仲間との会話

 廊下の足音が行ったり来たりしている。
 今回は出まい、今回は顔を出すまいと考えても、最終的には顔を出してしまうのだ。
 そして驚きと躊躇いを帯びた表情で言うのだ。
 『行ってくれるの?』と

 □ ■ □ ■

 ムーンブルクから南には広大なロンダルキア台地が存在する。
 侵入者を拒み誰も入ることができない山脈が壁のようにそそり立ち、その山脈に降り積もり堆積した雪が凍り付き地面となった特殊な大地だ。わずかな土から寒さに強い針葉樹林と、山脈から湧き出るわずかな水の流れで川と巨大な湖が存在しているそうだが、一年を通して吹雪が止む事はない不毛の大地である。
 このテパ村もロンダルキアを形成する山脈地帯の一部に存在している。
 高原だから当然だが万年雪も積もっているほど寒いし空気も薄い。
 それでも天気が良い時はアレフガルドの島影まで見えるほど、この地は山深く澄んだ空気に包まれていた。
 テパの宿屋のエントランスには薪ストーブが焚かれ、上階に熱気をあげる仕組みになっているが、やはりここが一番暖かい。
 毛皮が敷かれた床に丸太を用いた寒さに強いテパの家造りは、全体的に暖色系で統一されている。テーブルも椅子も木製で使い込まれて光沢の出た美しい品物で、調度品もその室内にあった暖かい木工製品だ。その中に設えられた薪ストーブが極寒の地に似合っている。
 その一角にやけに寒々しい青い旅の服を着込んだ奴と、紅から紺に移り変わる色合いのローブを着込んだおっさんと、まだ幼い金髪の少女がくつろいでいる。この酷く目立つ一行を見つけるのにさほど苦労は要さない。
 僕が階段を下りて彼等に近付くと、帽子に付いたゴーグルのレンズがストーブのガラスから覗いて燃える炎を反射してキラリと光った。顔を上げたロレックスの顔には緊張か警戒が浮かんでいる。
「どうしたサトリ?」
 ロレックスが声を掛けると、リウレムのおっさんも膝に乗っているシクラもルクレツィアも振り返る。
「別に。ただ喉が渇いただけだ」
 カウンターの奥でくつろいでいる女将に茶を頼むと、彼らが座っているテーブルに空いている席の一つに腰掛けた。
「今、これからの事を話し合っているのです」
 リウレムのおっさんが温和そうな笑みを浮かべて目の前に広げた地図を指差した。
 弦のようにアレフガルドを取り囲むように存在するロンダルキア大陸の、丁度真ん中に置かれた指が少し東で止まった。
「足留めされているキャラバン隊の話だと、やはりルプナガへ抜ける為に通らなくてはならない川が氾濫を起こしているようなのです」
 横からロレックスが会話に加わる。
「ムーンブルクの西の関所が水没しているし、予想はできてたがな」
「ロンダルキア台地から時期外れの雪解け水が降りてきているようです。ここまで上流なら大した量ではありませんが、下流になればなるほど副流水が合わさって膨大な水量になりますからね。下流にあった関所が水没してしまうのも仕方ありません」
「どうする?このまま水が治まるのを待つか?」
 そこでリウレムのおっさんが腕を組んで唸る。
 僕は出されたお茶を啜るとその顔を眺めた。
 温和でニコニコしているくせに、嫌に頭が切れるこのおっさんに決して油断してはならないと思っている。僕はそんな人間が大嫌いだからだ。
「短期間に雪解け水による増水で川が氾濫しているのであれば、海の満ち引きを利用して氾濫を鎮める事ができるんです。海が満潮になれば川は溢れますが、海の水が引けば川の水も引っ張られますからね。今度の満月の日にアレフガルド地方の海が干潮になるのでそれまで待つのが良いと思います」
