マモンは賢者に黄金を捧げた - 後編 -

 嵐の領界の風は幾分か弱まり、乱気流に包まれた翠嵐の聖塔まで飛竜の姿で近づくことができた。しかし、風が四方八方から吹き付ける場に立つ聖塔は、弱まった風でもルアムが吹き飛ばされる程度に強い。俺は強風に匂いも音も満足に拾えず、同行者に手を引っ張ってもらわなきゃ歩けもしねぇ。ルアムに至っちゃ、胴体に縄を結んでも風船みたいな有様だ。
 風と魔法の仕掛けで、頭がこんがらがっちまう。頭の良いガノが仕掛けを見破り、身軽なルアムが風に乗って指示された仕掛けを解きに行く。役に立てなかった分、守護者は気合入れて一人でぶっ飛ばしてやった。
 恐らく木材で出来た体が割れると、中に閉じ込められた空気が風に乗って漏れ出す。風に触れると、触れた場所から品の良い女性の悔いる言葉が伝わってくる。
『ただ、ナドラガの子であるだけで、長き贖罪を強いる程の罪を犯したのでしょうか?』
「フウラの嬢ちゃんの声じゃねーけど、世界樹で聞いた喋り方に似てるなー」
 ルアムの声にガノが『エルフの種族神、エルドナ様じゃな』と頷いた。
『弟妹達の決断を止めることが出来なかった私こそ、罪深い』
 積もり重ね煮詰まった後悔に、喘ぐ女性の姿が浮かぶ。エルドナ神はナドラガ神の次に生まれし長女。女神ルティアナの子供達の中で、長兄との時間を最も長く過ごした女神だ。優しく慈悲深い彼女には辛い結末だっただろうと推測はしていたが、こうして言葉に聞くと痛感する。少なくともエルドナ神は、兄のことを今も慕っているんだってな。
 どうか。懇願するようにエルドナ神の声は語り掛けてくる。
『母なる神ルティアナのご加護が、全ての者にありますように…』
 全ての空気が聖塔の守護者から流れ、ひゅうひゅうと風が抜ける音だけになった。からりと空洞の胴体から、円環の遺跡の鍵である円盤が転がり落ちる。それを拾い上げ振り返れば、ガノが嬉しそうに拍手を響かせた。
「鍵に関しては、先手を打てたようじゃな。重畳。重畳」
「これ以上出し抜かれちゃ、かなわねぇからな」
 聖塔を攻略中にムストの町の地下にある疾風の騎士団の本部が襲撃され、神の器が全て奪われてしまったこと。襲撃でイサークが瀕死の重傷を負い、間一髪で人間のルアムの蘇生呪文が間に合ったことを、プクリポのルアムから聞いている。一つの肉体に二つの魂が宿る状態で月日を重ねた結果とはいえ、嬉しくねぇ活用法だ。
 なんかさー。ルアムがふかふかの毛で覆われた耳を折るように掻き、美味くない物を口の中でもごもごと転がすように呟く。
「ぐちゃぐちゃじゃねー? 訳わかんねーよ」
 嵐の領界の風が凪いだのは、エルドナ神の器を利用したため。アンテロによって奈落の門の向こうに連れて行かれた娘は、領界の風を弱めるためにエステラに連れてこられた。
 領界の解放の為に俺と行動を共にしたエステラを、仲間の誰もが知っている。皆が『エステラが悪事に加担するとは、とても思えない』と思ってんだろう。馬鹿正直なエステラなら『神の器の力を借りたい』と疾風の騎士団本部に乗り込んでくる。本当にそうする姿をありありと思い描いて、噴き出すのを堪えて鼻水が出た。
 だが、実際にエステラが選んだのは、神の器をナドラガ神復活の道具にしたことだ。
 一時であれ仲間として行動し、アストルティアから誘拐された友人を探していると知っていたから質が悪い。過大評価し過ぎちまったなぁって、俺も内心悔いてるくれぇだ。
 悲しみに濡れたルアムの声に、ガノは憤りを言葉に混ぜて吐き捨てる。
「形振り構う必要がなくなったんじゃろう。アンテロの行動からも推測は出来ておったが、アストルティアにはない倫理観で攻めてくれるわい」
