空を見上げたひとたちの望みと祈りでできている - 後編 -

 嵐の領界は音の暴力で支配されているような場所だ。体を薙ぎ倒すような暴風が生み出す音は耳に殺到して脳を掻き回し、強風によって煽られた大地が激突する音で体を粉砕されそうだ。至近距離の落雷は音で頭をかち割られるかと思った。
 火山の噴火音が世界を貫き、マグマが蠢く音が地の底から湧き上がり、火柱が絶え間無く畝る轟音が響き渡る炎の領界が、静かなくれぇだ。
 高台だろう場所に生えた巨木がざわざわと風に煽られているのを真上に聞きながら、俺は地面に突き立っている墓標の一つ一つに祈りを捧げていた。この地域は土葬の習わしがあるようだが、墓標の下に亡骸が弔われているのは極僅かだ。先ほど浴びた土砂降りの雨に流され、神の鉄槌さながらの落雷に打たれ、突風に拐われ、遺体すら残らぬ死に様をする者が少なくないのだろう。
 真新しい墓の下からは僅かに血の匂いが感じられる。魔物に殺されたのだろう。他の墓とは違って何か巻き付けるように供えられていて、墓から何かが風に煽られて棚引いている。その墓の前に膝を折ろうとして、背後に立っている者の気配が動いた。
「この墓の下で眠っているのは、お前の血縁者か」
 ブレエゲと名乗ったこの領界の戦士は、手に持っていた斧を俺に向けて構える。俺が小さく息を吐きながら立ち上がれば、敵意は消えないが害意は薄れた。
 別に祈るくらい良いじゃねぇか。信用されちゃあいねぇ事に文句はねぇが、同じ竜族を悼むのに嫌悪感を抱かれたのは傷つくぞ。そして俺を警戒しろと言っただろう奴の言葉を完璧に履行するあたりに、忠誠心の高さが窺える。
 アストルティアからシンイという仲間と訪れたクロウズは、竜の聖印という秘宝で領界を越える術を持っていた。嵐の領界に留まっているシンイを訪ねると、クロウズは俺達を誘った。人間のルアムの幼馴染で神の器を狙う兄と行動を共にしているのだ。俺達は二つ返事で了承し、クロウズと共に嵐の領界にやってきた。
 教団の神官達が円環の遺跡を見張っちゃいたが、竜化した俺とクロウズの強行突破を止める手立てはない。そうして到着した俺達を出迎えたのが、疾風の騎士団と名乗った嵐の領界の自警団だった。
 俺以外はムストの町の地下に案内されたようだが、俺は見張り付きで待たされている訳だ。あんまり意味はねぇんだが、仕方のないことだ。
 俺は深く息を吐いた。
 仲間が死ぬ。風に乗って聞こえた言葉に、鱗を一枚一枚剥がされるような苦痛を感じる。
 なぜ死ぬのか。この竜族のいざこざに巻き込まれて死んでしまうのか? それなら、彼らの死の原因を作り出したのは俺じゃないのか? アストルティアに帰すべきか? ナドラガ神の脅威がどうなるかわからぬまま、帰ってくれるのか?
 頭振る。彼らはそんな程度じゃ帰ってくれないし、俺のせいじゃないって笑うに違いねぇ。ここまで首を突っ込んだんだ。解決するまで付き合う、とまで言ってくるかもしれねぇ。生き生きと脳内で再生された声は、まるで目の前で喋っているかのように鮮明だ。
 あぁ。なんてお人好しで、良い奴らなんだろう。
「ダズニフ殿」
 敵を前に冷徹な気持ちで武装した声が、穏やかな口調で俺に掛けられる。クロウズの匂い、ルアムの匂い、魔法を熟知した者の僅かな敵意に周囲の精霊達が反応している気配。武力に秀でた者ではない軽い足取りだったが、それなりの場数を踏んだだろう隙の無さがある。
 ブレエゲを少し下がらせ近づいた男は、振り返った俺にやんわりと会釈した。
「この疾風の騎士団を預かる、シンイと申します」
 なんだか妙に頭の周囲がつるんとした感じだなって思ったが、兜を被っているようだ。たっぷりとした布が旗めく音に、防具らしい金具が擦れる音が混じっている。
 シンイ自身の雰囲気のせいか、警戒されているにも関わらず気が緩んでしまう。
「貴方は解放者。ナドラガ教団の導き手にして旗印。貴方とこのような形で、相見える事になるとは思ってもいませんでした。我々疾風の騎士団は、邪神ナドラガ復活を阻止する為、ナドラガ教団に対抗する組織ですから」
 俺は思わず顎に手をやって考える。
 神獣カシャルの信仰で束ねられた歴史ある青の騎士団に比べれば、疾風の騎士団と名乗った彼らの規模は自警団とそう変わらない。ナドラガ教団に抵抗するのなら、まずは戦力の増強を目指すはず。ナドラガ神の復活を阻止したい青の教団と共闘するべきだったはずなのに、なぜしなかったのだろう?
