赤の広場

 私の名はベサワキ。ナドラガ教団に属する一介の神官だ。
 いや、ナドラガ教団に属するありとあらゆる神官は、あのお方の前では全てが取るに足らぬ平凡な存在と成り果てるだろう。私などあの方の前では、竜族ではなく大神殿の壁の一部になってしまっているのだからな!
 私が尊敬して止まぬエステラ様。
 腰にまで伸びた曙色の艶やかな御髪は、炎の領界の熱波にしなやかに舞い上がり赤金に染まる。鱗は小さく艶やかで、この領界では金銀よりも尊き水を纏っているが如く。真っ直ぐに信仰を捧げし黄金の瞳は、この領界に存在する数多の宝石をも色褪せる輝きで満たされている。背筋を伸ばし颯爽と歩く姿に、ふわりとひらめく衣からとても良い香りが広がる。その凜としたお声は、このベサワキにとっては史上の甘露。その美貌は創造神にして我らが種族神ナドラガ神の母である、ルティアナ様にも引けを取らぬであろう。当然、私はルティアナ様を見たことはないがな!
 解放者が炎の領界を解放し、エステラ様は全ての領界を解放する為の任務に着任された。僭越ながらこのベサワキも、エステラ様の危険に身を盾にする程度の体躯は持ち合わせている。それだけでは領界解放を支援する神官として、声は掛からなかったがな!
 しかし、エステラ様の手を煩わすなど、このベサワキにとって末代に渡る恥。帰還を待ち続ける日々など、エステラ様の無事を祈るだけで一瞬にして消えてしまう。
 一つ領界を解放し、総主教様にご報告に上る凛々しいお姿を、このベサワキ一挙一投足見逃す事ができようか? 暫くお目に掛かれなかったので、瞬きを忘れて目が完全に乾いてしまったがな! 目が失明しかけてしまったが、エステラ様のお姿を見る為なら軽度な火傷に過ぎぬ。
 教団は色々と騒々しかったが、エステラ様への祈りを妨げるには至らなかった。しかし、子供が私の背中に火炎トカゲを放り込んだ時は、流石に祈りを中断して飛びがったがな!
 いつしか、領界の解放は最後の嵐の領界を残すのみとなり、エステラ様も重大な任務を授かって出立された。嵐の領界を解放すれば、エステラ様も大神殿でごゆるりと休まれるはず。任務の成功を祈る手に力が篭りすぎて、指にヒビが入ってしまった。
 今日は教団がいつにも増して騒がしい日だった。神官達が慌ただしく駆け回り、護衛を担う武曽が武器を持って外へ駆け出していく。そんな中で、その声は大神殿に響き渡った。
「エステラ様がお戻りになられたぞ!」
 私は万が一エステラ様の御身が汚れていた時の為に、清潔な布を用意し大聖堂の入り口へ駆け出した。既に多くの神官達が入口に殺到し、帰還したエステラ様達を迎えていた。
 特に最も重傷らしい赤い髪の男性神官が担架に乗せられて、治療のために部屋に連れて行かれた。エステラ様に付き添う女性神官達も、それぞれに下がっていく。残ったエステラ様に指示を出された神官達は、弾かれたように駆け出して行った。
 どれほど過酷な旅であったのだろうか。
 エステラ様の艶やかで真っ直ぐな御髪は乱れ、体は男性神官の血が所々にこびり付いていた。私は神官達が捌けて空いた空間にすっと踏み込み、そっと布を差し出した。
「エステラ様、宜しければお使いください」
 曙色に縁取られた黄金が布へ向くと、布を掬い上げるよう手に取られる。熱気に水分は蒸発してしまうものの、汚れを拭うには十分な湿り気を保った布を、エステラ様は気持ちよさそうに頬に押し付けた。ふわりと笑みが綻ぶ。
 エステラ様の笑み。女神という表現以外、なんと形容して良いものか。艶やかな唇から漏れる吐息と、和らいだ自然な広角の上がり。下がった眉尻に、穏やかな目元。普段は毅然とした態度で凜とした花が、力を抜いてあるがままの表情を見せる…。
 尊すぎるのだが!
「…気持ちがいい。ありがとうございます」
 視界が暗転した。立ったまま気絶できた己を偉いと思った。
 気がついた時には、あんなに入口に溢れかえっていた神官は見張りのみで、私はエステラ様が使っただろう布を手に立ち尽くしていた。エステラ様が使ったタオル。私は迷いなく、決して洗わず家宝にすることを決めた。
 総主教様のお部屋におられるエステラ様の元へ訪ねる神官達を、入口横に立つ私は具に見る。エステラ様に邪な思いを抱いて近づく者がいようなら、このベサワキの獲物の錆にするつもりだからだ。私の定位置はエステラ様のお近くと、決まっている。なにせ私は『エステラ様専属の護衛神官』なのだからな! まぁ、その肩書きは私だけが名乗っているのだが!