 ダズ兄。ルアムの柔らかい小さな手が、俺の指を握った。あぁ、俺も裏切るんじゃないか。そんな不安を抱かせちまうのが辛い。
 俺はルアムの前にしゃがみ込むと、ふかふかと柔らかくて、まるい頭を撫でる。軟骨もない耳は驚くほど柔らかくて、ぺにょんって感じで折れて戻る。
「俺はお前達の味方だって証明出来るものを、何一つ持っちゃあいねぇ。ただ信じてくれって強いて、悪いって思ってる」
 ぶんぶんと手のひらの下で頭が触れる。くすぐったくって、笑っちまう。
「俺はお前達が大好きになっちまった。命を賭けりゃあ守れるなら、躊躇いなく賭けちまう。笑って、幸せで、楽しく生きて、それ以上を俺がくれてやれるなら、なんでもやってやりてぇ」
 だから、仲間達の死の予言が辛い。
 アストルティアに帰れば避けられるのかと考えたが、もう、そんな生易しい状況じゃねぇ。彼らはナドラガンドの事情に深く入り込んじまった。あの時の俺とナゼルのように、ナドラガ神のは大きく逃れることは出来ねぇだろう。
 それでも、諦めちゃいけねぇ。ナゼルが諦めなかったから、俺は今ここにいる。
 今度は、俺が…。
「ダズ兄。怖い顔だと、オイラ食われちゃうと思って、ぶるっちゃうよー。えがお、えがお」
 頬にぺたりと温かい手が吸い付く。ぺちぺちと触れる手の感触に思わず歯を見せて笑っちまって、ルアムの鼓動が一つ跳ねる。あー。ナゼルが死んでからサボってたけど、きちんと普通の竜族っぽい顔を作れるようになっとこう。竜の頭じゃ、笑っても怖ぇもんなぁ。トビアスに付き合ってもらえりゃ、昔の俺の顔に近いものが作れるはずだ。
 ガノが愉快そうな声を上げて笑っていたが、ふと聖塔へ降りる階段へ視線を向ける。俺も階段を登ってこちらに向かう足音を聞いていた。噂をすればなんとやら。風に知った匂いが混ざっているのを感じたと同時に、ルアムが嬉しそうに声を上げた。
「トビアスの兄ちゃん!」
「近づくな!」
 駆け寄るルアムを制止したのは、トビアス自身だった。雄叫びのような拒絶に、小さい体がつんのめるように止まる。
 血の匂いはしないから怪我はしていないだろうが、明らかに鼓動も呼吸もおかしい。
 ナドラガ教団と俺達は現在敵対関係。俺達に害意があるなら、無邪気に近づいたルアムを攻撃して少しでも有利にしたいはずだ。それをしなかったということは、暴走したエステラや神の器を拐かしたマリーヌやエルドナの器のような、教団の影響下にはないということだ。
 嫌な予感が胸の内側がざらつく中、トビアスがのろのろと手をこちらに向けた。
「ダズニフ。円盤を…円環の遺跡の鍵を渡して欲しい」
 聞いているこちらが苦しくなるような、息も絶え絶えといった悶える声だった。警戒は怠らないものの武器は抜かずにいるガノが、怪訝さを隠さず問いかける。
「嵐と炎の領界を繋げれば、ナドラガンドに魔瘴が溢れてしまうことを知っておろう。お主は魔瘴で死にかけたことが、あるそうじゃないか。恐ろしさは身に染みておろう?」
 トビアスはうわ言のように『分かっている…』を繰り返す。重い足を引き摺るように近寄ってくる様は、こんな場でなければドラゴンゾンビのモノマネが上手ぇじゃねぇかって冗談を言っちまう。
「ルビーか」
 弾かれるようにトビアスは顔を上げた。
 歯を食いしばった音が脳を擦る。エステラが嵐の領界の風を鎮める為、神の器を使う任務を任せられたと聞いた時から覚悟はしていた。最悪を危惧していたくせに、守ることも出来なかった己の不甲斐なさに体が燃え上がりそうだった。
 こちらに向けていた手で髪を掻き毟り、血反吐を撒き散らすような悲鳴が空間を裂く。
「嵐の領界を解放しなければ、ルビーの命はない…。脅しではなかった。実行しなければ、ルビーが殺されてしまう!」
