この世界の誰よりも、神が一番残酷だ -後編-

 グランゼニスに討たれ敗北を認めざる得なかった神は、魂の一欠片をナドラガンドへ放ちました。弟妹神の警戒を擦り抜けて竜族の輪廻の中に紛れ込むことが出来たのは、ナドラガ神にとって最も不要な感情であったが為でした。
 ナドラガ神は自らの魂の欠片に命じました。
 偉大なる竜の神に敗北などあり得ぬ。
 我を復活させよ。そして、愚かなる弟妹神に制裁を…!
 しかし、魂のほんの一欠片。例え創造神である女神ルティアナが最初に産みし長兄の魂とはいえ、欠片の力は一人の魂に比べれば弱い。初めて竜族として生を受けた時、母の体内から出る時には力尽きてしまいました。閉ざされしナドラガンドの中を巡る竜族の魂達と同じく、ナドラガ神の魂の欠片も同じように竜族として生まれ死んでいく。炎の領界の炎に飲まれ乾涸びて果て、氷の領界の寒さに凍死し滑落して氷に呑まれる。闇の領界の毒で、水の領界では激流に流されカシャルの加護の外へ放り出され、嵐の領界の暴風に掻っ攫われて。ありとあらゆる死に様を経験したでしょう。
 過酷な環境で成人に至れない。神の復活を試みるどころか、生きることすらままならないのです。
 それでも、生きた経験はそのまま次の生に持ち込まれ、厄災に耐える同胞の助けになればと知恵を絞る。それが何千年と続けば、竜族の暮らしは神が敗れた直後に比べれば随分と良くなりました。伴侶を得て子供を授かり、手の届く範囲の同胞が幸せに笑う。竜族としての幸せは魂を充し、我が事のように喜んだのです。
 しかし喜び以上に、ナドラガンドには悲劇が溢れていました。毎日、どこかで何人もが凄惨な死を遂げ、誰もが飢え、隣人が苦しみ、涙が枯れ果てる。幸せは砂漠の砂の中に紛れた一粒の黄金のように尊いものでしたが、それ以上の苦難が竜族に降りかかっていました。
 原因は偏に領界の苛烈な環境。
 魂がいくら知恵を絞り対策を講じても、どうにもならない強大な存在でした。
 『この苦しみの日々はいつまで続くのか?』力ある竜族として生まれた時、魂は弟妹神の眷属に問いました。『竜族の罪が贖われる時まで』領界を見守るよう弟妹神に命じられた神獣達の答えは皆同じ。聖塔の試練は、魂だけでは乗り越えられません。
 魂は激しく憤りました。
 今を生きる竜族は、アストルティアの弟妹神の子を誰一人殺していない。それぞれの領界の環境に苦しめられ、満足に腹も満たせず、喜び笑いあう隣人も居らず、幸せを知らず、ただ生まれて死ぬだけの彼らが何をした。罪を贖えというなら、もう十分ではないか。
 魂が見てきた幾億幾兆の同胞の絶望が、欠片だった魂に詰め込まれていきます。魂は神の命令を思い出しました。そして使命を果たす事を誓ったのです。
 転機が訪れたのは炎の領界で細々とナドラガ神の信仰を繋げていた、エジャの民との邂逅でした。聖鳥信仰が大多数を占める炎の領界において、ナドラガ神の徒は異教の民のようでした。魂は彼らに自分がナドラガ神の魂の欠片を宿し、神から復活を託されている事を告げました。
 熱気に頭をやられたか。笑う信徒達に魂は言いました。
『私の名はオルストフ。幾度生まれ変わろうと同じ名を名乗り、貴方達と共に神の復活を成し遂げる者です』
 オルストフと名乗った日、私は竜の神に全てを捧げる誓いを立てました。
 炎の領界に生まれ落ちた時は、可能な限りエジャの民に接触しました。それ以外の領界に生を受けた時も、授かった命を蔑ろにせず領界に封印された神の一部を奉る祠の維持に努めます。
 エジャの民は私を炎の熱気に狂った竜族と思っていましたが、回数を重ね、当時世話になった司祭の名前を告げれば半信半疑になっていく。私の名を騙る者が現れる懸念もありましたが、司祭達にとってオルストフの名を持つ者が記憶を保持して蘇る者であることは極秘とされたようです。次第に司祭と共に協力者としてオルストフの名が残るようになり、生まれ変わり容姿や性別が変わろうと、名乗るだけで竜の神の使徒として受け入れられるようになりました。
 ナドラガ神の信仰が広がり力ある神官が集まり、本格的にナドラガ神復活に動き出す。今の器に魂が宿り、私はついにナドラガ教団を創立しました。
