蟷螂の斧

 黄緑色の眩しい光に包まれた男が、膝を抱えるように座り込んでいる。光は美しくカッティングされた宝石のような多面体で、目を閉じて微動だにしない男は琥珀の中の虫を連想させた。胸には一抱えもある紋様の浮かぶ玉を抱えていて、その玉から神々しい光が溢れている。
 ナドラガ教団の地下から救出した、ルアムの兄テンレス。
 蛍光色の光越しでも、その赤と緑の奇抜な色のコートを忘れたことはない。目の前でむざむざと、ミシュアとプクリポの王子を拐かされたのだ。無駄な動きは一切なく横様に掻っ攫い離脱された手際の良さに、自分は一撃を見舞う暇もなかった。これに兄の行動に涙するルアムを慰めることも出来ぬ、不甲斐なさが加わるのだ。あまり良い思い出のない男だ。
「この中にルアムの兄貴がいるのか?」
 そうテンレスに鼻先を向けたダズニフは、体を捻るように大袈裟に首を傾げた。探るように向けた手が宝石のような面に遮られて、それ以上手を伸ばすことは出来ない。
「匂いもしないし、鼓動も聞こえない。まるで空間が切り取られてるみてぇだ」
「時を止めているのです」
 ダズニフの独り言に答えたのは、ルアムと同郷のシンイだ。エテーネという時間に関わる不思議な力を持つ人々の村の生き残りは、眼鏡の奥にある博識そうな瞳を瞬かせた。真っ白いローブを翻しダズニフの隣に並ぶ。宝石のような面に魔法使いの細い指が触れたが、皆が注いだ視線の先は何も変わらない。
「停止した時間は不変で、術者が術を解かぬ限り何者にも侵害されることはありません。ナドラガ教団はテンレスさんを捕らえても、何も出来なかったでしょう」
「それは私達も同じではありませんの? ルアム君のお兄様が自分で術を解くよう、意志の疎通を図ることは出来そうにありませんわよ?」
 腕を組んだエンジュの言葉に、シンイは『抜かりはありません』と微笑んだ。
「私は未来を予知することができます。テンレスさんが教団に捕らわれること、クロウズとルアム君によって救出されることを事前に伝えています」
 テンレスを包み込む光から手を離したシンイは、一歩後ろへ下がる。
「時間です」
 テンレスの胸元に銀色の光が瞬く。銀色の小箱はくるりと回転して胸元から浮き上がると、両断したように立方体の真ん中を境に箱が逆に回転する。まっさらな面から小さい四角形が飛び出したり引っ込んだり、銀の質感の箱はまるで生き物のように動き出した。キンと高い音を一つ立てると、テンレスを覆っていた光が四角い紙のように舞い散っていく。
 反射的に顔を守るように腕が上がった。爆風が押し寄せるように、宝玉から嵐の領界の突風宛らの風量を伴って濃厚な魔力が放たれる。過剰な魔力に息苦しさすら感じる自分達を尻目に、ゆっくりと開いた青紫色の瞳に向かってシンイは柔らかく言った。
「おはようございます。テンレスさん」
 大きく欠伸をして目を擦ったテンレスは、呑気そうに自分達を見回した。
「あぁ、良かった! おっかない竜族に囲まれてたら、どうしようって思ってたんだ!」
 屈託ない好青年。自分は行き場のない振り上げた拳をすごすごと背に隠すように、傍に立っていた仲間と顔を見合わせた。少し前まで敵対していた筈なのに、こんなに警戒なく無邪気に接してくる事に大物の気配すら感じる。
「あっ!」
 一番恐ろしげな外見をしているダズニフが、テンレスの胸に抱いている玉を指差して大声を上げた。まさに咆哮と言いたげに迸った声に、皆が驚いでダズニフに振り返る。濃厚な魔力の突風に乱れた前髪の隙間から、乳白色に濁った目が見開かれている。
「創世の霊核じゃねぇか!」
 首を傾げる面々の中で、肩から乗り出して落ちそうなピぺを支えるラチックが『…マデサゴーラ 狙ってた 世界を 作る力?』と呟く。
「ナドラガ神復活の鍵となる、教団の御本尊です。大神殿の地下に厳重に封印されている御本尊の奪取は、成功させるのが非常に困難なものでした。しかし、僕達エテーネの民の時に関わる力で手にする事ができたのです」
 皆の視線を集めた宝玉は、テンレスの手からシンイに手渡される。
「これをナドラガ復活に使えぬよう、さらに封印します」