 ルアムが言葉を失い静かになった空間に、なんと…とガノの呻きが響く。
 子供の心臓の上に爪を突き立てる姿を見せつけ、凶行に走らせる。なんの罪もない飛竜をランガーオ村に襲撃させた卑怯さを、育てた子供達に神を降ろし殺した残虐さを、俺はどうして忘れていたんだろう。
 教団とは、そんな組織だった。
 俺の親父が俺に被せるはずだった裏の顔。ナドラガ神を降ろす為に清らかたれと、触れさせられることのなかった世界。俺の代わりに裏の顔となり、その世界に生きてきた者達がトビアスを介して俺に言う。
 トビアスを苦しめているのはお前だ。と。
 お前が収まるべき場所に収まっていれば、全ての悲劇は起きなかった。と。
「俺は多くの同胞より、ルビーを選んでしまったんだ」
 優しいトビアス。お前は魔瘴で故郷が滅び多くの同胞が死ぬ責任と、ルビーが死ぬことを天秤に掛ける罪悪感に身が引き裂かれる思いなんだろう。全ての領界を見てきたからこそ、同胞達を救いたいと痛みも顧みず行動できる。血が繋がっていないのに、父と慕う子供を本物の娘のように慈しむ。アストルティアからやってきた弟妹神の民を、同胞と等しく接せられる。
 お前みたいな奴が竜族を導いたら、二度と神話の悲劇は起きないだろう。
 でもなぁ、そんな評価はどうでも良いんだよ。
 俺はお前のこと、本当に兄弟みたいに思ってるんだ。ナゼルと共に過ごした孤児院での日々の中で、なんにでも一生懸命過ぎて要領の悪いお前が、なんだかドジな弟みたいで可愛かったんだ。笑った思い出も、喧嘩の数も、これからも増えていく大事な友達。そんな奴、もうお前くらいしか居ないんじゃないか?
 絶対に救ってみせる。お前も、ルビーも。
「良いじゃねぇか。己の大事な存在を見捨てる奴に、大勢の他人が救えるもんかよ」
 俺はガノに円盤を渡すと、ルアムの傍を抜けてトビアスに歩み寄る。トビアスの両手杖の間合いにもう一歩で入るところで、俺は立ち止まり肩幅に足を開いた。
「来いよ、トビアス。お前の全力を受け止める」
 嵐の領界を解放せず、ルビーを殺さない方法。それは、本気のトビアスに勝つことだ。
 俺とは違ってルビーの命をチラつかせれば、思いのままに動く解放者だ。トビアスを生かす価値がある限り、ルビーの命も保証される。八百長なら手足一本は切っちまうだろうが、本気で挑んで敗北するなら初回は見逃してくれる可能性が高い。恩着せがましくすりゃあ、従順な解放者に仕立て上げられるかもしれねぇもんな。
 …ったく、反吐が出らぁ。
 トビアスはゆっくりと姿勢を正し、大きく深呼吸を繰り返す。一回、二回、三回。次第に鼓動も呼吸も整ってくる。あれほど追い詰められていた気配は消え去り、正義感溢れる生真面目さが本来の彼を形作っていく。
「ありがたく、胸を借りさせてもらおう」
 凛として清々しい響きに、俺はにっと笑みを深めた。
 俺の一言で全てを理解した立派な解放者様だもんな。ガキの時の認識を改めねぇと、負けるのは俺の方かもしれねぇ。
 嵐の領界の埃っぽい空気が熱を帯び、混じった砂が溶けて鱗に張り付く。強風を取り込み火炎旋風に包まれたトビアスだったが、次の瞬間には雄叫びと共に竜の巨体が旋風を切り裂いて飛び掛かってくる。最強の生物であるドラゴンの名に恥じない、最高にして最強の造形美を誇るグレイトドラゴン。俺は同じ姿に竜化し、突っ込んできた巨体をどうにか受け止める。
 床に食い込ませた爪が、ばきばきと破砕音と衝撃を撒き散らし押し込まれていく。がっぷりと組み合っているが、トビアスが低い重心から押し込む力を跳ね返すことができない。俺は手を組んで腹に押し付けられたトビアスの頭の上に振り下ろし、床に叩きつける!
