マモンは賢者に黄金を捧げた - 前編 -

 炎の領界の茹だるような熱気を掻き分け、俺は教団の廊下を駆け回る。どたどたと信者達の祈りを妨げ、ばたばたと神官達の勤めに割って入る。部下達に訊ねれば、答える立場を譲り合い、どうぞどうぞと押し付ける小芝居に付き合わされる始末だ。
 磨かれた廊下は陽炎の生み出した、水溜まりのような煌めきで浸されている。ばしゃばしゃと音も立てぬ艶やかな幻をサンダルが踏み締め、ようやく追いついた蜃気楼の首根っこを掴む。
 うわぁ! 何時ぞやのガキ大将を彷彿とさせる、娘とは思えぬ粗暴な響きが迸る。
 全く、親御さんが着せてくれただろう純白のレースが美しいドレスが似合う淑女であれば、こんな苦労など一切なかったろうに…。ズキズキとこめかみが痛む。ばたばたともがく角と共に、さらさらとした小豆色の髪が左右へ動く。何を思ってか、俺を父と慕う娘を上から覗き込んだ。
「こら! ルビー! 魔瘴の後遺症が治ったら、悪戯三昧とは何事だ!」
 不寝番が明けて居眠りをしていた神官の背中に蜥蜴を入れ、厨房に忍び込んではつまみ食い。ナドラガ様の石像に登っていた時は、血の気が引いた。孤児院の子供達と遊ぶ声は、大聖堂にまで響いてくる。町に勝手に降りるなと言いつけを守っているのだけは、ナゼルよりも聞き分けがいいと内心で褒めている。
 水の領界で血の気が失せて昏睡していた時を思えば、完治し元気になったのは喜ぶべきことだ。だが、悪戯はいかん。神聖なナドラガ神を奉る教団の秩序を、掻き回すことは許されない。
 ごちんと拳骨が頭のてっぺんに落ちる。
「罰として夕食の主菜は抜きだ! 反省しろ!」
「食べ盛りの子供に、ひでーよ父ちゃん! 竜でなし!」
 うるうると涙がこぼれ落ちそうな瞳に光が反射して、真紅の宝石のような瞳が殊更綺麗に輝く。そんな顔して足に縋りついて見上げてきても、俺は下した罰を撤回しないからな!
 ほっほっほ。朗らかな笑い声に顔を上げると、直ぐそばに声の主が歩み寄っていた。慌てて最上位の礼を捧げる俺に、オスルトフ様を囲んでいた孤児院の子供達が元気よく頭を下げた。
「ルビーちゃんのお父さん! こんにちわ!」
 同僚の神官達にも、神官長のナダイア様にも、当然総主教オルストフ様にも、氷の領界で保護した身寄りのない子供だと説明した。孤児院の子供達にも、親子ではないと口を酸っぱくして言ったつもりだ。
 しかし俺の苦労も虚しく、ルビーは声を大にして俺を父と呼ぶ。真の父のように駆け寄って親しげに抱きつく様を、羨ましく見る幼子達が孤児院で育った兄弟達に重なった。止む得ぬ事情で親と別れた子供達に、真実を繰り返そうなど傷に溶岩石を押し付けるようなものだ。
 俺は『ルビーの父』を、致し方なく受け入れた。挨拶を返していると、子供の一人が言う。
「ルビーちゃんのお父さんって、他のりょうかいに行った つよい神官様なんだよね? ねぇ、水が固まるって本当?」
 真っ暗い闇の中を、光る魚が泳いでるんでしょ? 空に七色のカーテンが揺らめいてるんだよね? 海の中に竜族が暮らす都があるんでしょ? お空から水が降ってくるって本当? 子供達がずいずいと寄ってくる。終いにはルビーが『これは俺の父ちゃんなの!』って子供達を、牽制しだした。
 オルストフ様が愉快そうに笑っておられる。子供達を止める様子が一切ない笑みが、俺にふと向けられる。トビアスや。そう優しいお声が掛けられる。
「この老いぼれにも、其方が見てきたものを教えてくれぬかの?」
 子供らと並んで内心の期待が漏れて輝くご尊顔を見て、断れる神官が教団にいようか。
