降り注ぐ奇跡

 ラチック。起きなさい、ラチック。
 男の声が聞こえて、力強い手に肩を揺すられる感覚がある。不思議なことに太い鉤爪のような尻尾が突き刺さった燃え上がる激痛も、流れ込んだ毒で体が引き絞られる苦しみも嘘のように消えている。ただ、アンが流した大粒の涙の温かさが頬に残っていた。
 重たい瞼を押し上げると、ぼんやりした視界の中は乳白色の光で満たされていた。俺を覗き込む者の気配が優しく包み込んでくる。この人の傍で二度寝したくなる、父のような気配。
「…ケネス?」
 俺の呼びかけに視界の外からケネスが顔を見せた。赤い髪に赤と碧が移ろう不思議な瞳。しかし日に焼けた顔が浮かべた笑みを見て直感が告げる。
 違う。この男はケネスじゃない。
 警戒に体が強ばったが、死んだばかりの体と繋がっていた魂は重い。
「誰だ?」
 肘をついてどうにか頭を上げると、ケネスの姿をした誰かは手を差し伸べる。剣を握りすぎて歪になった手を掴むと、力強く引かれて上半身が起こされた。村人が着るような普段使いの良さそうな布の服に、ボロ布と見間違う外套。二振の隼の剣を携えていないだけのケネスが、彼なら絶対にしない笑顔を浮かべる。正直、気味が悪かった。
「私は人間の種族神グランゼニス」
 グランゼニスは自分自身の胸元に手を置き、自分自身の姿を見下ろした。驚きに目を見開く俺が浮かべた疑問に答えるように、グランゼニスは言葉を続ける。
「貴方が私をケネスと勘違いしたから、彼の姿になってしまったんだよ」
 俺はケネスの姿をしたグランゼニスを見上げて、今更ながらに気がつく。
 グランゼニスはどんな姿なんだろう?
 女神ルティアナの子供達である種族神は、その姿を石像や絵画に残し今も手厚く信仰されている。しかし人間の種族神は、どんな姿でどんな性格でどんな逸話があるか全く残っていない。創作の為にとありとあらゆる文献を読み漁っていたピペでさえ、グランゼニスという名前以外全く分からなかったと言わしめる程だ。
 最初に聞いた声や今話す口調から男だとは思ったが、どんな姿かと考えれば考えるほどケネスの姿で固定されていく。俺がグランゼニスの姿を想像しようと、脳みそを捏ねくり回しているのを感じたのだろう。グランゼニスは軽く握った手を口元に当てていたが、堪えきれずに笑い声が漏れた。
「ケネスの姿で構わないよ。私も貴方と同じように、彼が好きだからね」
 さぁ。グランゼニスが俺に手を差し出した。
「兄姉達が待っている。行こう」
 グランゼニスに手を引かれ、俺は乳白色の空間を歩き出した。踝まで冷たくも温かくもない水が微かに流れていて、まるで生クリームのような重い霧が流れいく。見上げれば白夜の空に微かに星々が瞬き、水の流れる方へ奥まって行く程に夜の闇が濃くなって星が輝いている。
 意識を失う前を思い返せば、助かりはしないだろう。死んだことを実感したが、グランゼニスの手は夜空とは反対方向へ向かって行く。
「アンルシアが貴方の為に、命を捧げても良いと懇願したのだ」
 俺は驚いた勢いで振り解きそうになった手を、グランゼニスは強く掴んだ。あまりにも強く掴まれて、思わず息が詰まる。
「そう、不安がる必要はない。定められし命が縮む程度で死ぬことはない」
 それでもアンルシアは自らの胸に剣を突き立てようとしたのだ。寸での所で私が止めたが、貴方は慕われているな。そう語るグランゼニスは前を向いたままで、どんな表情をしているのかわからない。ただ、穏やかな声が乳白色の世界に静かに染み込んでいく。
「兄姉達の器の懇願に答え、今、我ら6神が力を合わせ天の理を動かさんとしている」
 霧の向こうには多くの人の影が見えた。座り込む者、寝転んで空を見上げる者、本を読んで過ごす者。様々な種族が、思い思いに乳白色の空間で過ごしている。時々、夜空の方角へ流される者も見かけた。しかし、それらは霧に遮られると二度と見ることはできない。
 水平線が溶けた世界を、何日も歩いた気がする。生と死の境目だろう白夜の空の下、グランゼニスは俺の手を引いて歩き続ける。
「貴方達は我らが起こせし奇跡によって、生き返ろうとしているんだ」
 足を止めた俺にグランゼニスが振り返る。どうした? そう問う顔に俺は言う。
「俺 人間 違う」
 ブラックチャックとして生を受け、マデサゴーラが仕掛けたアラハギーロの戦争に巻き込まれて人間になったに過ぎない。本当ならばアラハギーロの密林にある大樹の泉で身を清めれば、ブラックチャックの姿に戻ることだって出来た。そうしないで人間の姿でいるのは、その方が色々と都合が良いからだ。
 人間の種族神が人間を救うのは良い。だが、俺は魔物なのだ。
「貴方は正直者だな」
 薄らと笑みを浮かべたグランゼニスは、俺の正面に向き直った。
「貴方の言う通り、私は人間の種族神。例え器に懇願されても、魔物を生き返らせることは出来ないだろう。魔物は母ルティアナの創造物ではなく、私の加護を受けた生き物ではないから」
