水の都

 アレフガルドのリムルダールを運河の町と讃えるならば、ベラヌールは水上都市と讃えられる。
 ベラヌールは巨大な大聖堂を中心として広がる宗教の町。大昔、ベラヌールの岸に神々が寵愛した精霊の国から幾億とも言えぬ大小様々な石やレンガが流れ着き、その大陸に住う僧侶達が神々への感謝を込めてその石を礎に湖に数千の柱を成し、その上に大聖堂を中心とした都市を作り上げたという。
 湖の上に建っているこの都市は巡礼者に修行僧が行き交う大通りと同じ鈍色の石畳で築かれ、儀礼用の法衣や祭礼用の道具を作る職人の家々も複雑な石畳の回廊の壁となり、湖から巻きあがる霧は町を青を含んだ色彩に沈ませて道を知らぬ者達を惑わせる。中央にそびえ立つ大聖堂は町で第一に陽光を浴びて黄金色に煌めくと、早朝の鐘が響き渡り朝の風と太陽を招いて霧を吹き払う。
「何時来ても変わりませんね〜。ここは…」
 窓を開けて早朝の風を取り込んでのんびりと寛いでいるリウレムさんを、俺は半分呆れ顔で見ていた。
「サトリもルクちゃんも早朝の礼拝に大聖堂に出向いているのに、リウレムさんは行かなくていいのか?」
 リウレムさんは朝焼けとも夕焼けとも見える特殊な染め方を用いたムーンブルクの外交官のローブと、真っ白いマフラーに銀の王家の紋章が刻まれた懐中時計を下げている。ムーンブルクは王族がミトラ神の神官の末裔であるために、ムーンブルクは魔法王国と同時に宗教王国としても名高い。そんな国の官僚、しかも外交という表立つ立場の人間が、総本山といわれるリムルダールの朝の礼拝に参加しないなんて知れ渡ったら、協力を漕ぎ着けるなんて難しいことだ。
 そんな俺の心配をよそに、リウレムさんはパンをかじって珈琲を啜る。リウレムさんには珍しく荒っぽい手つきだ。
「そんなもん、行かなくたって平気ですよ」
 そ、そんなもん…。俺は宗教の教徒じゃないから良いが、サトリが聞いたら眉間にしわ寄せるぜ。
「私は必要最低限の冠婚葬祭の式典にしか参加しません。ミトラに感謝する行為が祈りに直結するとは安直なもの。すでに祈りを義務化したことによって、祈りを捧げれば恩寵を授かれるとすら思う者までいます」
 そこでリウレムさんは珈琲をかき混ぜて、珈琲に視線を向けながらここではないどこかを見ているように呟いた。
「恩寵は賜る物ではなく応えるもの。正しく生き、感謝の心を忘れず、誓いを違えず、ミトラ神が与えて下さった責務を果たす事。信者だから恩寵を授かれるのではなく、全てに平等に授け下さる恩寵を我々がどれだけ有意義に受け取れるかなのです」
 まぁ…、とリウレムさんは肩の力を抜いて柔らかく笑った。
「祈る事はいけない事ではありません。真面目な信徒だ、と思うだけです。…どうしました?ロレックス君?」
 俺は紫の瞳に見つめられてオドオドと視線を彷徨わせた。
「なぁんか、説得力あるなって思ってさ」
「そうですか?まぁ、こんな話をしたのは君以外に数人だけですよ」
 控えめにだが声を上げて笑うリウレムさんの声を聞きながら、さっきの呟いた声が耳の中に未だ残っている。夜空から降り注ぐ大気のように重く低く、神秘的にすら感じるほどその呟きは耳に響いた。こんなに普通の声なのに、さっきはまるで別人のような、長い時間を生きた賢者や予言者のような声だった。
「さぁて、低血圧のシクラを起こして、散歩がてらサトリとルクちゃんを迎えにいこうぜ!」
 もしかしたら寝起きの悪い俺とシクラの為に残ってくれたのかもしれないな。
 ちょっと悪い気がしたのを珈琲と一緒に腹の中に落とし込むと、より一層明るく笑ってみせた。

