十三番目の黒羊

 イサーク! しっかりするんだよ! イサーク!
 レディ・ブレラの声が聞こえて、彼女が僕の魂を掴もうと必死になっているのが分かる。レディの声も虚しく、体から熱と血液が流れ出ていた。魂を宿す器が空っぽになって、器と魂を繋ぐ銀の鎖が引っ張られ、今にも千切れて滑り落ちてしまいそうだ。
 最悪だ。よりによって、このタイミングなの?
 皆が死ぬ言われて、蘇生が出来る僕が一番に死ぬんだって思ったけど、今はちょっとないんじゃない? 霞んだ視界が暗くなって、冥界の匂いが迫ってくる。上半身が冷たい水に浸って、冥界の水の流れが体を少しずつ押し出そうとしている。
 あーあ。殺されるなら、可愛い女の子が良かったなー。
 愛のあまりに短剣を手に突撃してくれても良いけど、手作りの料理に毒が仕込まれてるのも悪くない。毒が仕込まれた唇でキスされて死ぬのもアリかなー。まぁ、今の死に様が最悪だから、それ以外なら何だって良い気がするけどねー。
 イサークさん。ルアム君の声と、後ろから裾が引かれる感覚。あれー? おかしいなー。だって、僕、床にうつ伏せで倒れてなかったっけ?
「イサークさん」
 振り返るとムストの地下の暗がりで、夜の海のような瞳が僕を見上げている。濃紺色に沈んだ色彩の中から、光が反射する周囲だけ青紫が滲んでいる。僕が振り返って、ルアム君はようやく裾から手を離した。
 強風と地下道の狭さに役に立たないと外していた弓矢を装備し、矢筒からざらりと重たそうな音が溢れる。闇に溶け込む色彩に染めた原始獣のコートセットの上で、日に焼けた手が重ねられて丁寧に頭が下がる。
「急に出発する事になりました」
 そうだ。急に嵐の領界の風が凪いだ。この風量なら竜化して空を飛べると、ダズダズがルアっちとガノさんを引っ張って聖塔へ飛び立って行った。
 聖塔を目指すのは教団側も一緒だ。総本山のエジャルナの大神殿がどんな状況かは分からないが、聖塔攻略に総力を注いでいるなら神官長は出払っているに違いない。教団に囚われたお兄さんの状況を探りに行く為、ルアム君とクロウズさんが炎の領界に向かうことは決まっていた。
 これから出発するのか。
 準備万端なルアム君を見下ろす。この子が出発したのは、僕が死ぬ半日前だ。
 今から未来が変えられるなんて、楽観的な気持ちはない。僕の周囲は鼻にこびり付きそうなくらいに、鮮明な冥界の水の匂いで溢れている。受けた傷を思い出しても、動脈を傷つけ内臓に達する致命傷ばっかりだ。回復呪文で治癒できるほどに、僕の体力が残っているとは思えない。ザオ系の使い手が間に合うか、期待はしちゃあいけない。
 死ぬのは、きっと避けられない。
 死ぬ間際に見る、今までの人生。でも死ぬまでの間で命が助かる可能性がないか、魂が限界を超えて模索する行為なんだってガノさんが言ってたっけ。僕の体が死にたくないって頑張ってるなら、僕ものんびり死ぬまでを振り返るとしますか。
『深入りしないで、無事に帰ってくるんだよ』
 レディの言葉に、青紫の髪がふんわりと揺れる。
 仲間達の中で最も狩りが上手いルアム君は、相手が潜んでいるような場所や敵意に聡い。敵地に侵入するなら、この子が適材だ。緊張で引き締まった顔は、油断のない狩人だ。頼もしいなー。
「クロウズさんが一緒なので、大丈夫です」
 アストルティアから奈落の門を通ってナドラガンドへ入ったクロウズさんとシンイさんは、門番の試練を受けたそうだ。見事勝利したクロウズさんに、門番は『竜の聖印』という証を授けた。その証は領界を越える力を持っていて、その力でクロウズさんは各領界を見て回っていたそうだ。緊急脱出には、もってこいのアイテムだね。
 ただ聖印は認められた竜族しか使えないし、一緒に飛ぶ人数は少ない方が良いらしい。
 その為に、最低限の人数での偵察になるんだそうだ。
「出発の挨拶に来てくれて良かったー。丁度、完成したばっかりだったんだ」
 僕はそう言いながら、帯に結びつけていた紐を解いて括っていた巾着袋を外した。柔らかい袋を手のひらの上に押し広げると、中から同じデザインのブレスレットが現れる。
「お守りですか?」
