船出

「出発しよう」
 長老が出航を告げる言葉が木霊のように異口同音に響き渡った。
 甲板に立っていた人々は言葉になどできぬ痛切な思いを胸に秘め、故郷を見た。これが最後になると、誰もが知っていた。

 ……神話は語る。
 この船によって逃れ来たりし者達こそが、今日この世にある我々の遠い先祖であると…。

 □ ■ □ ■

 ロンダルキアの吹雪の中を一人歩いて行く。
 私が呟く神聖な神を讃える祝詞が吹雪の中に潜む邪悪を退け、天と地にあるものの賛美の歌に吹雪く風も雪も避けて通った。私が通った跡に残る足跡は、祝詞や歌が届かぬと知ると襲いかかるように邪悪と吹雪がかき消した。
 私が顔を見上げると、吹雪の隙間に何かが見える。真っ白で冷たい乱舞に凍り付いていた目にそれを捉えると、寒さで疲れていた私に若干の余裕が浮かんだ。と、私は歩く速度を上げた。単調な世界に目的地が現れると、人は意外に進めるものである。
 吹雪く雪に黒く霞む塔は巨大なの塔。土台から高くのびる二つの塔が、一番高いところで一つの通路で結ばれる変わった造りである。それでも千年の死の大地と称される吹雪やむ事なき大地に、一体いつ誰が建てたかは分からぬほど気の遠くなる歳月を経る堅牢な建物であった。
 建物の入り口だろう扉は冷たい鋼鉄製で、生身の手で触れれば凍り付いた扉に生皮を剥がされてしまうだろう。それでも扉に施された彫刻は見事だ。緑に溢れ水も豊かで、広大な大地と山にむき出しで聳え立つ鉱脈それらが全て鋼鉄製の扉に刻まれていた。葉の一枚のその奥に風景があり、雪に目図まりしないのが不思議なくらい、その扉は厚く、また奥行きがあった。その装飾の中を唯一、ルビーで加工された火の鳥が舞っている。そのルビーで作られた鳥の力で、この扉は凍り付くほど冷たいが、決して閉じられることはなかった。
 私は分厚い獣の皮で作られた手袋をはめた手で扉を押すと、人一人分開いた所で中に入った。
 薄暗い空間に、無限に続くだろう赤い絨毯と長椅子が整然と並べられている。吹雪で天井にまで迫る高い窓が唸り、室内に暖かさと明るさを灯すロウソクの炎を揺らした。突き当たりの祭壇まで歩み寄り、ミトラ神のステンドグラスに深々と祈りを捧げるため膝を付く。
「戻ったようだな、ハーゴン」
 祈りの指輪を組んだ手に挟んだ所で手を止め、私は不粋な声の主を振り向きもせず怒気を殺した声で呟いた。
「例え何者であろうと、重大な出来事が起きようと、ミトラ神に祈る時間を妨げるな」
 声の主の押し殺すような含み笑いが響くが、これ以上の邪魔をせず私の後ろで黙って待っているようだ。動きもせず、ステンドグラスの光とロウソクの揺らめく明かりに影だけが空間の空気を動かした。
 私の関心はすぐさま声の主から離れ、我が信仰する神への祈りに集中する。組んだ手は輪となり繋がり、地面の冷たさが足から世界へ広がってゆく。神が創造し賜うた恩寵に満たされし世界が、閉じた目の暗黒から極彩色を伴って無限に広がってゆく。その広がりは集中に欠け広がるだけ広がって祈りとはならず、再び己の小さな手に握られた指輪の存在を意識し、その恩寵の感動と感謝の意志を己から引き出す。極彩色は光となり、暗黒の中を太陽のように昇る。その先に、神がいる。
 全能なるミトラが…。
 祈りを終えて目を開き、背後を振り返る。
「何か用でもあるのか?」
 背後の柱にもたれかけるように立っていた存在が含み笑いを浮かべながら、その巨体を私の方に向ける。ステンドグラスの光の影響も受けず暗闇の中で独自に輝く黄金の体毛が流れる水流のよう尾まで輝き、ひねこびた角は鋼鉄よりも硬い質感でありながら象牙のように複雑な模様を浮かばせる芸術品のように雄々しく、翼は鏡のように周りを反射させ目まぐるしい迷彩が美しく目に映る。まるで彫刻が形になったように美しい巨体ではあったが、それは人の目を欺く姿に過ぎないと私は知っていた。
 彼こそは神話の時代にミトラ神に退けられし悪しき精霊の一人である。
 名はベリアル。悪魔とすら呼ばれる悪しき精霊の中では珍しく破壊の衝動と悦楽の行動に対して堪える事を知り、紳士である対応もやってのける。しかし罵倒と呪詛と憎悪に満ちた言葉でしか神を表さず、心の中では常に混乱と破壊と狂気を望んでいる邪悪さを持っていた。猛獣のような悪魔の方が対応がいかに楽だろうと思うほどだが、そう思う己の心も看破されていると思えば実に気兼ねない存在であった。
 べリアルは意地悪い笑みを受けべて、焦らすように顎を擦った。