 カシャルことフィナが拒んだか。いや、ナドラガ神の復活に誰よりも強い危機感を持っていた彼女が、同じ志を持つ組織の協力を拒むとは思えない。
 あえて小さな組織として侮らせる事で、秘密裏に事を進めやすくしたか。彼らに切り札があるなら、後者が合理的だ。そして切り札が目の前のシンイか、人間のルアムの兄であるテンレスである可能性は高い。
 顎から離した手をすっとシンイに向ける。
「俺が邪悪なる意志だと警戒してるんなら、のこのこ出てきて迂闊だろ」
 ナドラガ教団にとって俺は救世主だ。ナドラガンドを解放し、神を復活させる。そんな俺が邪悪なる意志と、敵対側に思われていても何ら不思議はない。
「少なくとも、我々の前に立ちはだかる最大の障害と認識していました」
 俺がナダイアのような立場で、彼らの前に立ちはだかる…か。
 そんな未来もあったかもしれない。
「オルストフのじいさんは、俺の破門を認めないだろう。教団の実権をナダイアが握っていたとしても、教団が俺を完全に追放することは難しい。過去形になって認識を改めてもらった所悪いが、用心は良いことだ」
 ナダイアが神官長の権利を振り翳して俺の破門を宣言したが、全ての竜族の父みたいなじいさんは俺の破門は認めないだろう。現在の教団は総主教派と神官長派で、考えが大きく分かれている。ナダイアが基本的にオルストフのじいさんに従って不和が起きていないだけで、その考えの溝は非常に深い。
 竜の神による救済というエジャ聖堂から続く信仰を拠り所とする総主教派と、行動によって竜族が危機に瀕している状況を打開しようと改革を推し進める神官長派。俺の行動は神官長派に有利だが、出身と解放者としての立場が総主教派に支持されている。実際に解放者として、教団をまとめ上げてしまっていたともいえるだろう。
「しかし、貴方はこれからナドラガ教団の行いを妨害しようとしている」
 肯定するように頷いた。
 俺は竜族を救いたかった。第一、俺は領界が繋がるまで、ナドラガ神の復活について懐疑的だったんだ。教団の連中のようにナドラガ神を復活させたいなんて、考えたこともない。最初の目的は嵐の領界までの到達。そうして全ての領界の同胞の状況を見つつ、厄災から避難させたり、対策を考えたりすれば良いと思っていた。俺の目的はほぼ果たされたと言って良い。
 そして、アストルティアが危機に瀕することを俺は望んでいない。自然と教団と敵対する事になるだろう。
「俺とお前達が衝突しないよう、協力しなくとも調整はしたい…ってところか」
 ざわりと背後がざわめいた。もう、ずっと笑いを堪えて真面目にしてたのに、吹いちまうよ。
「俺とお前達って、ダズ兄なにそれ!」
 俺は振り返りながら飛びついてくる小さな体を受け止める。鼻先をふんわりと撫でる甘い香り。吸い付いてしまいそうな柔らかい体が胸に乗って、菓子の匂いがする息が口の中に流れてくる。死ぬと言われたくせに俺の再会に嬉しそうなふわふわに、俺は笑って言うしかない。
「悪い、悪い。俺達、仲間だもんな」

 空気が急に冷えてくる。ブレエゲが天気が変わりそうだと、町の中心に立つ教会へ案内された。この町が古くから存在する事を物語る、女神ルティアナを崇める教会だ。
 竜族はエジャ聖堂を筆頭にナドラガ神への信仰が厚いと思われがちだが、我らが種族神は母である女神ルティアナの信仰も推奨した。ナドラガ神が邪悪なる意志に敗れた後は女神ルティアナの信仰は途絶えたが、こうして古き遺跡として残されている事がある。
 この町が魔物の襲撃で放棄される前まで、厚く信仰されていたんだろう。この町で最も堅牢な建物は、使われていないと思えぬほどに清潔さを保っていた。
 ここに来るまでの間に、仲間達が囚われた友人と再開した事、テンレスがナドラガ教団に囚われている事、そして仲間達が死の宣告を受けた事を聞く。それらが一通り伝えられる頃には、外は豪雨に見舞われていた。
「ナドラガ教団の連中が何人か来ているようだが、この強風で進めねぇみてぇだ」
 俺の言葉に頷いたのはシンイの背後に立っていたブレエゲだった。