 紐を貴石と共に編み込んだ、ウェナ諸島ではお土産の露店で良く見かけるお守りだ。水の領界の島に自生している天竜草を撚り、草花で染色したナドラガンドの力を帯びた糸。真珠やシーグラスを散りばめ、小振りな貝を磨いて留め金にしている。ウェナ諸島で売っても、誰も気がつかないだろうね。
 僕は小首を傾げたルアム君に、にっこりと笑ってみせる。大きな青紫の瞳を促すように、編み込まれた最も大きくて半分に割られた貴石を指差す。
「これは、汗と涙の結晶を使った特別なブレスレットなんだ」
 汗と涙の結晶。使い込んだ装備品に染み込んだ、装備した人物の魔力を抽出した結晶。本当は汗と涙じゃないんだけど、経過がそれっぽくっていつの間にか浸透した名前なんだよね。装着者が同じでも装備品が違うだけで、結晶の質は変わる。このブレスレットは、何千個掻き集めても同じものは一つもない結晶を利用した魔法の道具だ。
 汗と涙の結晶を二つに割って、身につける装備品に使う。結晶が体に近ければ近い程良くて、ブレスレットが主流だ。
「片方の結晶の持ち主に何かあったら、もう片方の結晶に異変が伝わるんだよ。最高純度の結晶を使ったから、方向も探れるんだ」
 もちろん、ウェナ諸島では恋人達に大人気! アツアツラブラブなカップルが、婚約指輪を買う前に身につけるド定番アイテムさ! でもねー、たまーに、不倫の探りを入れる為に、相手に送る事もあるんだよねー。こわいねー。
「お兄さんを見つけても、連れて帰れないかもしれない。その時は、これだけでも渡してくると良いよ」
 ルアム君はブレスレットを掬い上げるように手にして、左右の手首にそれぞれ付ける。荷物に入れておくと、咄嗟に出せない可能性かあるからだろう。調整の紐を引っ張って、付け心地の良い場所を探る。僅かな光を吸い込んできらりと光るブレスレットから顔が上がり、嬉しそうな表情を見せてくれる。
「ありがとうございます」
 いいのいいの。僕はにっこりと笑って、ルアム君の肩に手を置いた。
 レーン村の孤児院の子供達を思い出すなぁ。ウェディ族って基本的に椰子の木のっぽだから、ルアム君よりずっと年下の後輩でもこれくらいの背丈になっちゃうんだよね。
「気をつけて、いってらっしゃい」
 はい。力強く頷いたルアム君をクロウズさんの所まで送り届けて、出発のお見送りをする。半日前までは、無事に帰ってきたら美味しいご飯作ってあげなきゃなって思ってた。まさかその日の内に僕が死んで、今生の別になっちゃうなんて想像も出来なかったな。
 巾着袋越しに爪くらいの薄い破片を弄ぶ。汗と涙の結晶を割る時に出来た破片が残ってたんだろう。ルアム君、お兄さんと無事に帰って来れると良いな。
 しんみりと寂しさを噛み締めながら、僕は扉の向こうの騒めきに耳を澄ませた。
 男達の声が響き渡り、疾風の騎士団の本部が騒がしくなる。子供達は外の様子を見たくて駆け回るのを母親が追いかけ、老人達は邪魔にならぬよう息を顰める。騎士団が保管する重要アイテムを封印する為の素材を採りに行った、ルミラさん達が戻ってきた訳じゃなさそうだ。
 竜族の女性達と食事の下拵えをしていた僕は、扉の向こうからドタドタと地面を踏み散らかす音を聞いていた。真っ直ぐこちらに向かっていた足音は、勢いを落とさず扉に激突する速度だ。僕は一緒に作業する女性達にお暇する旨を伝えて、手を洗い布巾で水を拭う。まるで扉を打ち破るように、騎士団の男性が飛び込んできた。
「イサーク殿! 至急お越しください!」
 僕はレディ・ブレラを被って、蜻蛉返りする男性を追いかける。
 ムストの町と地下を繋ぐ出入り口を、多くの人が出入りしている。背の高い竜族の団員に囲まれて、シンイさんが指示を出している姿が見えた。それを横目に見ながら、怪我人や病人を集めて治療する一室に入る。
「イサーク! こっち!」
 沢山のベッドが並んだ一室の奥の人集りの向こうから、ラッチーが手を振っている。駆け寄ればベッドの上には血の気の失せたエンジュちゃんが横たわっていて、既にピペりんが彼女の胸元に魔力回復を促す魔法陣を書き込み始めている。
 神獣の森の主に会いに行ったはずなのに、全員ボロボロだ。
