この世界の誰よりも、神が一番残酷だ -前編-

 魂が引き千切れるような悲痛な叫びが、ナドラグラムの空を切り裂いたのです。その不幸で不意な出来事を、ただ私だけが一部始終を見ることになってしまいました。
 ナドラグラムに囚われているだろうアンや皆さんの友達を助ける為、私達はナドラグラムで待ち構えているだろう教団の精鋭達とぶつかりました。神官長ナダイアが育て上げた神官達は、氷の領界を様々な用事で訪れる神官達とは全く違います。誰もが竜化の術を習得し、魔法や武術など戦う力に秀でた者達。教団と疾風の騎士団の総力戦は、千年前の不死の魔王と勇者の戦さながらの混沌に瞬く間に引き摺り込まれてしまったのです。
 そして教団の精鋭達の中に、救うべきヒューザさんとフウラさんがいるのです。心操術が施された状態で、私達にぶつける手駒として差し向けられたのでしょう。シンイさんが冷静に分析する声を聞いていました。
 『いやだなー。僕が予知で死ぬ原因ってヒュー君なの? 野郎に殺されるの嫌なんだよねー』そう言いながら、剣を抜き放ったヒューザさんの前に進み出るのはイサークさん。
 『フウラ、待っていてくださいまし。今すぐ、貴女の意思を捻じ曲げる術式から解き放って差し上げますわ』エンジュさんがイサークさんに並び、座った目でこちらを見るエルフの少女に凛々しい笑みを向ける。
 戦いは優勢劣勢が目紛しく入り乱れ、前衛も後衛もこの広大な戦場では意味を成さない。私は四方八方に散った仲間達に援護を振り撒き、倒れた者を防衛の魔法陣の中に引き摺り込んで回復の魔法陣を書き込む。事前に用意していた札はあっという間に使い切り、これでもかと用意した予備もインクも瓶が底が見え始めていました。戦闘が始まる前に召喚した精霊タッツウの維持で魔力がどんどん減っていって、くらくらしてきます。
 そんな戦況が次の瞬間には一変したのです。
 ナドラグラムに重く垂れ込めた魔力の渦を、背筋が凍るような悍ましい咆哮が薙ぎ払ったのです。強い怒りや憎しみ、苦しみ、殺意。声に込められた感情は閃光のように私達を貫き、敵も味方も思わず身を竦め手を止めてしまいました。
 そして見たのです。
 滅びし竜族の都に月よりも巨大に迫る5つの領界。領界がそれそれ接近し過ぎて、包み込んだ結界が火花を散らす。炎の領界から漏れ出す熱が容赦なくナドラグラムを炙ったと思えば、次の瞬間には氷の領界から輝く嵐が吹き荒れて戦いで消耗した者は薙ぎ払われる。闇の領界から滴る毒に苦悶の悲鳴が上がり、水の領界の海水が足元を掬って彼方へ流し去り、嵐の領界の風が体を低くしていない者を横様に連れ去り虚空へ放り出す。それぞれの領界が持つ致死の環境が、瞬き一つで入れ替わりナドラグラムの生命を苛む。
 教団も疾風の騎士団も戦っている場合ではなくなりました。
 しかし、それはほんの序章に過ぎなかったのです。
 最初に変化があったのは氷の領界。カッティングされたサファイアのような領界からナドラグラムに向かって、ずるりと長く白いものが引き摺り出されたのです。それは氷の領界のあちこちに突き立っていた、ナドラガ神の骨と呼ばれていたもの。氷の領界から槍を投擲するかのように、骨は次々とナドラグラムの大地に突き刺さります。背骨、肋骨、大腿骨、腕や脚になる長く太い骨、指先の小骨ですら一軒家よりも大きい。衝撃に突き上げられて倒れ、地震となって襲い立ち上がることも出来ない。あんなにもナドラグラムの中心から離れていたはずなのに、大地は深々と差し込まれた骨によって次々と崩落する。
 立ち上がれず四つん這いになって堪える。今死んでいないのは、運がいいだけ。崩落がこちらに迫って来れば、逃げることも出来ずに巻き込まれて死んでしまう。
 私が死を覚悟した時でした。
