千年告げた鐘の音は何処へ還る -前編-

 大きな竜と獣が殴り合っているのが、遥か遠くの出来事のようだ。
 涙に歪んでぐちゃぐちゃな世界に、皆が啜り泣く声がずっとずっと響いている。すっごく美味しいご飯を作ってくれたイサークも、父ちゃんなら絶対褒めてくれない小さいことも大きな手で撫でて褒めてくれたラチックも、可笑しくて笑っちゃう思い出ばっかりのルアムも、もう二度と目覚めないなんて嘘だって言って欲しかった。
 横たわるルアムの脇をくすぐったらさ、寝てる顔がぶはって吹き出すんだ。『折角、死んだふりしてんのに、くすぐるのは反則だぜー!』って、きっと笑うんだよ。ルアムはさ、とっても演技が上手だからさ、皆騙されちゃってるんだよ。
 近付こうとしたあたしの首根っこを掴んで、父ちゃんが静かな声で怒るんだ。皆はナドラガ神を生き返らせる為に殺された。竜族のせいでもあるのだから、あたし達が近くに行っちゃいけないって言うんだ。
 竜と獣の戦いが始まって、巻き込まれないよう皆を運んだのは父ちゃんなのに…。
 睨むように見上げた視線の先で、父ちゃんは悔しくて悔しくて歯が噛み砕けちまいそうなくらい歯を食いしばってるんだ。何も言えないよな。
 啜り泣く音の隙間に、こちらに近づいてくる足音が聞こえる。膝を抱えた手を解いて目を拭うと、青紫の髪の人間の男の子が向かってくる。闇の領界にいたルアムと同じ名前の男の子だ。日に焼けた小麦色の肌でも、泣き腫らして真っ赤になった目の周りが痛々しい。
 教団の追手が来るかもしれないと見張りに立っていた父ちゃんに、男の子は深々と頭を下げた。
「トビアスさん。皆を安全な場所まで運んでくれて、ありがとうございます」
 真面目な顔で苦虫潰して引き攣った顔が、上がらない旋毛を見下ろす。ゆっくり、本当にゆっくり父ちゃんの手が男の子の肩に乗ると、『頭を上げなさい』と静かに話し掛けた。
「あんな事があったのに、君は俺達に礼を言うのだな」
 男の子がようやく頭を上げると、父ちゃんは体を直角に折る程に深く頭を下げた。あたしがまだ下げてるのかなって思う頃に上がった顔は、苦しくて今にも泣きそうだ。
「何も弁明は出来まい。俺は君達から叱責され罵倒されるべき軟弱者だ」
 父ちゃんにとって皆を殺したオルストフって爺ちゃんは、父ちゃんの父ちゃんみたいな人なんだって。だから、父ちゃんは爺ちゃんを止めなきゃいけないって分かってても、杖を振り上げて叩いたり竜化して押さえつけたり出来なかったんだって。あんな竜族とはかけ離れた蠍みたいな姿を見て、あたしの首を絞めやがったナダイアすら操る黒幕だって知って、父ちゃんは凄く動揺したんだ。動揺して頭の中真っ白になってる間に、皆が死んじまった。
 父ちゃんが静かに流した涙は悔し涙だ。皆が目の前で殺されてるってのに、何も出来なかった後悔で涙が止まらなかったんだ。
 男の子は小さく頭を横に振って『そんな事、誰も思ってませんよ』と囁いた。
 啜り泣く声を聞きながら、互いに感情を噛み締めてる。胃が痛くなりそうな静けさの中で、後悔や苦渋や悲しみを何度も何度も反芻する。もう、嫌になっちゃう。でもさ、そんな事言ったら、父ちゃんにめちゃくちゃ怒られるから言わないんだ。
 男の子の顔が、ふっと竜と獣が戦ってる方に動いた。
「僕はナドラガを倒しにいきます」
 金色の目に縦に走る瞳孔が、針みたいに細くなる。顔を上げた父ちゃんの淡い色の鱗が、興奮で赤みを増す。
 あたしもぽかんて口が開く。だって、竜の神ナドラガだって皆が言う竜は、山みたいに大きい。イオナズンとかメラゾーマを打ち込んでも、門みたいに大きい鱗で遮られて届かないだろう。竜化した父ちゃんでさえ、あの竜と比べれば虫みたいな大きさじゃない? それで虫を払うみたいに手を振れば、凄い風が巻き起こって近づくこともできない。いろんな魔物と戦う父ちゃんを見てきたけど、どうやったら倒せるのか想像もつかないよ。