 子供らに手を引っ張られ、ルビーに後ろから押され、オルストフ様が先導するままに総主教様のお部屋に入る。オルストフ様がお座りになる椅子の前に円形に広がる空間に、幼い子供達が座布団を抱えて並べてだす。年上の子供達は台所へ行って、飲み物とちょっとした菓子を拝借してきた。オルストフ様の隣に座らされた俺は、キラキラと輝く瞳を前にひとつ咳払いをする。
 想像を絶する極寒の大地に輝く氷の大地と、白夜の空を躍るオーロラという七色の幕。恵みの木に実る果実がこんなにも大きいと、ルビーが大きく手を広げてひっくり返るのを子供達も笑って習う。うっかり座布団の外に背中がついて、熱された床に触れてあちあちと悲鳴が上がる。
 光の通らぬ真っ暗な世界に、自ら光る生き物達の妖しさ。闇があるからこその、月の光の神秘さ。毒が海のように大地を覆い逆さの塔が天から生えるのを、ルビーが逆立ちして説明する。楽しげに立ち上がり、体を折って股の下から覗く世界に笑いがはじけた。
 語っていると時の流れを忘れてしまう。いつの間にか時間は夕刻となり、夕食を運んでくれた神官に礼を言う。オルストフ様がナドラガ様に祈りを捧げ、今日の糧に感謝をする。
 果てしなく広がる海と、見渡す限りに続く空の広大さ。俺の言葉に子供達は少し顎が浮いて、呆けた顔をする。海底に広がるルシュカの賑わいを、エジャルナの大通りに例えれば心得顔で頷いた。見上げるほどに巨大な神秘の珊瑚から、火の粉のように舞い降りる空気の泡。それを運ぶ神獣カシャルの泳いだ軌跡が、白い泡の道になって遥か海面の上に線を引く。
 そこまで語った頃に、起きていられる子供は多くなかった。最も年長の子供ですら、重い瞼を擦っている。オルストフ様は子供達を愛おしげに眺めておられたが、徐に夢へ届くように手を打った。
「さぁ、風邪を引かぬよう寝床へ行きなさい」
 オルストフ様の言葉に促され、子供達は眠そうな声で『おやすみなさい』と部屋を出る。背に背負われ眠っている子供も、夢の中から手を振っているのか小さい指先がやわやわと動いていた。
 遠くから聞こえる地鳴りのような火炎旋風と、俺の膝を寝床にしているルビーの高鼾。静寂には遠い室内ではあったが、それでも炎の領界ではこれ以上の静謐さを求めることはできないだろう。外から差し込む光は鎧戸で塞がれ、篝火に照らされた横顔は遥かな年月を重ねた皺で神聖さすら感じる。にこりと微笑まれ皺がくしゃりと刻まれる。
「トビアス。私も共に領界を旅した心地になる、素晴らしい語りでした」
 総主教手ずからの酌を受け、俺は深々と頭を下げる。
 領界の調査は事細かに報告が上げられる。俺が話した内容以上の詳細を、オルストフ様はご存じのはずだ。このような労いの言葉を戴けるなんて、光栄の極みだ。
 のぅ、トビアス。そう、嗄れた声が紡ぐ。
「竜族の未来を、どう思いますか?」
 報告は包み隠さず全てを明かす決まりだ。
 俺もエステラの常闇の聖塔に記された、過去の竜族の罪を聞いている。竜族が弟妹神の子らと争い、弟妹神が竜族に罰を下している。ナドラガ教団でも上層部に籍を置く一部の神官しか知り得ない内容ではあるが、最高位である総主教が預かり知らぬわけがない。
 俺はルビーを動かせないまでも、居住まいを正して未来を憂う老人に向き合った。
「私は竜族の未来が明るいと、軽率に申し上げることはできませぬ」
 氷の領界が解放されて嵐の領界に至りつつあるこの短期間で、ナドラガンドは大きく変わった。正直、長年交流のなかった竜族同士で諍いが起きる可能性を考えていなかったが、水の領界も大きな争いにならずに和解に至れたのは幸いだった。
 嵐の領界の竜族達は、我々を受け入れてくれるだろうか?