「ミトラ神の神官が受けた神託が現実のものとなったな」
「なるほどな。私が神託が実現し、神が我々を見放されたと絶望しているとでも思ったのか?」
 ベリアルがさも楽しげに肩を震わせた。
「なぁんだ。意外にしっかりしているじゃないか。それでも伝わるぞ、お前のその暗い衝撃。人は罰せられるのか?この世界はそれほど汚れ、ミトラの失意を買ってしまったのか?ここまでくる間にどれほど、吹雪の隙間からお前を慕う信者の声が、不安と疑問と答えを求める声に耳を塞ぎたかったことか」
 ベリアルが猫のようにしなやかに緩やかに、祭壇の一段一段を上がる。
 その異様に優しい言葉がねっとりと光の清々しさを淀ませ、微睡みさせる。
「いい加減、人など導く存在になるのを辞めたらどうだ?弱者の如く無知なる者の如く迷い、全ての可能性を余さず掴んで、それで安心したらどうだ?」
 まるで吹雪の中で誘う死の甘さのように、今の厳しい現実から私を死に至らしめるほどに堕とそうと囁く。
 昔ならば心の片隅に浮かんでは消えていただろう。
 だが、今の私にはそれはない。
 それを言葉で伝えるよりも早く、私はサイクロプスの頭蓋骨も粉砕する巨大な棍棒を軽々と振り上げてベリアルの脳天目指して振り下ろした。もちろんべリアルも簡単に軌道を見破って素手で棍棒を受け止める。しかしその表情は愉快で仕方がないように笑って歪んでいる。
「べリアル。貴様のその言葉のお陰で私の決心がまた揺らぎのないものとなるのが、全く口惜しくてならんわ」
「光栄の極みだ」
 翼を広げて笑みを浮かべると、風もなくその巨体が浮く。
「いつまでもがき苦しむ事に耐えられるかな?」
 そして音もなく、あの極彩色が漆黒に溶けて消えた。と、同時にバタバタと駆け寄る足音が礼拝堂に響き渡る。
「ハーゴン様!!」
 声をかけ歩み寄ってきた者達は、皆が無表情な仮面を着け、法衣も防寒に優れた素材である法衣を纏っている。声と体格以外で見分けなどつかない出で立ちである。
 それもそうだ。
 ミトラ教はこの世界の起源から存在する全能なるミトラ神を崇拝する宗派である。この世界の礎を『ことば』と『理』と『ミトラの恩寵』であることを理解し、恩寵へ対する祝福と感謝を良しとする。また、ミトラ神のことばと意志によって生まれた『木』『火』『土』『金』『水』の属性を讃える。
 人もまた『ミトラの恩寵』より生を預かった者として、援助と安寧を与えることを使命とした。
 世界で最も普及せし最も巨大な宗派である。
 しかし、私が大神官を勤めるこの宗派は、少しだけ変わっている。
 この世界全ての行いを認める事。
 ミトラ神が生み出したこの世界には聖と邪、善と悪があり、創造と破壊、生があれば死がある。人が良いと思うこと以外にも、忌み嫌うものも数多く存在した。その不となる存在もまた大いなるミトラ神の生み出せしものと肯定し、受け入れること。
 そう、我らは邪悪すらも認めてしまった宗派である。
 しかし、ベラヌール総本山におられる法王はそれを許さなかった。早急に異端の烙印を押されたかと思えば、根絶せんと行動してきたのだから。
 私の考えは多くの宗派の多くの者に受け入れられた。なぜ完全なるミトラがこの世界に邪悪をも生み出したのか?そんな疑問や不完全さを予測させる不安を払拭したからだ。賛同したものは身分を隠し、素顔もなにもかも隠して参加する。それが仮面と法衣の意味である。
 その仮面がずずいっと寄った。
「また、ロンダルキアに単独で舞い戻ってきたのですか!?あれほど危険だから止めるよう、皆雁首そろえて懇願しではありませんか!!」
「ルーラが使えんのだ、仕方がなかろう。足があるから足を使ったまでのことだ」
「ロンダルキアの洞窟の魔物は危険なものばかりですよ!それにロンダルキア台地だとて、魔物だけでなく吹雪で遭難してしまうことだって十分にあり得るのです!ご自身のご身分を十分に理解していただかないと困ります!!」
 うぅむ、困った部下達だ。
 まぁ、私がこの宗派の大神官であるから私に死なれては困るという考えは当然理解できる。しかし、じっとなどしていられようか。この世界は確実に神託にあった内容が進行している。更なる厄災が降り注ぐ事になろうに、部下に任せてこの地に留まって成り行きを待つなど我慢ならん。
 昔一時的に旅路を共にした若者に『あんたはせっかちだ』と言われた。
 分かる。自分がせっかちなのは分かるのだ。
 だが、のんびりなどしておられん!今できる事はをしておかねば安心できぬのだ!!
