迷いの森

 ナドラガンドの環境は精霊達が踊り狂っているようで、とても健全とは言い難いですわ。大きな力に自我のない属性である精霊達が引っ張り回され、長い年月に苦しみすら苦しみとして認識していないような印象ですわね。例えば炎の領界であれば火の精霊が狂喜乱舞する環境ですけれど、調子の良い状態がずっと続けば疲れるもの。本来なら他の属性が活気付き勢いが落ちて休むのに、一つの属性が支配し続ける状況では休む時期もなくて、精霊が困憊しているのです。
 嵐の領界は風が支配者です。その激しさは、地上での活動は死と同意義なほど。
 この地はナドラガンドが分断されて間も無く、地下で植物の栽培が始まっておりますの。植物が育つ環境は非常に限られており、小さな集落として領界に点在しているそうですわ。それらを繋げるのがトロッコであり、ムストは全ての路線の始点だそうですの。ムストの町では大規模な農場を持つ事は出来ませんが、全ての作物を扱う市場があり、トロッコの整備や自警団による魔物達から民を守る役目を担っているんですって。
 だからって、目的地に最も近い集落まで、トロッコで移動だなんて聞いておりませんわ!
「エンジュさん。ラリホーで寝ている間に到着したんですから、機嫌直してください」
 冒険者でも身軽な接近戦を好みそうな装いのアンルシア姫様は、私の隣で平謝り。
 ミシュアさんは妙に頑固な性分をお持ちでしたが、アンルシア姫様本来の性格でいらしたのね。あんなに乗りたくないと固辞したのに、酷いですわ! 私の頬はアカリリスのように、膨れていらしてよ!
 そんな私達の間に差し込まれたのは、黒いお肌に真っ白い毛皮を被ったブラックチャックですわ。ぽよんとしたお腹の弾力に、私も姫様も弾かれてしまいます。
「アン。エンジュ 怒ってない。しつこい 嫌われる」
 わたわたと腕を振り回すブラックチャックを抱えるのは、ラチックさんです。
 嵐の領界の移動は基本的に、張り巡らされた地下道を通ります。
 トロッコが整備された場所以外は、魔物達の縄張りですわ。空気が澱み水の溜まる場所には、光苔に照らされて天井に届かんとばかりに聳えるキノコを見上げるじめじめバブル。水によって大地が抉られ、剥き出しになった木の根の影から覗くダーディドール。鬱蒼と茂る草花の陰でくすくすと笑うウコバック。少しでも日が当たる場所には、ミスターガーリックが所狭しと埋まっておりますわ。待ち構えるように仁王立つデスストーカーの双眸が、暗闇にぎらりと光ります。群れで行動するブラックチャックは、私達を見かけるとわらわらと集まって今も足元にたくさん!
 そんな魔物達の縄張りはラチックさんが親しげに挨拶すると、すんなりと通してくれます。お陰で無用な消耗を避けられておりますわ。
 道案内を兼ねて先頭を歩いていたブレエゲさんが、足を止めました。薄陽が差し込む地下道の出入り口で立ち止まれば、足元に好奇心剥き出しで寄ってきたブラックチャック達がぶつかってころころと転がります。
「あれが、目的地の神獣の森です」
 ブレエゲさんが指し示すまでもなく、それは巨大な存在感で目の前に聳えていましたわ。
 それは樹木で出来た積乱雲。神獣の森の名の通り、一つの陸地が全てが木々で覆われた大森林ですが、それは大きな間違いだと肌で感じることができるでしょう。エルトナでも世界樹の抱える大樹海やモリナラ大森林に相当する、一つの意思によって統率された樹木の王国。
 姫様は生唾を一つ飲み、神妙に呟いたのです。
「神獣の森の主の協力を得られると良いわね…」
 事の発端は疾風の騎士団の指揮を取るシンイさんが、翠嵐の聖塔を攻略すると仰られたからです。ナドラガ教団の神官達よりも早く、嵐と炎の領界を繋ぐ円環の遺跡の鍵を手に入れたいんですって。合理的ですわね。
 ですが翠嵐の聖塔がある陸地は孤立しており、必ずこの嵐を突破する必要があります。如何なる存在をも撃ち落とし、遥か下方の海へ叩き落とす嵐は、まさに難攻不落の城壁といって差し支えありません。さらに最近は魔瘴を含んだ黒々とした災いの風である業風が吹き荒れるそうで、嵐を耐える術があっても命を落としてしまいかねない。竜化の術が使える神官が何人いようと、聖塔の建つ大地に辿り着く事は出来ないのです。
 それは、私達も同じ。
 神獣の森と他の陸地を繋ぐ根一つでさえ、カミハルムイの大通りと大差ない立派なもの。苔生した枝の上には草花が茂り、蝶や動物や魔物達が行き交っています。今にも飲み込まんとする森を見上げて足を止めました。
 ブレエゲさんが大きく息を吸い込みました。大きく口を開き、腹の底から声を張り上げます。
「我はムストのブレエゲ! 翠嵐の聖塔へ至る為、神獣の森の主のお力を拝借したく参った! お目通り叶う事を切に願う!」
 ざわざわと木々が揺れる音と、ブレエゲさんの言葉を横様に掻っ攫っていった風の音ばかりが響きます。なんの変化もございませんけど、入って大丈夫なのかしら?