「翠嵐の聖塔付近は、嵐の領界で最も強く予測不能な風が吹きます。領界の風が弱まりでもしないと、近づくことも出来ないでしょう」
 最も、風が弱まる日など百年に一度とありませんが。そう、ブレエゲは皮肉った。
 俺も竜化して飛んで近づこうと思ったが、暴風に雷、さらに岩が石飛礫のように飛来する環境では危険過ぎて無理だった。陸続きでもないし、教団の連中が聖塔に挑むことは風の問題を解決しない限り出来ねぇだろう。
 問題は教団に囚われたと言う、テンレスの方だ。情報を吐かせたいだろうから即座に殺しはしないだろうが、拷問くらいは受けているはず。できる限り早く救う必要がある。
「聖塔が難攻不落なのは好都合だ。全ての領界を繋げるという目的達成が目前ってのもあって、教団の警備は手薄になるだろう。俺が出入り口も知ってるから、侵入に関してはこっちに分がある。ナダイアに見つからずに尻尾巻けりゃあ、捕まったっていう兄貴を連れ帰れるだろう」
「ダズニフ。君は本当に良いのか? 故郷の者達と争う事になるのだぞ?」
 ルミラの声から苦悩が滲んでいる。その問いに俺はふと表情を緩めた。
「良い機会だ。ここまで付き合ってくれた皆に、長ぇけど一つ話を聞いてもらおうかな」
 長い話になる。そう聞いたガノが火を起こし、イサークが茶を淹れる為に鍋に水を入れて火にかけ、ルアムが腹をごそごそしてお菓子を取り出した。そんな様子を微笑ましく感じながら、俺は唇を湿らせて語り出す。長雨にはちょうど良い話だった。
「竜の神の器になるはずだった、子供達の話だ」
 むかし、むかし。
 ナドラガ神が座す神居ナドラグラムへ行く事のできぬ民は、エジャ聖堂に詣る。弟妹神の子らも詣るナドラガンド最大の聖堂を擁するエジャの地は、多くの住民を抱え大層賑わったのです。
 しかし、ナドラガンドが5つに分断され、立派な聖堂も賑わった町も全てが溶岩流に飲まれて消えてしまいました。多くの信者が亡くなり、分断された事で遠方からやってくるはずの巡礼者も来ることができない。聖堂を失い信仰は風前の灯でした。それでも生き残った聖堂の司祭達は、ナドラガ神への信仰を途絶えさせまいと、細々と信仰を繋げていました。
 ナドラガ神が蘇れば、竜族を救ってくださる。
 司祭達は祈りを捧げましたが、神は応えてくれません。
 それが十年か百年か、それとも千年だったかは知りません。一部の司祭達は神を待つだけではいけないと、ある計画を立てたのです。
 神の器を生み出し、ナドラガ神を降臨させる。
 最も力のある竜族と、最も賢き竜族を婚姻させ子を産ませる。さらに生まれた子供達の中から選ばれた者に、優秀な者が充てがう。そうして代を重ねていけば、竜の神の器になる完璧な子供が生まれるというのです。
 偉大なるナドラガ神に対する冒涜だと言う声が上がりました。ナドラガ神の子が神になるなど、あり得ぬ話だと笑う者もいたでしょう。しかし、炎の領界の緩む事のない熱気に炙られ、終わりの見えない永い日々に誰もが疲れていました。
 優秀な子供が増える事は良い事だ。神の器に至らなくとも、薬になっても毒にはなるまい。
 そうして、壮大な試みが始まったのです。
 初めて最も優秀な竜族として選ばれたのは、エジャ聖堂の司祭の末裔でした。秀でた者を炎の領界の中から選りすぐり、婚姻し子を成しました。子供達の多くが才能に恵まれました。聡明な者、博識な者、力に優れた者、竜化の術を得る確率も群を抜いて多かったのです。
 成果が出た事で、貪欲になってしまうのが生き物というもの。
 司祭達はさらに優秀な子供を生み出そう、そして神の器に至る子供を作り出そうと、色めき立ちました。子供達に厳しい教育を課し、その才能を限界まで伸ばそうとしたのです。あまりの苛烈さに耐えきれず死ぬ者、狂う者が現れても止まる事はありません。
 全てはナドラガ神に至る為。
 狂信に至った司祭達にとって、その程度で脱落する存在は必要なかったのです。
