ひとときの休息

「あづぃ…」
「じょ…蒸発するヨン…。でも愛するリウレムの為なら我慢ヨ〜ン」
 木の下で、サトリとシクラがぐったりとのびている。そんな二人の姿を見て、まぁ、分からなくもないと俺は思う。
 サトリは緑の法衣が表す通り、緑と宗教と調和の王国サマルトリア出身である。ここよりも遥かに北の冷涼な気候しかない王国の出身者が、この遥か南の熱帯雨林の王国デルコンダルの気候に唸りたくなるのは当然理解できる。かつてローレシアの初代国王アレフも、冷涼な風土のアレフガルド出身者であるが故にデルコンダルの熱気に文句を並び立てたらしいし…。
 とうぜん海の生き物であるしびれクラゲのシクラも参っている。湿度の高い空気と強烈な太陽で蒸し焼きにされているようなもんである。愛だ何だと叫んではいるが、気合いでどうにかできるレベルじゃないんじゃないかぁ?
「だから宿屋で待ってろって言ったじゃないか」
 宿屋はそれなりに通気が保たれ、風通しも良好である。
 俺は外がこんなんだから宿で待ってろと勧めたんだが、この一人と一匹は聞く気を持たず。もともと温暖で南からの海風で暑い季節の多いローレシア出身の俺と、四季があり暑い季節も寒い季節も存在するムーンブルク出身者二人という、暑さに免疫のある者達の外出に付いてきてこの始末である。
 俺のため息まじりの声にサトリ汗ばんだ金髪が気怠げに上を向く。そこには我が侭な護衛の対象が、暑さに汗と嫌気がしたたって唸っている。
「砂漠の暑さを経験しているから大丈夫だと思った」
「阿呆か。砂漠と違ってここは島国だ。熱気は砂漠よりマシかもしれんが、湿気があるぞ」
 俺の呆れにもすぐさま噛み付いてくるようなサトリが暑さに臥せった。
 そんなサトリに俺は苦く笑った。
「まぁ、暑さは良いが湿気は駄目って人間はたくさんいるさ」
「く…。どうしてこんな暑苦しい場所に国なんか建てるんだ?ここの住民は良く死なないな。畜生……、暑くて何もできん」
 サトリの悔しそうなうめき声を背後に聞きつつ、俺はデルコンダルの町並みを見回した。
 デルコンダルは島の内側に入り込んだ入り江に隣接する巨大な港を持った王国だが、ほかの港町とは明らかに違う船が多数停泊している。もちろん旅客船や貨物船も数多くあるが、黒く塗装された水に強い木材を使った重厚な帆船に、深紅の交差する2つの斧と海竜の紋章が際立つ船が隊列を組んで港に鎮座している。この船団こそデルコンダルが世界に誇る最強の海軍なのだ。
 元々海賊の町として栄えたデルコンダルだが、カンダタという指導者を得てから急速に発展した王国だ。密売品の裏取り引きや賭け事の横行、密航と亡命の交差点として名を馳せるようになったのも、海賊のアジトから王国として盗賊や裏商売の人間が滞在しやすい環境になったが故だった。今でも裏社会の中心街という不名誉はそのままに、闘士に金を賭けて戦わせる闘技場が盛んになり格闘の町とも言われている。
「ロレックス君、暑い中待ってくれていなくても良かったのに」
 背後から声をかけられ、俺は振り返る。
 声の主はリウレムさん。紫色の髪と瞳を持った年上のムーンブルクの外交官だ。リウレムさんのローブの影からルクレツィアのまぶしい金髪が、日光に灼熱しそうなほど白く輝いている。二人の顔は収穫を得たような嬉々とした顔ではなく、落胆すらにじませていた。
 予想は簡単。デルコンダルがそういう国家であることはローレシアの傭兵である俺はよく知っていた。
「相手にされなかったでしょ?」
「いやぁ、重々承知してはいましたが無収穫は痛いですね」
 ムーンブルクの外交官を長く勤めているからか、リウレムさんに落胆の色はあっても怒りはない。苦々しく笑うと、どうしたものかと首をひねる。
「以前はどう交渉していたんだ?」
「師匠がここの闘技場では名の知れた存在でしたから、師匠さえ居て下されば何の問題もなかったんですよ」