 顔を見合わせる私達に、ブレエゲさんが振り返って促しました。
「用向きは伝えました。出会えるかどうかは、主次第です」
 参りましょう。そう歩き出す竜族の角を追いかけて、私達は神獣の森へ踏み込みました。背後で『ラチック、なんだか毛だらけよ?』と、姫君と騎士様がいちゃついておられますわ。ラチックさんは先程のブラックチャック達と過度なスキンシップをなされていたから、毛だらけなんですのね。すると叩く音とは思えぬ凄い音を立てながら、姫の御手ずから騎士様に付いた毛を払ってくださるみたいですわ。ラチックさんの情けない悲鳴が上がっております。
「神獣の森の主は、どのような存在なのですか?」
 私達が歩きやすいように斧で草を薙ぎ払いながら進むブレエゲさんは、私の問いに小さく振り返りました。
「知性を持つ神々しい生き物です」
 少し長い話となりますが、知る限りをお伝えしましょう。そう言って語り出しました。
 神獣の森は嵐の領界において、最大の大森林です。広大な大地を根が抱え込み、大きな木々が包み込む事で、突風で他の大地と激突しても砕けず、豪雨が森の中に入り込めぬ深さを持っています。森の中に入れば、常に領界に響く風の音すら消えてしまうのです。
 かの森は貴重な植物の宝庫。我々が育てている野菜の原種も、森から頂戴したものです。
 森に入る際は必ず神獣の森の主に、用件を告げて入らねばなりません。神獣の森の主は、領界の全てを知っています。無言で中に入り狼藉を働けば、死ぬまで森の中を彷徨い歩く事になるでしょう。
 そこでブレエゲさんは小さく咳払いをし、言葉を切りました。
「幼い子供が魔物との戦いで毒に冒され苦しむ父の為に、森に入った事があったのです」
「こんな 険しい道 大変」
 殿を務めるラチックさんが驚いたように言いました。
「子供の足で森に辿り着けた事だけでも、奇跡でしょう」
 父を救うのに必死な子供は、森に入る際に神獣に用件を告げる事を忘れてしまいました。森は入り組んであっという間に方向感覚を失い、喉が渇いても水はなく、空腹を感じても果実一つ見つかりません。子供は遂に倒れ、父が死ぬ事に涙しました。
 そんな時です。
 さくさくと草を踏み分ける軽やかな足音が、子供の頭の真横で止まったのです。子供が顔を上げると、白金の毛皮を持つ大きな獣が立っていたそうです。巨大な威厳ある角が生え、小鳥や蝶が仲良く羽を休めている。獣は顔を寄せ、子供に優しく問いかけました。
『ぼうや。ご用事は言えますか?』
 子供は『お父さんの毒を治す草を採りに来たの』と答えました。
 そう。獣はころころと笑うと、黄金の風が森の中を吹き渡っていきました。次々に咲いた花に昆虫が集まり、花が実を結んでたわわに実ると、あちこちから動物達が集まって賑わいます。
『自分の家族ではない者の家に入る時は、必ず用件を言わなくてはなりません。礼儀は、とても大事なことなのです』
 そう言うと、獣は子供の目の前の地面にそっと鼻先を寄せました。すると子供の目の前で双葉が芽吹き、茎がしなやかに伸び、蕾が頭を垂れ、花が咲いたのです。美しい赤い花が咲いた植物を根元から食んで摘み取ると、獣はそれを子供に抱かせるように持たせました。
『花の蜜を飲ませれば、父親は元気になるでしょう』
 獣はその大きな背に子供を乗せると、森を飛び出し大空へ駆け出しました。蹄が宙を蹴れば、翼のない体はまるで風のように進んでいきます。吹き荒れる嵐も、目の前を切り裂く落雷も、白金の獣はものともしません。それどころか、視界が真っ白になる程の雨の中を進んでいても、子供は全く濡れなかったのです。嵐を抜け真っ青な空と黄金の領界の大地を飛び、子供は無事に親元に戻ってきたのです。
「子供は父親に花の蜜を飲ませ、無事に完治したそうです」
 そうブレエゲさんが結べば、『子供 がんばった』とラチックさんが嬉しそうに言いました。聞くべきは、そこではありませんわ! 私の鋭いツッコミが太腿に刺さって、ラチックさんは息を詰まらせてしゃがみ込んでしまわれましたわ。
「神獣の森の主に乗る事ができれば、嵐を突破し聖塔に行けるのです! 是が非でも協力していただかねばなりませんわ!」
 聖塔は私以外の誰かに、攻略しに行っていただきましょう!