「炎の領界の至る所で、魔炎鳥の炎に似た黒き炎が噴き出していると報告が途絶えません」
「エステラ様方が到着する直前から、魔瘴による魔物の凶暴化が目立ちます」
 矢継ぎ早に放たれる神官達の報告に、エステラ様が難しそうに眉根を寄せる。あぁ、このベサワキに力があれば、貴方様を悩ます問題など一瞬で片付けてしまうのだが!
 エステラ様は総主教様が座っておられた椅子を見上げ、思案するような間を置かれた。
 …イサークさんの言う通りになってしまいましたね。
 エステラ様の小さな呟き。このベサワキでなかったら、聞き逃していただろうな。
「エステラ様、結界を展開しましょう」
 振り返った金色の瞳に射抜かれて、倒れ込みそうになるのをぐっと堪える。
「結界はフェザリアスを最高峰とする火山地帯が噴火した際に、聖都を守る手段。溶岩流を阻むことは出来ませんが、噴石や火砕流を防ぐ程の防衛力を誇り、屈強な炎の領界の魔物達をも退ける強固なもの。魔瘴や黒き炎を退ける可能性は、これ以上にはないでしょう。しかし、外からの脅威を防ぐと共に、内から外に出ることは叶いません」
 外に出られない? 結界が展開している間、エステラ様が滞在されるということか?
 エステラ様と同じ空間で過ごせる時間が増す! 朗報でしかないのだが!
「解除した後、再び展開するまで日数が必要であることはご存じのはずです。結界を展開した後、避難民を受け入れることが出来なくなります」
 わかっています。陳情しにきた神官達は一様に深く頷いた。
「全ての領界が解放された祝いの式典の為に、普段の倍の備蓄はあります。エジャルナに避難してきた同胞を、一月は賄う事が出来ます」
「今、エジャルナは大変混乱しています。避難してきた者が絶え間なく流れ込み、魔瘴や黒い炎に住民が冷静さを失っているのです。暴動が起きてしまう前に、落ち着く時間が必要です」
 神官達は己の無力さをエステラ様に懺悔する。
「オルストフ様やナダイア様が居られれば、抑え込むことも出来たかもしれません。しかし、今はお二人とも不在。我々ではとても対応しきれません」
 どうか、ご理解ください。そう集まった者達が異なる口で同じ言葉を言う。捧げられるような、祈るような言葉を目を閉じて聞いていたエステラ様は、まるで女神像のように立ち尽くしていた。大きく一つ息を吐き、エステラ様は集まった神官達を見回しました。
「結界を展開した後、避難民は業炎の聖塔とアペカの村へ誘導します。避難民の護送を担う、勇敢なる神官を募りましょう。彼らに加護を施した後、結界を展開します」
 エステラ様のお言葉は瞬く間に大神殿に伝えられ、結界の外に留まる神官達が集まった。誰もが怖気付くかと思いきや、赤い髪の神官の部下の三人組がいの一番に名乗りをあげたのだ。お前達も参加するのだろう?と振って、嫌だ嫌だと誰もが首を振る中、『じゃあ、俺が』と手を挙げてどうぞどうぞと参加の運びになった。それがなんとも笑いを誘い、俺も、私もと神官達が手を上げたそうだ。
 エステラ様直々に加護を授かった彼らが大門の外に送り出された後、結界が展開された。
 私は志願しないのかって?
 私はエステラ様のお傍を離れられないから、志願できないのだが!
 間も無く大神殿が解放され、多くの避難民が大聖堂に滞在することになった。怪我人や病人、妊婦や子供は、大聖堂の奥にある教団の部屋の使用を認められた。なんとエステラ様のお部屋にも滞在できるというのだ。う、羨ましくなんてないのだが…!
 教団の竜族以外の出入りが激しくなった為に、エステラ様のおわす総主教様の部屋前に陣取る私は忙しい。時間があれば会議が開催される総主教様のお部屋の前で、駆け回る子供らをやんわりと階下へ誘導し、部屋を間違えた者を案内し、用事のある神官だけを通すのは大変だ。しかし尊敬するエステラ様の為ならば、苦にもならないのだが!
