私たちは死ぬために生きている -後編-

 全ての神話の始まりである、3つ目の神話の創世記は語る。
 大地であり運命を司る黒竜は、不滅の魂を持つ。しかし肉体は永遠からは遠く、眠りと目覚めを繰り返す必要があった。不滅の魂を持つ巨竜は、永遠の時と神話を跨ぎ世界の運命を司る。偉大なる竜は、不滅の魂を宿す運命の一つの姿である。
 竜神の柩は、そんな信仰から生み出されたものだった。
 竜族達は自らの種族神を不滅の魂を持ち運命を司る竜と信じていたし、ナドラガもまた自身を特別と認識していた。自惚れではなく、特別であっただろう。女神ルティアナは長子に様々な遺産を残し、その最たるものが創世の霊核という至宝だったのだから。
 不滅の魂たるナドラガが、目覚めるまでの間のひととき眠るための竜神の柩。敗北に追い込まれたナドラガ神の、再起を図る為に作られたのではない。ナドラグラム建立と時を同じくして、この地に設られた竜族達の信仰の礎だ。
 柩が置かれたなだらかな丘は、卵を温める母竜を彷彿とさせる。柩周辺を覆う白金の鱗は一枚一枚が職人の手仕事で、溶けかけた氷のように角がなく滑らかだ。階段は稜線に上手く馴染ませており、竜族の職人達が今でも再現出来ぬ最高の技術が注がれている。この場に立つだけで、最高と完璧を目指した者達の鬼気迫る熱意を感じる。
 そんな空間の真ん中に、竜神の棺が置かれている。ぴったりと蓋は閉じられている柩は想像以上に小さく、グレイトドラゴンでは小さ過ぎて収まらず、成人の竜族なら持て余す大きさだ。
「ナドラガ神よ。竜族の未来を希望の光が照らしますよう、どうか最後のお導きを…」
 柩の前でオルストフ様が熱心に祈りを捧げていた。
 聖都エジャルナの大聖堂を訪れる信者達が一様に見ることのできた、誰よりもナドラガ神を信奉した後ろ姿。傍に若き頃より携えていた両手杖を置き、膝を地面に着いて竜神の柩に向かって祈る。永い年月、贖罪の日々を重ねて来た竜族の姿が凝縮された光景だった。
「オルストフ様!」
 ナドラグラムと竜神の柩の置かれた丘を繋ぐ階段を登り切ったエステラは、叫ぶように総主教を呼び駆け寄った。同じく到着したダズニフはオルストフ様とエステラを守るように、私と二人の間に立つ。
 オルストフ様は教団の神殿で声を掛けられたように、普段とお変わりなく振り返る。実の孫のように可愛がって来たエステラを見て、嬉しそうに皺だらけの顔をくしゃくしゃにする。
「おぉ、エステラや。よく来たね」
「よくぞ、ご無事で…! オルストフ様に何かあったら、私は…私は…!」
 勢いよく抱きついたエステラを抱き止め、肩に顔を埋め震える背中を長い髪の上から撫でる。
「まるで童心に戻ったようですね、エステラ。心が乱れてどうしようもない時は、我らが神に祈りなさい。神に心を預ければ、進むべき道が示されましょう」
 促されるままに祈り出したエステラに、ダズニフは呆れたように嘆息する。
「私がオルストフ様を害すると思われていたとは、心外にも程がある」
 心の内に留める事が出来ずに口を吐く。
 私は誰よりもと自負する程に、オルストフ様を敬愛している。実の父同然に慕うエステラも張り合うかもしれんが、彼女に劣るとは全く思っていない。教団で先代神官長よりかの方を支える大役を任され、ナドラガ神の教えを民に説いた自負がある。私がオルストフ様を害するなどと、思われた事自体が不快だった。