「まだ、この時代は神がお隠れになって久しい時代だったんだろう。お前達の友のように、種族神の目となり耳となり、力を宿して現世に干渉する存在が知られていなかった。だからこの昔話の神の器は、お前達の友とは違うと思ってくれ」
 そこまで語って、俺は小さく息を吐いた。イサークが差し出してくれた温かいお茶を啜り、体の内側から香りが満ちてくるのに身を委ねる。
 ざぁざぁと雨音が世界を叩き続ける音を聞きながら、俺は再び口を開いた。
 しかし、何代も経ると子供達の能力は伸び悩むようになりました。
 神の器になる為に生み出された子供達は揃って優秀でしたが、育てるべき能力が高止まりしたのです。魔力に秀で、力に優れ、竜化の術を体得する。それ以上に至ることが出来なかったのです。
 竜族としての限界は、所詮神の子が父である神に至れぬのだと狂信者達に悟らせました。
 そうして、何時しか計画は習慣へと変わっていきました。
 神官長の長子が成人を迎える時、領界で最も秀でた異性と婚姻する。生まれた子供はナドラガ神にお仕えする為に最高の教育を施し、親の後継者となり神の教えを伝えていく。
 微睡むような安寧の歳月が過ぎ去り、誰もが神の器の計画など忘れていた頃でした。
 その子供達は生まれたのです。
 子供達は男女の双子。鏡合わせのようにそっくりで、玉のように愛らしい赤子達。しかし、その子供達は今までの神の器に至れなかった者達とは、明らかに違ったのです。
 先に生まれた男の子は、魂の声すら聞き取る地獄耳を持っていました。さらに言葉を覚えるよりも早く、竜化の術を体得してしまったのです。飛竜よりも軽やかに空を舞い、どんな魔物をも打ち倒す強靭な肉体を持っていました。
 続いて生まれた女の子は、全てを見通す千里眼を持っていました。その視野は領界に留まらず、引き裂かれた他の領界を覗き見ることが出来る程でした。どんな怪我も病も癒す奇跡のような魔力と、どんな困難も解決する頭脳を持ち合わせていました。
 ナドラガ神の化身と持て囃された双子でしたが、他の子供達と等しく愛情を注がれて育てられました。聡明で他者を慈しむ優しい心を持った双子は、幼いながらに強大な魔物を打ち倒し、助けを求める者や苦しむ者を救いました。
 大人よりも抜きん出た力を持って生まれた双子でしたが、驕る事はありませんでした。
 どんなに大人の褒められても、片割れに誉められる方がずっと嬉しかったのです。片割れが喜び、頭を撫でて、笑う事。双子はそんな小さな喜びに、至上の幸せを感じていたのです。
 そんな双子を、誰もが微笑ましく見守っていました。この子供達がナドラガンドを、より良くしてくれるだろう。そんな期待が多くの心に小さな希望を灯していました。
 幸せで未来の希望に輝いていた時は、あろうことか双子の父の一言で潰えたのです。
『お前達に、ナドラガ様降臨の儀を執り行う』
 双子は忘れていなかった者達の声を聞き、計画を蘇らせた者達の動向を見ていたのです。
 問題は子供達が双子であったこと。
 一つの魂を分かち合って生まれる双子は不完全な存在であると、ナドラガンドでも信じられていました。地獄耳の片割れは、不完全な双子で生まれた事を悔やむ大人達の声を聞いていました。千里眼の片割れは、双子を殺し合わせて一つにすれば完全な器が生まれるに違いないとしたり顔で語る大人達を見ていました。双子達は片割れだけに万が一でも失敗する儀式を施そうものなら、全力で拒絶しようと考えていたのです。
 二人一緒なら。
 父の言葉に双子は素直に応じました。
 神殿の地下深く隠された儀式の間。そこは、今までも神の器に至ったと思われた、多くの子供達の血の匂いが染み込んだ生臭い空間でありました。双子は強く手を握り合い、寄り添ったまま空間の中央に立たされました。父と母、何人かの大人達が子供達を囲む。厳かに祝詞が歌い上げられ、魔力が闇の中で美しく渦巻く。魔力は黄金の竜の形になり、儀式の間を優雅に泳ぎ出したのです。
 綺麗な金色の竜。ナドラガ様なのかな? 千里眼で魔力をも視認する片割れが囁き。
 不思議な音。笑っているのかな? 地獄耳で魂の声まで聞こえる片割れが首を傾げた。