 この国は強さこそ正義。国王と呼ばれる者も闘技場の優勝者であることが第一条件なほどだ。しかも元々海賊であった風習が未だに残り、外交など王道な手段ではマトモに取り合ってもくれないだろう。コネや裏金など、そういった手段でなくては国王に目通る事すらできない。代わりに親しくなれば嫌というほど温情を掛けてくれる情に厚い国柄でもあるので、頭ごなしには否定できない。
 俺は手軽な交渉手段を、過程はすごく大変だろうが軽い提案のように持ちかける。
「週末に行われる闘技場の大会に参加したらどうだろう?」
 その提案にリウレムさんが『あ』とすぐさま理解する。
「大会に優勝すれば国王に謁見する事ができますね。なら、早速応募しにいきますか」
 やっぱりリウレムさん出る気満々で、袖を捲って大会参加受付窓口に今すぐ歩き出してしまいそうである。魔法王国ムーンブルクでしかも外交官という官僚であるはずなのに、なんでこの人はこんな活動的なんだか。
「俺も出ますよ」
「見てるだけじゃつまんないですもんね」
 俺はリウレムさんはにやりと顔を突き合わせて笑う。
「僕も出るぞ」
 横から唐突に出た声に、俺とリウレムさんは怪訝そうに声の主をみる。汗だくで不機嫌の絶頂でありながら、サトリは言い放つ。
「暑くてイライラしてしょうがない。この怒り、その大会で発散してやろうじゃないか」

 □ ■ □ ■

 週末の夕方。
 それはデルコンダルでも、最も熱い時間でもあるだろう。
 夕方から深夜にかけて闘技場で大会が行われる。以前は勝ち抜き戦などではなく難易度に合わせた魔物との対戦方式だった、賞金がバカにならなくなり国の運営がままならなくなってきたのでこの勝ち抜き戦方式になったそうだ。それでもこの勝ち抜き戦というスタイルは人を魅了するらしく、人気は海外にまで知れ渡っている。
「皆…気をつけてね。怪我したら、すぐホイミを唱えてあげるから」
 ルクレツィアは筋肉隆々な男の坩堝な控え室に可憐な一花のように場違いな存在ではあろうが、手を出せばイオナズンで消し炭にされてしまうだろう。決して引けはとらない存在だろうと一国の女王、シクラが一緒だろうとリウレムさんは心配しきりだ。そんなんなら出場しなければいいだろうが、まぁ、目的の謁見許可を一番欲しているのがリウレムさんであるのだから仕方がない。
「シクラ、ちゃんとルクレツィア様を守ってあげて下さいね」
「もちろんヨン!」
 ドンと胸らしいあたりを触手で叩くシクラも、夕方で涼しくなった気温にようやく調子を取り戻している。
 暗くなったスタジアムを照らすのは幾百の蝋燭の明かりや、数々の持ち込まれランプ。必要以上に明るく照らされて昼間のような明るさを持つスタジアムに、道化師の格好の司会者が明かりから浮かび上がった影のように現れて大げさな会釈をする。
「この場は戦場、戦いは非常なれど報酬が汝らの欲望を祝杯に満たされた酒のように満たすだろう!さぁ、最初の対戦は歴戦の王者、ここ最近は負け知らず幾多の王冠と名声を得た巌なる巨漢ランジー!!」
 歓声が割れんばかりに会場に響き渡る。
 その歓声に答えるように俺とサトリとルクレツィアが肩車してようやく届きそうな、肌の黒い筋肉隆々の巨漢が堂々と現れる。上半身は鉄の胸当てだけだが黒く光るような筋肉を引き立てる装飾品のようで胸当てが心もとなく感じるほど、たっぷりとしたズボンにブーツは一般的なものだが、天上にかかる少し欠けた半月のような剣が重たも感じさせずに手に軽々と馴染んでいる。
「そして対戦者はムーンブルクより参られし太陽。日の出となるか日没となるかは活躍次第、ムーンブルクの外交官リウレム!!」
 すくりと立ち上がったリウレムさんがローブとマフラーを閃かせて、大男ランジーと向かい合う。勝負が圧倒的に一方的な展開が予測されてしまいそうな対面、数多い優勝を経験した強者と魔法使いだろう優男では勝負が見えているだろうという反応が場内に満ちる。嘲笑する者、あくびをする者、視線を外して隣の者と談話する者を見て、ちょっと苛立つ。しかし、試合が始まればそんな印象吹き飛ぶだろう。
 審判役の道化師が互いの準備が整ったと判断して、手を挙げる。息を吸い込むと、場内の空気を震わせた!