「どうやって倒すと言うのだ。あんな巨大な獣でなければ、足止めも出来ぬのだぞ」
 男の子が指を指した先には、大きくてキラキラの剣が突き刺さっている。刃が派手に壊れちゃいるけど、剣だって遠目からでも分かるくらいには形が残ってる。曰くありげに突き立ってるし、キラキラ光ってタダモノじゃない雰囲気がぷんぷんするもんな。
「あの剣に向かって、クロウズさんが飛んで行ったのが見えました。シンイさんやテンレス兄さんはナドラガを倒す事を諦めていないんです」
 淡々と言った男の子の言葉に、父ちゃんは小さく頷いた。竜化して送るつもりなのか、大きく息を吸った父ちゃんを男の子が止めた。
「トビアスさん。どうか皆をお願いします」
 深々と頭を下げた後、ピぺにちらっと目配せする。ピぺが小さく頷いたのを見て、男の子は軽やかに剣の方に向かって駆け出した。
 ナドラグラムは瓦礫の山になっていて、道も階段もない。崩れて倒れる塔の上を走ったと思えば、崩れた壁を両手足を器用に使ってするすると登る。青紫の後頭部は同じ名前のプクリポと重なるように、羽のように身軽に進んでいってしまう。
 瓦礫の中に消えていった背を見送った父ちゃんが、ぽつりと言った。
「アストルティアは平穏な世界だと聞いていたが、存外そうでもないのだろうな」
 あたしが父ちゃんを見上げると、悲しそうに目を細めた顔がある。
「普通はあそこで泣き縋る者達と同じく、打ち拉がれてしまうものだ。まだ幼さすら残る子供なのに、淡々と死を受け入れ次の行動に移れるとはな…」
 杖を握っていない手がぺちぺちと頬を叩いた。大きく息を吐き出して、吸い込んだ拍子にぐっと背を伸ばす。しょぼくれて縮こまってパッとしない父ちゃんは、いなくなってた。いつもの、難しい顔して一生懸命な父ちゃんだ。
 無性に嬉しい気持ちが溢れて、にこにこ見上げちゃう。
 ごおん。ごおおん。巨体が殴り合う音が、大気を震わせて体をビリビリさせる。竜の尾に薙ぎ倒された茶色い大きな獣が、塔を砕いて大地に叩きつけられる。水の領界で見た入道雲みたいな大きな土煙が湧き上がると、竜はその煙に向かって尾を叩きつける。
 ばぁん!と大きな音と一緒に、地面が激しく揺れる。
 茶色い雲からぼっと音を立てて獣が飛び出した。低く体を落とした獣は、竜の腰を掴んで持ち上げてしまう。巨体を持ち上げるだけで都が沈み込む。獣は持ち上げた竜の頭を下に傾け、大地に獣自身の体重を上乗せして叩き落とした! 竜の悲鳴が上がり、都の瓦礫が衝撃に四方八方に巻き上げられて飛んでくる!
 父ちゃんが咄嗟に真紅の鱗のグレイトドラゴンに竜化して、あたし達を衝撃から庇ってくれた。真っ赤な竜の背の向こうから、大きな瓦礫を含んだ風がごうごうと駆け抜けていく。
 おおおぉぉお。竜の呻き声が地響きのように、お尻から這い上がってくる。
『我は、竜の…神…』
 よろりと起き上がった竜の頭に、獣の蹄が振り下ろされる。眉間に刺さった一撃に、竜は大きくよろめいて膝をついた。がはりと吐いた大量の血が都に落ちて、瓦礫を含んだ濁流となって流れ出していく。
 竜は膝をついたまま、天を仰いだ。
『我が身に宿る大いなる闇の根源の力よ…』
 ぞわりと身体中の鱗が裏返る感覚。何が理由だかはわからない。ただ、とてつもなく恐ろしい事が起きると、本能は理性よりも早く感じ取ったんだ。
『地上の民、全てを滅ぼす瘴気となって溢れ出よ!』
 油が浮いているような金色の鱗の輝きが鈍り、溶岩石の光が中で瞬く黒々とした色に変わる。天を仰ぐ竜が顎が外れそうなくらい開いた口から、フェザリアス山の噴煙みたいな黒々とした息が湧きあがった。それだけじゃない、金色の鱗の隙間という隙間から、勢いよく黒い煙が噴き出した。向かい合った二つの巨大な体は瞬く間に瘴気に包まれ、さらに溢れる黒が押し出されて全てを飲み込んでいく!