「むしろ貴様達の手に渡っていたら、どんな扱いをされたことやら」
 組んでいた手を解いてダズニフを示せば、解放者は言葉をぐっと飲み込んだ。
 神獣カシャルを信奉し、ナドラガ神を邪神と貶める青の教団。ナドラガ神復活に対し、対抗手段を実行して来た疾風の騎士団。彼らにオルストフ様が捕われてしまえば、最悪ナドラガ教団の総主教として竜族を扇動したと処刑されることも考えられる。我が手元が最も安全なのだと、ダズニフもわかっているのだ。
 悔しげな顔に優越感を感じながら『まぁ、良い』と呟く。
「エステラよ。オルストフ様と行くがいい」
 祈っていたエステラが弾かれるように顔を上げ、唇が私の名を紡ぐ。
 若く愚かな程に無垢な娘。整った顔立ちは女の美しさよりも神官として凛々しく、自らを律する姿を高く評価していた。それでも先代神官長が殉じた地獄の中から救い出されたのに、甘い夢のような理想を掲げがち。若い女だからだと、侮る場面は少なくなかった。
 それでも最後に託すのは、この娘なのだ。
 最後まで付き従い竜族の神の復活を見届けたかったが、それは叶わぬ夢。私は深々とオルストフ様へ頭を下げる。今生の別れと、最も心を込めた一礼をした。
「オルストフ様。エステラと共に安全な場所へ避難してください」
 目配せされたエステラは深々と私に一礼し、我らが総主教に声を掛ける。
「ここは戦いの場となります。参りましょう」
 周囲に促されるようにオルストフ様は傍の杖を手に取り、どっこらしょと掛け声と共に重い腰を上げた。痛む腰を摩る老人を支えるように、エステラが傍に寄り添う。ナドラグラムに向かって丘を降りていく二人を、私とダズニフは無言で見送った。
 足腰の弱った老人の歩調を考えれば、丘の中腹まで下っただろう頃合いにダズニフが口を開いた。私の平静を逆撫でしようと、粗野な口振りであからさまな挑発を吐く。
「随分と弱気じゃねぇか、ナダイア。俺を殺してナドラガ神を復活させて、アストルティアの弟妹神の子らに復讐すんじゃねぇのかよ」
 弱気とは舐められたものだ。私は鼻で笑った。
「無論、貴様には死んでもらう。だが戦いの過程で、ナドラガ神の作り賜う新たな世界に必要な命を傷付ける訳にはいかぬ」
 ふぅん。ダズニフは溜息のような相槌を打ち、俺に背を向けて歩き出す。丸くなった背から、ぽつりと事実を告げる感情のない言葉が漏れる。
「アンテロは強かった。手加減なんて出来なかった」
 当然だ。弟の強さを知る私は、小さく頷く。
 厄介な仲間の援護があったとはいえ、アンテロを殺したのはダズニフ以外あり得ない。
『俺は兄者の掴む未来の礎となろう』
 先代神官長がいくら学ばせても、一向に綺麗にならぬ無骨で読みにくい文字だった。しかし、それこそが弟の愚直なまでの真っ直ぐさと、私に捧げてくれた親愛を感じずにはいられない。弟の言葉が走り書かれた聖典の頁を切り取り、私の懐に置かれている。
 よくも、アンテロを殺してくれたな。兄者と呼んで親愛を捧げてくれた、私のたった一人の肉親を。単身でアストルティアに赴き、私の築く未来の為に奔走した勇敢な弟を。誰よりも守りたかった存在を、貴様は殺したのだ…!