「始め!!」
 ランジーという男が見下すように言う。
「逃げるなら今のうちだぜ、兄さんよぉ」
「無駄口叩くのなら、行きます」
 言うが早いか両手に小石を握ったリウレムさんが大男の懐に瞬時に潜り込む。すれ違うほどに大きく踏み込むと、片手を大男の胸に、もう片手から小石を落として足に滑り込ませその足の裏で大男の脹ら脛を軽く蹴る!
 瞬間、大男は大きく円を描いて宙を舞った!!
「…!?何だあれ!?」
「バシルーラの力を込めた石の力を押し付ける事によって、押し付けた方向に呪文の力が作動するみたいだね。あんな大きな人が吹き飛ばされるほどの威力を持つ石じゃないのに人間の魔力の流れるポイントを突く事で、威力が倍増される理屈みたいだけど…正直信じられない。あんな的確に打ち込んで作動させるなんて不可能だと思ってたのに…」
 驚愕にざわめく場内にルクレツィアの冷静な解説が響く。
 その間にリウレムさんの攻撃は続く。
 細い針のような短剣ほどの長さを持った剣を右手に持つと、宙を舞って不意を食らったとは言え冷静さを取り戻す歴戦の猛者に突っ込む!正面から向かい撃つランジーはその巨刀を振り下ろし、リウレムさんがどちらかに避けるかを見極めようとする。しかし、リウレムさんは巨刀を勢いを落とさず紙一重で避けると大木のような腕を駆け登って男の後ろを取る。
「剣を首筋に打ち込んだら殺してしまうぞ」
 隣で呟いたサトリの言葉に俺も頷く。この試合は人を殺してはいけないルールなのだ。
 しかしリウレムさんはにやりと意味深に笑う。左手にはバシルーラが籠った石がしっかりと握られていて、石を男の後頭部に放ると今度は飛んだ勢いを加えて盛大に石が向かった後頭部を蹴りつける!男の頭が盛大に地面に叩き付けられた!!
 沈黙して伏せる優勝経験者。番狂わせの予想外な戦いを披露する挑戦者に会場が歓声に震える!
「やるな、おっさん」
 感心するサトリの隣で俺は男の様子を注視する。
「いや、まだだ」
 リウレムさんは左手に石を拾ったが構えを解かない。俺も、まだランジーは戦えると思う。
 ランジーの腕がのろのろと剣を握りしめる。震えるような動きは攻撃を受けたダメージよりも、屈辱に震えるような力強さを感じる。
 くる!と思った瞬間にはランジーは見せ掛けではない全身の筋肉を総動員させて、バネのように起き上がりリウレムさんを跳ね上げた!リウレムさんもとっさに短剣で刀身を受け止めたが、相手の力を流すまで行かずに大きく吹き飛ばされる。着地点を狙って詰め寄るランジーに向かって短剣を投げ付け、避けた隙もあって着地の瞬間を狙われるのは避けたが明らかにリウレムさんの右腕がおかしい。
「右腕を痛めてしまったようだな」
 鋭いサトリの言葉に、ルクレツィアがさっと青ざめる。
「…え!リウレムさんは大丈夫なの!?」
「大丈夫だヨン。あんな雑魚に負けるリウレムじゃないヨン」
 シクラの言葉の通り、リウレムさんは左手に握った石で互角にランジーと渡り合う。石を刀身で受け止める事でバシルーラの力を発動させて撥ね除け、今までの二点を打つほどの威力はないが的確に急所に打ち込んで追いつめていく。その力量は、ハッキリ言って俺も高揚感を隠せねぇ。今度、腕試しに手合わせしてもらわねぇと不意打ち咬ましたくなるくらいだ。
 確かにリウレムさんの有利は有利だが、それでも左腕だけでランジーを打ち倒せるかは微妙なところだ。
 決め手がないと、きっと負けてしまう。
 すると、リウレムさんが無理な体勢を承知で大きく踏み込んだ!