 両脇に手を差し込まれ抱き上げられたのです。胸に抱き寄せられた視線をあげれば、成人したエルフくらいの小柄な影。タッツウが召喚主である私を助けに来てくれたのです。揉みくちゃにされる地面をものともせず、タッツウは軽快に災いを回避していきます。人と同じ体温の暖かさ、私を守ろうと優しく回した腕が齎す安心感に、私は死を覚悟し強張った体の力を抜きました。
 仲間を助けなければ。余裕が生まれ視線を巡らした時でした。
「フウラ! 危ない!」
 耳を貫いたのは、エンジュさんのよく響く声。その声の方角に素早く目を向けて見たのは、崩落に巻き込まれるフウラさんの腕をエンジュさんが掴んだ瞬間でした。大きな地割れは瞬く間にエンジュさんの足元まで及び、しっかりと地を踏み締めていたはずの体が傾ぐ。エンジュさんは小柄なフウラさんをハンマーを振り抜くように振り回し、割れ目の及んでいない地面に向けて手を離したのです。遠心力がフウラさんを安全な地面へ招く。
 しかし、フウラさんを安全な場所に放り投げた反動で、エンジュさんの体は崩落に向かって倒れていく。崩れる地面も、倒れるエンジュさんも、まるで静止しているかのよう。そのまま永遠に止まっていればいいのにと思える視界の中で、エンジュさんは微笑んだのです。フウラさんの無事を確かめた安堵が、温かい吐息となって薄く開いた唇の間から漏れる。
「いやぁあああああ!おねえさまぁぁああああっ!」
 悲鳴が繋ぎ止めていた糸を断ち切ったかのごとく、全てが動き出しました。
 フウラさんの悲鳴の先で、エンジュさんは崩落に飲み込まれてしまったのです!
「おねえさま! いや! おねがい! 死なないで!」
 半狂乱になって崩落した危険な崖ににじり寄るフウラさんの傍に、タッツウは下ろしてくれました。私の意志を伺うような視線に頷けば、タッツウは鳥の軽やかさで崩落した瓦礫へ向かう。召喚された精霊や幻魔は、召喚した主人の魔力で具現化した分身のようなもの。致死的な損傷を受けたとしても呼び出した存在が消えるだけであり、精霊や幻魔本人にダメージが及ぶ事はありません。まだ崩落の可能性のある危険な砂塵の中に、躊躇いもなく身を投じました。
 大粒の涙が止め処もなく溢れるフウラさんを抱きしめ、進もうとする体を押し留めます。痙攣するような嗚咽に、私も悲しくて涙が出る。死ぬと事前に聞かされていたって、悲しいものは悲しいんです。
 でも、泣いて立ち止まることは許されない。それは物心ついた時に、ラチックさんに言われていたのです。
『いいか、ピぺ。仲間が死んでも、縋り付いて泣いていてはいけない』
 グランゼドーラ領のブラックチャックの一族に拾われて育てられた私は、共に育った兄弟の一人が病で死んで涙に暮れました。丸一日縋り付いて泣いて、その後にラチックさんが遠くに見えるグランゼドーラ城の尖塔を指差して言ったのです。
『ここはあの城を目指す人間が多く行き来する。旅人は俺達を見てもそのまま素通りするが、あの城にいる兵士や王族は俺達を殺しにくる恐ろしい奴らだ』
 私が拾われる少し前に大規模討伐が行われ、ラチックさんは長である叔父と多くの従兄弟達、そして子供の半数を失った。酷い一族は皆殺しにされたという。この地域では最も強い竜の長も、若き日のアリオス王に討伐されてしまったのです。
 震え上がる幼い私と兄弟達をぎゅっと抱きしめて、ラチックさんは言うのです。
『ピぺは人間だから殺されないかもしれないが、俺達は殺される。例え仲間が殺され死んだとしても、逃げなければ次に殺されるのはお前だ。お前を助ける為に駆け寄った友も道連れに殺される。だから、危険な時はどんなに悲しくとも動かなくてはいけない』
 エンジュさんは死んでいるだろう。私は唇を噛み締める。
 遺体を回収し、イサークさんの元へ運ばなければいけません。