「それはそうと、お前達には『イーデンの書』と共にいくつか課題を残していってしまったが、進んでいるか?」
「進んでいるには進んでいるのですが…」
 神官達が互いに戸惑うような様子で互いの顔を見合わせる。
「我の監視下というのが気に入らんようでな」
 のそり、と足音が低くとすぐ背後、振り向けばその体毛の余熱が感じられそうなほど近くに、漆黒の天鵞絨さながらの滑らかな体毛に覆われた獣が翼を畳んで立っていた。その血を溜めているかのような深紅の口から覗く牙はサーベルのように鋭く自分の姿が映り込んだ。
「バズズ」
「せっかちで心配性な大神官が与えた仕事が捗る事は良い事だろうに。…なぁ?」
「そう言って破壊神復活の儀式が人の手で進められているのを楽しんでいるのだろう」
 私がそう断言すると、バズズはその漆黒の体毛を嬉しそうに波立たせた。
「その通りだハーゴン。知恵を我が授けても、人の手で行う事こそが醍醐味よ。闇が狭間で力を振るう事は容易い、しかし面白みがない」
「精々楽しく仕事をしてくれたまえバズズ殿」
 そこまで言われれば私は当然面白くもない。皮肉も彼の面白みに加えるスパイスだと知りつつも、私は皮肉を込めて言った。
 バズズはその猿のように長く細いしっぽを虚空に揺らすと、皮肉に歓声で答えた。
「勿論だ。我もべリアルもアトラスも楽しんでおろう。いや、確実に楽しんでおる。さぁ、今の状況を自分の目で確かめるのだな大神官殿」
 漆黒の体が背を向けただけで闇に溶ける。
 闇も馴れてしまえば意外に嫌なものではなかったが、それでも己と全く異質な者に変わりはない。私はため息に疲れを溶かして吐き出すと、神官達を見回した。
「祭壇へあがる」

「世界はどうなっておるのですか?」
 私が長く単調な階段を上っている最中、背後に従う神官が訪ねた。
 このロンダルキアは陸の孤島である。巨大な山脈地帯に囲まれ、侵入口は山脈地帯の最も脆き所を数千年の雪解け水が穿ち抜いたただ一つの危険な洞窟である。洞窟を抜けたとしても極寒で無慈悲な大地がそこにある。この塔と東にあるミトラ正教の監視者の祠しか、人の住むべき場所は存在しない。当然人が通る道など整備されてはいないのだ。
 この塔にいる者は世界で何が起きているか知る事ができないでいる。
「意外に静かだよ」
 私は笑って白く吐き出された息の奥、吹雪に白く霞む山脈の向こうを見遣った。
「どの王国も静観を決め込んで全く動かない」
 被害を受けズタボロになった王国に、救いの手を差し伸べる事もできないとは…ため息に落胆が混じる。
「思いの外ムーンブルクの外交官の動きが迅速だったのには驚いた。キメラの翼ですら未だに正常に働かないのに、すでにラダトームに外交官が一人到着しているそうだ。ローラの門の封鎖をサマルトリア王子の書状で解放させ、サマルトリアとローレシア両国と交渉が始まっている」
 どれほどのやり手が指揮しているのだろう? 私は好奇心で口元が綻んだ。
 おそらくラダトームへ向かった外交官こそがサマルトリアの王子の書状を取り寄せたに違いない。ローラの門が開放されたのは最近だ。ローラの門の解放を交渉していては、これほど早くラダトームにはたどり着けまい。ローラの門が閉じられている状況でラダトームへ向かうなら、テパから砂漠を踏破してルプナガに行かねばならない。
 最も距離的に遠いラダトームに先行して行った事で、ラダトームとローレシアとサマルトリアが同時進行でムーンブルクとの交渉に臨むことになった。足並みを揃えるという事だけでなく『一国が動くなら他の二国も動かざる得ない』という状況に持ち込める。同時に交渉するという利点を最大限に生かした交渉術である。
 なんと強かな外交官であろう。
 まるでかの外交王、調和王と呼ばれたリウレム・ブルクレット・ムーンブルクのようではないか。
「…っはは。そんな事はないか」