 そこでふと考え込むように動きを止め、記憶を絞り出そうとしているのか両手の甲を額に当てて考え込む。
「でも…潮の満ち引きを操作する道具があったような気がするんですよね…。あぁ、忘れちゃったなぁ」
 ルクレツィアが何か言いたそうにそわそわしているが、それに気付くより早くロレックスが口を出した。
「まぁ、今度の満月で動けるようになるんなら思い出す必要ないさ。山道きつかったからさ、少しは休もうぜ」
「そうですね」
 ルクレツィアは少し視線を彷徨わせてから完全に下を向いてしまった。
 結局声をかけず黙り込んでしまったが、それについて特に指摘するつもりは毛頭なかった。なんせ、僕は喉を潤しに来たのであって、今後の相談にも、仲間の会話にも割り入るつもりはないからだ。

 □ ■ □ ■

 光が差し込む書斎。
 この光はサマルトリアの光だろう。白く冷たい光が、木々の葉の隙間を通って緑に色付いている。その光を浴びてサマルトリア国王が豪華な毛皮のマントを掛け、緑の礼服をまとって立っていた。僕からは逆光でシルエットしか見えないが向かい合って立っていた。
『お前は18歳になるのか』
 僕は礼儀を崩さぬよう形だけでも深々と会釈した。
 ずいぶんと長く感じるような沈黙の中、国王である父親は僕を隅々まで観察しているようだった。探るような視線がざらりと居心地悪さをかき立てるが、父親の発するそんな視線は馴れていた。この視線以外を向ける事など、どれくらいあっただろう?
『パシェラが見たらさぞや喜ぶことだろう』
 視線が和らいだ気がした。
『お前の母親は本当に病弱で、お前を生んですぐに逝ってしまった。お前もそんな親の血を受け継いて、いつ死んでしまうか分からないほど病弱な子だったのに…立派に、健康に育ったものだな』
 その視線の和らぎを素直に喜べなかった。
 母親は非常に体の弱い人だったのだ。それでも父親は母親に一目惚れして恋文を毎日送り、花を持って玄関先に立ち、病弱だからと及び腰になる母親の両親と母親を説き伏せたのだ。たとえサマルトリアの恋愛伝説として語り継がれていようとあの父親からは想像できない事で、作り話だと今でも疑っている。
 父親は再婚し、マリアという異母妹が生まれたからだ。
 純粋な愛から来ているなら、再婚などできるはずがない。
 しかし、僕が反論できる立場ではなかった。
 僕は病弱な子供だった。熱を出せば高熱で、咳込めば血を吐き、吐きだせば嘔吐反射で何も受け付けなかった。発疹は体を真紅にするほどに浮かび上がり、脱水からくる喘ぎ声が一晩中続くことだってあった。ラダトームから薬草を扱う医師を招かなければ、今では生きてはいない。
 半年に一つは棺桶を新調していた。
 そんな僕を支えるほど、この父親は、いや、男とは強くはできていなかったのだろう。
 城で開催した催し物で呼び出された旅芸人の花形の踊り子は、太陽に例えるような美しく健康的な人であった。間もなく父親と再婚した女性は一年足らずで子を産んだ。それがマリアだ。
 既に国王の妻であるのに、僕に露骨な敵対心を露にした。娘に王位を継がせたいというのが、目に見えて分かる。
『お前が20歳になった時、正式に王位継承権を与える』
 体力が付き健康的になった僕は見る見る頭角を現した。
 魔法の知識は神官長を凌ぎ、武術の腕は騎士団長を超えた。僕は城中の全て者のスケジュールを把握し、彼らに合わせて動いた。決して僕の都合など口に出さず、全体の意向を摺り合わせて指示を出した。今では賢王の期待すら持ち上がっているほどだった。
『…要りません』
『何?』