 蘇生の条件はとても厳しい。魂が昇天の梯を昇ってしまえば、魂は戻らず息を吹き返しても目覚めることはありません。さらに肉体の腐敗が進めば、魂が戻っても息を吹き返すことは叶わない。時間が過ぎれば過ぎる程、蘇生の確率は下がっていく。一刻も早くイサークさんに、蘇生呪文を施してもらわなければなりません。
 エンジュさんが死んだショックでか、フウラさんの心操術は解けたようです。もう前進する力はない背中を撫でていると、タッツウが戻ってきました。
「おねえさま!」
 地面に横たえられたエンジュさんの体は、崩落に巻き込まれて砂埃に塗れていました。大きな岩に挟まれたのか腕や足が折れていて、骨が皮を突き破った箇所もあります。しかし、死んで心臓が止まったのが先だったのでしょう。マスカットリップとピュアスノーリリーと明るい色で染色された呪い師の衣は、破れは激しくとも血での汚れはわずかでした。お顔は無事で眠っているようです。
 エンジュさんの死を改めて目の当たりにしたフウラさんは、喉も裂けよと泣き叫びます。涙がエンジュさんの服をぐっしょりと濡らして滴ってしまいそう。
 なんて無駄な時間なんでしょう。
 私は大きく開いた手を振り上げ、フウラさんの頭に力一杯振り下ろしたのです。べちんと音がして、エンジュさんの頭がエンジュさんの体に落ちました。
 びっくりしたフウラさんは涙を浮かべる私を写した大きな目を見開いて、目尻が切れてしまいそう。私は唇をへの字にしてフウラさんを押し退け、タッツウにエンジュさんを抱き上げさせました。タッツウは空いている手でフウラさんを抱き上げ、肩によじ登った私がしっかり捕まったのを確認して虚空に向かって飛び上がったのです。
 タッツウの肩から見下ろすナドラグラムは、都の体を殆ど成していませんでした。骨によって瓦解した都市に追い討ちをかけるように、骨から生えた爪が粉砕するのです。
 空を飛べる竜に竜化する神官達は飛び立って難を逃れましたが、待ち構えていたクロウズさんの閃光に撃ち抜かれ大地に落ちていく。あれ程沢山地上で戦っていた者達は崩落に巻き込まれたのか、戦いの音は消えて成長する骨と爪が都を破壊する音が響くばかり。
 私は目を凝らします。野晒しで色彩を失ったナドラグラムから、イサークさんの鮮やかな青を探し出す為です。ギルさんの白い鱗がキラキラと翻り、吹き上がるブレスを避けているのが見えました。そちらに視線を向ければ、私の色彩を捉える目は小さい青を見出してくれました。私が指を差し示す方向へ、タッツウは一つ頷いて大地を蹴る。
「お母様もお姉様も、どうして誰かを助ける為に死んでしまうの…」
 向かっている間、エンジュさんの亡骸に縋り付くフウラさんの囁きが聞こえています。涙も枯れてしまったのか、焦点の定まらない視線がぼんやりとエンジュさんに向けられる。表情を失った幼い横顔が、悔しさに歪む。
「皆を酷い目に遭わせた私なんか、助けなくても良かったのに…」
 どうやら心操術を受けている間も、記憶は保持されていたようです。
 戦場が近づき毒を含んだブレスが灼熱の炎に炙られ、焦げ臭く胸がむかむかする臭いが立ち込めてきました。ギルさんはブレスを上手く避けながら急降下して、息を吐き上げる黒い鱗に緑の腹のバトルレックスに襲い掛かります。しかし急降下し襲ってくる攻撃を見切られ、逆に斧で翼を切り落とされそうになるのを紙一重で避けて舞い上がる。
 バトルレックスが大きく口を上げ、下品な笑い声を上げました。
「ざんねんでちたね、おチビちゃん! 今回も当たりまちぇんでしたねー!」
 おぉっと! 緑の腹のバトルレックスが大きく身を捩ると、首があった辺りを大剣が空振りする。苦しげに脂汗をかいたルミラさんが体を低くし敵に体当たりすれば、ずっしりとした重心のバトルレックスも堪らず体勢を崩してしまう。
「ギル! 毒の空気を押し流せ!」