 外交王、調和王、神託の神官。そう呼ばれていたリウレム王は勇者アレフの時代の人である。今、真に会って協力を請い、真実を話してほしい人物に焦がれるあまりそう感じられてしまったのであろう。それともミトラより神託を受けるミトラの両拇指の末裔、最後のラルバタスという神に近きその尊い存在に憧れを持っているのかもしれない。
 私が笑うのを、仮面で顔は見えないが不思議そうに神官が見ているようだ。視線が彷徨っている。
 単調な階段の風景は私の記憶の引き出しを滑らかにした。
 この塔に籠ったのは宗教弾圧を受けたからであったが、闇に住う悪しき精霊達と交流する事になったのはつい最近のことであった。
 事の発端は私がとある予言書を手にした事から始まる。
 予言書の名は『イーデンの書』。
 その予言書は闇に流され、時には権力者の道具となり、魔法使いの研究の対象となり、法王の書庫に厳重に保管されたかと思えば、いつの間にか忽然と失われて民家の物置きに転がったりしていた。数百年前に書かれた予言書にも関わらず、羊皮紙は虫食いだらけで水に浸かったのかインクは滲み、読めるものなど全体の3分の1有るか無いかなお粗末なものである。それでもかつて繁栄した精霊の世界の崩壊とムーンブルク王国の創立の経緯、そしてこの時代の厄災の予言が書かれている。
 その本を手にした時、私は震えた。
 予言はこの世界の崩壊を謳うような恐ろしい内容であったからだ。
 それでも世界が滅ぶだなんて馬鹿馬鹿しいと、この予言書を見つけた時は嘲笑ったものだ。たとえ神託を与えるミトラの両拇指の末裔であるムーンブルク王家でも、屈指の神託を受ける王の直筆の書でもあっても信じられる訳がなかった。ましてや内容が内容だ。神話と言っても良いような内容から始まり、この世界の崩壊を示す力が働く兆しなど見えぬほど世界は平穏だった。
 だが、ミトラ教の信者にとってムーンブルク王家、特にミトラ神の両拇指の末裔である神官としての力を引き継いだ存在が示す神託は正しくミトラの言葉に違いない。
 私は半信半疑、半信の全てが信仰心という気持ちでこの神託の対策を見いだそうとした。
 その最中に出会う事になったのが、べリアル、バズズ、アトラスという大物といえる悪魔達である。
 最後の階段を上り切るとアトラスの巨大な背中が振り返り、大きな一つ目と角が闇を放つ黒い光にくっきりと顔の陰影を分ける。この言葉も咆哮もしない無口なる巨神の王があぐらをかいて座る先に、複雑に描かれた巨大な魔法陣が無気味に輝いている。
 魔法陣の反対側にいたべリアルとバズズが私を認めて、闇を挟んで暗く微笑む。
「この魔法陣はイーデンに通じている」
「繋がったのか」
「勿論だ。我々を誰と心得るか」
 バズズが自信に満ちた声を響かせるが、言葉を続けるために咳払いを一つする。
「だが、安定には時間がかかる。世界が安定するか、もっと強力な力を導くか、方法の選択はそなたに任せよう」
 私は一つ頷いて魔法陣を囲むように座る悪魔達を見回した。
「確認のために言っておく。私は世界を救う為に破壊神を復活させる」
 べリアルが自信たっぷりに微笑んで応じた。
「お前も理解しておくのだな。我々は世界を滅ぼす為に破壊神を復活させる」
 私は深々と噛み締めるようにその言葉を心に留めた。
 破壊神の復活を求める真反対の理由。
 そんな理由を秘めた者達が乗り合う船は、厄災という大海原を出た。どんなに危うい賭けだとしても途中下船など命取りである。
 ミトラに追放されしものたちは知っている。戦と闘争を、裏切りの味を、迫害の辛酸を知っている。この世界は長くにわたる平和に知らぬものばかりであろう。無知というものがこれほどまで劣勢に追い込むものなのだろうか、もし戦えば滅びるのは我々に違いない。
 静かに、静かに、ミトラに追放されたものたちの復讐が始まろうとしている。
 私は目を閉じて己の心のざわめきを鎮める。
『最後の恩寵が与えられる』
 予言書は、そう記されて終わっている。