 燃え上がる憎悪が、私をより強大な竜の姿に変える。どっしりとした重量とそれを支える強靭な下肢は、憎き仇を踏み潰す為に。鋭き爪と振り下ろす腕は、弟の苦しみを刻みつける為に。重き肉体を空へ舞い上がらせる巨大な翼は、無様に転がる敵を見下ろす為に。ぞろりと並ぶ牙は、喉笛を噛み切り息の根を止める為に。ナドラガ神はダズニフを殺せと仰せになっておられる。その為に創生の力が私に降り注ぎ、力が沸いていくのが分かる。
 ようやく。ようやくだ。
 貧弱な白銀の竜を見下ろすと、私は笑いが込み上げてくるのを堪えられなかった。
「ようやく、最愛の弟の仇が討てる…!」
 ダズニフが固く閉ざした瞳の下で、真一文字に口を引き結んだ。
 私は大きく息を吸い込み、氷の領界に吹き荒れる輝く嵐を吐き出した。輝く嵐は瞬く間に大地を覆う白金の鱗の上を氷付かせ、ナドラグラムに重く垂れ込めた雲を凍らせて細やかな氷となって落ちてくる。
 一気に氷の領界の温度に冷え込んだ空気でも、ダズニフは躊躇いなく突っ込んできた。変化した竜も寒さに強い種なのか、滑りやすく凍った地面をしっかりと踏み締め一足飛びで迫ってくる。直線を描くように迫った竜に尾を叩き込んだが、ダズニフはこれを紙一重で避け、私の尾に爪を引っ掛けて飛び上がる。空中で一回転した竜が、小型で機動力のあるダッシュランの形から、キングリザードの形に変化する。叩き込まれた三本の尾の衝撃が、体に響く。
 やはり、ダズニフは手強い。
 その手強さの一番の理由が、この竜化の術の幅広さだ。竜化の術は基本的に一人一種類の竜の姿に変わるものであり、どんなに努力しても複数種の竜に変化することは出来ない。エステラは厳しい修行の果てに羽毛に覆われた竜のような姿になったが、それも大気中に満ちる魔力を羽毛が吸収し己の魔力と混ぜることで攻撃力をあげるという進化に近いもので、変化した竜の形そのものが変わったわけではない。過去現在を含めて、多種多様な竜に変化できるのはダズニフだけなのだ。
『我らが神の復活は目前です。ダズニフならば必ずや竜の神の器になれるでしょう』
 先代神官長は嬉々とした顔で、集まった者達に仰られた。
 普段は穏やかな表情を崩さぬお方に浮かんだ、はっきりとした感情が喜びの程度を表していた。『お前も嬉しいだろう?』と喜びを分かち合おうと私を向いた顔が、すっと温度を落としていく。
『どうしたのですか、ナダイア。確かに魂を降ろせぬ不完全な器ではありますが、領界全てを解放すればナドラガ神の御身を再現することは出来るのです』
 喜びに水を挿すのは分かっていた。それでも湧き上がる不安を飲み込めない。
 ナゼルは死んだが、ダズニフは竜神の魂を一時でも降ろし耐えることができた。ありとあらゆる竜に変化できるダズニフなら、ナドラガ神の肉体を再現できる可能性が出てきたのだ。例えダズニフの代でそれが成し遂げられなくとも、ダズニフの子孫達が可能性を引き継ぐ。先祖代々の悲願である神の器を生み出す計画が前進したことに、神官長と腹心の部下達は色めき立っていた。
 歓喜の渦の中で、私は神官長に発言の許可を求める。彼はにこやかに了承した。
『危険です。ナゼルが死んだことで、ダズニフは我々に強い反感を抱いています』
『ダズニフの意志など瑣末な問題です』
 神官長は微笑むように言葉を紡ぐ。盲目ゆえに聴覚に外部の情報を依存するダズニフは、神官長が口伝による伝える音による心操術が良く効いた。ナゼルが死に、ナドラガ神の魂すら弾き出して大暴れしたのを、たった一つの音で封じ込めたほどだ。
 心操術で教団の思うがままに動かし、伴侶を充てがい未来へ繋げる。そこにダズニフの気持ちは必要ない。実の息子を道具として扱うことを、彼は穏やかな顔で断言したのだ。
 神官長は虹色を帯びた銀の手を、私の肩に優しく置いた。そろりと労わるように撫でられる。