 飛竜の大きな翼が大地に向かって振り下ろされれば、強風となって澱んだ空気が一掃される。ルミラさんはすぐに身を捻り、頭上に振り下ろされたバトルレックスの斧を受け流す。ルミラさんの真横に落ちた斧が大地を砕き、破片が勢いよく飛び散った。
「良く見りゃ、良い体つきしてんな姉ちゃん! 生まれて間もない赤ちゃん飛竜に、乳でも飲ませて懐かせたか?」
 大地に食い込んだ斧に体重を乗せて軸とし、ルミラさんに叩き込もうとした尾に闇が爆ぜる。闇は竜の尾に食い込み、尾の真ん中あたりの肉を抉り取った。悲鳴をあげる竜の向こうには、探し求めた青が『知ってる?それって、セクハラって言うんだよ?』と笑う。
「ラッチー、ちょっとヒュー君の相手しててくれる?」
 ヒューザさんの激しい剣戟を凌いでいたラチックさんが、ちらりとこちらに視線を向けた。エンジュさんの状態を見たのか、暗い瞳の剣士に向き直り盾を構え直す。
「まかせろ。ケネス より 全然 楽」
 タッツウが放った稲妻に怯んだ緑腹の真横を、イサークさんはブレラさんを押さえながら駆け抜けた。タッツウが降ろしたエンジュさんの様子を見て、息を呑む。
 即座に蘇生呪文を唱えるかと思ったのに、遺体に触れたり覗き込むように目を凝らすばかり。先ほどの反応は、エンジュさんの死んだ姿を見たからだけではないようです。
「魂がいない。肉体と魂を繋ぐ、銀の鎖が断ち切られてる」
 険しく眇められた瞳が、忌々しげに周囲を睨む。
「ナドラグラムを彷徨う竜族の魂達に連れていかれたのか」
 この竜の都は、永き戦いで劣勢になった竜族達が最終的に行き着く場所だった。種族神とその子らによって追い詰られた竜族達は、弟妹神とその子らを激しく憎んでいる。生きている肉体はそれを纏うだけで強固な守りとなり害する事はできないが、肉体が死に魂が無防備な状態に陥れば竜族の魂達が襲ってくる。エンジュさんの魂は死んだ時点で竜族の魂達に連れていかれ、肉体と魂を繋ぐ銀の鎖も切れてしまった。それを手短に説明し、イサークさんは唇を噛む。
「イサーク様! どうか、お姉様を助けてください!」
 身を乗り出し訴えるフウラさんに、イサークさんは首を横に振る。
「銀の鎖が断ち切られてしまっては、エンジュちゃんの魂がどこへ連れていかれたか探しようがない。星空が見えないなら星空の守り人の導きはない。昇天の梯を昇れず、魂が壊されてしまうことも考えられる」
 蘇生呪文で肉体を蘇生しても、この場に溢れる竜族の魂が入り込んでしまうだろう。そう言ってイサークさんは手を握り込んだ。
 冒険の書が消える。あまりの衝撃に息を呑んだ私の横から、希望を見出して弾む声が響く。
「そうだわ! エルドナ様なら、ヒメア様のようにお姉様も生き返らせてくれる!」
 ぱっと笑顔が広がったフウラさんに、ブレラさんがぱかりと口を開くように動く。
『駄目だよ、お嬢ちゃん。聞いた話じゃ、世界樹の守り人は神から役目を授かったそうじゃないか。頂いた御役目を果たす為、その魂は運命から少しだけ外れることはできる。しかし、それは神が決めることなんだよ』
 でも! 食らい付くフウラさんの唇に、そっとイサークさんは長い指を当てた。
「僕らウェディは海から生まれ、海へ還る。君らエルフは風になるんだっけ? それじゃ、ダメなのかい?」
 涙を流し過ぎて、目元も目の周りも真っ赤になった酷い顔。泣き疲れて憔悴しきったフウラさんは、自分の胸に腕を埋め込むように強く胸元を抑えた。
「お姉様は崩落に巻き込まれる私を助けたから、死んでしまったの。私のせいで…私のせいでお姉様は…」
「死ぬとわかっても君を助けた。それはエンジュちゃんが選んだことだ」
 ぽんと慰めるように肩を叩くと、長い指はエンジュさんの頬を撫でた。『助けられなくて、ごめんね』そう優しい声を眠るようなお顔に向ける。立ち上がって翻ったローブから、潮の香りが舞い上がった。