 どうやって、そう思う自分達の足元をププケェ!とかき分けて行く。進み出たのは、エテーネ村に居たと思っていたトンブレロソンブレロのハナだ。テンレスの胸元に飛び込み、嬉しそうにふごふごと鼻先を押し付ける。帽子がぱかりと開き、笑顔が描き込まれた花が顔を覗かせる。
『テンレスお兄ちゃん!』『はぁーい。テンレス。元気?』
 明るい声を弾ませた小さき者達に膝を折り、テンレスは優しく語りかける。
「ハナ。ニコ。早速で悪いけど、頼むよ」
 『わかったプッケ!』と気合いいっぱいのハナが、ぴょんと飛び上がる。ばくんと閉じた帽子が、ニコと呼ばれた花にこじ開けられると『ププケェ!』とひっくり返った。ぶんすかニコちゃんなにするプッケ!なハナの傍に、ころころと小さい壺が転がる。ニコは壺を草で器用に蓋を開けると、壺の中からプープー悲しげな声が漏れていた。
『ほら、泣かないの。プオーンはでっかい男になるんでしょ!』
 壺の中に突っ込んだ草の先で涙を拭ったニコは、それをぺろりと舐める。
『やっぱ塩分は体に良くないわー』
 壺の中から顔を出したのは、プクリポよりもやや小柄な印象の魔物の子供だ。ふっくらとした体を覆っているのは短い茶色い体毛。純朴な光を讃える瞳を三つの瞳から、ぼろぼろとつぶらな瞳よりも大きな涙が溢れている。さらに鼻からは大きな鼻提灯が下がっている。
「ニコちゃん。封印の術の材料にされちゃうプー! 怖くないのかプー?」
 ニコは葉っぱで小さい角の生えた丸い頭を撫で、子供故に大きな頭に花弁を寄せる。
『アタシはこの為に生まれてきたし、アタシ以外には誰にもできない。プオーンにもプオーンにしかできない事がきっとあるわ。逃げずに立ち向かうの。役目を果たすのよ』
 ぐいぐいと葉っぱで涙を拭ったニコは、気風の良い女のように晴れ晴れとした声で言う。
『アタシの種あげるから、元気出しなさい!』
 ハナの横からテンレスが身を乗り出し、プオーンと呼ばれた小さな魔物の頭を撫でる。
「プオーン。ニコと仲良くしてくれて、ありがとうな」
 テンレスの手が離れ、ハナの帽子が閉じて行く。ニコは帽子が完全に閉じられるまでの間、隙間からプオーンに手を振っていた。プオーンの悲しみも他所に、ハナは深く帽子を被り、テンレスが手を翳すとトンブレロソンブレロの体が光り輝く。普段はあまりにも生き生きとしていて忘れてているが、ハナが生き物ではないと見せつけられる。
 ぱかんと大きな帽子が大きく外れると、溢れんばかりの光が飛び出した。
『かんせいプッケー!』
 光は金色のシャボン玉のように創世の霊核を包むと、澄んだ音を一つ立てて宝玉から漏れる魔力を寸断した。淡く光る膜に封印の紋章がくるりくるりと周り、どんなに傾けても創世の霊核が中心からズレることはない。
『…さようなら、ニコちゃん。オイラ、とうちゃんみたいな、大きくて強い男になるプー』
 プオーンの呟きに、光の膜がきらりと光った。
 魔力の暴風が凪ぐと、静かに光を讃える大きな玉が一つ。それぞれが恐々と創世の霊核を覗き込んだ。
「創世の霊核…。アストルティアの創造神が、世界を作る為に使ったと神話にあるが…」
 確かに人智を超えた神の力を秘めた宝玉と言われれば疑いようはないが、このアストルティアを作った神話の宝だとは俄かには信じられない。そんな懐疑的な自分達の視線を否定するように『本物だ』とダズニフが断言する。
「創世の霊核は母である女神ルティアナが、竜の神ナドラガに授けた至宝。世界を作れる程の力を秘めているのは間違いない。本来なら分断されて瓦解する筈だったナドラガンドが、今もこうして存続できるのは創世の霊核の力であるところが大きい」
 ダズニフは耳を塞ぎ『相変わらずナドラガ神の心臓の音はでかいな』とぼやきながら続ける。
「この創世の霊核にはナドラガ神の心臓が封印されている。全ての領界が解放されても、まだナドラガ神が復活できないのはこの為だ」
 なるほど。嵐と炎の領界が繋がり、全ての領界が解放されてそれなりの日にちが経つ。未だにナドラガ神が復活しないのは、そのせいなのか。そして自分達には聞こえぬ心臓の音から、この創世の霊核を本物と断言できるのだろう。