 奥へ進むにつれ、森は深くなり暗くなります。霧が闇を白くぼかし、黄色く発光する蛍の光がふわりふわりと舞って大変風流ですわ。獣達の賑やかさは鳴りを潜め、耳が痛くなるほどの無音が迫ります。
 小川が流れ込み、くるぶしまで水に浸かるような池に足を踏み込んでいました。真ん中に小さい島があり、燃えるような紅葉した樹木が生えておられます。霧はいよいよ濃くなり、池の外が白く霞んで見えなくなってしまいました。
 進むべきか、霧が薄まるまで待つべきか。
 足を止めて考え込んでしまわれたブレエゲさんに釣られる形で、私達も池の中で立ち止まりました。ふと、ラチックさんと姫様が顔を上げました。
 地面がかすかに鳴動しておりますわ。鳴動は次第に大きくなり、池が波立ち、島に生えた紅葉樹が大きく撓っています。鳥達が飛び立ち、蛍達が霧の向こうへ逃げていく。
 ラチックさんが盾を構えてブレエゲさんに並ぶと、紅葉樹が大きく傾いだのです。
 いいえ、紅葉樹が生えた島が、土煙を上げて競り上がっているのです。傾いだ樹は再び真っ直ぐに立ち上がり、もうもうと広がる土煙の向こうから敵意に光る双眸が私達を睨みます。
「貴様等か! 恐れ多くもアマカムシカ様のお力を、借りたいとほざく身の程知らずは…!」
 土煙が長い尾の一振りで払われて現れたのは、見上げるほどに巨大な竜ですわ。背に紅葉樹の生えた島を背負い、大地に根付いた根をぶちぶちと引き剥がしながらその身を起こします。長い首を巡らせると、その大きな顎門を開き、嵐の領界の風に負けぬ勢いの怒声を吹き付けられてしまいましたわ。
「小童の分際でアマカムシカ様のお手を煩わそうとするなど、このタツノギが許さぬ!」
 長い首を振り上げると、池に向かって豪快に大きな頭を振り下ろします。まるで大槌ですわ。足元から掬い上げられるように地が揺れ、私はバランスを崩して膝をつく。池の水は叩きつけられた衝撃に垂直に跳ね上がり、豪雨のように池の水が降り注ぎます。
 深い霧に池。さらに深い森に抱かれた地。炎の力がこれでもかと弱められ、竜を屠る程の火力を生み出すことは難しいですわ。私の火炎を封じる為の一手であるなら、相当の策士であらせられますわね!
 身動きが取れない私への追撃と振りかぶった頭の下に入り込み、ラチックさんが大楯を斜に構えましたわ。ぐっと腰を落とし、振り下ろされた竜の顎を見事受け流したのです。目の前で雷が落ちたような音と衝撃が弾け、私とラチックさんの真横に竜の重たい頭が叩きつけられましたわ。
 びしゃりと真横から被った水に震え上がる。ラチックさんが居なければ、肉塊と血に早変わりでしたわね!