「ピペりん。フウラちゃんをお願いね」
 腰が抜けたようにへたり込むフウラさんの肩を軽く抱くと、控えるように立っていたタッツウが動きました。釣られて顔を上げた瞬間、むわっと蒸し暑い空気と血の匂いが肺を蹂躙する。何が起きるのか、不吉な予感に腰が浮いた時には世界が一変する。
 炎の領界から赤い水のようなものが濁流となって流れ込み、ナドラグラムに穿たれた骨へ肉が注ぎ込まれる! たわわに実った果実のように血色の良い内臓が肋骨の間に詰められ、激流のように全身を筋肉が覆ってく。内臓が動く音が血を震わせたと思えば、膨大な血が巡るのが振動となって私達を突き上げる。
 それはまさに肉の洪水。粉砕されたナドラグラムは、湧き上がった生きる肉によって瞬く間に飲み込まれたのです。既に周囲は肉に囲い込まれ、私達を押し潰そうと迫ってくるのです。
 タッツウが両手を広げ肉の前に立つ。
 正面から肉に向かい合ったタッツウは、腰を落とし迫る肉を押し返したのです。私の身代わりに肉を受け止めたタッツウは、捧げた魔力を使い果たし光の粒子となって解けていきました。
 その瞬間、戦いが大きく動きました。
 振動にバランスを崩したイサークさんの腕を咄嗟に掴んだラチックさんの隙を突き、ヒューザさんは魚目掛けて急降下する海鳥のように肉薄したのです。反応し盾で大剣を叩き落とそうとしましたが、僅かに及ばず。イサークさんの胸に深々と大剣が突き刺さったのです。
 青い深海の髪が仰け反り、口から大量の血が吐き出される。ぎろりと夜の海で満たされた瞳が、緑の腹のバトルレックスの背へ向けられた。
 急成長して伸びた筋肉繊維が、女戦士の足に絡みつく。その時間は瞬く間であっても、致命的な時間でした。彼女の愛息子は突然湧き上がった筋肉が蠢く地上に、間に入ることはできない。美しい白金色の髪ごと首を切断しようと、緑腹が斧の振り上げた時でした。
 緑腹が上げた悲鳴を喉に詰まらせる。
「ひっ!なんだ、これは! 黒い?」
 斧を構え何かから逃げようと、緑腹はじりじりと後ずさる。倒れ込むイサークさんの口ずさむ歌が、冷気のように地面を這う。海の底の冷たさを、光の届かぬ闇の濃さを、堆積し圧力によって砕け散る魂、救いなき絶望と死の歌。
「来るな! くるなぁあっ!」
 私達からは何も見えませんが、竜は恐ろしい何かに囲い込まれてしまっているようでした。
 イサークさんが息継ぐ隙間で、背筋の凍るような笑い声を漏らす。
「人を呪わば穴二つ。どうせ死ぬなら、君も一緒に地獄に行こうよ」 
「こ、こいつらは、俺が、拷問して殺した…? いまさら、なんで…!」
 緑腹の鱗がべりべりと音を立てて剥がされ、剥き出しになった肉が啄まれるように削り取られていく。緑の腹のバトルレックスは、狂ったように悲鳴を上げながら誰もいない周囲へ渾身の一撃を振り下ろす。何もない空間をぶおんぶおんと斧が切り裂くも、鱗が剥がれるのも肉が削り取られるのも止む様子はありません。
 鱗と肉を殆ど剥ぎ取られ骨すら見える竜は、遂に斧を取り落とし背を向けて逃げ出しました。しかし骨が剥き出しになった足は上手く動かず、肉から止め処もなく流れる自らの血に滑って転倒する。強かに大地に身を打ちつけた衝撃に、鎧とも皮膚とも言える鱗を失った竜は悶絶したのです。
「いでぇええええ! やめろぉおおおお!」
 爪を剥がされ、牙を引き抜かれ、目玉を抉り取られ、翼を圧し折られた姿形が瞬く間に竜から遠ざかる。竜の悲鳴は言葉を失い、獣染みた声も途切れ途切れになっていく。舌を抜かれ悲鳴が血によって泡立つ音を含んだ時には、指先から胴体に向かって体が細切れて行くのです。四肢を失い痙攣する体が、ぼっと音を立てて燃え出しました。
「ドマノ。君は随分と色んな奴に恨まれてるね。呪った甲斐があるよ」