『しかし、警戒が過ぎることはありません。ナダイア。神の器の完成を目前に浮き立つ我々の気持ちを引き締めてくれて、感謝します』
 私は思わず何かを呟いたが、それは私自身にも分からぬ不明瞭な言葉だった。神官長が首を傾げる。私は神官長を見据え、言葉を紡いだ。
『領界を繋げ、ナドラガ神の器となるお役目。私では無理でしょうか?』
『解放された全ての領界と類い稀な竜化の才が揃えば、ナドラガ神の器となり得ましょう。しかしダズニフ以外の者が挑めば命を失う可能性が高い。魂がなくば、それはただの肉の塊です』
 返答は説法のように淀みなかった。ふと神官長は深くした笑みを顔に刻む。
『ナドラガ神の肉体になれるのなら、私がその栄誉に与りたいくらいです』
 ダズニフが神の器として利用価値が高いのは、神の肉体を再現しても死なないからだ。生きている限り心操術は継続して効果を発揮する。
 彼らの喜びは純粋に神の復活へ一歩前進したからではない。彼らは手に入れたのだ。自分達の意思に従って動く、神の力を持った人形を。ナドラガ神の肉体を再現したダズニフを使い、弟妹神の鎖を砕き、閉鎖した空間を穿ち、アストルティアへ復讐する。彼らの瞳は狂気に濡れそぼった黄金に輝いていた。
 しかし、この計画は実行されることはなかった。
 直後に我々は知ることになる。
 本物のナドラガ神の器が、ナドラガンドに竜族として生を受けていたことを…。

 空気に満ちる創世の霊核の力が、私の中へ流れ込んでくる。生きながらに鱗を剥がされ、筋肉を剥ぎ取られ、骨を引き抜かれる激痛が走る。同時に新しい肉がぼこぼこと湧き上がり、筋肉が引き伸ばされ、新しい強き爪が生えるのが生きながらに溶岩の中に投げ込まれたようだ。終わることのない死と生の激痛に視界が白と黒が忙しなく明滅し、私は喉も裂けよと悲鳴をあげる。
「ナダイア! 何に竜化するつもりだ! 死んじまうぞ!」
 私の竜化の術がただの竜化の術ではないことに、ダズニフはようやく気がついたようだ。私の竜化を止めようと痛恨の一撃を叩き込んでくるが、それ以上の激痛に苛まれる私にとっては何の意味もない。
 痛みを紛らわす為に放たれた咆哮が、衝撃波となってナドラグラムに重く垂れ込めた魔力の渦を吹き飛ばした。
 アストルティアの空には星と月と太陽が浮かんでいると聞いたが、隔絶されたナドラガンドは漆黒の闇に5つの領界が浮かんでいた。炎の領界は赤々と熱を放ち白く弾けたと思うと、紅炎が領界の輪郭から飛び出した。氷の領界は凍りつき停滞した青い輝きにオーロラを這わせる。闇の領界は漆黒の中で闇が滑り蠢いている。水の領界は揺蕩う水が今にも滴り落ちそうだ。嵐の領界は強い風に雲が線を描くように引っ張られ、紫電が時折強く瞬く。
 5つの巨大な球。ナドラグラムを覗き込むように迫る領界へ、私は手を伸ばした。
「来れ! 分断されしナドラガ神の血肉よ!」
 領界が虚空へ眩い光を放った。光は鱗粉のように粒子を大きくし、ナドラグラムに降り注ぐ。
 己の肉を貫いて骨が生える。骨は今も膨れ上がる竜化した姿よりも更に大きく、塔のように長く聳える骨がナドラグラムの大地に突き刺さった。私の体は成す術なく生え続けるナドラガ神の骨に突き上げられるように持ち上げられていく。
 続いて成長したのは牙や爪だった。捻って千切られ遥か彼方へ離されて感覚を失っていたと思っていた手足に、熱く熱された釘を打ち込まれたような痛みが走る。脳髄の真下に位置する口から、明らかに口腔よりも巨大な歯が次々と生えてくる。己が体を食い破るだけでは飽き足らず、私の体に突き刺さる。もはや顔は顔として存在していないだろう。五感は消え、激痛が意識を支配する。
 どろりとした熱が降りかかった。それは骨にまとわりつき、どくどくと脈打って私の体を芯まで燃やす。脈打つ肉がナドラグラムを覆い、生き物を圧し、命を貪っていく。ナドラグラムの上を這いずる小さな命達が、蛆虫のように感じられて不快だった。助けを懇願するような声が、痛みに苦しむ声が、膨張し脈打つ肉に押しつぶされひしゃげて取り込まれて静かになると心のざわめきが和らぐ。