「この封印はナドラガ神の弟妹神達によって施された。解除も全ての弟妹神の力が必要だ」
『だから、神の器を集めたんだね。神を降ろし、封印を解かせるために』
 ブレラの言葉にダズニフが頷き、指を三本立てた。
「ナドラガ神の復活には必要なものが三つある。一つは全ての領界を解放することで統合する、分断された肉体。もう一つがこの霊核を使い弟妹神が施した封印を解除した、心臓。そして最後の一つ。ナドラガ神の魂を降ろす、ナドラガ神の器だ」
「そうだよねー。他の神様に器があるなら、ナドラガ神にだって器があるもんねー」
 ダズニフは小さく頷いて、考え込むように顎を摩った。
「ガキの頃に覚えた教団の知識をひけらかしておいて恥ずかしい話なんだが、俺はナドラガ神の器が誰か知らねぇ。だが教団の動きを見るに、ナドラガ神の器は既に確保されているんだろう」
「私も誰がナドラガ神の器かは把握できていません」
 予知の力を持つシンイならと、集まった視線を首を横に振って否定する。そんな視線の外から『別に誰だって構いやしねぇ』とダズニフは言い放つ。
「全ての領界が繋がった事で、ナドラガンドに荒れ狂っていた魔力が循環し安定してきた。そろそろ全ての領界の中心に遺棄された、ナドラガ神の居城『ナドラグラム』へ行けるようになる筈だ」
 ナドラグラム。ギダから聞いた御伽噺に、そんな地名がよく登場していたな。聞いている限りではグレンやガートランドのような、大きな都という印象だった気がする。
 ピぺとガノが期待に目を輝かせているのが、視界の外でも分かってしまう。神の住まいと聞くとピンとは来ないが、絢爛豪華な城を思い描いてしまうな。
「ナドラグラムは全ての領界の中心に存在するから、分断された肉体を統合する効率が最も良い。ナドラガ神復活の儀式は、必ずナドラグラムで行われるだろう。心臓の封印が解かれていない以上、全ての神の器も連れてこられるはずだ。恐らく、ナドラガ復活を阻止できる最後のチャンスになるだろう」
 ダズニフは大きく息を吸い、皆を見回した。そして強い力を込めて言った。
「そこで、ナドラガ神の器を殺す」
 へ? ルアムの間の抜けた声が、静寂に響いた。
 自分達もダズニフの意外な言葉に面食らって黙り込んだ。ダズニフは竜化の力を持ち、自分達よりも巨大で力の強い竜になれる。だからこそ、彼が自分達を傷つけぬよう細心の注意を払ってくれているのを知っていた。いつも粗野な態度のくせに、心細やかに相手を思いやる配慮を隠しきれない。そんな男が殺害を口にするとは、自分達にとって青天の霹靂だ。
 だが、ダズニフだからこそ言うのだろう。
 妹と共に神の器として神を降ろされたことのある身。誰よりもナドラガ神の力を大きさを知っている。復活したらアストルティアが脅威に晒される未来を、最も生々しく予想しているのだろう。
 そしてナドラガ神の復活を阻止し、アストルティアの平和を守りたいと強く願っている。復活を教団が主導しているからこそ、同族として止めたい責任感もあるだろう。
 張り詰めた決意を前に、ガノはその太く大きな手でダズニフの体にぽんぽんと触れた。少しでも気楽にせい。そう緊張を和らげてやるように、穏やかでのんびりとした空気を醸しているのがわかる。
「そう、前のめりになることはあるまい。要は三つの条件のうち、一つでも満たされなければ良いのじゃ。我輩達が誰か一人でも神の器である友人を救い出せれば、竜の神の器を殺める必要もなかろう」
 年長者の言葉を皮切りに、ダズニフの決意に呑まれていた皆が一斉に口を開いた。
「そうですわ! 元々、フウラを助ける為にここまで来たんですもの!」
「皆 絶対 助ける!」
 明るい声を弾ませた皆に、ダズニフは硬い声のまま『本当に行くのか?』と言う。その声の重さは明るく浮つく感情を、瞬く間に押し潰した。
「予知されたお前達の死。それが訪れる可能性が最も高いのが、ナドラグラムでの戦いだ。教団はナダイアが育てた実力者を全員投入するし、神が復活したら全滅は免れない」
「ここで待て…と、言うのか?」