 さようなら。死の言葉を掛ける先には、炭化した塊しかない。
 届かぬ言葉を告げたイサークさんの頭から、ぱさりと、レディ・ブレラが落ちた。
「イサーク!」
 悲鳴に似た声を放ったのは、剣をかなぐり捨てたヒューザさんでした。こと切れたイサークさんを見下ろし、歯が砕けるほどに強く噛み締める。イサークさんを手に掛けた利き手を握る力のあまりの強さに、震えは全身に広がる。フウラさんと異なり、こちらが居た堪れなくなる沈痛が彼の後悔を語るのです。
「洗脳 解けたか」
 恐々と利き手を掴んでいた手の力を抜いて顔を覆ったが、ウェディ族特有の耳や鰭が小さな震えでも大きく揺れています。
「操られてる間の事は、全部覚えてる。俺は、イサークを何度も…」
 二人の間に盾を差し込んでいたラチックさんが、盾を下ろす。隔てがなくなっても、ヒューザさんはそれ以上イサークさんに近づくことはありませんでした。口から溢れて頬にこびり付いた血を拭ったルミラさんが、小さく感謝を述べてキツく唇を噛んだ。
「このままでは、シンイ殿の予知の通り全滅してしまうな」
 暴れるように骨に根付いた筋組織は落ち着きを見せ、今は臓器や血流が脈動する音が不気味に響き渡っていました。見上げれば全貌を視界に収める事の出来ないほど、巨大な竜の肉の壁が絶壁のようにそそり立っています。この竜がこれから復活するナドラガ神であるのだろうと、誰もが感じていました。
 まだ目覚めていない。ただ体がこの世界に構築されようとしているだけで、こんな甚大な被害を与えてくる竜の神。復活し私達を害する意志を持って力を振るわれたら、アストルティアがどうなってしまうのか。考えるのすら恐ろしい。
 おーーーい! 不気味な竜の神から響く音を退けて、明るい声が届きました。ナドラグラムに吹き荒れる暴風に上手く乗って、伝令として駆け回っていたルアムさんが向かってきます。勢い余って流されそうになるのを、ギルさんが上手にキャッチ! ギルさんの腕の中で、へらりと笑って手を振ります。
「相棒が皆を助け出せたって! 今こっちに向かってくる!」
 朗報だな。ラチックさんが表情を緩めた。
「皆 集まったら 疾風の騎士団の拠点 戻ろう」
 それがいい。ルミラさんが小さく頷いた。
 状況は滅茶苦茶で、誰が生きて誰が死んで、誰が戻らないのかも分からない。仲間の遺体を捨て置いてまでここに留まり戦い続けようと思う気力は、もう残っていなかったのです。
 ルアムさんは物言わぬ仲間の頬に、鼻先を付けます。まるで、おやすみのキスのようでした。
 そうしている間にナドラグラムの空を、二体の竜が飛んできたのです。エステラさんの純白から曙色に移ろう羽根に覆われた美しい竜と、真紅のグレイトドラゴンの形の竜。真紅の竜は誰だろうと首を傾げましたが、その手に大事そうにルビーさんを抱えるのが見えて絶対にトビアスさんだなって思います。それぞれに背に背負っていた人々を下ろし、エステラさんとトビアスさんが竜化を解けば、この場はたくさんの人でごった返しました。
 亡くなった仲間を悼むも、友人との再会を喜ぶ声が弾けたのです。
 ルミラさんは故郷の幼馴染と、がっしり腕を交わして不敵な笑みを交わします。そんな二人に嫉妬したのか、ルミラさんの脇にギルさんが頭を突っ込みぐるぐる唸るのです。『こらこら、やめないか』とルミラさんが嗜め、『あらあら、ママが大好きなのね』とマイユさんが朗らかに笑う。その横で赤毛のプクリポは、彼らの王子様を抱きしめて喜びを爆発させます。
「ピぺ! ラチック!」
 私の勇者様は目に涙を浮かべて、私を抱き上げてくれました。あぁ、アン。とっても心配したんですよ! 私もアンにぎゅっと力一杯抱きついて、その上からラチックさんの腕が回ります。大好きな人の温もりに抱かれて、とっても幸せです!