 銀色の針のような輝きが、ランジーとリウレムさんの間に水から跳ね上がった魚のように翻る。先ほどリウレムさんが牽制のために投げ付けた短剣を蹴り上げたんだ!
 ランジーの意識が一瞬その短剣に向けられた瞬間を逃さず、リウレムさんはその短剣の刀身をランジーの首に押し付けるように蹴りつけた!刃のない針のような短剣の刃が真一文字に首に食い込んで間もなく、ランジーの体が傾いた。剣を持つ手から力が抜け、巨木が倒されるようにランジーの体は完全に地面に横たわった!
 首だけがなんとか体を起こそうと奮闘するが、審判の道化師がランジーの様子を見て頷いた。
「勝者、リウレム!!」
 善戦と大金星に色めき立つ歓声に苦笑を浮かべながら俺達の元に帰ってきたリウレムさんは、袖越しからでも腫れてると見える腕を擦った。
「人は体を動かす上で微弱な魔力を常に使っていますが、マホトーンを施した対人用の短剣でその魔力を遮る事で体を動かせなくすることができるのです。暫くすればまた動けるようになるでしょう。シクラ、麻酔系の鎮痛か何かでもう少し腕が使えると思うかい?」
「やめた方がいいヨン。回復呪文ですぐさま治療しないと動かなくなるかもしれないヨン。さっさと腕を出すヨン!」
 亭主に命令する女房のような口調でリウレムさんの腕を出させると、早速回復呪文を施しはじめる。
「回復呪文でこれだけの傷を治すんです。日常生活には支障ありませんが、戦うのはちょっと難しいですね」
 残念です。とリウレムさんは苦笑した。
「リウレムさんの戦う姿初めて見たけど、ハッキリ言って見直しちゃいましたよ。道具の使い方が上手で魔法なんか本当に必要無いくらい。しかもあの身のこなしは王宮武道とは違う感じだし、どこの地方の流派なんだ?テパ地方?」
「ロレックス君、珍しく興奮してますね」
 諭すようにリウレムさんがやんわりと言うと、大人びた表情を綻ばせて堪えきれずに肩を震わせて笑いだす。
「私の戦い方は完全に自己流ですよ。道すがら出会った魔物を追い払ったり、時には町に侵入した魔物を退治したり、大人の衛兵達に対抗していたらいつの間にか武道家みたいな体つきになってしまいましてね」
 シクラの呪文が終了して、腫れも見事に退いた腕を上げたり下げたりして様子を伺いながら話は続く。
「呪文が使えないから代わりを得ようと必死だったのかもしれませんね。外交官として優秀になったと認められた時、ムーンブルク国外の任務を与えられた時、そして外交官として報告を陛下に行った時、私はようやく自立できたのだと感じたものです」
「どんな身分になろうと王家の柵から解き放たれるなんて不可能だ」
 サトリが目を細めてリウレムさんを見つめていた。その金髪とまつげから覗く緑の瞳は凍てついた感情の炎に煌めき、金色に縁取られた一対の装飾品のようだった。苛立たしげに言い放たれた言葉だったが、それはリウレムさんに向かって言うというよりは自分に言い聞かせるような呟きのようだった。
「さぁ、優勝候補が初戦から失墜した!これから先は予測不能な未知の領域!さあさ、次なるはサマルトリアから吹き降りし北風、サトリ!その冷たさは熱帯地方デルコンダルの民を凍てつかせるほどだ!血沸き肉踊る対戦相手も凍り付かせる事ができるのか!?」
 俺やリウレムさんやルクレツィアやシクラが何かいう前に、サトリは立ち上がって舞台に登ってしまった。
 乱暴に踏み締めたような歩みに、心の底からまだ見ぬ対戦相手に同情した。

 リウレムさんが腕を痛めた理由で辞退すると、後は俺から見れば手こずる相手はそれほどの数ではない。