「忌々しい小童共め…!」
 竜は大きく息を吸い込み、次の瞬間吐き出したのは砂の息。しかし砂は拳大の石の礫であり、息は嵐の領界の突風に負けぬ勢いですわ。ラチックさんの大楯は拳を叩きつけるような音を響かせ、ぐらぐらと揺さぶられるのを盛り上がった腕が堪える。
 その隙を突いて、背後に回ったアンルシア姫様が、池にまで垂れ下がる根を掴んで軽やかに登っていく。瞬く間に紅葉樹が植っている島に乗り上がると、レイピアを素早く抜いて突き刺したのです。雷撃が剣から島、そして竜へ流されて爆ぜましたわ!
 勇者のみが使うことできるとされる、稲妻の呪文! 目の前で拝見できて感激ですわ!
 我々に感電しないように威力は控えめにしたようですが、竜は苦しげな声を上げたのです。
「このタツノギ。小童共に遅れを取るほど、老いてはおらぬ!」
 竜が大きく首を逸らし、雄叫びを上げましたわ。びりびりと空気を震わせた声が、遠く遠く森の奥へ吸い込まれていきます。そして静寂が訪れたと同時に、霧の向こうから夥しい気配が湧き上がったのです。
 姫様が私の前に躍り出てくださり、霧に次々と浮かび上がった影を睨みつける。
「仲間を呼んだのね!」
 私は両手杖の石突で池の底を吐くと、水面の底から暴走魔法陣の淡い光が湧き上がります。炎は攻撃に満たない程度しか発動できませんが、閃光を属性とする呪文なら問題ありませんわ。魔力覚醒に早詠みを重ね、敵をおもてなしする準備は万端ですわ!
「増援は私のイオで吹き飛ばしますわ。皆様、重々注意してくださいまし…!」
 ブレエゲさんは斧を構え、ラチックさんは盾を掲げてハンマーを抜く。私達は互いに背を向け合う形で、息を呑んで霧の向こうへ目を凝らします。
 びしゃ。ばしゃ。ざぶざぶ。私達を囲い込むように音が迫り、池の水面を夥しい数の波紋が揺らしていきます。白い霧に浮かんだ影はいよいよ濃くなり、ついに霧を抜けました。
『控えおろう!』
 そう木のフォークを振り上げたのは、フォンデュですわ! この森で作られた葉っぱのマントを羽織り、蔦で編んだ帽子に花を添えた洒落た装い。黄色い体はつるんと艶やかに光ります。
 凛々しく尖った目で我々を睨め付け、フォークを己の胸に突き立て、チーズでできた体の一部を抉り取り振り上げましたわ。池の水が巻き上げた水の匂いを跳ね除ける、濃厚なチーズの香りが溢れ出す。
「まぁ! 焼きたてのパンに乗せたら、絶対美味しい匂いだわ!」
 アンルシア姫様が目を輝かせましたわ。
『我らは凡俗なチーズにあらず! タツノギ様の愛を注がれし、極上のチーズなるぞ! 今こそタツノギ様の糧となり、力とならん!』
 地面が鳴動するかのような気合を上げ、フォンデュ達が池の水を跳ね散らかして駆け出しましたわ! 帽子を放り投げ、マントを脱ぎ捨て、一目散に竜を目指しておりますわ。
 姫様が真横を抜けようとしたフォンデュの指を切り飛ばし、跳ね上がった指をレイピアで突き刺しましたわ。それをつまんで一口。んー!と口角をぎゅっと上げて、幸せそうに目を瞑られましたの。
 なんて、はしたない! 思わず手の甲を叩いて叱ってしまいそうでしたわ!