「いかん!」
 父ちゃんはあたしと亡骸に縋りついて泣く皆の上から、覆いかぶさるように身を屈めた。できる限り身を低くした父ちゃんの下は、狭いけれど瘴気が入り込む隙間はない。ごうごうと強風が吹き荒ぶ音が、父ちゃんの苦しそうな呻きの向こうから聞こえてくる。
 ぶるぶると体が激しく震えるのが堪えられなかった。
 竜の神の肉体に封じられていた、ナドラガンドを滅ぼしてしまうほどの魔瘴。それが放たれる事が何を意味するのか。
 分かっていた。ずっと、最初から目の前に答えはあったんだ。
 それでも、あたしは答えを見て見ぬ振りをした。父ちゃんやルアムやピぺやリルチェラ、出会った皆と過ごすのが、とっても楽しかったから無視したんだ。無視してるうちに、なんとかなっちゃうだろうって思ったんだ。
 そんなことない。運命があたしの目の前で、ひらひらと答えをちらつかす。早く掴んでしまいなさいと、急かすようにあたしに突きつける。
 いやだ。こわい。あたしはぶんぶんと頭を振る。皆とお別れするのが嫌だった。父ちゃんともっと一緒にいたい。こうして父ちゃんの影に隠れているのが簡単だった。運命に立ち向かう事が、恐ろしくて恐ろしくてたまらない!
 でもこのままじゃ、父ちゃんが瘴気に包まれて死んじまう!
 ふと、手が握られる。キツく目を閉じていた瞼を恐々と上げると、ピぺがあたしの手を握っていた。紫の目があたしを勇気付けるように見上げ、舌をしまった口の端がきゅっと上がる。そんな小さい命を見ていると、凄く泣きたくなって、無我夢中に手を伸ばしてぎゅっと抱きしめた。
 腕にすっぽり収まってしまう温かさ。あたしの背に回った手が、ぽんぽんと鼓動に合わせて触れては離れる。温かくて、優しくて、不安と恐怖に冷えていた心が満たされていく。頭をぐるぐる回っていた感情が平たくなって、いつの間にか体の震えが止まっていた。
「ピぺ。ありがとう」
 そうだ。あたしは、この時の為に生まれたんだ。
 溢れる光が赤い鱗を夕焼けの橙に変え、ピぺの瞳は光を透かして宝石のように輝かせる。紫水晶の中に白くて丸い生き物が映り込んだ。形はドラゴスライムみたいに、丸い胴体ついた翼が羽ばたいて体を浮かせている。白い細やかな鱗が連ねられた胴体は滑らかで、桃色の紋様みたいに色が浮かぶ。白い生き物は大きな赤い目を嬉しげに細めて、鏡のように目をまんまるくしたピぺに擦り寄った。
 あぁ、これがあたしの本当の姿。
 何が起きたのか顔を上げた皆から視線を外し、一つ高い声を上げて気合を入れる。父ちゃんのお腹と腕の隙間に、あたしは頭から突っ込んだ。ぐいぐい隙間に潜り込んで、腹の下で何か起こったのを感じて思わず身動いだ隙に飛び出した。
『ぴぃ!』
 闇の領界のような真っ暗い闇。ごうごうと音を立てて、全てを溶かす黒い霧が前から後ろへ勢いよく流れている。この魔瘴を放っておけば、ナドラガンドはあっという間に飲み込まれちまう。魔瘴は領界に生きる全ての竜族の命を奪ってしまうんだ。
 こんな大量の魔瘴、飲み込めるわけがない。頭を擡げた恐怖心が、今すぐに父ちゃんのお腹の下に戻ってしまいなさいと甘い言葉で囁く。そうしたかった。そう出来たら、最高だな。
 でも、あたしの後ろに流れる魔瘴の先には、出会った皆がいる。炎の領界から遥々訪ねてきたギダも、一番仲良しの友達のリルチェラも、水の領界の海の底で平和に暮らしていた竜族達。みんな、みんな、死んでしまう。
 そんなん、ダメだ!
 あたしは顔に容赦なく吹き付ける魔瘴を睨みつけた。
 皆を守るんだ! あたしは、みんなを守る為に生まれたんだ!