 ばたばたと駆けてくる神官が、結界が展開され落ち着いた日常の中で浮き上がる。そのまま総主教様の部屋に突撃しそうな勢いの神官を静止する。
「エステラ様に至急報告があります!」
 呼吸を荒げた神官を見るに、余程急ぎの知らせなのだろう。あわよくばエステラ様と会話が出来るかもしれん。私は胸を張り仰々しく神官に言う。
「ならば、私が取り継ごう。用件を言うがいい」
「必要ありません。どうかしたのですか?」
 すっと背後から進み出たのは、エステラ様ご本人だ。欲をかいた己を恥じ、首を垂れて下がる。頭の上で誰かが意識を取り戻したという声が聞こえ、エステラ様が駆け足で飛び出してしまった。
 可憐なエステラ様に何かあっては大変だ。まぁ、エステラ様は私よりとても強いのだが!
 追いかけた先は同じ階の部屋で、教団の神官でも位の高い者に当てられた私室だ。私が常に立っているエステラ様のお部屋とは、中庭を挟んで反対側になる。部屋の外にいても鼻を突き刺すような、強烈な薬品の匂いで満ちている。良き香りのするエステラ様に、この薬品の匂いがこびり付いてしまわないか心配だ。
 エステラ様が部屋の主の名前を呼んでいる声がするが、それは嗚咽混じりの声で明瞭には聞こえない。少し二人っきりにしようと、中から薬師だろう神官が出てきて階下へ降りていく。
「本当に、意識が戻って良かった…。貴方が死んだら、ルビーさんが残されてしまいますもの…」
 換気のために開けられた戸の隙間から、寝床の傍に座るエステラ様の姿が見える。余程の重傷人だったのだろう。他の部屋は人が詰め込まれるだけ入っているのに、この部屋は寝床に横たわる者一人だけだ。部屋には血に塗れた包帯や、薬などが置かれた棚が犇いて混沌としている。
 エステラ様が声を聞く為か、枕元に顔を寄せる。
 う、羨ましい…! いや、自分はエステラ様にそのような心配など、決してさせないのだが!
「えぇ。ルビーさんはまだ…。オルストフ様も…。ダズニフに頼まれていたのに、私は何も出来ませんでした」
 エステラ様が何も出来ないなんて事はありません。無理難題を貴方様に押し付けた輩が悪いのです! 私はそう心の中で念じながら、相手に語りかけるエステラ様の声を聞く。
「私はどうしたら良いのでしょう?」
 胸が引き裂かれるような、苦痛に満ちた声だ。
「エンジュさんに言われました。ナドラガンドの友人達を無力と侮辱する事は許さない、と。竜族達は皆、力強く生きているのに救うだなんて独善だと」
 そんな事はありません、エステラ様。皆、貴方様に救われるなら喜んで救われたいと思っているに違いありません! なぜ断言できるかって、このベサワキがそうだからです!
「私は無力です。流され、私は差し伸べる手を下げてしまいました。こうして安全な結界の中で、災いを神が取り除いてくれるのを待っているだけなのですよ? 皆が不安なのに、私にはその不安を拭い去る方法を知りません」
 あぁ、貴方様の自らの行いに対する責任感の強さに、後光が射しておられる。
「貴方は己の正義を貫く為に、ルビーさんを守る為に、こんなにも傷ついたのに。瞳は未来を見据え力強く輝いている。貴方は私と違って、何をするべきか分かっている」
 エステラ様、そんな事はありません。貴方の眼差しの先に我らの栄光があるのです!
「…私は何時から間違っていたのでしょう? 弟を救えなかった時からですか? 神官となって、オルストフ様のお役に立てたのでしょうか? 苦しむ同胞にどれだけ寄り添えたか、先代の神官長夫婦を思い出すだけでとても足りないと思うのです」
 いいえ、エステラ様の成す事に間違いなど何一つありません! 貴方は究極で完璧なエステラ様なのだから!
 寝床で横たわっていた相手が、エステラ様の顔に手を伸ばされた。涙を拭っただろう腕は固定された上に包帯でぐるぐる巻きにされていて、男か女かすら分からなかった。
「トビアス。私に貴方の勇気を貸してください」
 包帯だらけの腕を優しく包み込んだ手に、そっと額を付ける。神聖な儀式を見ているようで、感動のあまりに体が震え涙が滲んでくる。私はエステラ様と同じ時代を生き、同じ空気を吸えることをナドラガ神に感謝した。

 その日の夕刻。ナドラガ教団の大神殿へ至る階段に、エステラ様は立っておられた。決意を秘めたお顔は凛々しく前を向き、聖都から火炎柳が降り注ぐ火の粉の如き無数の瞳に見上げられても堂々と胸を張って立っておられる。大神殿から見下ろす神官達の不安を、その細い肩で背負ってしまう気迫を感じられた。
 エステラ様はその慈愛の精神で、炎の領界では知らぬ者はいないはずだ。誰もが階段の上に立つ女神を見て、エステラ様であることを理解しておられる。当然だ。私が実家の宿屋で客人にこんなに素晴らしいエステラ様という神官様がいらっしゃると、連日宣伝しているのだから!