「美味しい! ちょっと塩気を控えめにしたパンが合うわね!」
 『ちょっと一匹持って帰れないかしら』そう物欲しげに呟いた姫様に、ラチックさんが引き攣った表情を明後日の方角へ向ける。
「おぉ! 愛しい子等よ! お前達の献身を、このタツノギ、誇りに思うぞ!」
 殺到する黄色い波を抱擁するように向かい入れ、タツノギは大きな口で一呑みです。もぐもぐと大きな口が咀嚼して、ごくりと一つ音がすれば長い喉を下っていくのが側からも見えますわ。竜が刮目すると、溢れ出す魔力が鱗を艶めかせ、紅葉の色艶がさらに鮮やかになりましたわ。
 オルルルルと不思議な音色が、喉から嬉しげに響いていらっしゃいますね。
「なんという美味! 力が漲るぞ!」
 『私を!』『次は私だ!』と次の一口を、フォンデュ達が押し退け奪い合っておりましたわ。
 もはや何が何だか分からぬ展開に呆然としてしまいましたが、竜の力が跳ね上がり続ける状況は宜しくありませんわ。ラチックさんが竜に盾を向けながらも、背後に目をやる。
「増援 まだ 来る」
 白い霧に浮かんだ影は未だ途切れる事なく、フォンデュ達だけではなく、ズッキーニャやナスビーラ、お化けトマトといった野菜達が集まっておられますわ。姫様が『新鮮なお野菜! サンドイッチにしたい!』と手を組んで喜ぶ様に、もはや誰も反応しませんことよ。
 竜の力が増強されてしまう状況は、変えようがありません。竜に向かって走るフォンデュ達を、全て退ける事は不可能でしょう。
 一撃必殺級の攻撃を『当たらない』『防ぐことができた』という幸運に任す事はできません。
 ならば、その増強された力を発動させなければ良いのです。
 問題は、どうやって発動させない状態に持っていくか。答えは目の前にありましたわ。
 私は最も近くに立っていたブレエゲさんの袖を引きました。振り返ったお顔が『このまま俺は昇天の梯を昇って逝くんだ』という諦めに塗れておいでですわ。
 私は励ましの意味を込めて、にこりと笑って見せました。
「ブレエゲさん。お料理の心得は、ございますこと?」
 は? 客人である私達に常に敬語で丁寧に接しておられた殿方の、間の抜けた表情は随分と可愛らしいのですね。はくはくと答えが正しい答えを探る口から『自炊程度は…』と返答をいただきましたわ。それは重畳。
 私はぱんぱんと手を叩き、ラチックさんや姫様の注目を引く。
「私ったら、全てが幸せになる平和的解決の糸口を見つけましたわ。こんな作戦を考えてしまう、私の非凡な才能が恐ろしいですが、成功には御三方の協力が欠かせませんことよ!」
 作戦を伝えていないのに、姫様は既にフォンデュを二体も確保しておりますわ。食い意地が張っているのは、今だけ見逃して差し上げます。
 ラチックさんもブレエゲさんも、私の指示通り竜に向かう野菜達を拉致ってくださいましたわ。アンルシア姫様は容赦無くナスビーラを三体レイピアで串刺しにし、ブレエゲさんはズッキーニャに隠し包丁ならぬ隠し斧を施しておいでですわ。器用ですわね。ラチックさんはお化けトマトを抱え、三者三様の野菜が私の前に勢揃いですわ。
 私は暴走魔法陣を消して、魔力覚醒と早詠みの効果に絞る。最近は高い攻撃力であれば良いという魔法の使い方ばかりでしたから、少々緊張してしまいますわ。
「では、行きますわよ!」
 水の力にあふれた空間に灯るメラゾーマの炎は、メラミ程度の大きさしか保てません。
 暴走なんて予測不明の振れ幅を封じ、一定を確実に維持し同じ魔力量を放出する精密な制御。まるで菜箸の先に炒り豆を摘んで、隣の茶碗に移すような集中力ですわ。イサークさんが仰るには魔法の火よりも自然な火の方が望ましいらしいのですけれど、悠長なことをしている余裕はありませんわ。
 三人は静止するメラゾーマの炎に、野菜達を突っ込みましたわ! この程度ではまだ死んでいない魔物達が、ばたばたと悶える。
『あっつーい! 中がとろとろにナッスゥー!』
『輪切りにして、断面もカリッと仕上げてほしーニャ!』
 火加減が揺れて汗が頬を伝う。ふと炎の向こうで、呻くラチックさんが見えますわ。手に持ったお化けトマトは火に炙られ、ハリのある皮がぐずぐずに崩れてきていますの。籠手は熱を遮断する造りでしょうけれど、感触は伝わってしまうものです。トマトは『さらに美味しくなって、タツノギ様に召し上がっていただけるなんてサイコー!』と声を上げる。
 先に姫様が、続いてブレエゲさんが野菜達を火からあげました。
 焼き上がった新鮮な野菜の芳醇な香りが、否応なしに食欲を掻き立てます。
 私から見ても大変美味しそうな焼き加減! 私では全部真っ黒焦げですからね! この焼きの工程は絶対に協力者が必要なんですのよ。
「さぁ、お熱い美味しいタイミングを逃してはなりませんわ! ラチックさん、美味しく焼き上がった子達を、お客様に投げて差し上げてくださいまし!」
 私は姫様に捕獲されていたフォンデュを引き摺り出すと、豪快にメラゾーマを放ちましたわ。火球が接する前に黄色い滑らかな面が沸々と泡立ち、触れた瞬間にはチーズの流星に転生されてしまいましたわ。魔法の勢いに押し出され、宙を舞うこんがりお化けトマトに激突しましたわ!