 ざらざらと音を立てて蠢くのは黄金の鱗。それは一枚一枚が、エジャルナの聖堂の床と同じくらいの面積を持つ大きなものだ。剥き出しの肉の上を鱗が覆えば、魔力に無造作に晒していた染みるような痛みは遠のいた。しゃらりと澄んだ音を立て、黄金の尾が大地から引き抜かれる。脆くなった大地はガラガラと崩れて虚空へ呑まれていく。
 痛みが落ち着き息ができると思った安堵を不意打ちで襲ったのは、背を覆う鱗を突き破り生えた巨大な翼。胸を差し貫かれたような痛みにのけぞり、私は咆哮した。
 それは奇しくもナドラグラムに蘇った、ナドラガ神の肉体の産声となって響いたのだ。
 私は目の前を飛ぶ銀の輝きを掴んだ。ナドラガ神の手はフェザリアス山を掴むことができるほどに大きく、腕一つ動かすだけで大気が乱れ衝撃が走るほどに強靭な筋肉で肉体は構築されていた。どんなに素早く空を舞う飛竜であろうとも、逃げ果すことはできない。
 力の加減を間違えたのか、銀を強く掴んでしまったらしい。折った骨が内臓に刺さったのか、ダズニフは摘まれた指の間でぐったりと頭を垂らし口から血を流す。うっすらと開いた乳白色に濁った目は、黄金の竜の鱗を写していた。
「ナダイ…ア。どう、して…」
 今は殺さぬ。
 私を私として留めているのは、『弟の仇であるダズニフを殺す』という強い目的があるからだ。少しでも気を抜けば、私の意識は強大なナドラガ神の肉体に押しつぶされ、顕現した肉体がただの肉の塊に成り果ててしまう。
 長くは保たない。しかし、そう時間は掛からぬ。
 弟妹神を呼び寄せ、創世の霊核の封印から心臓を解き放ち、ナドラガ神の魂を神の器が降ろす。それらは今までの贖罪の日々に比べれば瞬く間の内に、この肉体は真のナドラガ神となろう。ナドラガ神が復活される礎になれるならば、これほどの栄誉はない。
 にいさん。懐かしい響きだった。まだナゼルが死ぬ前のダズニフが、朦朧とした意識の中で出てきたのだろう。
「なにに…おこって、いる…んで、す…か?」
 何に。
 全てが腹立たしく、憎たらしかった。
 今日も一日無事に過ごせたことを感謝してた老人達は、流れ込む溶岩から逃れられず悲鳴ごと飲み込まれていった。なけなしの食べ物の中から、これが一番美味しいだろうと捧げ物を選んでいた男衆が、村人を助け出そうと火砕流へ向かっていって誰一人戻らない。祈りを捧げる聖鳥の姿を美しく織り上げたタペストリーを作っていた女達は、我が子を抱えて崩れた家の下敷きになりトドメとばかりに炎に包まれた噴石が貫いた。聖鳥を見上げて手を振った子供達は、地震の崩落に巻き込まれてそれっきり。
 それを聖鳥は静かに見ていた。見ていただけだった。
 領界の炎に炙り照らされ、この世界に存在するありとあらゆる色彩の炎に彩られた聖鳥。滅びゆく故郷の上を悠然と飛ぶ姿が、とても美しいと思ってしまった事が、俺の心に消えぬ憎しみの火種となった。
 孤児となり保護されたナドラガ教団でも、故郷と同じ光景があった。救ってもくれぬナドラガ神に祈りを捧げる日々。私は世話になっている神官長に『祈っても神は助けてなどくれない』と明け透けに言った日のことを鮮明に覚えている。
『そうです。神は助けてはくれません』
 神官長はふんわりとした笑みで肯定したが、その声は背筋に悪寒が走るほどに冷たかった。私は彼の逆鱗に触れ、今すぐに首を刎ねられるのでは覚悟したほどだった。
 笑った顔の仮面を着けているかのよう。その時の神官長は呼吸すら止めて見下ろしていた。
『…ナダイア。力が欲しいですか?』
 私は故郷が滅んで、ようやく悟った。私達の祈りや献身は、神にとって何の意味もない。
 この過酷な世界を生きる為には、唯一救い出す事の出来た弟を守る為には、己が強くならねばならぬのだ。