 ラチック。名前を呼ばれ、俺とグランゼニスの瞳がかち合う。
「私が貴方を蘇生したならば、二度と魔物に戻ることは出来ない。魔物として生を終えたいならば、私は貴方の手を離そう」
 手を離されれば俺は死ぬ。この水の流れに逆らうことは出来ず、あの星空が瞬く夜空に向かって歩くしかない。そこにあるのは昇天の梯で、待っているのは星空の守り人。星降りの夜に流れ星となって生まれ落ちるまで、星となって輝く。人間の姿になっても、そうなると信じていた。
 別に魔物として生きて死ぬことに、こだわりがある訳ではなかった。
 それ以上に死ぬ直前に見た、アンの泣き顔ばかりが思い浮かぶ。青空の瞳から大粒の涙が流れ落ちて、虹が懸かりそうなお天気雨が降り注ぐ。俺はアンが無事であることが嬉しくて、ピぺをアンになら託せると安心していたんだ。泣かないで欲しかったのに、拭っても拭っても涙が溢れて止まらない。
 アンの涙を拭い切る方法は一つしかない。
 剣を握り過ぎて歪んだ手を見下ろす。ダーマの神殿で俺を望んだ道へ導いてくれた手は、この生と死の狭間で行きたい場所へ連れて行ってくれる。不思議な縁だと思うと笑みが溢れた。手を握る力を強め、俺はグランゼニスを見た。
「俺 人間として 生きる。グランゼニス 連れて いって」
「分かった。行こう、ラチック」
 グランゼニスがふっと微笑んだ。再びざばざばと水を割って進み、ぼろ布のような外套を水に浸して進む背を追いかける。疲労感は無いものの代わり映えのない乳白色の世界の中で、俺は何気なく心に浮かんだ疑問を世間話のように振った。
「神々 どうして 俺達 生き返らせる?」
 グランゼニスを含め神々は、今まで多くの器を通してアストルティアを見てきただろう。喜びも幸せも悲しみも辛さも、一人の人生を体験すれば必ず遭遇するものだ。神々の器になった者達の中には、愛すべき存在の死に生き返ることを神に願った者がいた筈だ。奇跡は確かに存在する。しかし多くはないのだから、神々の器の懇願を神々が逐一叶えていた訳ではない。
 神の器が揃い、神の器の声が神に届くと自覚して行われた嘆願。それは今までの器とは明らかに違う状況だ。それでも俺達を生き返らせることと、竜の神が復活してしまうこと、どちらを取るべきかは明らかだ。それなのに、神々は俺達の復活を選んだ。
 どうして、と思う。
 グランゼニスの後頭部が、遠くを見遣るように上向いた。乳白色の空を見上げた頭から、訥々と言葉が紡がれる。
「私は兄姉の全霊を宿した剣で、ナドラガの身体を切り裂いた。兄姉は身体を失い、ナドラガを限りなく死に近い状態に追いやった。そうして、全てが終わったと思ったのだ」
 懐かしむように囁いた言葉は、途方もない戦いに疲れ果てて乾燥していた。
 ナドラガは身体を5つに裂いて、5つに割ったナドラガンドに封印した。領界を解放したとしても、アストルティアと繋がりを絶たれた竜族達が弟妹神の器に接触する機会は与えられず、心臓の封印を解くことは出来ない。復活することは無理だと、神々が確信する念の入れようだ。
「しかし、神代の戦いの終止符は打たれていなかった」
 それが今、ナドラガが復活する寸前なのだから、運命の悪戯はどう転ぶかわからない。
「身体を失った兄姉や、永き眠りからほんの一瞬目覚めるのがやっとの私では、ナドラガを止めることは出来ない」
 俺は駆け足でざばざばと水を割り、グランゼニスの前に出る。無力感に苛まれる見慣れた筈の顔を覗き込み、俺は繋いでいない手で己の胸をドンと叩いた。にっと笑って、戸惑う顔に言う。
「俺達 やる」
 折角生き返るんだ。何をするか、決まってる。
 アンの涙を拭って、ピぺを抱きしめて、そしてナドラガを止める。もう復活は止められないとしても、復活してすぐの状態なら倒すことが出来るかもしれない。アンがアストルティアの勇者としてナドラガに挑むなら、盟友としてピぺは勇者と並んで立つだろう。俺は二人の盾になる。その為に、俺はケネスの手を掴んだんだ。
 グランゼニスが眩しそうに目を細め、嬉しそうに笑った。
「そう言うと信じていたよ。運命を切り開く勇気は、貴方のような者にこそ相応しい」
 背筋を伸ばし張った胸を叩くと、その拳で俺の胸を軽く叩いた。神々しい光が胸元で弾け、力が溢れて溺れそうだ。礼を言おうとした俺は、無風だった空間に風が流れだしたのに気がついて顔を上げる。
 乳白色の空が風に吹き払われ真っ青な晴天になる。太陽が燦々と暖かい日差しを投げかけ、虹の輪を青空に幾重にも描く。強くなる風に水は輝く飛沫となって、飛び立つ鳥のように舞い上がっていく。青空に舞う水玉一つ一つに虹が宿る。
「天の理が動き出した。行きなさい、ラチック」
 グランゼニスが手がそっと離れた瞬間、光の渦に飲み込まれる。赤い髪も赤と碧が移ろう不思議な瞳も、見知った体格も、瞬く間に光の彼方に消えて見えなくなる。
 手を伸ばしグランゼニスの名を叫べば、応えたのは胸に宿った光だった。
 私は勇気の神。貴方が勇気を失わぬ限り、私は共に在る…。