 温和な顔で近付いて取り入ろうとする計算高い者の顔、柱の影でどちらのお世継ぎを支援するべきか協議する声、母親という後ろ楯のない僕を哀れむ視線、そのどれもが吐き気がするほど汚らわしい。廊下を渡る足音一つが、儀礼の文句も挨拶でさえ、すれ違う者の動作一つまでもが嫌悪すべきものだった。
 そして、権力に目がくらんだマリアの母。
『私は王位継承権など要りません』
 角砂糖のように蕩け、酒に酔うような微睡みを見みせる荘厳華麗な城。僕はそこから出る準備を着々と進めていた。そう、砂糖の甘さも酒の酔いも城のすばらしさも理解せぬ内に、父親が息子が健康になったと一安心する前から。
 ……
 ………
 鼾が響いてくる。
 例えようもなく煩く、死者すら起こせるに違いない。
 目を開くと半月が窓枠の隙間から光を投げかけている。半月の光は澄み渡り、星は数えるのも億劫なほどの数が瞬いて川を作って流れている。竜の瞳と呼ばれる金色の星が、ちょうど視線の先で強い輝きを放っている。
 光を手で遮ると、闇に先程映っていた世界を思い出し呟いた。
「夢…か」
 テパの冷たい空気はどことなくサマルトリアに似ている。ムーンペタから共にラダトームを目指す事になったリウレムが連れてきたルクレツィアは、マリアと大して変わらない年齢だ。夢に見てしまうのも仕方がないだろう。
 しかし…。
 布団を改めてかけ直して響く鼾を背中で聞く。床に手を触れれば絶対に振動しているだろう、太く低く響く鼾だ。迷惑以外何者でもない。就寝時間を早めに設定しラリホーを自らに掛けなくては、翌日に疲れが残ってしまう。それだけは嫌だからと囁かな対策を講じているが、夜中に目が覚めては全てが水の泡である。
 枕元に置いていた懐中時計を見ると、まだ深夜に入ったばかりの時間を針が指し示している。まだ、明け方は遥かに遠い。
 確か一階の薪ストーブにかけられた湯は、使っていいと女将が言っていた。飲み物を飲むためのコップも紅茶も砂糖もミルクも道具一式が用意されていた。
 何か暖かい飲み物でも飲むか。
 僕は軽く法衣を羽織ると、鼾の五月蝿いロレックスの横を足音を潜めることもせず歩き出す。
 ベットくらいしかない部屋だが、ロレックスのベッドの横にはロレックスの荷物が置かれている。荷物と鋼鉄の剣を跨ぎ、僕は廊下へ続く扉を開いた。
「きゃぁ!」
 きゃぁ?
 僕は廊下を見回すと、扉の斜め前にルクレツィアが立っている。
 僕の胸辺りまでしかない幼さの残る少女を間近で見下ろすと、その溢れて収まりきれない金髪に白い顔も赤金の瞳も隠されてしまって表情など窺い知れない。それでも胸元できつく握りしめた両手からは緊張が、震える肩からは恐怖が滲み出ていた。そんなルクレツィアに僕は声を掛けざる得ない。
「何か用か?」
「あ…」
 下を向いていた顔が僅かに上を向く。それでも視線を合わすにも、表情を知るにもほど遠い。
「用が無いならリウレムのおっさんの部屋でさっさと寝ろ」
 あのおっさんが幼女に手を出すとは考えられなかった。そんな事をしようとした日にはしびれクラゲに永眠させられてしまうだろうから、相部屋を許可した訳だ。まぁ、拾ってきたのはおっさんな訳だし面倒を見るのは当然の事だろう。
 それでもルクレツィアは動かず、手を握りしめて僕の前に立ち続ける。
 すると消え入りそうな声が響いた。
「月の欠片を取りに行くの」
「月の欠片?」
 金髪が頷くような形で波打ち、月の光の中で星を無数に宿した。
「月の欠片は空からの贈り物。海を満たし、海を枯らせる力を帯びた月の分身。この村の南にある満月の塔にあるの」
「ふむ…」
 さっき言いかけたのはこの事だったのか。
