黄金の丘

 君はグランゼニス、人間の種族神の器だ。
 そう青紫の真摯な瞳が、私を写し込むほどに真っ直ぐ目を見つめて言った。正直言って、結婚を申し出るような真面目な顔でなければ『冗談でしょう!』と笑い飛ばしていたわ。
 でも、私はアストルティアの勇者アンルシア。
 勇者を輩出するグランゼドーラ王国の王族の中から、さらに種族神グランゼニスに選ばれた特別な存在だ。種族神の特別な寵愛によって様々な加護を授かり、微睡む種族神の目となり耳となる器であると言われたら納得してしまう立場だった。
 今思えば、私の感覚ではない不思議な気持ちになった事は、度々あった。
 特に鮮烈に感じたのは、マデサゴーラとの対決の時。
 身の毛がよだつような嫌悪感と、目の前の存在を打倒せねばならない使命感。マデサゴーラを勇者の眼で射抜いた時に見た、魂にまで浸透した邪悪なる存在。私はあの瞬間に、マデサゴーラですらその邪悪なる存在の傀儡に過ぎないと理解した。今、大魔王を打倒しても訪れるのは仮初めの平和であると、何の根拠もないのに確信したのだ。
 それは、きっと私を通してアストルティアを知る、種族神グランゼニス様の感覚なんだろう。心の奥底で微睡んでいる意志が、私の気持ちにも作用する。
 人間の種族神グランゼニス。人間の大地レンダーシアでは、忘れられた存在だ。
 レンダーシアの人間が教会で祈りを捧げるのは、アストルティアの創造神である女神ルティアナ様。他の兄弟神のような逸話は、何一つ人間達に伝わっていない謎多き神だ。グランゼニス様は、人々にとって知識以上の意味はない。
 度重なる大魔王との闘争で、レンダーシアの歴史が度々白紙に戻された為だろう。そう、幼い頃に歴史を教えてくれた先生は言った。
 『じゃが、変ではないかね?』ガノさんがエンジュさんと話す声が聞こえる。『ドワチャッカ大陸では数多くの王国が、誕生と滅亡を繰り返した。それでも、ワギ神の信仰は途絶えんかった。ドワーフ全てが死滅せねば、ワギ神は忘れ去られる事はないじゃろう』
 『ガノさん。それ以上は不謹慎ですわ』エンジュさんが、声を顰める。『人間は己が種族神を棄てたと申しますの? 結果がどうであれ、口にしてはいけませんわ』
 ナドラガンドへ来て、胸が騒めいて落ち着かない。
 言葉にならない感情がザワザワと肌の裏に触れて、無視できない煩わしさになる。この感覚は私のものじゃない。グランゼニス様のものなんだわ。
 私は胸の上に手を置いて、目を閉じ、深呼吸をする。
 雷光が瞼を閉じても視界を赤々と染め上げる。
 アマカムシカ様の上では、暴風も激しい雷雨も私達を脅かす事はできない。まるで部屋の中から外の嵐を見ているようで、音ですら耳を掠める事はなかった。雨粒一つ通さぬここに、唯一届くのは激しい雷光だけだ。
 エンジュさんのお友達、エルドナ神の器であるフウラさんを助けなくちゃ。そう心の中で呟けば、そうだと頷く自分と、同意の気持ちを胸に目を開けた。
『まだ平和であった頃、グランゼニス様を乗せたファルシオンと良く競ったものです。エルドナ様の風読みは素晴らしく、接戦に持ち込めても勝てずに悔しがっておられましたね』
 その穏やかな声は、私達を安心させようとする心遣いがあった。実際にまるで舗装された道を走る馬車に乗っているようで、揺れをほとんど感じない乗り心地だ。
 しかし、目を開けて見渡せてみれば、否応にも不安が込み上げる。
 まるで濁流に呑まれているかのようだ。