「たくさん 魔力 使った。意識 戻らない」
 青白い肌に軽い火傷の跡が見られるが、大きな傷はない。生命の維持に必要な魔力まで消費してしまったんだろう。強い呪文は膨大な魔力を消費する。戦闘という咄嗟の判断が生死を分つ状況では、消費量を考慮して戦うなんて無理だからね。皆の為に、無理しちゃったんだろう。
 エンジュちゃんの周囲に集まる火の精霊達の不安が、生温い空気となって漂っている。
「精霊の霊薬があったよね。温めて持ってきてくれる?」
 僕の言葉に傍に立っていた薬師の竜族が飛び出していく。巨竜樹の枝で作ったお玉を取り出し、精神を集中する。これから使うスピリットゾーンと呼ばれる技は、精霊達の干渉によって本来持っている魔力回復力を極限に高める。パサーという魔力譲渡が手っ取り早いけど、僕とエンジュちゃんの属性は対極にあって昏睡状態に施すのは危険だ。火の精霊との親和性が高いエンジュちゃんなら、この方法が一番体に負担がないはずだ。かなり上位の技で発動するか不安だけど、大丈夫。この時は、ちゃんと成功したじゃないか。
 僕は目を閉じて心臓の音を聞く。うーん。だいぶ弱い。僕は目の前のエンジュちゃんよりも瀕死なんだろうなー。記憶を振り返っているとはいえ、女の子を救えないアストルティアで一番ダサい魚にならないよう頑張らないとね。
 人肌より温かい精霊の霊薬をお玉の中に流し込むと、僕の魔力を注ぎ込む。
「精霊達よ! エンジュの魂に活力を与え給え!」
 ぱっと空気中に霊薬を撒くと、エンジュちゃんの周囲に集まっていた精霊達が反応した。温められた霊薬に精霊達が干渉し、僕の魔力を得て力を放つ。空間が高濃度の魔力で満たされ、魔力が光の粒子となって目に見えるようになる。火の精霊達のエンジュちゃんを助けたいという願いが、爽やかな熱風となって部屋の中を駆け巡った。
 エンジュちゃんの頬に血の気が戻ってくる。
 結局、僕が死ぬ時はまだ目覚めなかったな。それでも、快方に向かうはずだ。僕はエンジュちゃんの緑の髪を撫でる。細くてさらさらして、気持ちがいい。

 お腹を満たす野菜スープの熱が、じんわりと体に染み渡る。根野菜がスプーンで押しつぶせる程に柔らかい具沢山な野菜スープとパン。エンジュちゃんを助けたり、ラッチーやブレエゲさんの治療で忙しくって忘れてた空腹が最高のスパイスだ。さらにラッチーやピぺりんと楽しく食事をすれば、最後の晩餐でも全然良い最高の味だ。
 嵐の領界の強風が落ち着いたお陰で、虫の声が耳を楽しませてくれる。久々に訪れた静寂だからこそ、僕は聞こえたんだ。
 女の子の呻き声。
 ウェディの男子たるもの、女の子が苦しんでいたり困っていたら助けに走らなきゃならない。僕は呻き声を辿って、最下層にある騎士団の集会場に向かった。風が緩んだ直後は多くの騎士団員が出入りしたけれど、会議も事件もない今は誰もいない場所のはず。
 部屋の前まで来たけれど、やっぱり呻き声は中から聞こえる。強く押さえつけられているような、苦しそうな声だ。女の子に乱暴するだなんて、どんな酷い男なんだろう! 僕は勢いよく扉を開けた。
 全く予想のしていない光景がそこにあった。
「…何をしてるんだ?」
 震える声が喉から漏れる。何度思い返しても、何をしているか良くわからない。
 杖が、掲げられていた。トビアスさんやエステラさんが持っていた、翼を広げた雄々しい竜の彫刻が先端に品良く座っている両手杖。それがアンルシア姫の頭上に向けて掲げられ、見ているだけで胃がムカムカするような不快な光と力を放っている。
 今にも気絶してしまいそうなアンルシア姫を、二人の人影が助ける素振りもなく見下ろしていた。僕の声に振り向いても、逆光になった顔は黒く塗りつぶされている。
 でも、見えなくても問題ない。
 その逞しい腕に刻んだ刺青を、光に浮かんだ引き締まった腹筋を毎日のように見ていた。燻んでボサボサの髪を洗ってサラサラにしたら、そのまま海に飛び込まれて何度怒っただろう。その真っ黒く塗りつぶされた顔は、きっと眉間に皺が寄って、不機嫌そうに細められた目で僕を見ているんだ。
 不愉快に怒りを上乗せされて、腸が煮えくりかえっちゃうね!