「なんと喜ばしい光景でしょう」
 祝福するような朗らかな声の主は、エステラさんが一緒だった竜族のお爺さんからでした。暗い青と緑の間の色彩の鱗は深い皺に波打ち、シワは暗い谷底のようで鱗の色をさらに暗く濃くする。そんな皺くちゃの顔に、ガノさんに負けない髭や髪がふわふわ乗っています。
 お爺さんは杖を手に祈りを捧げるように、天を仰ぐ。
「ご友人と再会を果たせたのですね。これも、ナドラガ神の導き…」
 確かに私達は救うべき友人と無事に再会しましたから、喜ばしい光景に違いはありません。しかしナドラガ神の導きと言われると、どうにも腑に落ちません。それは仲間達も同じだったでしょう。皆が微妙な顔で互いの顔を見合わせています。
「オルストフ殿。周囲の状況が見えておいでか?」
 不快さを隠しきれずにルミラさんは言う。ここにはイサークさんやエンジュさんの遺体が横たわり、見渡せば教団の神官だろう亡骸や体の一部が見えるのです。エステラさんの背に乗りナドラグラムを見下ろしたならば、ナドラガ神の肉体によって夥しい死が齎される阿鼻叫喚の地獄絵図を見ない訳がない。
 オルストフと呼ばれたお爺さんは肯定するように、そのシワだらけの顔を苦渋に歪ませたのです。
「道中、エステラから全てを聞き及んでいます。皆様の友人を拐かしナドラガ神の復活に利用しようと、ナダイアが画策したと…。ナドラガ神の教えを説き、竜族を解放に導く使命を帯びている身として、なんと申せば良いか」
 お爺さんに頭を下げられ、皆が滲ませてしまった感情をぎこちなく飲み込んだ。
 頭を上げたお爺さんは、エステラさんを手招いて『息を引き取っている方に、蘇生呪文を施して差し上げなさい』と囁いた。既に二人を見ていたエステラさんは首を横に振り、イサークさんが先程言った内容を手短に説明する。お爺さんは悲嘆の声を溢したのです。
「我々が及ばぬなら、もはや神に縋るより他ありません」
 それは聖職者が口にする、有り触れた言い回しだったでしょう。しかし、この場に集まった者は正真正銘の『神の器』。神は器を経て現世を見聞きし、特別な神の繋がりは加護となって器に降り注ぐ。
 お爺さんは水に垂らした一雫が広がる様を見るかのように、私達を見たのです。
「皆様には感謝の言葉もありません。我らが解放者と共に全ての領界の解放に尽力してくださったこと、エステラやトビアスから聞いております。しかし勝手ながら、どうか、後少しばかし力を貸していただきたい」
 何に力を貸せと言うのでしょう。
 今現在、ナドラガ神に酷い目に遭わされている私達に、ナドラガ神に関わる事で協力して欲しいと普通は頼んだりなんてしないでしょう。この場にまだ戻ってきていない、ダズニフさんを助けに行ってほしいと頼むのでしょうか。
 お爺さんの話が早く終わって欲しかった。色の白い男性の指が仲間達を一人ずつ指差して『貴方が死ぬのを未来予知にて確認しています』と言う幻が、現実に飛び出してきているのです。早く誰も死なない安全な場所に行きたい。
 憂鬱な気分でぼんやりした視界の中、ルミラさんの肩が跳ねた。
 私達の顔に生暖かいものが細かく散る。何気なく向けた視界に驚くべきものが見えたのです。ルミラさんの背中に、血塗れの大蠍の尻尾が生えていたのです。それがずるりとルミラさんの体の中に消えていき、戦士の体が引き抜かれる尾に引き摺られて大きく傾ぐ。
「なっ」
 驚きの声と共に咄嗟に大剣を引き抜こうとした手ごと、蠍の尾が振り下ろされる。何の反撃もできぬまま、ルミラさんの首があらぬ方向に折れて地面に叩きつけられる。
 大きく広がる血溜まりの上を、お爺さんが一歩踏み出しました。鎌首をもたげた蛇のように、足元に纏わりつくローブの裾から大木のような太い蠍の尾が揺れ動く。
 和かに細められ糸のように見えた目元が、うっすらと開きました。瞼の下にあったのは常闇。真っ黒い眼球の中に血のような真紅が点ったのです。
「竜の神ナドラガ様の復活には、皆様の死がどうしても必要なのです」