 表向きはナドラガ神を崇める宗教の集まり。炎の領界の過酷な環境に疲弊する人々の中から、聖塔に挑める力強き者を選別することもままなりません。この器は教団の神官達にとても大事にされ、今までの竜族としての生で最も生き長らえましたが限界が見えてきました。
 その時です。ダズニフとナゼルという、特別な双子が生まれたのは。
 福音が一つ響けば、立て続くもの。ダズニフは業炎の聖塔の試練を見事に越え、領界を解放する足がかりを作りました。本物の竜の神の器が炎の領界に生まれ、隔絶したナドラガンドがアストルティアと繋がる。神が与えてくださったこの機を、絶対に逃すことはできません。
 計画は綿密に立てられましたが、思わぬ誤算があったのです。
 弟妹神の器達。ナドラガ神の導きか、幸運にも今の世に全ての神の器が揃っていました。嬉々として彼らを誘拐し手元に揃えることが出来ましたが、困ったことに彼らは神を降ろさぬのです。エルドナの器が神を降ろしたと報告に聞けば、神を降ろせぬ訳ではない。
 私は目の前に横たわるガズバランの子の骸に縋り付く、ガズバランの器を見下ろします。
「不思議なものです。神の器達をどんなに痛めつけ苦しめ死の淵に追いやっても、彼らは神に助けを求めないのです。竜族ならば直ぐに音を上げ、竜の神に懇願しているでしょうに…」
 神様。どうか救いの手を差し伸べてください。そう神に願うだけで弟妹神は神の器の上に降り、神の器を苛む災難を取り除いてくれるでしょう。
 神の器達はそれを知らないのでしょうか? 自分達が神の器だと分かっていながら、その特権を行使しない。理解に苦しみます。
「どうすれば、神の器が神を降ろしてくださるのか。私は考えました」
 私が杖を向ければ、向けられた者はびくりと体を強ばらせました。
 誘拐した神の器を救うべく、ナドラガンドにまで駆けつけた者達。神の器と特別な絆を結んでいた彼らに対し、再会に喜び死に嘆き悲しむ様を見て、神の導きを確信したのです。
「我輩達を殺め、生き返らせるよう神の器に懇願させるというのか?」
 私の目論みを見抜いたワギの子が、吐き捨てるように言った。
「えぇ。貴方達の死は、神の器達にとってあらゆる苦しみに勝るものとなるでしょう」
 私がにこりと微笑めば、ワギの子はじりっと後ずさる。入れ替わるように勇ましく前に進み出たのは、グランゼニスの器。アストルティアでは勇者として大魔王を討ったという、うら若き乙女でした。亜麻色の髪を風に流し、晴天のまっすぐな眼差しで私を射抜く。すらりと抜き放った剣の鋒がぴたりと私の眉間へ向けられる。
「竜の神を蘇らせアストルティアを害しようと画策するだけでは飽き足らず、私の大事な友人達を傷つけようなんて許さないわ!」
 グランゼニスの器に並んだのは、力を込めすぎて拳から血が一筋流れしガズバランの器。氷の領界の白夜を思わせる透き通った銀の髪を振り乱し、怒りに燃えた瞳が私を睨みつけました。
「卑怯にも不意打ちをし、反撃も出来ずに殺される。オーガにとって、これ以上の屈辱はないわ! ルミラの仇は私が討つ!」
 娘達はまるで長年共に戦った戦友のように、流れるような共闘を見せる。鋭いレイピアの突きは硬い甲殻に覆われた尾の隙間を的確に突き、拳は老骨の奥にまで響く。尾で娘達を薙ぎ払おうとすれば、ワギの子が尾を鞭で絡め取って勢いを殺し、大楯を持ったグランゼニスの子が防ぐ。その見事な連携に、あと百年は若ければ優位に戦えたでしょうにと歯噛みする。
 それでも神の器と特別な絆を結んだ子らを、殺害しなくてはなりません。
 吐き出したのは瘴気のブレス。グランゼニスの器が金色の光を放ち毒々しい黒い霧を遮れば、猛攻の奥を伺う余裕が出るというもの。
 赤毛のピナへトの子が、彼らの神の器を抱えて背を向けて駆け出したのです。その素早さは、カイザードラゴンに睨まれたダッシュランのごとし。瞬く間に小さい姿が遠退いていきます。
「ダメです! ルアムさん、そっちに行っちゃダメです!」
 ピナヘトの器の必死の訴えを、猫耳を折って無視しました。
「皆を置いて逃げる訳じゃねーよ! 『せんりゃくてきてったい』ってやつだよ!」