 ローレシア国内しか知らない俺にとって、世界中といえる数多くの地方を旅してローレシアとは比べ物にならない屈強な魔物達と渡り合うことで強くなったんだなと実感した。デルコンダルの闘士と交流の多いローレシアは、きっとここの闘士と同じくらいの実力者も多いかもしれない。傭兵として要求されるのは戦闘能力だけではないが、それでもその分野は成長したなと思う。
 それはそうと俺は順調に勝ち進んで決勝まで来た。
 機嫌の悪そうなサトリもベキラマで焼き払ったりして桁違いの力量を見せつけて、決勝まで勝ち進んだ。
 数など数えてる内に日が暮れてしまいそうな本数のろうそくの照明に、天井がないコロシアムから見える空は燻されたように月も星も見えない。ろうそくの炎と観客の熱気と自分自身の高揚感に、昼間のデルコンダルに負けない体感温度でじんわりと汗がにじむ。
 会場の真ん中で慇懃に頭を下げた道化師が、厳かに空気を震わせて観客のざわめきを打ち消した。
「天上に掛かる月も星も輝きを消して見ている今大会。西に広がる大会の荒波の如き展開に、我が国家の誇る軍艦と揶揄されし強豪も波に飲まれ泡となられた。新たな風は北より西より参られて、このデルコンダルに吹き荒れた!さぁ、紹介しよう。今宵最後まで勝ち進みし猛者達を…!!」
 歓声に背中を押されるように俺とサトリが進み出た。
「剣と武術を心得しバトルマスター!ローレシア初代国王を彷佛とさせるその剣捌き、進退極める判断力は炎を退け勝利を掴める事が出来るのか!?ローレシアより青き海風、ロレックス!」
 間を置かずに矢継ぎ早に道化師の紹介は続く。
「魔法と剣を使い分けし魔法戦士!紅蓮の炎で幾多の戦士を焼き払いし剛胆な魔力、炎を切り裂き追いつめる矢の如き剣が彗星を弾き勝利を射止めることができるのか!?サマルトリアより緑の山風、サトリ!」
 そのまま大きく後ろへ下がり、その身軽さから戯けるステップで空中一回転を決めると、その軽さから想像もできない大声を張り上げた!
「決勝戦……始め!!」
 俺は早速剣を抜き放つと、腕を組んで呪文も唱える素振りを見せないサトリを見た。
「来ないのか?」
 素っ気なく訊こうと思ったことを訊ねるサトリに、俺は剣を下段に構えて応えた。
「じゃあ、行くさ」
 駆けて間合いに入る合間にもサトリは動かず、横様に薙ぎ払った剣を盾で受け止める。俺の剣をがっちり受け止めて動かない盾の向こうで、無表情に目を細めたサトリの顔がある。
 何かがおかしい。
 俺がそう疑った瞬間、俺はとっさに剣を翻して大きく後ずさった!
 縦に衣とともに巻きあがった一閃の細身の剣の軌跡は、サトリの体と盾に隠れる形ではあったとは言え最小限で迅速で隙のない動きの中の動作だった。気付くのが遅ければ縦一文字に傷を負わせられてしまっただろう。
「避けたか」
 短く言い放つと大きく踏み込んだ動きに緑の法衣が大きく翻り、細身の剣を隠してしまう。計算しつくしたような動きでも、型に乗っ取った動きでもない。細身の剣が五月雨のように突風のように全く予想外な動きと速度で俺の体を霞めたり浅く傷付けていく。
 素早い。
 付いて行くのがやっとだ!
 ならば俺のペースに意地でも乗せてしまわなくては勝機がない。俺は深い一撃を受けるのを覚悟で、大木を一撃で切り落とすような大振りな一撃を横薙ぎに放つ!サトリも大振りの動作に気が付いて間合いの外に引き下がると、俺は大振りに振りかぶった剣の勢いを利用して、一歩大きく踏み込んでサトリの盾諸共回し蹴りで蹴り飛ばした!