 大きく口を開けると、魔瘴の流れが変わる。前から後ろへ勢いよく流れていた黒い風が、あたしの口に向かって吸い込まれていく。吸い込んでも吸い込んでも、いつまでも黒は晴れない。苦しくて、辛くて、体がぶるぶると震えてしまう。
「もう十分だ! それ以上、魔瘴を吸い込んだら死んでしまうぞ!」
 今にも地面に落ちてしまいそうに見えるんだろう。父ちゃんが叫ぶんだ。
「死ぬな! ルビー!」
 父ちゃんに名前を呼ばれて、雷に打たれた気分だった。
 知ってたんだ。あたしが竜族じゃない、魔瘴を喰らうへんてこな生き物だって。父ちゃんって呼ぶ、娘でもない竜族の形をした何か。正体を知られたら、気味悪がられたって拒絶されたって仕方がないって思ったんだ。それなのに、父ちゃんはあたしがルビーだって気がついてくれた。あたしに死ぬなって言ってくれる。
 あぁ、父ちゃん。
 あたし、父ちゃんの娘になれて幸せだったよ…!
 父ちゃんみたいに心から愛しいと思える人を、救える力があることが嬉しい。命を引き換えに皆が救えるなら、死んじまっても良い。絶対に守ってみせるんだ!
 気力を奮い立たせて、今にも閉じてしまいそうだった口を限界まで開く。さっきよりももっと勢いよく、魔瘴を吸い込んだ。頭上の5つの領界やアストルティアの空が、薄れた黒の向こうに見え始めた。
 無我夢中だった。音も聞こえないし、何も見えない。父ちゃんと出会う前の世界。ただ、吸い込んだ魔瘴が体を蝕んで、激しい吐き気が込み上げる。限界だった。これ以上吸い込んだら、きっと死んでしまう。がくがくと世界が崩れて、落ちていく感覚。体が冷えて、意識が遠のいていく。
 もうだめだ。そう思った瞬間だった。
「お嬢さん、無理をしてはいけませんよ」
 下から温かいものに掬い上げられる。じんわりと伝わってくる熱が、魔瘴に蝕まれてバラバラになっていた体を蘇らせた。未だに止む気配のない魔瘴の嵐の音が、空に燦然と輝く領界とアストルティアの空が見える。闇の中から浮かび上がる美しい世界を遮ったのは、人間の男の影だった。
 …だれ?
 あたしを覗き込んだ男は笑った。
 影が光に解けていくと、光の形が人でないものに変わっていく。純白の光が翼の形となって広げられると、光の粉は羽となって舞う。六つ目の神話で次元すら超えると語られた天馬が、纏わり付く光を払うように首を振った。
『私はファルシオン。貴女と同じ、神によって生み出されし神獣です』
 ファルシオンの奥で光を放つ領界から、5つの小さな光がひときわ強く瞬いた。
 燃え盛る炎の塊が、炎の領界から落ちてきた。炎の塊はナドラグラムが迫ると、大きな翼を広げて炎の鳥となる。聖鳥として竜族に信仰されていた、神々しい炎が灰色の廃墟を赤々と照らした。その背に一つ青白い炎が灯っていて目を凝らせば、ギダが髪に挿している聖鳥の尾羽だ。ギダは竪琴を片手に巨大な竜を恐々と覗き込んでいる。
 氷の領界からは砕けた氷の欠片が零れ落ちてくる。暖かな緑の光の周囲を、キラキラと輝く氷の欠片が舞い踊る雪のようだ。その光を放つのは氷の領界で出会ったリルチェラだ! リルチェラはあたしを見ると気がついたように笑顔になって、ぶんぶんと手を振っている。
 土砂のように闇の領界から転がり落ちてきたのは、真っ白くて大きくてまん丸い土竜。大きな体にちっちゃい頭を乗せた雪だるまだって、リルチェラに指を挿されてむくれてる。『そりゃないぜ、ベイベー! 迸る哀愁よー!』と、びっくりするほど変な音で歌い出す。マイク片手に歌い出した獣に抱かれているのは、メガネを掛けた男の子だ。すごく迷惑そうに眉間に皺を寄せて、力一杯両耳を塞いでる。
 水の領界から伸びる滝から水飛沫を上げて飛び出したのは、真っ白くて鮮やかな紋様がいろんな色で浮かび上がるイルカだ! その背には剣と鎧を着込んだ騎士が乗っていて、「カシャル様の背に乗せさせていただく栄誉…。このディカス、末代まで語っていかねば…」と感じ入った様子で呟いている。