 竜の神と思しき大きな気配は、双子を包み込むように寄り添いました。ぎゅっと互いの手を握り、何が起こるのか、片割れとどうなってしまうのか不安な子供達を覗き込むように動かなくなります。
 次の瞬間に竜の神から迸ったのは喜びでした。
 竜の神は子供達を通して、果てしない年月、多くの神の器になるはずだった子供達が重ねた全てを見通したのです。己に捧げられる献身への喜び。そして子供達が竜族としての限界を超えつつあることを、己のことのように誇ったのです。
 よくぞ、ここまで。
 この世に二つとない至高の宝を見るかのように、竜の神は子供達を愛おしげに見たのです。
 しかし、ナドラガは神。
 女神ルティアナが最初に産んだ、最も強く特別な子供でした。
 体を引き裂かれ魂だけになったとしても、非常に強い存在でした。神の強い力に晒され、さらに降ろす為に体の中に入ってくる。神の頭が入り込み、首が埋まり、翼を押し込み、尻尾がしゅるりと収まろうとしています。
 凄まじい激痛でした。子供達は己の体が壊れてしまいそうになり、竜化の術をもって竜の姿になりましたがそれでも神は大きすぎて子供達の体の中に収まりそうにありません。体が内側から押し広げられ弾け飛んでしまいそう。悲痛な子供達の声は人ではなく獣のそれになっていきます。竜化して頑丈になった体が膨れ上がり、鱗を引き剥がすように肉が爆ぜる。強く抱き合って堪え続ける双子は、互いの心臓が爆ぜるほどに強く鼓動するのを感じていました。
 失敗か。そんな大人達の声が、竜化して鋭敏になった子供達の耳を掠めます。大人達の恐怖心が、黄金の色を鈍らせ黒く染めていきます。
 子供達は目前に迫った死を見据え、どうすれば片割れだけでも生かすことが出来るのか必死で考えを巡らせていました。しかし、神の大きさは逃れようがありません。
 ひとりでは むりだ
 ぐっと伸ばした腕が、鱗を引き裂き肉に爪を食い込ませました。
 ふたりなら
 抉り出したものを片割れの口の中に押し込み、思わず吐き出そうとしたそれを口で塞いで息を吹き込み強引に飲み込ませます。大量の片割れの血が流れ込み、溺れそうになる苦しみの中で声が聞こえたのです。
 ずっと いっしょ だか ら
 次の瞬間、片割れが弾けた。
 竜の神を降ろす事は出来たが、留める事は出来ず限界を迎えてしまったのです。
 生暖かい咽せ返る程の片割れの匂いを、全身に浴びる。鉄っぽい味に舌が痺れ、当たり前に傍にあった匂いが押し寄せる。途絶えてしまった心臓の音を、繋いでいたはずの手を探す。耳を澄ましても、どんなに手を伸ばしても、見つからない。生温い血がどんどん冷えて、細切れになったぶよぶよとした塊が瞬く間に痛んで片割れの匂いから遠ざかっていく。
 この世界から己の半身が消えたと理解した瞬間
 手が掴まれる。燃えるような熱を持った、ほっそりとした小さな手。あれ程探して見つからなかったのに、どうして? 俺は思わず目を見開いた。
「もう、よろしいですわ。ダズニフさん」
 エンジュの声に、小さな手に鱗がないことを知る。妹神エルドナの子供の柔らかい滑らかな感触が、俺の頬に触れる。濡れていた頬が熱で拭われ、鱗に張り付いていた髪がふわりと浮き上がる。爽やかな熱気が顔を撫でるようで、心地よさに目を閉じる。
「生き残った片割れとは、ダズニフ、お主の事なのじゃな」
 語っているうちに泣いていたのか。それじゃあ、バレバレだよなぁ。
 俺はガノの言葉を肯定して頷いた。
「命を対価に成すべき術など、邪法以外何者でもありませんわ! 完全に真っ黒な邪教じゃありませんの!」
 エンジュの怒りの声が矢のように、右から左へ突き抜けた。ラチックは『子供達に なんて 酷いことを!』と憤り、子供だった俺達の事を想って泣き出すちびっ子達を抱きしめる。沈痛な感情を抱いて重くゆったりと鼓動する心臓の音に、俺は想いを重ねられた安堵を噛み締める。