 確かに海の満ち引きを操作できるアイテムがあれば、川の氾濫を操作する事もまた可能かもしれない。しかし次の満月で海の潮が引く事で川を渡る事ができるならば、余計なリスクなど負う必要などない。
「誰か一緒に来てくれるかな…って」
 リウレムのおっさんは絶対に止めるだろう。
 シクラは常におっさんと一緒だ。
 僕はよほど高圧的に映るのかルクレツィアは避けていた。
 ルクレツィアにとって、一番頼みやすい存在がロレックスであったのだろう。
 僕は当然そんな面倒な事などしたくはない。
 だが…
「一緒に行ってやろう」
 金髪が跳ね上がり、赤金の瞳が驚いたように見開かれていた。
「行ってくれるの?」
「待っていろ。支度をしてくる」
 月の明かりに映える針葉樹林の色の法衣を羽織り、剣を括りつけ盾を剣の柄に引っ掛けると、ランプを片手に外を見遣った。月が白銀に照らした雪の海原の上に優雅に浮かび、海の下には漆黒の闇を宿した森と大地がある。不吉な肌寒さを感じる暗い世界を見て少し笑いが込み上げた。

 満月の塔への行き方はルクレツィアが知っているようで、彼女が導く方向に従って森を進んでいく。
 真っ暗闇に柱のようにそそり立つ針葉樹林の幹を抜け、歩く振動で雪につもった粉雪がはらりと光りながら落ちる。吐く空気は吐いた途端に輝く氷となり、ランプに差し掛かると雫となって滴り氷柱となる。雪を踏み締めて行く事で足音は消えるが、匂いや気配を消せるほどの余裕はどこにもない。
 極寒の中、幾度と無く魔物と遭遇した。
 正直、魔物など敵ではないがルクレツィアを保護しながらとなると難しい行進である。
 リウレムのおっさんやロレックスの力の凄さを改めて感じさせる。
 旅の中、リウレムのおっさんは、魔物との戦闘を回避する術をよく心得ていた。魔物の好む好物の食物を熟知し、足跡の新しさ糞の数や爪などの研ぎ跡から、魔物の縄張りや現在居る距離と方角を割り当て、その方角を避けたり迂回して戦闘を避ける事をやって退けたのだ。だから旅中での戦闘など、おっさんと共に行動する頃には、一日片手で数えるどころか戦闘もない日すらあった。
 逆にロレックスは戦闘で抜群の機転の利かせた。戦闘の全体を見回し、一人で複数と渡り合う術を熟知していたし、仲間に害が及ばぬ警戒を決して怠らず実行してみせた。たまにヘマをやらかしてピンチに陥るが、そんな時にあいつは必ず僕に指示をするのだ。その指示に逆らえば全滅の危険すらあるから、流石の僕も逆らうことはできなかったが、確かにあいつは人を護る術を心得ていた。
 全く…
「ここだよ」
 目の前には水面に映る月が揺らめくそれほど大きくはない、ちょっとした村がおさまる程度の湖がひっそりと存在していた。
 その湖に躊躇いもなくルクレツィアは足を踏み入れた。
「…!!」
 目の前の風景が激変した。
 ルクレツィアが湖に足を着けた瞬間に、目の前に巨大な塔が現れたのだ!無数のガラスの円柱が水面から伸び上がり、まるで水中から月を見上げているかのように、光を滑るように落とす柱もあれば螺旋のように屈折させ水面のように揺らめいて、この世界のありとあらゆる屈折をもって輝いている。湖は、まるで収穫を迎えた黄金の小麦畑のような生気に満ち、眩しい銀のトレイのように慎ましやかにその数々の円柱が集まってできた塔を乗せていた。
「ここは満月の塔。ムーンブルク初代国王が作り出した、神聖な祭壇なの。同時にムーンブルクの王族が王位継承を認められるための月の欠片を得る場所でもあるの」
 王位継承の言葉に一瞬身を硬くしてしまう。
「じゃあ、月の欠片とはムーンブルク国王の証なのか?」
 うん。小さい体が大きく頷いた。