 黄金の風が嵐の領界から吹き下ろされると、黄金の鹿が優美に降り立った。翼みたいに複雑に枝分かれする角が、ブルリと体を振るわせると大きく動く。背に乗っていた戦士らしい男の人は、斧を片手にナドラグラムの様子を愕然とした様子で見渡していた。
 獣達は互いに懐かしそうに目配せし、大きく頷いた。言葉なく示し合わせた覚悟に、共にやってきた竜族達も表情を引き締める。
 ファルシオンが前足を高々と上げて嘶き、大きな翼を広げた。
『女神ルティアナの子、6神に連なる者達よ。今こそ力を合わせ、神代の戦いに終止符を打たん!』
 空に浮かんだ6つの小さい光を、ナドラガは忌々しく睨み上げた。
『竜の民が苛む永遠にも近い責苦を、ただ眺めておろうとは…。弟妹共と等しく、断じて許されぬ罪業なり』
 金色の巨大な竜を見ていると、あたしは悲しい気持ちになってくる。
 こんなんじゃなかったのに。何故か、心の底からそう思う。
『弟妹やアストルティアの前に、我が手ずから滅ぼしてやろうぞ…!』
 威嚇だろう咆哮がびりびりと空気を震わせ、集まった神獣達に吹き付けられる。それに怯む神獣は誰もいない。皆が胸を張って、ナドラガを打倒しようとする決意に燃えていた。
 さぁ、いきましょう。ファルシオンの声に神獣達は頷いた。
『我が力は、全て竜の民の為に…!』
 カシャルと呼ばれたイルカが甲高い声を響かせると、水の領界から膨大な水が落ちてくる。空が抜けて視界いっぱいの大量の水が迫ってきて、思わず身構える。するとカシャルの背に乗っていた竜族の男が水面の輝きを放つ剣を掲げ、舞うように優雅に振り始めた。
 男の剣の動きに導かれ、水がナドラガを取り巻くように流れ落ちていく。
『ここに邪神を束縛する結界を結びます』
 金色の鹿が駆け出すと、金色の風が尾を引いた。水の周りを軽やかに飛び回り、背に乗った男が金色の風を斧の刃に絡め取って大きく振り回した。輝く風が水を巻き上げ、輝く水が蛍のように空間を飛んでいる。
「恵みの木に宿し神獣、シナリディ! ナドラガに立ち向かう力を、あたしに貸して…!」
 リルチェラが手を組んで祈ると、緑の光が彼女の胸から溢れ出す。緑の光は陽の光のように眩くナドラグラムを照らすと、光に照らされた水がぱきぱきと音を立てて凍りつき始めた。
『おのれ! 調和などと飾りたてた言葉で群れなければ、何も出来ぬ弟妹共の木偶人形が!』
 魔瘴ごとナドラガの巨大な体が、輝く氷で出来た魔法陣の中に閉じ込められてしまった! 身を捩り動く事ができないナドラガの負け惜しみが、ナドラグラムに響き渡る!
 永遠を超えた約束のしるしぃー。君にさぁさぐよー。ぼぉくのまぁごぉころぉおお!
 歌のヘボさとは裏腹に、浄化の光が魔瘴に浸されたナドラグラムを一掃する。至近距離で魔瘴を浴びて倒れ込んでた巨大な獣が、声は綺麗だけど不快を詰め込んだ歌声に眉根を寄せてのたうち回ってる。
 アストルティアへ流れ出そうとした魔瘴も、聖鳥の輝く火の粉に吹き払われる。
 これなら、ナドラガの中にある魔瘴を吸い出す事に専念できる。あたしは身動きの取れなくなったナドラガに近づき、大きく息を吸い込んだ。金色の鱗の隙間からドロリとした濃厚な魔瘴が引き摺り出されると、ナドラガは露骨に顔を顰めた。
 まるで抱きしめるように、両手をあたしに差し出してくる。
『我が子、プリフィーよ! 生み出した恩を仇で返そうというのか!』
 あたしは父ちゃんが、あたしを産んでくれた本当の父ちゃんにそっくりだと思った。
 優しくて、一生懸命で、皆のためにとっても頑張ってる。いつも面白くなさそうな堅っ苦しい顔してるけど、ちょっと突けば表情豊かに怒ったり機嫌悪そうな顔をするんだ。一人で誰も見ていない所で、ひっそりと笑ってる。不器用な大きな背中。
 あたしを産んでくれた時の父ちゃんは、皆を守る為に魔瘴を喰らい浄化する力をくれたんだ。今のお前の言葉は、あの時の父ちゃんの願いじゃない! 今のお前は父ちゃんじゃない!