 ガノは咄嗟にルアムを鞭で絡め取って引き寄せ、取っ組み合う竜から逃げるように駆け出した。
「塔を出ろ!」
 グレイトドラゴンは前足というか手が短く、発達した後ろ足と強靭な筋肉の束である尻尾が武器となる。取っ組み合いからの投げ技と、尻尾による強烈な打撃を主軸とした戦いが繰り広げられる戦場も凄まじい衝撃を受ける。この最上階の床はすぐに瓦解するだろうが、塔が崩落するまで時間はあるはずだ。教団の神官達が待ち構えてる可能性もあるが、俺とトビアスの戦いから連れ立って逃げ出さなきゃならねぇだろう。
 床が抜ける程に踏み締めた巨体が大きく旋回し、太い尾が俺の首筋に叩き込まれる! 全体重が乗った一撃が首に掛かり、俺は耐えきれずに聖塔に頭から激突する。突き抜けた床に爪を引っ掛け前へ飛び出すと、追撃を鱗一枚で避けた。
 そのまま身を捩り頭を下げていたトビアスの首を掴んで引きずり倒すが、足にしがみ付かれて転倒させられる。最大級にまで威力を乗せた尻尾の一撃を繰り出すには、条件と整える必要がある。その条件を整えようと、その条件を満たすまいと、鱗を弾き飛ばす攻防が繰り広げられる。投げられて床に叩きつけられ、締め上げて意識を奪う。壮絶な取っ組み合いで、聖塔はぐらぐらと揺れている。
 突然、互いに間合いの外に弾かれる。じりじりと出方を伺いながら身構える。
 トビアスから急激な熱の高まりを感じ、俺もすぐに腹で熱を練る。互いにほぼ同じタイミングで吐き出した灼熱の炎がぶつかり合い、炎の領界宛らの熱波となって嵐の領界に吹き荒れた。雷を生み出す積乱雲を燃やしたのか、あれほど耳で爆ぜていた稲妻の音が消失する。
 流石、炎への高い耐性を持つ同郷。あれほどの高温の中を突っ切って、走り込む勢いと竜の重量を乗せた体当たりをかましてくる。浮いた体が抱え上げられ、天地が逆さまになる。ふっと重力を失ったと感じた瞬間、凄まじい勢いで頭から垂直に地面に叩きつけられた。二体分の竜の体重が乗った一撃は、聖塔の床を何枚も抜く。
 俺の意識があったのは二枚目を抜いた時までだ。気がついても世界がぐらぐらと回って、吐き気が止まらない。
 一緒に縺れるように落ちたトビアスが、瓦礫を落としながら立ち上がったようだ。尻尾を掴まれ振り回され、ぶおんぶおんと風を切り裂きながら遠心力で頭に血が上る。俺の体が引き千切られそうな最高速度に達した時、ぱっときつく握られた手が離される。
 俺の体は聖塔の壁を打ち抜き、嵐の領界の空に放り出された。
 無重力の中をふわふわと漂う感覚の中、俺は言い様のない高まりを感じていた。トビアスの強さが嬉しくて、勝ちたい気持ちが胸から脳を貫いてくる。放たれた礫のように俺に向かってくるトビアスのがむしゃらさが、愛おしくすら感じた。
 気絶していると思ってか、無防備に接近したトビアスの首筋に食らいつく! 不意を打たれた驚きと激痛に、トビアスが絶叫した。翼を広げて急上昇する圧と、地上から引っ張る重力にトビアスの首がみちみちと嫌な音を立てるのが牙に響く。
 この程度で死ぬなよ。
 俺はトビアスを咥えたまま足を絡めて固定し、重力を振り切るように回転し出す。速度を増して領界の空気を巻き込み、瞬く間に竜巻のような空気の層が出来る。さらに加速した空気の層に混じった砂塵が擦れ合い、電気を帯びて痛みを伴って爆ぜる。
 ごうごうと凄まじい音に包まれた中で、これ以上に加速できないと思った瞬間。俺は突き立てた牙を離す。世界がトビアスの頭をぐんと引っ張る。あまりの力にもげてしまう前に、掴んだ足を捻って押し出した。
 放り出されたグレイトドラゴンの巨体を、遠心力が瞬く間に掻っ攫っていく。俺が加速する際に生まれた空気の層に大きく穴を開け、周囲に潜んでいた稲妻が竜の巨体を穿つ。高音を伴い回転して落ちていくトビアスは、聖塔を斜めに貫き嵐の領界の地面に激突した!