 噴き出る不安を払い、俺の言葉にじっと耳を傾けるオルストフ様を見据える。
「未調査の嵐の領界以外の全ての領界は、竜族の滅亡すら危惧する厄災に見舞われ、厄災が収束する兆しはありません。そして、ナドラガ神の御身に蓄積された多量の魔瘴…。決して軽んじられる問題にございません」
 それぞれの領界が繋がり、厄災に変化の兆しが現れている。炎の領界の熱風が氷の領界に流れ込み、寒さが和らいだと言う。俺は死ぬほど寒いままだと思うのだが、長年住んでいるイーサの村の住人が言うのだから間違いはなかろう。氷の領界の冷気は闇の領界の毒を押さえつける。浄化されたとはいえ微量の毒を含んでいる空気が流れ込む水の領界だが、住処が海底であることから影響はないそうだ。
 変化の兆しはあれど、厄災が数年のうちに収束することはないだろう。これからもナドラガンドに暮らす竜族は、故郷の領界の厄災に向き合っていかねばならない。
 ナドラガ神の体に蓄積された魔瘴。魔瘴の被害の報告はないが、見たと言う報告が領界を問わず上がっている。被害の報告が上がるのも時間の問題で、早急に対応しなければならない。
 しかし。俺は不安を断ち切るように、力強く言う。
「竜族の民は滅亡に瀕する災いの中でも、命を繋げ今に至る強さを持っています。そして交流の中から新たな希望が生まれているのを、領界を繋げ、行き来する者は実感しております」
 領界の民の交流は、多くの幸を齎している。物々交換であれ手に入らない食材をやりとりし、新たな出会いは希望を育んでいる。円環の遺跡の前で繰り広げられる賑わいは、エジャルナの大通りに勝るものがある。
 久々に会ったリルチェラは、見違えるほどに明るい笑顔を振り撒いていた。少し前まで胸元に握った手を押し付けて、顔を俯け耐えていた子供だったとは思えない。そんな彼女の変化が、希望の代名詞のように俺の胸に刻まれている。
「アストルティアから参った解放者の友人達も、竜族のために協力を惜しまぬ善き者。弟妹神の子らとかつて起きた諍いも、時の彼方に流れていきました。それは弟妹神の御慈悲でしょう」
 闇の領界でワギの子らと竜族が争い、報復に弟神が竜族を罰したとあった。贖罪の永き年月によって争いは過去になり、弟妹神の子達は竜族を忘れた。だからこそ、なんの蟠りもなく、新しい関係を築くことができている。
 ルアムと行ったアヴィーロ遺跡までの道のりを、水の領界での疎外感から守ってくれた背中を、俺は暖かく誇らしい気持ちで思い返す。弟妹神の民と、共に歩んでいきたいという想いが溢れて止まらない。今まで罪を贖ってきた先人達に、感謝してもしきれなかった。
 私は。そう体を乗り出す。
 ナドラガンドの竜族は、ようやく互いに互いを知ったばかりだ。
 広がる世界に生まれた新たな考えは、新たな災いの火種になるやもしれぬ。
 それでも、全ての領界の竜族が力を合わせれば、超えられぬ問題はないはずだ。違う価値観や違う力を持つからこそ、問題を多角的に対処できるに違いない。
「全ての領界の竜族が手を携えれば、全ての問題は必ずや解決できると思っております」
「おぉ…。大いなるナドラガ神よ…」
 オルストフ様の閉じた瞼から涙が止め処もなく流れ、頬を筋となって流れていく。骨が浮き出た皺だらけの手を組んで、宙を仰いで神に祈りを捧げる。慌てて涙を拭うものを探す俺だったが、オルストフ様は自らの袖で目元を拭く。
 あまりにも立派に育って、感極まってしまったんですよ。そう、微笑みながら仰る。
「ナドラガ様が蘇れば竜族は救われる。若き日の私は、友であるナドラガ神の信仰を司る神官と共に、竜族の未来の為に殉ずる誓いを立てました」
 青い炎へ向けられる昔懐かしむ眼差しは、一体どれ程の年月を遡っているのだろう。数百年では足りぬ年月を、俺は想像できそうにない。
「老いて先の短き我が生において、竜族の未来は死ぬに死ねぬ気掛かりでした。神話の時代より続く厄災に竜族は疲弊し、邪悪なる意志に屈して滅ぶ覚悟も決めていたのです」
 オルストフ様は全ての竜族の父と呼べる慈愛を、民に施してくださる。生まれた新たな命を祝福し、育つ若き者を慈しみ、結ばれた二人を寿ぎ、死して旅立つ者を見送る。誰よりも永く生きた故に、その者の一生を見守ってきただろう。だからこそ、未来に幸あれと誰よりも願っておられる。
 ナドラガ様は確かに我らの種族神であり救いの神であろうが、目の前のオルストフ様こそ竜族の姿を借りて降り立った神のようだ。教団の中にはナドラガ神ではなく、オルストフ様にお仕えすると考える者は多い。命を救われたエステラはその筆頭だろう。
「解放者が現れ、アストルティアより風が吹き、領界が全て繋がろうとしています」
 天寿を全うする老人のように、晴れ晴れとした笑みを浮かべる。
「後は、ナドラガ様が復活なさるだけ…。私は憂いなく逝くことができそうです」