 あたしはルビーだ! 友達や、沢山の人が呼んでくれた大好きな名前の、竜族の女の子だ! そして、そんな最高の名前を付けてくれたトビアスって竜族があたしの父ちゃんなんだ!
 あたしは大きく口を開ける。否定を叫びながら、勢いよく魔瘴を吸い込んだ。
『やめろぉおお! プリフィィイィイッ!』
 輝く氷で出来た結界を破壊し、ナドラガがあたしを捕まえようと腕を伸ばす。魔瘴を吸い続けて動けないあたしを、食んで連れ去ったのはファルシオンだ。さらに追いかけて伸ばされる手を、純白に輝く天馬は軽やかに避けていく。
「アマカムシカ様! お力添えを…!」
 挟み込んで捕まえようとした腕の前に、果敢にも割入ったのはアマカムシカと呼ばれた金色の鹿だ。嵐の領界から吹きおろした黄金の風を、戦士の斧が巻き取るとナドラガの手首を打ち据える! 圧縮した黄金の空気が鱗を砕き肉を断ち、骨を砕く。
 竜族の戦士が雄叫びを上げて渾身の力で振り抜くと、黄金の風はナドラガの手首を貫いた! ナドラガの絶叫と共に手首が落ち、真っ黒い魔瘴の塊となって霧散してく。断面は闇を詰め込んだように真っ黒で、そこからぶよぶよとしたものが盛り上がった。次の瞬間、闇は失われた手の形になり、闇の中から金色の鱗が湧き上がって覆っていく。
 ナドラガが顎を開けば、太陽のような眩い光。それを認めたカシャルが声を響かせる。
『ディカス! 水の領界の力を導き、ナドラガの一撃を相殺するのです!』
 水の領界から堰を切った大量の水が、ディカスと呼ばれた剣を構えた騎士に向かって落ちてくる。騎士の体が青白い光に包まれると、洗練された仕草で鋒がナドラガに向けられる。
 騎士が気合と共に突き出した剣を中心に、巨大な渦潮がナドラガに襲い掛かる!
 次の瞬間、閃光を伴う灼熱と正面からぶつかり合った!
 大量の炎と水がぶつかり合い、蒸発し生まれた水蒸気が爆風となってナドラグラムに吹き荒れる。小さいからこそ爆風に吹き飛ばされたカシャルとは違い、その自重で至近距離で爆発を受けてしまったナドラガの顔面の鱗が吹き飛ぶ。
 大地と空から歌声が光の雨のように、ナドラガの体の外へ漏れ出る魔瘴を消し去った。逃げ惑うにも身を隠す場所は瓦礫の山にはなくて、光は絶え間なく竜へ染み込み魔瘴を浄化していく。
 戦っている間もずっと魔瘴を吸い込み続けていたからか、ナドラガは小さくなっていった。最初は山みたいな大きさだったのに、いまじゃあ、エジャルナの神殿と同じくらいだ。
 あと、もう少し。
 あたしは吐きそうになりながら、ナドラガを睨みつけた。
 一番どろどろしたものが、まだ体の中にある。外からいくら吸い出そうとしても、意志を持っているかのように、ナドラガの体の奥にしがみ付いている。あれを喰わなければ、魔瘴の危機はなくならない。そう、本能が告げるんだ。
 竜族と神獣が力を合わせた連携に追い詰められて、ナドラガは信じられないと言いたげに表情を歪めていた。
 なぜだ。大きな顎が呻く。
『強き者が弱き者を守る理想郷を、なぜ理解せぬか…!』
 強い人が弱い人を守る。確かに正しい理想だし、そうあれば良いと思う。
 でも、弱い人も守られてばかりじゃない。強い人を支えたいし、今は弱くてもいつかは強くなって強い人を守りたいとすら思ってる。弱くても強い人より秀でた能力があったり、弱い人だから出来ることもある。
 ずっと強かったから、守らなきゃって思っていたから、分からなかったんだ。
 独りよがりの神様が、とても孤独に見えた。