、私は表情を引き締めた。
 不思議な男だ。
 聖塔はカシャルには狭すぎる。騎士団と解放者達の仲間が入り組んだ戦線に、カシャルの威力が高くとも広範囲に及ぶ攻撃は向けることは出来ません。聖塔に踏み込んでしまえば、最大の戦力でカシャルを抜いた騎士団と領界を繋ぐ円盤の守護者と戦うことが出来たはず。鍵となる円盤を手に入れ嵐の領界に行く為なら、それが一番確実で成功率が高い。それなのに、解放者はカシャルと戦うことを敢えて選んでいる。
 『どちらの正義がより正しいか』そんな解放者の言葉が脳裏を過った。
 彼はカシャルから、水の領界の竜族を解放しようとしているのかもしれない。ルシュカの民が絶対と崇めるカシャルが万能ではないのだと、縋ってばかりでは進むことが出来ないのだと示そうとしているのでは…過った考えを頭を振って追い出す。
 水の領界の竜族は、カシャルの加護無しには生きていくことは出来ない。
 この海の底で呼吸することも、脅威から守られ平穏に生きることも、カシャルの力が必要だ。生まれた時から海の中で生きてきた民が、丘に上がり広い世界に生活の場を移せるとはとても思えない。
 何より、ルシュカの民が望んでいるのだ。
 私は勝たねばならないのです…!
 両手杖を高々と掲げると、三体のカシャル達が解放者に向き直る。解放者の背にはエステラと名乗った女神官らしき、コーラルピンクの長い髪が揺蕩うように広がっている。
 先に仕掛けたのはカシャル達でした。三体のカシャル達は正面と左右に展開し同時に攻撃を繰り出す。迎撃しては三体の攻撃を最悪全て受けてしまう可能性があるからか、解放者は素早く移動しながらカシャルの攻撃のタイミングをずらし反撃に出る。全速力で海を泳ぐ首長竜の速度は、カシャルに匹敵する。いえ、その櫂のような腕で巨体を押し出すことで生まれる水圧に、カシャル動きを鈍らせてしまうくらいです。
「竜気よ! 炎となりて我が敵を焼き払え!」
 その炎は海の中でも熱となってカシャルに迫る。空気を燃やし熱を生み出す炎と異なり、竜族の力で燃える炎。それは海の中でも十分な威力で解き放たれ、氷の力を持つカシャル腹に大穴を開けたのです。首長竜の背中で手応えを感じた女神官の顔が、驚愕に凍り付く。
「なんですって…!」
 命の彩りを見に纏うカシャルが、瀕死の重傷を負っただろう氷の力のカシャルに向かって光を放つ。光が糸のように二体のカシャルを結ぶと、瞬く間に氷の力のカシャルの傷が塞がったのです。
 群れで行動し互いを補い合う。これがカシャルの強さです。
 炎の熱は竜族の姿のままの女神官の動きを押さえつけ、首長竜の強烈な尾の一撃は氷の力のカシャルが生み出した氷の盾で防がれる。傷を負っても命は癒す。炎と氷と命。三つの属性が目紛しく入れ替わり立ち替わり、解放者達を追い込んでいく。
 背後で成り行きを見守っていた騎士が、勝てると上げた歓声に気持ちが緩む。私は首を振り、カシャルの戦いに意識を集中する。
 解放者はカシャル達の素早さに慣れてきていた。攻撃のタイミングは見破られ、カシャル同士をぶつけ合わせるよう仕向ける。櫂のような前足の先に爪を生じさせ、カシャルに引っ掛けてぐるりと体をひねる。一瞬の隙を突かれ命のカシャルに迫ると、その大きな顎門で胴体を食らいついたのです!
 竜族にも微かにしか聞こえぬカシャルの超音波の声が、海の中に響き渡る。痛ましい悲鳴に私も思わず、歯を食いしばります。
 ふと、命のカシャルに噛み付いた解放者の口元が、緩むのが見えたのです。
 おかしい。
 二体の回復を担う命のカシャルを捕らえ、そのまま戦闘不能に陥らせなくて状況は不利に傾くばかり。その為に解放者は命のカシャルに食らいつき、そのまま食い破るつもりだったはず。それなのに、なぜ、彼は力を緩めた。いや、緩めてしまったのか?
 解放者が微かに開いた瞼とまつ毛の隙間に見えた、真珠のような瞳。彼は目が見えない。
 もしや、解放者はカシャルの声を聞き取ることができるのでは…?