「何をしてるんだって、聞いてるんだよ! ヒューザ!」
 あぁ、イサークか。朝食の声掛けに行った僕に、返事した時と同じ声色。
「アンルシアの体の自由を奪ってるんだ。暴れられると厄介だからな」
 水の領界で再会した時から、耳から頭蓋骨の裏側を擦られるような、言い様のない不快感を感じていた。あまりに不快だから苛立ちが隠せなくて、なるべく会いたくなかった。
 元々ヒュー君の声は不快そうで苛立っていて、心地良いから遠い響きがする。だから、ヒュー君はウェディにしては言葉数が少なくて、行動で示すことが多かった。心遣いはありがたいけど、乱暴なのが困りもの。
 それでもね、僕も声だけは手放しで褒めちゃう。良い声なんだよ。
 そんな宝石みたいな声を、心と言葉の不協和音がスライムゼリーになって一緒に煮てる感じ。べとべとべちょべちょのスライムゼリーが張り付いて、綺麗な宝石が台無しだ。
 水の領界じゃ、スライムゼリーにどくどくヘドロが追加された感じ。ヴェリナードで渡した、ブレスレットが外れているのも気になった。災いを退ける願いを込めたブレスレットは、剣すら通さない守りの力を発揮する。何かあったんだろうとは、思っていた。
「ラグアスとフウラ、残る神の器も我々のものだ」
 ははっ。思わず笑い声が漏れた。
『ヒューザらしい全く笑えない冗談だね』
 フウラちゃんも無表情のまま、ヒュー君から杖を渡されて姫に向ける。杖を持っていない腕に、ラグアス王子だろう可愛らしいプクリポしっぽが見えた。
「邪魔をするなら、お前でも容赦しない」
 二人の共通点は、アンテロに誘拐されたということ。『神の器を奪取する』という目的を、潜在意識に仕込まれていたんだろう。アンルシア姫とラグアス王子という、ルアム君のお兄さんが守った器を奪取できる今に、仕込んだ術が表層に現れたんだ。
 さて。僕はお玉を取り出して、ぽんぽんと肩を叩いた。にっと笑う。
「昔と違って、一撃じゃ殺せないからね?」
 地の底から這い上がる魔瘴のような闇から、ニヤリと笑った口元が浮かび上がる。後衛の僧侶を、造作もなく殺せると確信している。鰯を追う鯨の圧倒的優位に溢れた笑い。
 一流の剣士に接近している状況は、控えめに言って最悪だ。集会場として使う部屋はムストの地下では最も広かったが、一対一で戦うなら何の意味もない。
 それでも、女の子が連れ去られるのを黙って見ているだなんて、ウェディの男として最低だよね。疾風の騎士団の皆やシンイさんが来てくれるまで、時間を出来るだけ稼がないと…!