 結界の中で炎の音が遮断された都はとても静かだ。しかし赤い光は聖都の隅々に染み渡り、世界を赤く平らげていく。なにごとかと騒めきは、外へ外へと広がっていった。
 エステラ様は静かに目を閉じ、両手杖を掲げる。輝く風が御身を包み込み、その美しい髪を柔らかく広げ、衣がゆったりと翻る。光は輝きを強め、竜族の女性の輪郭を溶かす。光は大きく膨れ上がり、純白から曙色に移ろう美しい羽に包まれた巨大な竜となった。
 人々は驚きに声を上げたが、逃げ出す者はいない。竜の慈愛に満ちた眼差しは聖都にいる全ての竜族に注がれ、羽から鱗粉のように降り注ぐ光は暖かく柔らかい。まるでナドラガ神が目の前に降臨したかのような、感動と畏怖に膝を折る者が続出した。
 わかる。わかるぞ。激しく同意過ぎて首がもげそうなのだが!
「皆さん、聞いてください」
 エステラ様の優しいお声が、天から降り注ぐ。
「今、ナドラガンドは魔瘴に沈もうとしています。このまま、結界の中で神が救ってくださるまで耐えることが、最も安全で簡単であり、皆さんが望んでいるのを知っています」
 人々が恥じらうように視線を下げた。その事を咎めるでもなく、声は淡々と語りかける。
「しかし、結界の外の同胞は? 魔瘴に巻かれ、凶暴化した魔物に襲われ、黒き炎に炙られているのかもしれません。神様が、解放者が、自分以外の誰かが助けてくれるとして、それは何時のことで誰なのでしょう?」
 ハッと顔を上げる竜族が、人波の中でちらほらと見える。聖都の住民ではなく、避難してきた者達に、エステラ様は安堵させるように輝く息を吹きかける。キラキラと降り注ぐ吐息は、どこか母を思わせる優しい香りがした。
「私達ナドラガ教団は神が全てを救ってくれると、神に縋る事を皆様に教えて参りました。しかし、私達は大事な事を伝え忘れてしまったのです」
 それはなにか。人々が答えを見つけるのを待つように、エステラ様は大きく間を開けた。大きく息を吸い、答えが紡がれる。
「自らが決断し、目の前の困難に立ち向かう事」
 示された答えに、人々は戸惑うように互いの顔を見合わせた。
「アストルティアから来た弟妹神の民は、私達に未来へ繋ぐ力があると言いました。この終わりなき熱波に故郷を焼かれ、家族を溶岩に飲まれ、友を魔物に殺され無力に打ちひしがれた私達を『強い』と言ったのです」
 見合わせた顔の間を、ざわざわと声が行き交う。エステラ様の言葉が信じられぬという声。自分達が『強い』という評価に驚く声。弟妹神の民を知る者が、彼らを思い出す声。それらが沸き立つ溶岩のように、ふつふつと聖都全体に行き渡る。
「神に縋り、神に頼り、救うのを待つばかり。竜族が無力である事を、私達が最もよく分かっています。しかし、それは私達の思い込みに過ぎなかったとしたら?」
 エステラ様がその美しい翼を広げた。光り輝く羽は神々しく私達を照らし出した。
「炎の領界の民だけでなく、領界を超え同胞と手を携えるのです! 魔瘴に沈むナドラガンドを、苦しむ同胞を、誰が救うというのですか! 私達が絶望の未来を変えなければならないのです! それは、私達の未来を、私達の大切な存在の幸せを作る力となりましょう!」
 力強い声が聖都を突き抜ける!
「私達は偉大なる竜族の誇りを、取り戻さねばなりません! 己の大事な人の為に勇気を出すだけで良い! まずは結界を解除し、炎の領界の全ての民の安全を確保しましょう!」
 拳を振り上げ声を上げたのは、聖都の外からやってきた避難民だった。しかしその力強い声に押され、聖都の者達も加わる。うねるような声は、新たなる竜族の産声のようだった。
 エステラ様は朗らかに笑い、その顎門を上へ上げて声無き声を上げる。
 結界が解け、まるで竜族を祝福するかのような光が降り注ぐ。
 私は歴史的瞬間に立ち会えた感動を、目に焼き付けた。今までもこれからも、これ以上の瞬間は存在しないと思う。美しく、雄々しく、神々しい。まさに完璧なナドラガ神の子。
 エステラ様しか勝たんのだが!