 誰か一人でも生き延びれば全ての神は降臨せず、ナドラガ神の心臓の封印が保たれると判断したのでしょう。その判断はとても正しい。しかし、人の言葉はきちんと聞くべきです。
「お願い! 行かないで! そっちに、そっちに行っちゃダメだっ!」
 丁度、竜の神の肉体と瓦礫に谷のように隙間が生まれ、どこかへ続く道が出来ている。その道は比較的平坦に保たれていて、私から一刻も早く遠ざかるには、是非とも利用したい道でした。そこに吸い込まれるように、小さきピナヘトの子は走り込みます。
「ルアムさん! 行かないでぇっ!」
 もはや涙声で叫ぶピナヘトの器が、次の瞬間空中に投げ出された。
 小道の地面から突如槍が生え、ピナヘトの子の体を貫いたのです。地面から顔を出したのは、炎の領界で井戸掘りをしていたのをアンテロが救ったロマニという男。ニヤリと笑った竜族の男の眉間に、次の瞬間矢が突き立った。
「兄さん!」
 弓を携えたグランゼニスの子が、ロマニの槍から絶命したピナヘトの子を引き抜く。施される蘇生呪文の光の下でピクリとも動かぬ小さな骸に、ピナヘトの器が大粒の涙を流して縋り付きました。
「分かってたのに…! そこに潜んでいる竜族が、ルアムさんを殺すって、分かってたのに! 僕は、僕は、未来を知っていても誰も救えない…!」
 残るはあと二人。
 ご友人の死に動揺したのか、一瞬、屠るべき者達の動きが鈍ったのです。
「ナドラガ神よ! 私にお力をお貸しください!」
 杖を高々と掲げ、魂を通じてナドラガ神の力が放たれる。本来なら致死的威力を誇る波動でしたが、神の器を殺してはならぬ為に威力は絞らなくてはなりません。しかし、体勢を崩し隙を生み出すには十分。
 裾から飛び出た蜘蛛のような鋭い脚は、予想だにしなかったのでしょう。ガズバランの器の鳩尾に深々と脚が刺さり、意識が飛んだのか仲の良く死んだお友達の傍に倒れます。
 最前線で戦う者達の背後にいたワギの子は、仲間の影で私の尻尾には気がつけなかったのでしょう。私の尾の先に鉤爪のようについた針は、同じ腰の痛みを知るだろう老年の大腿部に深々と突き刺さったのです。引き抜き、翻した針で胸を袈裟斬りにする。
「先生!」
 悲鳴を上げて倒れ込んだワギの子を、ワギの器が引っ張っていく。戦線を退いても、もうワギの子は助かりません。遠目からでも大腿部と胸の傷は毒々しい紫に変じているのです。大腿部の大きな血管に流れ込んだ毒で、命を失うのは時間の問題。今際の際の老人はワギの器の胸ぐらを掴むと、叱咤するように言い放ちました。
「ダストン…! 我輩のようなジジイを、生き長らえさせるでないぞ!」
 苦しげに呻くと懐から小さな袋を取り出し、ワギの器の胸に押し付ける。
「この、石を。アグラニ…イプ、チャル様の、もと、に」
 手がワギの器の胸を滑り、ワギの子は力尽きて地面に倒れました。腹の上に留まった小さな袋を手にしたワギの器が、震えながら亡骸の肩を揺する。
「冗談はやめてくださいよ。ワシに、先生の役に立てって言うんですか?」
 せんせい。目を開けてくださいよ。いつもみたいに、何も教えてくれなくて良いですから。そう、現実が受け入れられない声に、嗚咽が混ざっていく。
 それを背で聞いていたグランゼニスの子の瞳が、怒りに燃え上がる。雷を彷彿とさせる光が彼女の体から弾け、目から散った涙が七色に閃く。
「よくも!」
 振り上げたレイピアは眩い光に包まれ、溢れる力に爆ぜる。かつてナドラガ神を討ち取りしグランゼニスが放った渾身の一撃。輝く眩い光を放つ刀身と、彼女のレイピアの輝きが重なって見えたのです。この一撃を受ければ、私は死ぬだろう。そう予感がありました。
 強い破邪の光を帯びた剣が、私を包む硬い甲殻を難なく打ち砕き侵入してくる。光は私の中に渦巻く黒々とした感情を燃やし、邪悪を滅する。魂そのものをも焼き尽くさんとする力に、私は溜まらず絶叫する。
 このまま死んでしまいたかった。
 しかし、それは許されません。