 スカラとバーハを重ね掛けして、リホイミを唱える。一つ咳払いしてから、僕は歌を歌い出す。嵐に遭遇しても、無事に故郷に戻るんだという願いを込めた漁師の歌。
「ちんたら呪文を唱えている暇があるのか?」
 あんなに重い両手剣を片手に軽々と持って、瞬く間に目の前に踏み込んでくる。振り上げた一撃が、僕の脳天目指して大滝の圧力を伴い振り下ろされる。
 硬いものが打ち合わさる音に続いて、砕けた破片がキラキラと輝く。氷で作られた突撃魚の額を両手剣が打ち砕き、あんな分厚い氷の塊が木っ端微塵に砕ける。そのまま腕を掠って真横に振り落とされた剣だけど、腕の腱を切り裂かれて腕が燃えるように痛む。
 さぁさぁ、海に投げ出されるな野郎共! 帆を畳め! 恐れるならば、震えていないで動きやがれ! 歌は力強く続く。
 無数の鰯が群れを成してヒュー君を囲みこむ。頭の小さい脂の乗った鰯は、放たれた短剣のように一斉に襲い掛かった! 氷の魚の渦が雷に一掃された。赤黒い静電気が纏わりつく剣を掲げ、砕けた氷が舞い散る中にヒュー君が何事もなかったように立っている。
 衝撃はずしりと地下を揺らし、ぱらぱらと天井から崩れた小石を落とした。これほどの大きな音と衝撃なら、誰もが異常に思ってくれるだろう。
 うぜぇ。吐息のように苛立たしさが言葉になって漏れる。
 さぁさぁ、生きて帰るぞ野郎共! 男勝りな女房に生意気な子供達。トラシュカの財宝に勝る宝が待ってるぜ! 僕は答えの代わりに歌い続ける。
 僕を叩き斬ろうとした剣を持つ腕に、氷の鮫が横様から食らいつく。噛み切られる前に素早く剣を持ち替え、利き手じゃないのに鮫を背鰭から真っ二つに叩き割った。衝撃の凄まじさを物語るように、鮫は粉々に砕ける。そのまま流れるような剣撃が、スカラを貫通して深々と体を切り裂いていく。気がついた時には血を吸ったローブがずっしりと伸し掛かってきて、膝が折れそうだ。
 手に持った大剣を、殺されそうじゃなかったら見惚れちゃう優雅さで揺らめかせる。まるで細波のように細やかに、大波のように大きく剣の軌跡が描かれる。水飛沫が迸るような錯覚は、宙に止まる氷の破片の煌めき。海鳥のように軽やかに跳び上がり、太刀魚のように目に留められない素早い剣戟が走る。
 治癒能力を引き出す呪文は、擦り傷程度なら瞬時に癒す力がある。そんな回復力も、ヒュー君の嵐のような剣の前には無意味だ。出血量が抑えるのが精一杯。
 攻撃から逃れる為に生み出した氷の蟹の鋭い爪を一瞬で切り落とし、とんと甲羅の上に乗る。白い息を突き破って剣が突き出され、胸を深々と貫いた。
 あまりの激痛に意識が飛びそうになるのを、歯を食いしばって堪える。
「ヒュー君を操ってる黒幕さんは、随分と無知だね」
 鈍臭い僕だったら心臓を刺し貫かれただろう一撃は、辛うじて心臓を外した。夥しい氷が溶けずに床に降り積もっている。部屋の中は冷気に白く霞んでいて、ヒュー君の体は小刻みに震えていた。
 この為に、最初にバーハを重ね掛けしたんだ。
 肺の中に大量の血液が流れ込んで息苦しくて歌えない。それでも、もう、準備は十分だ。
「ウェディは寒さに弱いって、知らないんだ」
 口から溢れた血液が、氷を朱に染める。そして、僕は指を鳴らした。
 砕けた氷が生き物のように動き出し、瞬く間に大きな手になってヒュー君に掴みかかる。手首を切り飛ばす軌道で大剣を振り上げる。手首に食い込んだ刃は、まるで幻を斬るかのように手応えなく振り抜けてしまう。この氷河魔神はヒュー君が砕いた氷の破片と、流れ出た血液の魔力で出来ている。破片は流氷のように動いているから、刺そうが切ろうが手応えなどないんだ。
 氷の破片の中にから顔を覗かせた魔物が、愉快そうに目元を歪める。
 舌打ちが鋭く響くと、ヒュー君は構えを解いてだらりと剣を下げる。燻んだ金髪が黒い風に巻き上げられる。危険が傷口から迸る痛みを疼かせ、血液となって流れ出る体が引っ張られる。濃厚な冥界の匂いに気がついた時には、ヒュー君の足元から冥界の水が湧き上がっていた。
 は? 意味が分からなすぎて、息が漏れた。
 黒幕は何を考えているんだ? 冥界の水は生き物の寿命を喰らい命を奪う。神の器はナドラガ神の復活に必要な存在のはずなのに、死んでも良いっていうのか?