 私は杖を構え、炎と氷のカシャルに訴える。私の声を聞き届けたカシャル達は、猛然と解放者に向かって突撃したのです。女神官の放つ竜気の炎も軽やかに避け、捕らえた命のカシャルに食らいつく解放者に瞬く間に迫る。そして二体のカシャル達は、その頭を解放者の頭に押しつけたのです。
 先ほどの命のカシャルの悲鳴よりも、ずっと響く音波が海を揺らしたのです。その揺れは首長竜から迸ったのです。
 解放者は激しく痙攣し、命のカシャルを離すとそのまま海底に向かって沈んでいく。女神官が慌てたように解放者を覗き込んだのと、背後の歓声が上がったのは同時でした。
「ダズニフ! しっかりなさい!」
 この好機を逃してはならない。私は杖をきつく握りしめました。
 水面の光を遮るように、二体のカシャルが海面へ駆け上がる。空に大きく舞い上がったカシャル達は、大きく回転し深海に向けて銛のように飛び込んだのです。
 巨大な泡の剣のように、高速回転する二体のカシャルが衝撃波を伴って首長竜に刺さる。まるで海を破るような攻撃を受けた首長竜は、泡の濁流に成す術なく飲み込まれる。追随する泡が首長竜を飲み込み私からは見えなくなったが、カシャル達は鋭敏な感覚で見失うことはないでしょう。上から飛び込んだカシャル達は輝きを強めながら身を翻し、泡の中で意識を失った首長竜に迫る。私が最後に視認した場所にカシャル達が至った瞬間、カシャルの光は二発分のマダンテとなって首長竜に炸裂したのです。
 海が吹き飛び、海の底だというのに大穴が空いて空と繋がる。海の壁が崩壊し、轟音を立てて穴に流れ込む。壮絶な濁流に二発分のマダンテで吹き飛んだ首長竜の姿など、欠片も残るはずもないでしょう。
 引き寄せた残ったカシャルが、警戒を緩めて私の前をゆったりと留まる。
「守り神カシャル様…! 我らを永遠にお守りください…!」
 騎士が両膝を折って平伏し、祈りを捧げる。静かになっていく海を見つめ、見慣れた水の領界の海底に変わっていくと、私はそっと詰めていた息を緩めました。
 ごめんなさい。私は声にならない言葉を泡として吐き出しました。
 方法は違えど竜族の為に戦った解放者とその仲間に、祈ろうとした時でした。轟音を伴い水圧が神殿で最も高い塔を震わせると、真下から駆け上がってきた首長竜がカシャルに激突したのです。不意を打たれ大きく跳ね上げられたカシャルが、竜気の炎に包まれ消えていく。
 何事かと身構える間も無く、首長竜から飛び降りた女神官の杖が喉に食い込んだ。驚きに引けた腰では踏ん張ることはまともに出来ず、転倒するように床に押し付けられ女神官が馬乗りになる。護衛の騎士は首長竜から竜族の姿に戻った解放者に、押さえつけられていました。
「やはり水と光で生み出した幻影のようなものでしたね! 崇める神獣に対してあんな乱暴な使い方をするので、怪しいと思いましたよ!」
 生きている。あの、状況からどうやって? 目を丸くする私に、女神官は笑ってみせたのです。
「私の生み出した多くの竜気を蓄えた結晶を、カシャル達はダズニフと勘違いしてマダンテを放ったのです。泡で視界を遮ぎってしまったのは、悪手でしたね」
 そして…。そう言葉を濁しながら顔を向けた女神官の視線を追うと、騎士を組み付した解放者がげらげらと楽しげに笑っている。
「パティチャカの歌に耐える為に、任意の音を遮断できるようになったんだ! 痙攣もそれっぽかったろ? ぷくれっと村演芸大会殿堂入りお墨付きの演技だからな!」
 ルアムの前でどったんばったん苦しむ演技すんの、めちゃくちゃ楽しくってよぉ! 恵みの木の果実、いくつか落として怒られちまったんだよなぁ! そう言いながら、なぜか騎士の脇腹をくすぐり始める。
「フィナ様。負けを認めてくださいますね?」
 何枚も鱗が剥がれた傷だらけの体。襤褸布のようにあちこちが裂けた衣。乱れ縺れた髪に、血が赤い煙のように傷口から流れている。それでも勝利と希望を掴もうと燃える瞳の美しさに、目を逸らすことがで出来なかった。
 愛しさのあまり庇護すべきなどと、何時から自惚れてしまったのでしょう。
 あぁ、竜族とはこれほどに美しく強い生き物だった。