「オルストフ様。そのようなことを仰らないでください」
 俺が縋るように御手に触れると、オルストフ様はその手をやんわりと握り返した。
 複数の足音がこちらに向かってくる。大股で迫る足音に、ばたばたと今にも縺れて転んでしまいそうな小走りの足音が複数絡みついている。先行する大股の足音に、熱風で不明瞭な大声が向けられている。尋常ではない雰囲気が、寝静まった者達を寝床から這い上がらせる。
 この重い足音に鈴の音。教団が支給する両手杖の先端に鈴を付けているナダイア神官長だろう。円環の遺跡の鍵である円盤も手に入れ、カシャルの巫女を制して和解に至ったはずだったが問題でも起きたのだろうか? 膝の上のルビーを抱き上げ、立ち上がって迎える準備をしている間に足音は扉の前で止んだ。
「神官長ナダイア、総主教様に至急報告がございます」
 厳格を声にしたような宣言に、オルストフ様は穏やかに許可を返す。開け放たれた扉から、普段と変わらぬ堂々とした態度で入ってきた神官長は型通りの礼をする。
「そんなに慌てて、どうしましたか? ナダイア」
 炎の領界は夜も昼の如く明るいが、定め決めた時刻では今は深夜だ。そんな時刻に神官長であれ格上の総主教の部屋に押し入るように訪問することは礼儀を欠く。背後で転ぶように続いた神官達は『オルストフ様がお休みの為に、翌朝にしてはいかがか?』と言っていたのだろう。よほど大きな問題でも発生したのだろうか?
 ルビーを抱いて下げた頭では、神官長の顔はよく見えない。
「ダズニフを破門に致しました」
 破門…だと? その場に居合わせた者達が絶句する中、神官長の言葉は続く。
「ダズニフは水の領界にて同胞を惑わす、邪悪なる意志を擁護したのです。我らが解放者として認めるに値しないと判断し、破門を言い渡しました」
 オルストフ様がよろよろと椅子から立ち上がる。あまりの衝撃に胸元の衣が深い皺を刻むほどに押さえられ、ぜぇぜぇと喘ぎながら肩で息をする。ナダイアの背後から神官が飛び出し、座るよう促すが首を振って拒絶された。
「ナダイア。ダズニフは我が友の子。このナドラガ教団が立ち上がる前から、神に仕えた尊き血筋の唯一の継承者です。撤回なさい。破門は教団の否定と等しい…」
 前身のエジャ聖堂からナドラガ神に仕えた血筋は、オルストフ様と同じく教団を支える柱だ。家族が次々と亡くなり教団から出奔したダズニフだが、あらゆる竜に変化できる竜化の術の才能や、ナドラガ神の信仰への深い理解を否定できる者は誰一人いない。解放者としての実績もあって、神官長になるべきと言う声は未だにあるのだ。
 しかし、ナダイアが神官長の立場にあるのは、その実力故だ。
 マティル村の救助に向う前に先代神官長に指名され、ナダイアは神官長へ着任した。当時、最も優秀で信仰心厚いナダイアが神官長になる事に、異を唱える者はいなかっただろう。
「もはや教団の体裁など必要ない」
 エジャ聖堂からの柵もない神官長は、ナドラガ神の祈りが中心だった教団の神官達に積極的に民を救うよう求めた。重用された武術や魔術に秀でた神官達だったが、ナドラガ神への理解がおざなりになっている者は少なくない。行動による救済を支持する若手が中心の神官長派と、ナドラガ神へ救済を祈る総主教派で教団は真っ二つになった。
 そこに炎の領界と氷の領界を繋げ、解放者になったダズニフが戻ってくる。
 ナダイアがダズニフを疎ましく思っている事は、孤児院で共に過ごしていた頃から知っていた。解放者となり教団を図らずとも一つにしてしまったダズニフが、面白くなかっただろう。
 それでも、ナダイアは黙認していた。
 教団という大きな力を行使するには、どんなに疎ましかろうが解放者の存在が、どんなに相入れなくとも総主教の存在が必要だったからだ。
 なぜ、今になってダズニフを破門にする? オルストフ様の信が得られなければ、破門されるのは神官長であってもナダイアの方だ。
「ナドラガンドの全ての領界は間も無く繋がり、引き裂かれし御身は蘇ろうとしている」
 ナダイアはたっぷりとしたマントを払い、背後がよく見えるよう半歩身を引いた。
 俺は驚きに目を限界にまで見開き、凝視した。
 総主教の部屋は教団の二階にある。部屋を出て正面に広がる教団の中庭の上空に、大きな光の球がいくつも浮かんでいた。中庭に立つ神官達が注ぐ魔力は鎖のように光の球を縛り、封印の魔法陣が球の表面をくるりくるりと回っている。その中に人影が見える。
 そのうちの一つに見覚えがあった。イーサの村で緑の者と誤解され祀られていた、ダストンだ。だらりと四肢を投げ出し、目を閉じ、眠っているのか全く動く様子はない。
 もしや、他の者も? そう巡らせば竜族ではない出立ちの者達が、同様に球の中にいる。
 この者達はルアム達が探している、邪悪なる意志に誘拐された友人達…?