「焼きトマトのチーズ掛け! 美味しいに決まってるわ!」
 姫様のお墨付き、いただきましてよ!
 メラゾーマの勢いはそのまま、竜の口に一直線ですわ!
「さぁ、ご賞味くださいませ!」
 とろりと溶けたフォンデュを纏ったこんがりお化けトマトが、驚いた竜の口に見事に吸い込まれましたわ! 竜は目尻が裂けてしまいそうなくらいに目を見開き、次の瞬間、体をのけぞらせて大絶叫致しましたわ! あまりの音量に大樹という大樹が、大きく揺さぶられておいでですわ。
 私は瞑目して、静かに頷きます。
 分かります。分かりますわ。未知なる美味との出会い。それは革命です。
 素材の良さは語るに及ばず。さらに蕩けたチーズに包まれ、噛み締めてどろりとした熱と旨味を閉じ込めたトマトの旨味が迸る。姫様が言うには塩気の多いチーズのようですから、余計な下味だって不要ですわ。言葉を失い口を抑えてもんどり打ち、地面に突っ伏して小刻みに震えるのも致し方ありません。熱い食べ物は、熱いうちが最も美味しいんですもの!
「うっわ! あっつ! 絶対 口の中 大火傷」
 ラチックさんが口を抑えて呟きますけれど、違いますわ。
 あれは、美味しさのあまりに感動しておられるんですのよ…!
「さぁ、おかわりは、まだまだございますわ! たらふく召し上がってくださいませ!」
『おのれ、炎で無辜の民をいたぶる野蛮人め!成敗してく…もがっ!』
 さらにブレエゲさんが輪切りにして炙って仕上げたズッキーニャや、姫様のナスビーラ達も、メラゾーマでどろどろに溶けたフォンデュをぶつけて竜の口に運んで差し上げます。
 あぁ、一口一口に仰け反り、ばたばたと手や足をバタつかせて、言葉を失うほどに喜んでくださる姿! とろとろの白いナスが口から溢れそうになり、零すまいと顔を上げてはふはふと熱く食欲の掻き立てる吐息を吐く。竜のその喜びように、周囲に集まっていた黄色い頭達や色とりどりの野菜達が顔を見合わせます。
 ぜぇぜぇと喉を鳴らし、竜はゆっくりとこちらに向き直る。咆哮が濃厚なチーズを伴って、前から後ろへ突き抜けましたわ。
『おのれ! おのれ! ワシは屈せぬ! う、美味いなどと、口が裂けても言わぬぞ!』
「あらあら! お身体は随分正直のようですわよ?」
 私は賢者の聖水をグイッと煽り、拳で口の端から垂れた一筋を拭って舐めとりました。にこりと浮かんだ笑みのまま、竜達に群がる背中に言い放ったのです。
「さぁ、ご主人に美味しく召し上がられたい、フォンデュさんや野菜さん達はお並びなさい!」
 私の声に勢いよく振り返る瞳達。押し寄せる良い香り。巻き上がる熱気はいつの間にか霧を払い、闇を赤々と照らし出していました。流石、ドラゴンの胃袋は大変大きいですわ。気がついた時には、あれほどいたフォンデュも野菜達も数える程度にしか残っておりません。
 そして、目の前にはフーセンドラゴンがおりますの。
 はち切れそうなお腹を抱えた竜を囲んで『俺は今度は燻製にしてもらう!』『俺は焼いてもらって、溶けたフォンデュ掛けて美味しく食べてもらう!』と、フォンデュや野菜達が熱い論議を繰り広げていますわ。中には『タツノギ様はどんな召し上がり方が、お好みですか?』と熱心に問う者まで現れておりましてよ。
 ブレエゲさんが疲労困憊で倒れ、姫様もラチックさんも疲れ切った様子で座り込んでいますわ。私も心地よい疲労感と達成感に、とても清々しい気持ちですわ。
『おやおや、タツノギ。随分と堪能したようですね』
『アマカムシカ様! こんな無様な姿を晒して、面目ございません!』