 サトリがよろけるの方向から剣を跳ね上げるように下段から振り上げると、サトリとっさに膝を折って避けて下から細身の剣を突き上げる。俺が体を捻って避けると、サトリが乱暴に盾で俺の体を強く押し出す!軸足が不安定だったのを見越されちまったみたいで、俺は崩れるバランスを大きく後ろに飛ぶ事でようやく堪える。
 後退する最中からサトリが呪文詠唱のために動きを止める。
 まずい。ベギラマを放ってくるつもりだ。
 認識した瞬間から即座に動きたいが大きく後退している最中で、体はまだ空中。地面につけば間合いを詰めて扇状形に広がるベギラマの攻撃範囲外に逃げる確率を引き上げることができるが、今から駆け寄ったとしても把握するサトリの呪文を唱える素早さから間に合わない。
 俺が地面に着地した瞬間。
「ベギラマ!」
 一点から即座に視界いっぱいに広がる深紅の炎!俺は届く寸前に力一杯、回転させるよう力加減をして剣を呪文の発生源めがけて投げ付ける!炎に剣が飲まれて間もなく、俺は炎の中に飛び込んだ!轟音が俺に届く全ての音を支配したのも一瞬、俺は炎を抜け出した!
 俺の剣で腕を怪我したサトリは、炎の中から飛び出してきた俺に目を真ん丸くする。
 剣を投げたのは、炎を切り裂きながら剣の軌跡を追うことで炎の威力が緩和された場所を進むことができるから。そして術者を傷つける事ができれば呪文の制御も止まり、呪文の威力が衰えるか呪文そのものが掻き消えるからだった。
 ま、サトリもそんな事知らない訳じゃないだろうが、実際されてみないと分からないものだ。
 それが実践というもの、傭兵が実力よりも重要とする事柄だ。
「腕一本傷付けられちまったら、動けなくなっちまったか?」
 自分の剣を拾い上げて肩に担いで、腕の傷を見遣るサトリに声をかける。
「リウレムさんは腕を痛めても戦ってたぜ」
「あたりまえだ」
 サトリが細身の剣を拾い上げて、優雅に構えた。
「この僕がおっさんに遅れを取る訳ないだろ」
 瞬間、駆け寄った俺とサトリの間に火花が散る。上下左右に縦横無尽に火花が散り、翻る法衣と旅の装束を霞める剣の軌跡はまぶたの裏に焼き付いて幾つもの線を残し、踏み込んだ足音の合間は息づかいよりも早く、振り上げる腕は音の壁にぶつかっているかのように早くならないかと苛立つほどだ。
 観客ももはや歓声を上げるのに疲れてか、息を飲んでただ見守っている。
 会場は満席のはずであったのに、自分の鼓動もサトリの息遣いさえ感じられるほど静かだった。
 どれくらい剣を交えた頃だろう。
 天井のないコロシアムから夜の間に冷やされた空気の固まりが、朝の風に乗って上から下に鉄槌のように吹き込んだ!サトリは吹き込んだ風に乗るように、俺は風を切り裂くように、互いの剣が戦いの終わりを感じて力強く打ち重なった…!!

 体がだるくて、それでいて潮風が暑苦しい。
「サマルトリアを棄てた訳じゃないんだな」
「どう足掻こうと僕は国王の息子だからな」
 やはり寝苦しくて眠ってはいなかったんだろうサトリが、俺から背を向けたままだったが不機嫌そうに答えた。
「それを聞いて安心した」
 俺がそう言ったのを聞いてか、サトリが肩ごしに俺を見る。『いつまでもお前の護衛なんて真っ平御免だからよ』なんて本音を言った日には、『お前を一生こき使ってやる』と言われそうで俺は苦笑いで誤魔化した。
「結局、勝者はリウレムさんだったな」
「お前の勝利を利用して謁見を成功させたんだ。あの嬉々としたおっさんの顔に蹴りを入れてやりたかった…」
 悔しそうにサトリが呻いた。
「ルクレツィアの奴、よりにもよってベホマなんか掛けやがって…」
 ベホマの凄まじい回復力に全ての体力を奪われて、俺達は仲良く床に臥せっている。
 確かにかすり傷もたくさんあって血みどろだったし、サトリの腕の傷も決して浅いものでもなかった。皮膚が爛れるほどではなかったが全身火傷であったのは事実だ。試合が終わって至近距離でその姿を見たルクレツィアが半狂乱になりながら、必死にとっさにベホマをかけてきたのだ。
 試合中持続させていた緊張感から解放されて、脱力感に襲われて、俺達は最終的に年下の女の子に倒されてしまったのだった。
 何なんだかなぁ…。