 心臓が止まり、澱んだ血流が膨張し、身体中に激しい痛みが走る感覚。ルビーを落とすまいと、足を踏ん張り転倒を免れる。しかし気を抜けば、目の前が暗転しそうだ。
「我々はナドラガ神を未だ拘束する忌まわしき弟妹神の鎖を、その器によって解放する!」
「発言をお許し願いたい! ナダイア神官長!」
 気がついた時にはルビーを抱いたまま膝を折り訴えていた。『良いだろう』と静かに許可を下した声が終わらぬうちに、俺は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「ナドラガ神の御身にはこのナドラガンドが滅ぶほどの、魔瘴が封印されている可能性がございます! 復活と同時に噴き出した魔瘴により、竜族は滅ぶやもしれぬのです! その対策は、どうされるのですか?」
 教団だけでなく民にまで、魔瘴の危険性を十二分に訴えてきた。俺の言葉に居合わせた神官達が動揺し、互いの顔を不安そうに見合わせる。神官長ですらナドラガンドが魔瘴によって滅ぶという可能性を、鼻で笑って無視する事はないだろう。
 先ほどまでの流れ出る溶岩のような威勢は鎮まり、まだ赤々と熱を帯びながらも溶岩石のように固まった。神官長は俺の進言に同意するように頷いた。
「確かに貴様の言う通り、ナドラガンドが滅ぶほどの魔瘴がナドラガ神の御身には封じられている。だが、問題はない」
 まさに言葉の通り問題にならないとばかりに、平然と返される。
 どういう意味だ。上目遣いで見上げるも顔色は伺えず、鱗一枚下で疑念が這いずり回る。
「魔瘴はアストルティアに捨てる。滅ぶのは、我らが神に叛旗を翻した弟妹神の子らよ…!」
 なっ!
 どよめきが神官達を駆け巡る中、俺は頭を下げて大声で訴える。
「ナドラガ神は母である女神ルティアナ様より、弟妹神の守護を任されております! 我らが弟妹神の民を害する事は、我らが神の存在意義を否定する事と同義です!」
 ルビーが目覚めたのか、ぎゅっと俺の首にしがみ付いた。震える小さな体を守るように、回した腕に力を込める。大丈夫だ。怖くない。俺に言い聞かすようだった。
 ルビーの頭が乗っていない方の肩に、ゆっくりと大きな手が触れた。妙な沈黙に促され、俺は顔を上げてしまった。
「違うぞ、トビアス。これは教育だ」
 血の気が引く。体を覆う鱗が全て裏返り、白銀の死神と対峙した時に似た悪寒が走る。
「偉大なる竜族に逆らった愚かなる弟妹神の子らに、我々が手ずから教えてやるのだ。偉大な兄に逆らえばどうなるのか、愚鈍なる弟妹はどうあるべきなのか、身の程を知らしめてやらねばならぬ」
 息が吹きかかる程に迫ったナダイアの顔は、アストルティアの民への善意と、ナドラガ神に代わり執行する誇りで光り輝いていた。理解できない。アストルティアを滅ぼすと、弟妹神の民を害すると明言しておきながら、なぜ、そんな顔が出来る…!
 今を生きる弟妹神の民が、存在すら伝説のものと思っていた竜族に何をしたというのだ。
 ルアムは共に極寒の地を歩き、氷の領界を渡る術を教えてくれた。ちっとも上達しなかったが、イサークは泳ぎ方を熱心に教えてくれた。ダズニフと共にやってきた誰もが、竜族を救わんと力を貸してくれた。逆らうなんてとんでもない! 身の程など、どうでも良い。彼らの知識を、世界の広さを、知っていかねばならぬのは我々竜族の方じゃないか!