 まんまると御馳走で膨れ上がった腹に、申し訳程度についた小さい手がぱたぱたと動く。ねーねーと周囲からころころと、彼を慕う者達が押し寄せるのだから締まりませんわね。
 竜がアマカムシカと呼んだ獣は、ゆったりとこちらへ首を巡らせました。
 息を呑む。
 それは一瞬見たらアズランを中心に多く生息する、カムシカであると思うでしょう。しかし、しっかりと捉えたなら、もうそれはカムシカとは全く違う生き物なのです。白金の毛皮はふわふわと軽やかに体を覆い、風が触れれば金色の変じて旋毛を描く。角は巨大で翼のように大きく後ろへ広がっていく。その聡明な眼差しは柔らかく細められ、包み込むはエルドナ神に劣らぬ慈しみ。
 エルドナ神の象徴である風と緑の加護が、神々しい神獣の姿でそこに在る。憧れに胸が締め付けられてしまいます。
『懐かしきアストルティアから遥々ようこそ。私はエルドナ神より、嵐の領界を預かる神獣アマカムシカ。貴方がたが何用で参ったのかは、全て風を通して聞いております』
 私達がそれぞれに名乗ると、アマカムシカ様は穏やかに言葉を紡ぎます。
『貴方がた6種族が竜族達と、互いを助け迎えた今を喜ばしく思います。ナドラガの傲慢さによって狂わされた竜族達が、長き贖罪の日々により在るべき姿に近づけたと思えば、心お優しきエルドナ様のお気持ちも救われましょう』
 フウラから紡がれたエルドナ様の優しい声が蘇ります。
 我らがエルフの種族神。女神ルティアナの子らの中で、最も慈悲深いとされています。最も兄と共に過ごした長姉のエルドナ様ならば、兄であるナドラガ神の乱心を非常に悔いたことでしょう。罪深くとも全てが罪を犯したわけではない竜族諸共の封印を、断腸の想いで決断されたはず。他の弟妹神の誰よりも責任を感じ、お心を痛めておいでだったでしょう。
 その心を近き場所で感じていた神獣だからこそ、ここまで至ったことへの賛辞を感慨深く紡いでおいででした。ふわりと口を開き笑うように喉を鳴らすと、周囲の草花が見る見る蕾を付け綻ぶ。花開いたのは、闇の中で光るような美しい白い花でした。
「アマカムシカ様。どうか、我々にお力添えいただけませんか?」
『勿論です。ナドラガによる惨劇は、二度と起きてはなりません』
 グランゼニス神の器であるアンルシア姫様の言葉に、アマカムシカ様はきっぱりと断言してくださる。しかし、と次の瞬間言葉を濁される。
『エルドナ神の加護を受けし少女が、嵐の領界へ連れてこられています。おそらく、エルドナ神の力であるこの嵐を、少女の力で鎮めようとしているのでしょう』
 フウラが…! 私は思わず前のめりになります。
 アンテロに拐かされ、本人の意思に関係なく邪悪な目的に利用されてしまう。ナドラガ神が復活し悲劇が齎されてしまったら、その一端を意図せず担ってしまったことに傷ついてしまいます。そんなこと、絶対に許しませんわ!
「フウラを助けに行きましょう!」
『私が皆さんを少女の元へ乗せて運びましょう』
 アマカムシカ様は大きく首を振ると、白金の毛皮から五色の風が生み出されましたわ。五色の風は複雑に絡み合い、美しい手綱となったのです。風乗りの儀で手に入れた風の手綱によく似ていましたが、まるで天に架かる虹のよう。触れれば風は指先で解れ、その色によって暖かかったり優しい緑の香りを放ち、再び一つに絡み合うのです。
 なんて素敵なのでしょう。アマカムシカ様にフウラが乗った姿を想像するだけで、感動のあまりクラクラしてしまいますわ。
『お乗りなさい。勇気ある者達よ!』
 うっ! 迂闊でした。乗るのは、私も含まれていましたわ。
 …これもフウラを助ける為。背に腹は替えられなくってよ!