 陽光を遮り暗澹たる闇で満たされた積乱雲の中を、真っ白に煙る程の雨が遥か彼方へ落ちていく。競うように白い尾を引いて落ちる雨の中に、アマカムシカ様の加護に弾かれて砕けた氷の破片がキラキラと名残惜しそうな光を残して暴風雨に吸い込まれる。雨は風に逃げ惑い、横殴り、巻き上げられて渦を巻く。雷は縦横無尽に駆け巡り、大樹の枝葉のように枝分かれる。時にはアマカムシカ様を追い抜いて、大蛇のように真横を這った。天も地も、目的地へ向かっているかすら定かではない嵐の中を、アマカムシカ様は猛然と進んでいた。
 背後でラチックがエンジュさんに『がんばれ』と繰り返して、体を摩っているのを感じる。
 風が変わる。真横の崖を雨が叩きつけ、大量の雨水でできた滝が現れる。いや、雷光に照らされた崖は黄金の鱗で覆われている。嵐の領界には天に向かって翼を広げる、ナドラガの翼がいくつも聳えている。その一つを至近距離に見て、翼を覆う鱗一枚ですら私の身長よりも巨大で圧倒される。
『この翼の根に、ナドラガの祠があります』
 前に座ったブレエゲさんの後頭部の向こうで、アマカムシカ様の頭が沈み込み下降していく。
 真横の翼を流れ落ちる滝に、アマカムシカ様の白い光が反射する。雷が翼に落ち、金色の光が鱗の上を爆ぜながら滑るのを追いかけ、積乱雲の中から抜ける。
 厚く積もった雲の下は、夜のように暗い。
 双翼の根元に、魔法の光が瞬いていた。
「あそこにフウラがいますのね!」
 エンジュさんの自分を叱咤するように声を上げる。
『私はこの嵐から、貴方がたを守る為に結界を展開します。少女を、エルドナ様を、どうかよろしく頼みます』
 私達がそれぞれに応じている間に、アマカムシカ様の体が軽やかに大地に降り立った。ぱしゃぱしゃりと、水溜りを踏む音が耳に触れる。ブレエゲさんが颯爽と降り、私へ手を差し出してくれる。手を掴んで降り立った私の隣に、エンジュさんを抱えたラチックが着地した。
 結界を張る為に飛び立つアマカムシカ様を見送ろうとして、強烈な敵意に身構える。
「ナダイア様が賜った御神託の通りですね」
 声は大地から突き立つ両翼の間から聞こえてきた。上空で星のように瞬いて見えていた、フウラさんを閉じ込める魔術の光の前に立つ影の独り言だった。すらりとした長身に、腰にまで伸びたまっすぐな髪が身動ぎにさらりと揺れる。ローブを彷彿とさせるシルエットが、自らとそう変わらぬ両手杖で地面を軽く付いた。
 御神託? エンジュさんが鼻で笑う。
「エステラさん。私は炎の領界でご説明したはずです。私達は拐かされた友人を探して、ここに行き着いただけですわ」
 エステラ。確か、領界を繋げる為に同行したという、ナドラガ教団の幹部。
 向かい合う二人は雷光に照らし出される。互いに睨め付ける双眸に親しみはなく、相手を敵と捉えて間違いない意志が真一文字の唇から察せられる。魔力の高まりが女性の美しさに妖しさを添えて凄みを増す。
「我らナドラガ教団は弟妹神の器の力を借り、ナドラガ様復活の儀式を執行いたします」
「残念ですが、フウラを返していただきます」
 地面を濡らしていた水溜まりの淵が白く泡立ち、ぢりぢりと音を立てて小さくなっていく。アマカムシカ様の結界に叩きつける雨が、じゅうじゅうと蒸発する音が聞こえる。凄まじい蒸し暑さが、陽炎となって空気を揺らめかせた。
 頬を汗が伝い、汗が通った水分が痛みを伴って蒸発している。
 魔力が結びつき、火花が弾けるように散っていく。エステラが魔術を繰り出そうとすれば、エンジュさんが精霊を介して魔術の発動を潰す。それは火炎の魔法に長けた魔法使い達による、美しき攻防だった。
「エンジュさん。ナドラガ様を復活させ救いを求めれば、竜族を襲うありとあらゆる苦しみが取り除かれるのです。マティルの村の悲劇も、もう二度と起きないのです」