「月の欠片を得る事ができるのは、そしてこの満月の塔の結界を解く事ができるのはムーンブルクの王族だけなの。ムーンブルク王家はミトラ神に仕えた神官の末裔だから、生まれつき魔力が優れているんだって」
「僕も中に入れるのか?」
「うん。ルクがいるから大丈夫」
 そう言うと湖をどんどん歩いていってしまう。
 よく見れば湖の水面のすぐ下に輝くガラスの円柱が無数にのびている。踏み込めば靴底を越えぬ水しかなく、波紋を丸く広げながら僕はルクレツィアに従って輝く湖を歩いて塔にたどり着いた。塔に人が入れそうな隙間はなく、ただひたすらに高く円柱が伸び上がっている。
「ルクは金髪だから右の親指」
 右手の親指を立て一番太い柱にくっ付けると、呪文を唱えるような独特の振動数を持つ声が湖の水をさざ波立たせる。
 幼い印象など吹き飛ぶような、華奢な首が発するには重厚で威厳に溢れるほどに声が凛々と響き渡った。
「陽であり右であるサラマクセンシスを継ぐ者。ルクレツィア・チュローズ・ムーンブルクを、塔よ、迎えよ!」
 瞬きを一回した時にはそこは既に塔の中だった。いや、四方八方が柱で囲まれた空間の真ん中に僕らは居て、一分の隙間もないほどに寄せあった柱に囲まれている。入り込んだというよりも転移されてここに連れて来られたような、いや、ここは常識の外だ。超自然的な世界だ。何も考えずにいた方が遥かに楽だろう。
「入った!」
「お前、ムーンブルクの王女なのだから入れて当然だろう?喜ぶな」
 嬉しそうにはしゃぐ背中を見遣ると、その奥の空間に目が離せなくなった。どこからか流れ込むせせらぎの中にガラスの彫刻が安置されている。
 最も年齢永き老人は刻まれた皺一つ一つが威厳と尊厳を、長くのばした髭が優しさを滲ませエメラルドの枝の杖を持って堂々と構えている。目麗しい水のように流れるような長髪と法衣を着込んだ青年は、サファイヤのブレスレットを填めて毅然とした態度で立っている。トパーズの豪華なネックレスを掛けた貴夫人が見た事のない豪華なドレスを身に纏って慎ましやかに控えている。腰布と革細工の武具を纏った巻毛の武人は、その手に無造作に提げたヘマタイトの短剣を今にも振り翳しそうなほど雄々しく存在している。少女はその凛とした顔にルビーを飾った輪を無造作に下ろした波打つ髪に絡ませ、今にも踊り出しそうに佇んでいる。彼等5体の彫像が輪を描いて配置されている。
 その5体の彫像の輪の中心にどことなくルクレツィアに似た男性が、銀盤を捧げもって立っていた。
 しかし僕が一番驚いたのは輪の外側で祈るようにアメジストの水晶を持つ男性。
 アメジストの水晶を持つ男は壮年を迎える年の頃だろう。頬骨もやや出始めている細面に柔らかな癖の髪が肩より長く掛かり、どっかの誰かが着ている外交官と同じ型のローブを纏っている。その伏せられた瞳には強い憂いがあり、引き締めた唇には強い決意があった。
 最近見かけるようになったその真剣な表情。年齢こそ遥かに年上だが…
「…おっさん?」
 ルクレツィアに確認してもらおうと探すと、ルクレツィアは銀盤の男性の前に立っていた。危ないかもしれないという危惧ですら、神聖な儀式の時に降りる独特の空気に飲み込まれてしまっていた。
「父様、ルクは未熟だけど、サラマクセンシスの神官の座を引き継ぐよ。どうか、安らかに…」
 銀盤をルクレツィアが持つと、彫像は一瞬強い光を放ってルクレツィアの彫像になった。鏡合わせのように向かい合うルクレツィアの間にある銀盤には、乳白色の真ん丸い小石がいつの間にか置かれていた。
 その小石を手に取ると、ルクレツィアはにっこり笑って振り向いた。
「見て見て!月の欠片だよ!」
「あ、あぁ」
 呆然とする俺の背後で、バタバタっと気配がわき上がった!