 激突した轟音が風に乗って、嵐の領界の隅々にまで響き渡る。力ある竜化した竜族のぶつかり合う騒音に、領界の生き物達が息を潜めて静まり返っていた。
 …流石のトビアスも動けねぇだろう。
 俺は飛竜の姿になって滑空しながら、浮島の一つに着地する。
 頭に血が上って、何度も派手に叩きつけられてフラフラする。力を抜くと、体が地面に広がって流れ落ちてしまいそうだ。久々に形を失うくらい追い詰められた。トビアスは本当に強くなった。それが堪らなく嬉しくて、口がにまりと笑ってしまう。
 せめて竜族の姿に戻れるようになったら、ルアムとガノを迎えにいかねぇとな。雷に打たれて焦げ臭い岩の感触を、体を撫でていく風を感じながら疲労が解けるのを待つ。ぼぅっとした頭に、ひゅうひゅうと風の音が絶え間なく響いている。風に流された砂が当たると、円盤を叩くような反響音が世界に響く。
 炎の領界へ続く円環の遺跡が近くにあるのか。
 遠くから杖を突き歩み寄ってくる足音が聞こえる。杖に鈴を付けているのか、石突きが地面に接する事にちりんちりんと涼やかな音を立てる。駆け寄るでもなく、ゆっくりと散策するような歩調で歩いてくる。ばたばたとたっぷりとした布が風を含む音が、俺の真上に差し掛かった。俺を覗き込んでいるのか、息遣いが近くに迫る。
「下らぬ教義を妄信し、偽りの救世主に希望を託す無能さ。偉大なる竜族の威信は地に堕ち、誇りは失われ、弟妹神の齎した厄災を退ける力もない。救うに値しない存在に成り果てた竜族に、失望しない日はなかった」
 てめぇも竜族だろうが。俺は語りかけるナダイアに内心悪態を吐く。
 ナダイアは神に祈りを捧げる神官達や民を、心の底で見下していたが口にした事はなかった。この男は神官長としての立場を、ついに棄てたのだろう。
「せめてもの救いは我の思惑通り、存分に踊ってくれた程度…」
 俺の胸を石突が突く。りんと澄んだ鈴の音が体に染み込むと、ずんと体が重くなる。
 歴代神官長に口伝でのみ伝えられる秘術の一つに、特定の音波で生き物を操る術がある。俺が闇の領界で手も足も出なかったのは、この影響のためだ。エステラの暴走も、マリーヌとエルドナの器の潜在意識の下に命令を刷り込んだのも、下手をすればランガーオ村の飛竜も、こいつの差し金の可能性が高い。
 なぜ…。言葉を紡ごうとして血が溢れる。吐き出して息を整える間、何故かナダイアは待っていた。
「その物言い。悪戯に、災いを、振り撒いた…?」
 ナダイアの喉が鳴った。愉快そうに鼓動が高鳴り、教団で使われる香木の匂いが鼻先に触れる。いかにも、と厳粛な声が肯定の言葉を紡ぎ、だが、と言葉を続けた。
「悪戯に、ではないぞ。私は小さな火種を枯野に放っただけだ」
 炎の領界の悲劇は、魔炎鳥を討伐しようとしたアペカの村の者達が齎したものだ。ナダイアは何らかの方法で聖鳥を魔炎鳥に変えただけ。魔炎鳥の被害がどんなに酷かろうと、息を潜めやり過ごしていれば、アペカの村の若者達の多くが死なずに済んだ。
 氷の領界はどうだ。恵みの木が凍結させただけ、だったとしたら。緑の者の救済を求めるばかりで食糧は底を尽き、全員が餓死する未来を選択しようとしたのはイーサの村の者達だ。ルアムやピぺやリルチェラが狩りを行い食料を分けていなければ、誰一人死なぬ結果を迎える事はできなかった。
 闇の領界の月の崩落も、ナダイアの仕業なのか? 水の領界でのフィナの殺害を実行したならば、和解に至る事は不可能だったはずだ。嵐の領界は何の関わりもなさそうだが、関わっているのだろうか? 行動の理由が全く見えなくて、ナダイアの顔のある辺りの闇がより深く感じる。
「信仰を失い神すら忘れた竜族に、教団の救済を介して神を思い出させる。解放者という希望の旗印の元に、竜族を一つにする」
 これは、と、ナダイアは陶酔したように言葉を続けた。