 私は頷いた。世界の全てを焼き尽くさんとする憎しみの篭った瞳で、神の喉笛に噛み付かん勢いで、首を縦に振った。その様子を満足そうに眺めていた神官長に、私は魂を売ったのだ。
 神官長は私の憎悪を見抜いていた。私達兄弟を自らの孤児院に招く時には、歴代神官長が担ってきた闇を託すべき人材として使い方すら決めていただろう。滅びゆく故郷から命辛々逃げ出した私達は、力を得る為の修行にのめり込み、教団の闇を見ても狼狽えることはなかった。拷問も殺害も淡々とこなし、アンテロは性に合ったのか好き好んでその役を買って出た。
 私は先代神官長の思惑通り、全てを受け継いだ。今もあの方の描いたシナリオの通りに、事が運んでいる。
 意識がしっかりしてきたのか、咳き込んで血の塊を吐き出したダズニフは問う。
「俺に…ナドラガ神の肉体を、構築させて、神を蘇らせるんじゃ、なかったのか…?」
 最終的な計画でも、ダズニフにナドラガ神の肉体を再現させるのは変わらぬままだった。ただ、本物の神の器にナドラガ神を降ろすことに、ナゼルのような失敗は許されない。成長し機を伺っている間に、ダズニフが解放者となり、アストルティアとナドラガンドが繋がり、ナドラガ神が完全に復活する条件が整い今にズレ込んだに過ぎない。
 ダズニフの父は最後まで、息子を道具としか見ていなかった。
「お前は俺を殺したいほど、憎いんだろ? なんで…なんで、そう、し…な………い」
 力尽きたのか意識を失ったダズニフが、がくりと頭を落とす。
 賢い愚かな子供。貴様の言う通りだと、私は心の中で同意する。
 だが、貴様は知らないだろう。
 固く閉じた目に光はなく、爛々と輝く黄金の瞳を持つ妹に手を引かれて歩く穏やかな子供。人の死ぬ様も、苦しむ姿も、滅ぶ故郷も見たことがない無垢の珠。神官達は子供達を神の器と信じ、子供達も大人達に応えるようにその手を惜しみなく伸ばした。私は信じ捧げた分、報いてくれる神を目にして愕然とした。
 その細い首に何度も手を掛けようとしたが、何をされるのかわからないのか、ふんわりと笑って俺を見上げる侵し難い神聖さ。私の燃え上がる憎しみが、炎の領界で貴重な水を掛けられるがごとく萎んでいく。
 私は一つだけ、あの方の計画を変えた。変えさせられてしまったのだ。
 何も聞こえまいと、銀色の輝きに私は囁いた。
「わたしは、わたしが いちばん にくい」
 自分が死ぬ為に生きてきた事が憎らしい。弟になんと言えばいい。私はナドラガ神の肉体になる為に生きてきた。私が築く竜族の未来など、最初からなかった。そんなこと、口が裂けても言えまい。
「すべてを にくむ。じつに わたし らしい じゃないか」
 私は何度生をやり直そうと、同じことを選ぶ。哀れな神の器の双子に神を降ろして片割れを殺し、使命の為に命を捨てにいく神官長に闇を託される。アストルティアに単身向かった最愛の弟を、全てをかなぐり捨てて追うこともできない。何を選んでも憎しみが止まる事がないのなら、全てを憎み全てを道連れにして走り抜けてしまえばいい。私の肉体がナドラガ神となり、世界を滅ぼすのなら、それはそれで結構なことじゃないか!
 あぁ、憎い。全てが。
 今にも命が尽きそうな弱々しい輝きに指を伸ばす。首の骨を折ってしまいそうで触れずに泳いだ指先から、ポタリと血が滴って銀を赤に塗り替える。いつも締まらぬ情けない男だな、貴様は。可笑しくて喉が鳴った。
「ダズニフ。きさまは なにも しらなくて いい」
 知れば貴様は、私すら救おうとするだろう。
 神は私を救ってはくれない。弟以外の故郷の皆を救えず、信仰を捨て聖鳥を憎んだ時から。神官長の誘いに首を縦に振ったあの日に。罪もない同族を拷問で苦しめた末に殺した瞬間。私は救われる資格を失ったのだ。私は永遠に苦しみ贖うべき存在なのだ。
 だから、せめて
 貴様のやり方で、私以外の全てを救ってみせろ。