 強く噛み締めた口を開き喉を言葉が迸ろうとした時、背後から悲鳴のような声が響く。
「オルストフ様! しっかりしてください…!」
 振り返れば鎧戸が閉じられた暗がりの中、床に倒れ伏すオルストフ様が篝火に照らされて浮かび上がっていた。痙攣するかのように激しく震え、尋常ならざる状態であると一目で分かる。傍にいた神官が、膝を折って覗き込むも明らかに狼狽えていた。
 横を通り抜ける気配がして、視界の端からナダイアのたっぷりとしたマントの裾が映り込む。ナダイアはオルストフ様の前に立つと、場違いなほどに深々と最上位の礼を捧げた。
「総主教様。よく休める場所へご案内しましょう」
 ナダイアが顎をしゃくると、背後から体格の良い男性神官達がオルストフ様の傍に立つ。失礼しますと声を掛け、丁寧に脇の下からお体を支えた。ぞんざいに扱われず安堵はしたが、この部屋から連れ出そうとしている。
「神官長。総主教様をどちらへお連れするのですか?」
 衝立で仕切られているが、同じ部屋にオルストフ様の寝床がある。そこで休ませれば良いだろうにと、誰もが思った事だろう。しかし、訝しんだ神官達の疑念をナダイアは叩き潰した。
「ここは少々騒がしくていけない。静かな場所にお連れする」
 ナダイアが目配せをすれば、側近だろう神官達が集まってきた者達を追い返し始めた。遠くから総主教派だろう神官の怒声が聞こえてくる。何事が起きたのかと交わされる言葉は、炎の領界に響く炎の音をも退ける。
 俺にしがみ付いて震える小さい体を抱き直し、自分の部屋に戻ろうと踵を返した。
「待て、解放者よ」
「神官長。私は解放者ではありません」
 ルビーを抱えたまま慇懃に頭を下げる。視界の外でナダイアが鼻で笑ったようだ。
「トビアスよ。貴様は紛れもなく水の領界にある円環の遺跡の鍵を手にした、水と嵐の領界を繋げし解放者だ」
 聖塔の守護者を討伐したのは青の騎士団の団長ディカスではあったが、彼の心を開き円盤の鍵を手にしたのは俺だ。解放者と名乗って偽りはない。
 俺は冷や汗が噴き出るのを堪えられなかった。
 ダズニフが破門され教団から追放されたのは、俺という新たな解放者が現れたからだ。新たなる教団の導き手。それに、俺を据えようというのか。
 ダズニフはその実力とアストルティアで得た仲間の存在で、ナダイアの思惑など跳ね返せただろう。しかし、今の俺にはナダイアを退ける力も、助けてくれる仲間もいない。エステラの姿は見える限りにはなかった。腕の中の温もりを強く抱きしめる。ここから、ナダイアから、一刻も早く離れなくてはならないと本能ががなり立てた。
 ナダイアの手が、ぬっと上がった。あまりにも自然に、その大きな手が開きルビーの細い首を掴んだのだ。あぐっとルビーの声から苦しげな声が漏れると、俺の首に回す腕の力が強くなる。
「とう…ちゃん! く、くる…しぃっ!」
「ナダイア! 手を離せっ!」
 耳元で力を加え鱗が圧迫されて折れる音が聞こえる。ルビーの力はこれ以上になく込められ、涙が頬を濡らし、苦悶の声が否応なく耳に詰め込まれる。引き剥がそうにもナダイアの指は巌のように固く、離れようと下がればナダイアも距離を詰めてくる。
 首を絞めているナダイアが、心底哀れなものを見るように眉尻を下げた。
「娘を悪戯に苦しめるとは、悪い父だな」
 縋り付いてきた腕の力が、ふっと抜ける。悪い予感に強ばった体に、ナダイアの蹴りが刺さった。俺の体は大きく後ろに蹴り飛ばされ、首を掴まれたルビーと引き離される。だらりと手足が下がる子供をぶら下げ、笑う口元が闇の中から浮かび上がった。
「さぁ、解放者よ。娘の命が惜しくば、嵐の領界を解放するのだ!」
 邪悪なる意志。それはナドラガ教団の神官長の形をしている。
 俺達は最初から、邪悪なる意志の手先だったのだ。