 彼女だけではない。ナドラガ教団の多くの信徒が、領界の過酷な環境によって引き起こされた悲劇によって神に縋っているのだろう。
 大魔王を倒せば、アストルティアを救えるのとは訳が違う。
 ナドラガンドの環境そのものを、変えなくてはならない。そんな事、誰ができるというのだろう。闇の世界に光を投じた3つ目にして最初の神話では、光の源は竜神が授けたものだとされている。神ならば可能かもしれないと、竜族達が思うのは当然だ。
「なぜ、分かってくださらないのですか…」
 エステラの切実な声に、言葉が喉に詰まる。
 種族神の眷属達は、皆、ナドラガが邪神で兄弟神と争い、多くの災いを齎したと言った。その過去を否定する事はできない。しかし復活した後、アストルティアに災いを齎すというのは、過去を鑑みて立てた予測でしかない。例え限りなく邪神ナドラガがアストルティアを滅ぼそうとする可能性が高いとしても、断言する事は出来ないのだ。
 さらに兄弟神に見放され種族神と共に封印された竜族にとっては、ナドラガは唯一頼り縋る事が許される神なのだ。助けを求めて救ってくれる神は、ナドラガしかいない。
 彼女は竜族のために、頑張っているに過ぎないのだ。
 私達は竜族を救う方法を示す事なく、竜族達が救われると思う方法に挑む権利を奪っている。竜族達にとって、私達は紛れもない悪なのだ。
 自分の自惚れに愕然とする。
 私は勇者で、私の選択は世界にとって最善であると思っている。勇者は正しくて、清くて、善意で、正義。でも、立場が違えば悪になる。それを突きつけられ、胸が締め付けられる。
 私はアストルティアの民ばかり優先して、竜族を後回しにしている。勇者ならば全てを救うべきなのに、彼らの望む最善でなくても順序が後になっても『救った』という結果になれば良いと思っているのだ。
 握った拳に食い込んだ爪が、皮膚を突き破りそうだった。
 あぁ、エンジュさんの緑の髪に照らされた炎の赤が、あの赤と碧が移ろう瞳を思い出す。ケネスなら、なんて言うんだろう。勇者の使命すら正論で捻じ伏せる男に、今、無性に訊きたくてたまらない。
「失望いたしましたわ、エステラさん」
 エンジュさんが鼻の下を拭うと、手の甲に付いた血が熱で乾いてヒビ入る。
「確かに竜族の皆様は過酷な領界で生きて、私如きが想像するのも失礼な苦しみを味わってきたでしょう。それでも、彼らは耐えて生き、未来へ命を繋ぐ力を持っておりますわ」
 ゆるりと掲げたエンジュさんの手の甲に、炎の蝶が止まる。まるで彼女の乾いた血を吸おうとするかのように止まっていた蝶は、ぱたりぱたりと弱々しく、それでも熱気に揺らぐ世界へ羽ばたいた。てふてふと、蝶は熱気に煽られながらも、炎の魔力の渦の中心に立つ竜族に向かって飛んでいく。
「それらを否定し、ナドラガ神の復活の根拠にするだなんて、失礼じゃありませんこと?」
 エステラは炎の蝶を乱暴に払い除けた。ぱっと、蝶が火の粉になって散ってしまう。
「私は今も苦しむ竜族を、救わなければならないのです!」
「私が見てきた竜族は、神様に救ってもらわなくても前へ進める力を持っておりますわ!」
 双方の両手杖が同時に相手に突きつけられる。迸った巨大な火炎の塊が、互いを食い殺さんとせめぎ合う。勢いは赤く渦巻き、熱は黄金の色に融ける。渦を巻き、打ち据え、食らいつく炎が、次の瞬間勢いよく弾けた。
「貴女の独善の為に、私のナドラガンドの友人達を無力と侮辱する事は許さなくってよ!」
 エンジュさんが炎に仕込んだイオラが炸裂したのだ! 威勢の良い言葉が響き渡り、扇状に形を変えた炎がエステラに襲い掛かった!