 自分の言葉にダズニフは黙って頷く。ナドラガンドではなくアストルティアまで背負うつもりだろう両肩に、自分は力強く両手を置いた。前髪に隠れた閉じられた瞳を覗き込むように、正面から見据える。
「ダズニフ。君は危険な地に友が居るにも関わらず、自分達が安全な場所で待ってられると本気で思っているのか? …残念だが、そんな薄情者はここにはいない」
 ダズニフが歯を食いしばる。竜の頭だから、立派な牙がぞろりと並ぶ様はなかなかの迫力だ。
「分かってる。分かってるんだ。お前達が大人しく待っちゃくれねぇことも、友達の為なら命だって惜しくない良い奴だってことも、全部分かってるんだ」
 それでも。ダズニフはそろりと上げた手で顔を覆った。
「…お前達が死ぬのが嫌なんだ」
 手から零れた小さな本音。あんなに堂々と張った胸が、丸くなった背中に萎れていく。弱々しいまでに悲痛な本心が零れていく。
「お前達が守れるなら、俺はなんだってする。どんな恐ろしい敵にも、神にだって歯向かうさ。俺が神の器だったら、お前達のために喜んで死んでやりてぇくれぇなのに…」
 力が無いことが辛ぇ。そう、言葉が手の中に篭る。
「ダズニフさん。一人で教団に立ち向かおうとして、僕らが素直にお見送りすると思ってます? 僕らもダズニフさんと一緒に戦いますよ」
「相棒の言う通りだぜ、ダズ兄! みんなで力合わせて、竜の神様にはずっとぐーすか高鼾しててもらおーぜ!」
 ルアム達の言葉に、頼もしい仲間達が大きく頷く。
 ダズニフの肩が小刻みに震えた。普段は虹を帯びた銀の鱗が、雪原のように真っ白に変じている。ゆっくりと外れた手の下には、溢れる涙を堪えるような迸りそうな笑い声を喉の奥に押し込んでいるような、複雑で爆発しそうな感情に歪んだ顔。そっと開いた口から、弱々しい言葉が零れる。
「…ほんっとうに情けねぇよ。皆が来てくれるって言われて、びっくりするくれぇホッとするんだぜ?」
 自分はふと笑みを零して、ダズニフの広い肩を摩った。
 生まれた時から才能に恵まれ頼られて解決する力に秀でても、頼ることは得意ではないのだろう。自分達が困ったら頼ってくれと言い、率先と解決に乗り出そうとするのだ。逆も然り。自分達もダズニフが困ったら、頼って欲しいし力になりたいのだ。
「自分達は仲間なのだ。頼ってくれ」
 ダズニフはふっと笑ったように息を吐き、小さく頷いた。
 そんなダズニフの様子を見ていた視界の隅で、顔を見合わせてルアム達は笑っている。赤い瞳がちらりと視線を向けた先には、遠巻きから自分達の様子を見ているテンレスの姿があった。小さい福代かな手が、相棒と慕う子供の腕に触れて促す。相棒、行っておいで。そう口だけが動いた。
 青紫の瞳がぐんと動いて、ふわりと髪が空気を含んで飛び出していく。
 二人の同じ色彩の髪が触れて混じり合う。互いに背に回った腕が、生きていた喜びに震えている。
 空気を読んで感動の再会も後回しだったのか。良い子だが損な性分の子だな。呆れた気持ちも微笑ましさから、無事に兄に再会できて良かった想いに塗り替えられていく。自分はルアムとテンレスの再会を、心の底から祝福しながら眺めていた。触れられるうちに、温もりを身に刻んで欲しい。その声を、その姿を、記憶に一つでも多く留めて欲しいものだ。
「死んだら、もう振り返ることしかできねぇからな」
 自分と同じものを見ていたダズニフの独り言に、自分も頷いた。
 姉は病という死の原因が常にあって、長生きできないとは幼心でも分かっていた。後悔がないよう日々を過ごしていたつもりだ。急な別れを強いられた者達より、そういった意味では自分は恵まれている。
 再会を喜ぶ兄弟を尊く思う。羨ましくも、その巡り合わせの奇跡が彼ら兄弟に注がれたことが、自分のことのように嬉しい。
「思い出を増やせるのは、生きている間だけだ」
 自分は静かに身をひいて、踵を返す。プクリポは大袈裟な忍足で続き、感動の姿をスケッチブックに刻みつけようとする襟首を大きな手が掴んで引きずる。今日のご飯は何が良い?と聞けば、酒に合う肴が欲しいのぅと囁き合う。互いに顔を見合わせ微笑みから喜びを共有すれば、自然と足は部屋の外に向かう。
 決戦の地へ出発するまでの間、各々の時間が流れていく。