「ルクちゃん!サトリ!」
「やはりここに居られたのですね!」
 振り向けばロレックスとリウレムのおっさんがすぐ後ろまで歩み寄ってきていた。ロレックスは普段通りの顔つきだが、リウレムのおっさんは初めて見せる焦りの表情で腕に絡み付いたシクラを振り落とさんばかりの勢いで僕に詰め寄った。
「サトリ君!たった二人で深夜に村の外に出るなんて…、なんて無謀な事をするのですか!?私は君がそんな事をする人だとは思いませんでしたよ!」
「ふん。おっさんは外交官にしては見る目がないのだな」
 僕が腕を組んでおっさんの意見を撥ね除けると、ロレックスが『そうかぁ?』と殺気だって膨らんだシクラを押さえつける為に隣に並んだ。
「確かに海の満ち引きを操作できれば早く旅を再開できるぞ。でもよ次の満月で再開できるなら行動を起こす必要なんか特に無いはずだぜ?お前、無駄が嫌いなんだろ?そんな事しようものなら真っ先に反論するんじゃないか?そうじゃなくたって『お前らだけで取りに行けばいいだろ?僕はここに残る』とか言うんだろうし…」
 妙に僕の口を真似た言い方が癪に障る。
「そんなこと、関け…」
「ルクが我が儘言ったから…サトリさんが手伝ってくれたの」
 ルクレツィアがスカートの裾をきつく握りしめて、震える声で皆を見回した。赤金色の瞳からは今にも涙が零れそうなほど潤んでいるのを見かねて、リウレムがハンカチを差し出す。そのハンカチも受け取らず、健気に涙を堪えて言葉を続ける。
「皆の役に立ちたかったから、月の欠片が潮を操る力を持っているのを教えようと思ったけど要らないって事になって……、それでもルク、皆の役に立ちたくって…」
 ハンカチを受け取れば、涙が出てしまうだろう。
 ルクレツィアなりの頑張りが、甘える事を拒否して皆の負担にならぬようにしているのだ。
「私は…」
 言いたい事は山とあるだろう。おっさんの事だ『ムーンブルクの最後の王族がこのような危険に飛び込んではいけない』とか『ムーンブルクの外交官である私が貴方を守る役目なのです。相談の一つしてほしい』とか言いたいに違いないだろう。
 だがリウレムは言いたい言葉を全て飲み込んで、ルクレツィアの傍から離れた。その表情は憂いと困惑が入り交じって、おっさんがひどく混乱しているように見えた。
 重い沈黙が落ちる前に、ロレックスの脳天気な声が響いた。
「ま、何ともなくて良かったよ。サトリも一緒だから別に心配してなかったが、リウレムさんの慌てぶりが凄まじくてさ。シクラに気付けの神経毒入れられた時は飛び起きちまったよ」
「ロレックスの寝起きの悪さがいけないんだヨン!普通ベットから落ちたら目が覚めるもんじゃないのかヨン!?」
「そうかぁ?目が覚めないのが普通じゃねぇか?」
「じゃないヨン」
 …
 こんな脳天気なやり取りを聞いていると、ふつふつと怒りが湧いてくる!
「全く!イライラするな!見ろ!僕とルクレツィアはここまで来る間に、魔物に襲われて撃退するために放ったベキラマで煤だらけだ!それなのにお前らときたら服も大して汚れてもいないじゃないか!大方、おっさんが魔物を避けるよう道筋を立てて、ロレックスが魔物を撃退してたんだろうが、僕らは魔物との戦闘に不馴れなんだぞ!どうして必要な時にいないんだ!?」
「それだったら尚更叩き起こしにこいよ!」
「そんな面倒したくない」
「戦闘に不馴れで大変なら、起こす方が面倒じゃないんヨン?」
 呆れるロレックスとシクラから目を逸らすと、僕らのやり取りを見て笑いを堪えているルクレツィアの姿がある。その金髪に、笑みがよく似合う。
 その横でリウレムのおっさんが困り果てたように苦笑いを浮かべていた。
「全く…私も現役を引退しなくちゃなりませんかね」
「おっさんが引退するのはまだ早いだろ」
 はは…と力なく笑って背後にあるアメジストを持つ神官の彫像を眺める。
「そうかもしれませんね」
 塔の中に差し込む光に紅が混ざりはじめ、青い空間に華やいだ色合いを投げかけはじめた。夜明けを意味するオーロラの色は、虹色のようで青から淡い薄紅色に移り変わり酷く甘い空気に感じる。夜明けを迎えているというのに、疲労感はあるというのに、まるで夢の中のように曖昧で充足感がある。
 城の中では決して感じ得なかった。
 ここが僕の居場所になるのなら、悪くはない。