「ナドラガ神が蘇り全てが本来の姿を取り戻す。アストルティアに生きとし生ける者全てが平伏す、偉大なる神が統べるあるべき世界。我ら竜族が偉大なる神の子として、愚鈍なる弟妹神の子らを管理していく。そうなる為の、第一歩なのだ」
 なんで。
 俺の頭はそれでいっぱいになる。
 聖鳥信仰が行われていた小さな故郷が滅び、ナダイアは弟と共に孤児院にやってきた。祈りは何一つ救えぬと聖鳥に対して激しい怒りを胸に秘めて、弟だけしか救えなかった己を誰よりも憎んでいた。自分を殺す程の激しい修行を課して、神官見習いになる前に竜化の術を習得した才覚に、親父自ら見習いから育てた。
 力があれば弟を守っていける。目の前で死んだ故郷の民は救えなくとも、目の前でこれから死ぬかも知れぬ同胞を救える。だが、自分一人が強くとも全ては救えぬと、大人にもなっていないのに知っていた。
 神官長になってからの改革を、ナダイアらしいと思っていた。
 多くの神官が力をつければ、同胞を救う選択の幅が広がる。領界を超えて調査に行ける地力は、ナダイアが育てたものだった。自分で自分の身を守り、強き者達が力を合わせ、さらに他者を守ろうとする余裕を持つ者が増えれば、己のことで精一杯の炎の領界が変わっていく。それを、ナダイアは一代で成し遂げた。
 願いが叶って良かったと、心の底から思っていた。尊敬すらしていたんだ。
「それが…。親父が、先祖が、求めたもの…なのか?」
 そうだ。と暗い肯定が胸に突き刺さる。
 あんなにも誰も救えなくて悔しがっていたナダイアを、あんなにも誰かを救おうと自分を追い込んでいたナダイアを、親父が嬉々と他人を苦しめ他種族を見下す後継者へ変えてしまった。憎しみを利用して、ナダイアが心の中で大切にしていた目的を捨てさせた。
 親父が目の前にいたら殴ってやりたいくらい、怒りが込み上げる。
 だが、ナダイアをそうさせたのは、俺のせいなのだ。
 俺が教団から逃げ出したから。炎と氷の領界を繋げて、解放者になってしまったから。ナダイアは俺に後継者を譲ることも出来ず、俺達の一族の目的を抱えざる得なかった。
「先代は真に立派なお方だった。ナドラガ神の復活に必要な導きを、命を賭して成し遂げられた。その後任を指名されたことを、私は光栄に思っている」
 ナダイアの指が頬に触れると、俺はいつの間にか涙が流れているのに気がついた。
「ダズニフ。貴様は確かに一族の本懐を成し遂げたが、もはや神官長としての役割も教団の存在も必要のない。神が復活し統治される御世が訪れる。だから貴様は何も伝えられず、捨て置かれたのだ…!」
 胸の辺りに足が乗り、ナダイアの全体重が掛けられる。心臓の上に石突の硬い感触が触れた。
「ようやく、我が最愛の弟アンテロの仇を討つことができる」
 感慨深い声が呟くと、杖を握り込む音がここまで聞こえてきた。杖を振り上げたナダイアが、高らかに言った。
「死ぬが良い! 偽りの解放者よ!」
 ひゅんと高い音を立てて、ナダイアの顔の前を何かが横切って行った。地面に当たって脳を揺さぶるように反響したのは、円環の遺跡の鍵の音。カン、キン、コンと、まるで鬼さんこちらと誘うようなリズムを刻みながら、音は瞬く間に遠ざかっていく。
 かなりの速度で投擲された円盤。更に嵐の領界の陸地は、空に巻き上げられた小さい島。このまま転がって円盤が海へ落下すれば、二度と見出す事は出来ねぇだろう。
 ナダイアは一瞬の逡巡を見せ、選んだのは円盤を拾う事だった。俺の体をずかずかと踏み締めて、慌てた様子で円盤へ向かって駆ける背中が滑稽で可笑しさが込み上げちまう。
「ダズ兄! 空気の抜けたフーセンドラゴンになっちゃってるよ! ぺったんこじゃん!」