「まぁ! 私ったら、うっかり! フウラが焦げてしまいますわ!」
 焦げる程度で済むのかしら…。
 金色の炎の網を投げかけるように覆いかぶさった炎は、エステラもその後ろにあったフウラさんが囚われているだろう魔法の光も呑み込んでしまった。炎の領界出身者は火の耐性があるとは聞いているけれど、とても無事とは思えない炎が赤々と燃え上がっている。
「エンジュ!」
 横から聞こえた声に振り向けば、大きな魔法の塊を抱えたラチックがいる。大きな盾の向こうには、ブレエゲさんが二人の女性神官を引きずってやってくるのが見えた。
 ラチックが膝を抱えれば入れそうな大きなシャボン玉のような膜に、魔法陣の紋様がくるりくるりと揺らめいている。その光の中に幼いエルフの少女が眠っているのが見えた。エルトナの伝統的な和装でも、少女の動きやすさを考慮した袖や裾が少し短い和服。薄く透ける羽衣がふわふわと少女の周りで揺れている。魔法の光越しではあるけれど、大きな怪我や苦しんでいる様子はないわね。
「ラチックさん! フウラを助けに行ってくださったんですのね! 助かりましたわ!」
「あぶない! 加減 大事!」
 気をつけますわね。口元に手を当てて、エンジュさんがころころと笑う。
 そんな笑い声を零す口元がふと結ばれ、顔を上げる。あら? そう小首を傾げながら、エルフ族の長い耳に細い指を添わせ音を聞くことに意識を傾ける。
「鈴…の音?」
 エンジュさんの言葉は咆哮によって掻き消えた。レイピアを引き抜き咆哮へ向かって身構えれば、全身を羽毛に包まれた優美な竜が炎を薙ぎ払ったところだった。キングリザードを彷彿とさせる体格ではあるが、羽毛に包まれているので筋肉質な竜の印象は薄れ大きな鳥のようだ。うっすらと曙色を帯びた純白の羽が、炎の魔力を帯びて赤金に染まる。
 大きく開いた顎から、メラゾーマ程の火球が迸る。私達に向かって放たれた炎を、前に躍り出たラチックの盾が防いで霧散させる。次の一撃を身構えたラチックは、盾越しに敵を見て首を傾げる。
 私達を攻撃する意思があるなら、竜の次の一撃も私達に向けられるべきだった。
 しかし、竜の頭は苦しげに左右に振り、首が大きく畝っている。ほっそりとした首がぼこりと膨らみ、頭へ到達すれば吐瀉物のように炎の塊が口から飛び出るのだ。足元は覚束無ず、今にも転倒してしまいそうだ。のたうち回る竜に狙いを定める余裕はなさそうで、炎が放たれる方向は無茶苦茶だ。
「エステラ様!」
 付き添いだろう女性神官達が、明らかに様子のおかしいエステラに駆け寄ろうとする。そんな女性達をブレエゲさんが押さえつけるように引き留める。
「近づくな! 焼け死ぬぞ!」
 どう見ても敵味方の区別がついていない。彼女達の声がエステラの耳に届く状態ではなく、近づけばエステラの火炎が直撃して大怪我では済まされないだろう。
 竜が膝を突き小刻みに震えながら、ついに蹲った。
 引き寄せられた空気の流れを感じた次の瞬間、耳鳴りがする。竜の白い羽が一つ一つ逆立ち、真っ白く光り輝く。小刻みに震えた竜の首が、こちらに向かって棒でも飲み込んだように真っ直ぐと伸びる。羽は赤く色づき、ふわふわとした合間を小さい雷が走る。かぱりと開いた口の前で魔力が高熱を伴って渦を巻き始めた。まるく、まぁるく、小さく固められた太陽がそこにある。暖かく、美しい。
「いけませんわ!」
 エンジュさんの声に、魅入っていたのか弾かれるように意識がはっきりする。
「皆さん、こちらにいらして…!」
 盾を構えていたラチックをひっぱり、エンジュさんが竜の正面から離れて横へ走る。そのあまり剣幕に弾かれ、ブレエゲさんが女性神官を引きずって後を追う。私もフウラさんを捕らえた魔法を抱えながら駆け出し、結界ギリギリまでもう少しという所に来た時だった。
 高音が耳を貫いた。
 熱よりも先に衝撃が走り、私達の体は横様に吹き飛ばされる。宙を泳ぐ視界の中で、竜の放ったものが見えた。それは見慣れた扇状に広がる炎の息ではなく、メラゾーマのような火炎球。太陽の密度の火炎球が、その速度に線状の残像と熱を振り撒きながら豪速で過ぎ去っていく。アマカムシカ様の結界を打ち砕き、領界を吹き荒む凄まじい嵐を熱で蹂躙し悉く蒸発させる。遠くに生えていた竜の翼に当たって打ち砕くと、弾けた熱が領界の積乱雲を吹き飛ばした。