 ナドラガ神を復活させねばならない。何の罪もなく贖罪を強いられた竜族の無念と恨みを、神に背負っていただくのだ。母より生まれこれから幸せにならねばならなかった赤子が、弟妹神が強いた過酷な環境の前に潰えていく罪を問わねばならない。家族にこそ十分に腹を満たしてやりたいというのに、満足に食事を与えられず飢える苦しみを理解させねばならない。命懸けの狩りに散る命と不条理な別れを、味合わせてやらねばならない。弟妹神が我々に与えたものを、アストルティアの民に返すだけ。
「憎き神々が罪もない民に強いた贖罪は、弟妹神の子が軽々しく想像できるものではない! 我々には復讐する権利がある…!」
 私は剣に貫かれ血反吐を吐きながら、グランゼニスの器の肩を掴んだ。
 毒の滴る蠍の尾が、グランゼニスの器の腹に一直線に突き進む。剣を深々と差し込んで接近し、私に肩を掴まれて動けない娘に、自力でこの一撃を回避する手段はない。歯を食いしばり剣に込めた破邪の力を増幅させ私を絶命させようとするが、勢いよく突き出される尾の勢いは死して尚衰えることはないでしょう。
「アン!」
 大楯を構えた大男が、私とグランゼニスの器の間に割り入った。片手は弾き飛ばされたが、もう片手はグランゼニスの器の肩に深々と食い込んだまま。そのまま大男は娘に体当たりをするように退け、大楯を構えて尾を正面から受け止めた。凄まじい衝撃に男の体が強張る。
 私とグランゼニスの子と、グランゼニスの器の動きが止まった。静止した時間の中で、グランゼニスの器が大男の名前を呼んだのです。
 ゆらりと大男が背中から倒れる。大楯を貫き、重装備の鎧を貫通した尾が、ずるりと大男の腹から抜けていきました。グランゼニスの器が喉が裂けそうな声で、大男の名前を叫んだ。すぐに傍に膝を付き腹に空いた風穴の上に手を当て、回復呪文の光が眩しいくらいに放たれる。
「お願い。血、止まって。どうして、止まってくれないの…!」
 涙を撒き散らしながら必死で呪文を唱え続ける顔に、分厚いグローブに包まれた手が伸びる。頬に触れた手が滝のように流れる涙を拭おうと、そっと動く。アン。掠れた声が口から漏れる。
「無事… 良かっ……た」
 頬に伸ばされた手がぱたりと落ちる。その瞬間、グランゼニスの器は声にならぬ悲鳴を上げたのです。
 光が迸る。器にとって唯一無二の大事な命を救いたいという懇願に、神が応えて降臨する光。それが6つの亡骸の傍で、己の無力を嘆き、神に頼らざる得ない状況になった器達から放たれていた。
 私は膝が折れそうなのをどうにか堪え、ゆっくりと愛しい子へ視線を向けた。
「…オルストフ様」
 エステラは神々しい光が己の体から溢れていることに、私がアストルティアから来た者達を殺害したことに、そして総主教として人々を導く立場でありながら禍々しい姿であることに、戸惑い混乱したように立ち尽くしていました。
「混乱しているのですね、エステラ。そんな時は、我らが神に心を委ね祈るのです。神は全てを取り計らってくださるでしょう」
 私は最後に向けて力を振り絞り、エステラの前に進み出て恭しく膝を折った。深々と竜族の神に捧げる最上級の礼を、待ち侘びた光に向けて捧げたのです。
「エステラ、貴女がナドラガ神の器なのです」
 聖鳥の信仰の村が謎の病によって全滅し、絶望の淵から民を救わんとして殉じた慈悲深き神官長夫妻。そんな小さな悲劇の物語は、ナドラガ神の器の心を得るために書かれたのです。竜族を救わぬ偽善なる聖鳥の信仰を捨てさせ、この清らかな器が降ろすべき真の神の信仰を与える。ナドラガ神の教えが、貴女が降ろす神がどれほど素晴らしいかを、神官長夫妻は命を賭して示してくださいました。お陰で彼女は敬虔なナドラガ神の信者となり、私のためにどんな危険な場所にも駆けつけてくれる優しい子になりました。
 さぁ。私の手が我らが神に触れる。
「我らが神よ。今こそ真の姿を取り戻す時…」
 恐れることはありません。私はエステラの頭を愛おしく撫でる。
 私は使命を果たし、ナドラガ神の元へ還るのです。これから、ずっと、どんな時も一緒です。優しい貴女がアストルティアの民が苦しむ様に涙しても、慈悲深き貴女が神に憎しみを抱くほどの同情を募らせても、神は貴女と竜族を愛しています。全てナドラガ神に委ねれば、竜族は必ずや幸せになるでしょう。
 あれ程、夢見た竜の神が復活される。
 喜ばしいはずなのに。
 どうして、こうも、虚しいのでしょう…。