 冥界の水は広がり、氷河魔神が黒い水に沈んでいく。氷に与えた魔力を啜り、ざらざらと氷の破片の山を崩しながら美味そうに飲み込まれていく。水は沸き続け、アンルシア姫やフウラちゃんにも迫るのが見えた。
 ごぼりと吐いた赤い熱が、闇に吸い込まれて黒いイルカに変わる。現世と冥界を渡って存在する死の呪文に跨り、僕はヒュー君に迫る。だらりと下げられた剣が、待ち侘びた恋人を抱きしめるかのようにゆっくりと上がっていく。
 赤黒い闇に塗れた瞳が、にいっと細められた。
「あばよ。イサーク」
 僕がヒュー君の剣に貫かれに向かったようなものだ。それでも僕の手はヒュー君を掻っ攫い、冥界の水から掬い上げた。イルカが冥界の水の上を駆け、水が無い場所に縺れるように投げ出した。
 地面という感覚を失い、どこまでも落ちていくような感覚。器から繋がった銀の鎖が、辛うじて魂に肉体の感覚を伝えていた。
 本当に気持ちが悪い。最後に聞いたヒュー君の声は、行動と心が引き裂かれて断末魔の叫びみたいだった。魂に直に爪を立てられたような、痛みを伴う叫び。最後の最後まで酷くない?
 イサーク! しっかりするんだよ! イサーク!
 レディ・ブレラの声が聞こえて、彼女が僕の魂を掴もうと必死になっているのが分かる。僕の両親は僕を随分と頑丈に産んでくれたんだな。運動神経はからきしだけど、しぶとさはリベにゃんにも負けないかもしれないね。
 鈴の音が聞こえて、足音が遠ざかり消えていく。
 結局、振り返ってみたけど死ぬ運命は変わりそうにないねー。分かってたけど。
 イサークさん。ルアム君の声と、胸に手を入れて仰向けにされる感覚。あれー? おかしいなー。また、君を見送るところから再スタートなわけ? 何度やっても、結果は変わらないって。
「イサークさん!」
 夜の海のような瞳が僕を覗き込んでいる。濃紺色に沈んだ色彩の中を流れる星の尾が青紫だ。僕が驚いて見上げていると、年相応の笑顔を浮かべた拍子に頬を涙が滑っていく。
「間に合って良かった。ブレスレットから凄く嫌な感じがしたので、戻ってきたんです」
 真っ赤に染まった巾着から血が滴っている。血塗れの破片が、ルアム君のブレスレットに異変を伝えたんだ。ブレスレットを二つ身につけていたのも、良かったのかもね。
 腰に落としていた視線に、細い子供の腕が映り込む。ゆっくりと僕の腰に腕はまわって、胸に青紫のふわふわした髪が押しつけられる。もぞもぞと顔が動いて、胸に耳を押し当てる位置で落ち着いたみたい。柔らかい髪に触れた手を、背鰭のない背中に回す。
 震えるのは嗚咽するルアム君か、悪寒が這い上がる僕か分からなかった。
「ルアム君。ありがとう」
 君は僕の恩人だ。僕があのまま死んだら、ヒュー君は死ぬまで僕のことを悔いて生きていくんだろう。可愛い女の子に想われるなら本望だけど、野郎はゴメンだからねー。
 あの乱暴な幼馴染、どう仕返ししてやろう。
 僕がお玉で叩いた程度じゃ、全然仕返しにならないんだもん。
 そうだ! ルベカちゃんにまたヒュー君に殺されそうになったって話したら、彼女のことだから根掘り葉掘り聞きたがるんじゃないかな? 事情聴取ってやつ。きっと、すっごく嫌そうな顔するんだろうなー。想像するだけで、思わず顔がにこにこしてきちゃう!
 早くヒュー君助けて、竜族救って、レーン村に帰ろー!