「なんと…」
 ブレエゲさんが空を仰ぎ見る。
 常に重い雲が伸し掛かっていた領界の空が、晴れ渡っていた。
「…こんな力の使い方では、エステラさんが死んでしまいますわ」
 誰もが雲一つない青空を見上げる中で、エンジュさんが強く惹き結んだ唇に指を充てがう。エステラの死。その単語に女性神官の一人が絶望しきった顔で絶句し、もう一人が必死の剣幕で詰め寄ろうとする。
「エステラ様が死ぬって、どういう意味なの!」
「生き物が無意識に施している制御を何者かが強制的に外して、肉体が滅ぶほどの力を暴走させているに違いありません」
 見遣って光った眼鏡の先を追えば、エステラは先ほどの一撃の反動で激しく痙攣している。羽が弱々しい赤い光を帯びると、メラミ程度の炎を血反吐を吐くように出している。
「恐らく、意識を落としても暴走は止まりませんわ。まずは制御を強制的に外している外因的要素を遮断し、肉体の主導権をエステラさんに返還させます。意識が朦朧としていても、生存本能が暴走を抑制するはずです」
 早く、助けてよ! そう掴みかかろうとする神官を、ブレエゲさんが押さえる。
「そのようなことが、可能なのですか?」
 神官に代わって問うた言葉に、エンジュさんは難しそうに顔を顰める。
「問題は、誰が何処からエステラさんに悪さをしているか…ですわ」
 誰もがぐるりと周囲を見渡した。見える範囲には怪しい人物の影すらない。
 嵐の領界でも最もナドラガの力が強く集まる場所であるここは、領界から生えている黄金の翼でも特に大きいものが生えている。グランゼドーラを守るための城壁と変わらぬ幅を持つ翼の根元に挟まれていた。翼の付け根の裏側に回り込む間に、エステラが力尽きてしまうだろう。アマカムシカ様の力を借りるにも、いつ嵐が戻ってくるかわからない。
 そもそも、エステラを救う必要があるのか。
 ナドラガ教団の脅威を取り除き、邪神復活を阻止するなら、エステラが死亡してしまった方がいい。神の器を用いた重要な作戦を任された彼女を倒す事が出来れば、ナドラガ教団との抗争でこちらが有利になるのは明白だ。邪神復活を阻止しアストルティアを守るなら、選ぶべきは選択は一つしかない。
 憎い相手を殺すことが勝利と考えるような勇者であるなら、お前は何も守ることなどできん。ケネスの冷たく淡々とした声が脳裏を過ぎる。
 対立し相容れない存在。
 それは、今だけかもしれない。
「勇者の盾であの竜を覆えば、暴走を助長する力を遮れるかもしれないわ」
 私の言葉に皆の視線が集まる。エンジュさんが眼鏡越しに目を伏せた。
「エステラさんが力尽きてしまうのに、そう時間はかかりません。それが最善ですわね」
 お願いできまして? そう問いかけて頷いた私を見て、エンジュさんが皆を見回した。
「今のエステラさんの攻撃は一撃必殺級ですわ。回避が鉄則です。攻撃範囲と予測された場所にいる場合は、私が炎で生み出した導きに従ってください」
 皆が応じ、動き出す。私とラチックは竜に向かって駆け出した。
 痙攣が治まりつつあるエステラだが、先程の一撃でよほど消耗したのか炎の勢いは弱まっている。口からだらだらと炎が溢れ、竜の足元の地面を炎が舐めている。私達が迫っているのを感じたのか、竜は身震いし全身の羽を震わせた。羽毛が白く光を帯びる。
 仕掛けて来る。でも、エンジュさんの導きがないなら、攻撃の範囲外だ。
「ラチック。エステラの上から勇者の盾を展開するわ!」
 わかった。ラチックが速度を上げて先を駆け、くるりと私の方に向き直る。膝を深く曲げて腰を落とし、盾を掲げて踏みやすいよう傾けられる。ラチックの元へ全速力で駆けると、私は飛び上がって盾の上に乗り上がる。下からぐんと押し上げられる感覚が、私の体を空へ連れていく。走る勢いと跳ね上げられた勢いに助けられ、私は竜の巨体の真上を取った!