 表向きはナゼルは病死という事になっている。孤児院の兄弟も、教団の神官達の殆ども、儀式の失敗で死んだとは知らされていない。エンジュの言葉の通り、ナドラガンドでも誰かの命を対価に術を行使するのは禁術だ。知られればナドラガ教団の存在意義は根底から揺るがされ、瓦解して地に落ちるだろう。
「しかしナドラガ教団がそのような非道な行いをしていたとは、俄に信じられん」
 炎の領界に滞在し、比較的長く教団と接していたルミラが独りごちる。同意するように、皆が頷いた。
 なにせ彼らが接した神官は、トビアスやエステラといった幹部生。教団でも屈指の信心深さを持ち、皆の模範になるべく厳しく己を律する人格者達だ。それに強大な魔物が生息し、厳しい環境である領界を闊歩できる程度の実力が伴う。非道な行いを容認するとは思えぬ正義感と、実行しようとすれば身を挺して阻止する気概がある。信じられないのは当然のことだ。
「ナドラガ教団の裏の顔は、前身であるエジャ聖堂の時代から続くものだ。だが現在のナドラガ教団は、オルストフのじいさんが当時の司祭と協力して立ち上げたものだと聞いている。何も知らないナドラガ神の信仰を伝える神官に、忌まわしき行いを裏で行う神官が混じっているんだ」
「アンテロがナドラガ教団の裏側の竜族だって、ダズダズは知ってたんだね?」
 ナドラガ神の復活の為に、ナドラガ教団が暗躍している。その行為の一つに神の器の誘拐があり、実行者のアンテロが教団の者である察するのは容易だろう。
「教団の裏の存在を知っただけで、殺されてしまう可能性がある。お前達が何も知らないなら、領界を解放している俺の協力者として利用した方が良いと連中に思わせた。黙っていて、悪かった」
 そう深々と下げた頭に、ブレラがしみじみと言う。
『双子の片割れが殺されちゃあ、抜けて距離を置いて正解だったねぇ』
「信じるのか? 仲間だと思っていた奴が、隠し事してたんだぞ?」
 愕然とした俺の前に歩み寄ったルアムは、冷え切った手で俺の両手を包み込む。
「ダズニフさんの絶望は本物です」
 俺は小刻みに震える手に、苦しげに打つ心臓に、この子供が地獄を見てきたのだと分かった。どんな地獄だったかは知らない。それでも、どんな地獄でも見てきたから断言出来るのだ。
 ルアムが地獄を思い出して、不安が溢れて仕方がない全てを感じ取ろうと意識を傾ける。背格好も、きっと歳も、同じくらいだったろう。巨大な力に翻弄され、成す術なく大事なものが失われていく。あの時、神の前に立たされた子供だった頃が、より鮮明に蘇る。
 俺は恐る恐る、口を開いて訊いた。
「…どうして、俺が生き残ってしまったんだろう?」
 賢いナゼルの判断は、確かに俺を生かしてくれた。その方法を知っていれば俺は、死ぬとしても躊躇いなくナゼルを生かそうとしただろう。互いに互いが一番大事だった。母親の腹の中から一緒だった片割れが存在しないなんて、想像もできなかった。
 喉が渇き焼き付くような喪失感。空腹を通り過ぎ体に生きる力すら残されていないような絶望感。あの時、共に死んでいたらどれだけ楽だったろう。どうして、こんな酷いことをナゼルが強いたのか、未だに分からない。
「僕らと出会う為です」
 力強い言葉が、光のように差し込んだ。
 出口のない迷宮のようにぐるぐると迷い続けた世界が一掃され、まるでどこまでも広がる平原に立っているような心地だった。爽やかな風が身を包み、ふわふわと芯から温められるような心地良さ。見つからずに喘ぎ苦しんだ全てをたった一言で掻き消した答えに、俺は思わず吹き出した。そんな自信たっぷりな声で断言してくれると、本当にそうかもしれないって思っちまう。
 そのままルアムの肩に顔を埋めて、あの時のナゼルくらいの体を抱きしめた。
 仲間が震える俺に触れていく。頭を撫でる手、背中を摩る手、頬に触れた指、肩を包み込む手、焚き火が爆ぜて満ちる熱気、優しいお茶の香り、甘い匂い、優しい気配、全てに仲間の温もりが込められていた。それがあまりにも尊くて、手放したくなくて、食いしばっていた口が開いて耐えていた嗚咽が溢れる。
 俺は独りになってから、初めて声を上げて泣いた。