 がばっと手足を広げて俺の胸の上を、ふわふわがちょこまか動いてくすぐったくてしょうがねぇ! 竜に変化したクロウズが俺とナダイアの間に降り立ち、ハンマーの重量を背負ったガノの着地する音が鈍く伝わる。クロウズの上からルアムがぎゅうっと弓を引き絞る。
 石板を拾ったナダイアは、ゆっくりと立ち上がって駆けつけた仲間を見回した。
「命拾いしたな、ダズニフ」
 全くだ。皆が来てくれなかったら、殺されてたな。
 ここにナダイアがいる事、俺を殺そうとしている事に、誰一人驚いた鼓動の音はない。教団が神の器を使ってナドラガ神を復活させるとエステラが言った事、疾風の騎士団から神の器が奪われた経緯から、ナダイアが敵であると察しているのだろう。
 そして神官長という高い立場から、その正体まで辿り着いている。
「改めて名乗るとしよう」
 ナダイアは注目を促すように両手杖で地面を突くと、石突の高い音と鈴の音が心地よく重なる。多勢に無勢で劣勢であるにも関わらず、落ち着き払った声でナダイアは言う。 
「私はナドラガ様を復活させ、竜族をあるべき姿へ導く者。便宜上『邪悪な意志』と名乗ったが、貴様達にとっては間違いではあるまい」
 最後の言葉を言い切った直後に、ナダイアは打ち据えようとする鞭を避けて飛び上がる。空中に留まった隙を狙ってクロウズのブレスが放たれるが、威力を上げる為に収束させた攻撃は難無く躱されてしまう。矢を射る攻撃と接近を阿吽の呼吸で合わせたルアム達の攻撃も、ナダイアの魔法の前に退けられる。軽やかに攻撃を避けながら、ほんの二呼吸程度で円環の遺跡の前に立ってしまう。
 ナダイアは円盤を円環の根元に差し込んだ。かちんと、噛み合う音が世界を揺るがす。
「見るが良い! ナドラガンドの全ての領域が解放される、その瞬間を…!」
 風が動く。
 嵐の領界の風が、円環の中へ流れ込む。それは瞬く間に全てを吸い込む濁流となり、空気を、漂う砂塵と摩擦で生じる雷を、木の葉を、そして風に巻き上げられた魔物達をも巻き込み始める。俺は重量のあるギガントドラゴンの姿になり、腕の中に仲間達を抱き込んで蹲る。背に硬い物も軽い物も尖った物、ありとあらゆる形がぶつかっては円環に向かって離れていく。成す術もなく吸い込まれる生き物の悲鳴が、風に拐われて遠ざかり飲み込まれる。
 丸一日そうしていたようでも、ほんの少しの時間しか経っていないだろう。
 その勢いが次第に落ちつき、腕の中の仲間がもぞもぞと動き出す。解いた腕の中から出た仲間達は、一様に円環の遺跡を見上げた。
「全ての領界が繋がってしまったか…」
 僅かに嵐の領界にはなかった熱が、円環から漏れ出ている。
 俺はナゼルと共に向き合った、ナドラガ神の気配を感じていた。光を感じない闇の中で、傷だらけの黄金の竜が丸くなって眠っている。首に大きな傷が走り、剥がれた鱗の下から飛び出た骨がいくつも露出し、牙を抜かれ手を潰されて爪はあらぬ方向へ向き、筋組織でかろうじて繋がった翼がだらりと下がっている。痛々しく、とても動けそうな状態ではない竜だったが、ころころと心地よい声が響いていた。ナドラガ神の声はナドラガンドに輝きとなって降り注ぐ。
 繋がった。ようやく、繋がった。
 今の竜族達はこの祝福めいた輝きを、ナドラガ神のものと理解できるだろう。もう、どの領界でもナドラガ神を忘れた者はいない。鱗が浮き立つような期待が否応なしに膨れ上がる。
 愛しい我が子らよ。父の復活まで、後少しの辛抱ぞ。
 優しい声。喜びの感情。体の内側から押し広げられ鱗が弾け飛んだ下から、夥しい血液が流れて止まらない。子供にはとても収まらない巨大な神様。半身の脈打つ心臓と、温かい血。最後の言葉。竜族へ向けた愛情と、齎す結果が異なる事を俺だけは知っている。
 俺達は神話の時代の竜族じゃない。俺達は未来の竜族の為に、選ばなくてはならない。
 ナドラガ神に抗うという選択を…。