 竜が翼を広げ立ち上がる。咆哮が響き渡ると、身体中の羽毛が舞い上がって吹き荒れた。勢いよく噴き上がった大量の羽毛に、飲み込まれる寸前に顔を腕で覆い、庇う。
「うっ!」
 白い輝きを帯びた羽毛は柔らかく、まるで空気のように軽い。視界が真っ白に染まり、咆哮が生み出した衝撃でもみくちゃにされて天地が分からなくなる。どっちが地面なの? 勇者の盾を生み出せないとしても、せめて着地姿勢を取らなければ、地面に激突して大怪我をしてしまう!
 頬を温かい風が撫でる。熱を目で追えば、炎の燕が私の周囲を旋回していた。金色の火の粉を散らしながら、燕は私の後ろへ飛んで白い羽毛の中へ消えて込んでいく。
 白く柔らかい幕の一点が、淡い赤を灯している。
 エンジュさんの導き。あそこに、エステラがいるに違いない。
 私はぎゅっと手を握り込み、体の中の勇者の力を高めていく。エステラを助ける。その為に高められた力は、強い守りの力となって今にも溢れ出しそうだ。手を導くように灯された赤へ向けると、気合と共に力を解き放った!
 黄金の光となって迸った勇者の力が、白を吹き飛ばす。視界に入った優美な背を、囲うように力を向かわせる。甲高い音を一つ立て、黄金の結晶の中に竜を閉じ込めた!
 絶叫するような声を一つあげると、竜はそのまま力尽きたように頭から倒れ込んだ。エンジュさんが走りながら、鞄から瓶を取り出し蓋を開ける。蓋が外れた瓶に血液を垂らすと、美しい赤い光が飛び出して次々に竜の羽毛に吸い込まれていく。
 灰色に燻んだ羽毛が、純白から淡い曙に移ろう美しさを取り戻す。
「とっておきの妖精の霊薬です。私の魔力を妖精を介して浸透させたので、命の危機は脱するはずですわ。エステラさんが、炎と親和性の高い方で助かりました」
 ふっと安堵した表情のまま、エンジュさんが意識を失う。倒れ込みそうになったエンジュさんを、ラチックが咄嗟に抱きかかえた。
「エンジュ 頑張った 偉い」
 汗で張り付いた髪を、ラチックの指先が撫でる。まるで赤ちゃんを抱っこするように抱き上げる横を、女性神官達が駆け抜けていった。竜化が解けたエステラの名前を呼びながら、介抱を始める女性達をブレエゲが見つめている。
「あの神官達に賢者の聖水を渡しました。魔力が回復すれば、自分達で帰れるでしょう」
 風が吹き始め、ぽつぽつと弱い雨が降り出した。
 アマカムシカ様が私達の傍に降り立つと、憂いだ様子で空を見上げた。
『エルドナ様の加護を受けた少女を介して、領界の風の勢いを削いだようですね』
 頭上に広がっていた晴天は、もう薄い雲に覆われていたが、あの大嵐を生み出すような黒い雲は見えない。引き伸ばされどこまでも繋がっていた線状の雲は、今は綿雲のように空に浮かんでいた。その隙間を天使の梯子が、黄金の大地に向かって幾重にも掛けられている。
 この程度の風ならば、空を飛んで聖塔へ向かうことが出来るだろう。
 邪神復活を巡る競争が、静寂の中で始まろうとしている。