 ■ □ ■ □

 地震でもあったんだろうか?
 幾千の石の柱に支えられたベラヌールの石畳が揺れている気がする。…いや、実際気のせいではなく、視界に入る煉瓦造りの家に填められたガラスは細かく震えて音を立て、明かりを灯す街灯の柱が細かくしなる。
 見れば町の中央にある大聖堂から煙が立ち上る。
 深紅の閃光が走って轟音に呼応してまた町が震えるのを見た瞬間、リウレムさんが駆け出した。
「凄まじい呪文と神々への祝詞の応酬が繰り広げられているようですね。急ぎましょう」
 俺もすぐさま追い付くしリウレムさんより早く走れるが、追い越しはしない。俺はこの町を知らないから迷子になったら、サトリにどつかれるどころでは済まされない。こんがり良い香り漂うくらいは憂さを晴らさせてやらないと不貞腐れちまうんだが、俺はそうなりたくないからスローペースにリウレムさんの後を追う。
「神々への祝詞って何さ?」
 リウレムさんに並んで問いかけると、腕に絡み付いたシクラがくりくりっと青い瞳を回した。しびれクラゲ独特の透き通る体がローブの色を通して淡い紫に染まり、触手の水色の線が模様のように映り込む。逃げまどう人や野次馬根性で見にいこうとする人々の間をすり抜ける合間合間に、シクラの魔物だからだろう独特の声が説明する。
「呪文は精霊に協力を頼んで発動させる、言うなれば乱暴な力技ヨン。でも神々への祝詞は存在への祝辞なんだヨン。この世界全ての力を鎮め逸らす力があるんだヨン。きっと大神官とか力のある人が祝詞で呪文の力を封じ込めているんじゃないんヨンか?」
「僧侶と魔法使いの違いみてぇなもんか?」
「そんなもんだヨン」
 人集りをかき分けて大きな階段い続く街角を曲がると、リウレムさんが毒針を抜きはなって前を指し示す。
「この階段を登り切れば大聖堂です!」
「よっし!」
 俺は瞬く間にリウレムさんを抜き去ると、飛び上がる勢いで何段もぶっ飛ばして階段を駆け上がる!伸びる柱に刻まれた見知らぬ果実を実らせた木々の彫刻が刻まれた無数の柱と、虫のような羽を生やした精霊や、炎の毛並みを持った獅子、水で出来た乙女、まだまだ見れば見つかるだろう数多の彫像が刻み込まれた大聖堂が、階段の終点から日の出のように姿を見せてくる。
 すると閃光が突風と爆音を引き連れて押し寄せてくるのを、階段にへばりついて避けると、俺は階段の最後の段から戦いの様子を窺った。
 巨大な刺のついた棍棒を両手に一つずつ持った男の法衣が翻り、並んで細身の金髪の女が呪文を詠唱する。その奥、大聖堂の入り口に陣取っているのは、緑の法衣と白いローブ…、サトリとルクちゃん、そして早朝の祈りに参加していた信者達みたいだ。
 サトリが無意味に人を傷つける奴だとしても、ルクレツィアちゃんまで便乗することはない。つまり目の前にいる棍棒を持った男は敵だ!
 俺が姿勢を低くして男の間合いに滑り込むと、剣を男の腹に叩き込む形で切り込んだ!瞬時に気が付いた男は軽く棍棒を持ち上げて剣の軌道に滑り込ませると、金属の打ち合う音を響かせて棍棒の重量だけではない男自身の力で完全に剣を食い止める!
 こいつ!どんだけ馬鹿力なんだぁ!?
 俺が驚いてる後ろでサトリのベギラマが女を直撃したらしく、女が大きく弾き飛ばされる。
「おっと」
 リウレムさんの間の抜けた声が耳に届く。
 今上がってきたのなら戦況が分からないから、とりあえずぶっ飛ばされて階段から転げ落ちそうな女を抱き止めたのかもしれない。俺と剣を交えながらも男が女を見遣るので俺もつられて見遣ると、リウレムさんが女を抱きとめて固まっている。下を向いてリウレムさんの顔は見えないが、女は恋人にでも逢ったかのような陶酔したような表情でリウレムさんを見上げた。
 血を固めて目にしたような禍々しい感じのする目と、リウレムさんと同じ紫の瞳を持った女が嬉しそうに形の良すぎる唇を開いた。
「こんなに優しく抱いてくれるなら…無理矢理にでも襲って堕としてしまえば良かったわ。でも、殺意むき出しの特別な貴方を見れる幸福を捨てるのも勿体ないわ。ここで再び出会えた縁、貴方はどう思って?」
「私は戯れ言は好きではない事、よぉくご存じでしょう?ラベール嬢」
 底冷えするほどに優しくリウレムさんは囁くと、別の生き物のように右腕が翻る!毒針を避けた女は空中に浮かんで高笑いを上げるのを、張りつめた殺気の籠った表情でリウレムさんが見上げる。
「奴を殺すぞ!シクラ!!」
「もちろんヨン!」
 荒げた声と共にリウレムさんが空中に漂う女目掛けて毒針を投げ付けると、瞬時に白熱したかのように輝くほどの電流を帯びたシクラが触手を毒針目掛けて振るう!触手から放たれた雷撃が毒針に絡み付き、一本の輝く矢の様に凄まじい力の軌跡を残しながら女に向かって飛んでいく!
 次の瞬間矢は何かを貫いたような反動も様子も伺わせず、その矢が女がいた場所を通過して四散する。
 女がいない。
「短距離のルーラかヨン!?」
「サトリ君!後ろ!!」
 陣地が取られちまったってか!?
 俺は切り結んでいた男から一気に間合いを取って離れると、サトリの加勢に走り出す!
 リウレムさんの声に躊躇いもなくサトリが剣を抜き放つと、背後に庇っていた信者達に混じった女を見つけだす。逃げまどう信者達の波を緑の法衣が切り裂き、それに続くように俺が突き進む。先陣を切ったサトリが女との間合いを瞬時に詰めると、さすが女子供にも容赦ない非常識な逡巡の無さで切り掛かる!
 細身の女を斬りつけるのを一瞬ためらった俺は、女の背から沸き上がる黒い何かに防御の構えをとった。
 大きく翻った真っ黒いコウモリのような骨と皮の翼がサトリの剣を絡めとると、突風のように信者達とサトリを吹き飛ばした!俺も地面に剣を突き立てしがみつかなければ飛ばされてしまいそうになるのを必死に堪えるが、嫌な匂いのする強風に足がじわじわと押されてしまう。
 次々と壁に押しやられ吹き飛ばされる者達の間を、俺が切り結んでいた男が風の抵抗も受けぬ足取りで早歩きで進む。女の前に立ち止まると俺達に振り返り、巨大な棍棒を構え直した。
「私がここで食い止めよう。聖なる結界に入れる代償として力が半分以下なのだ、足手纏いになる」
「そうね。これ以上邪魔が入られては支障が出る」
 奥の闇に姿を溶かした女を追おうとリウレムさんが俺の横から飛び出すのを、男の棍棒が遮ろうとする。俺はリウレムさんが横に並んだと同時に飛び出して僅差で先に剣を突き出し棍棒の動きを一瞬でも留まらせると、リウレムさんとシクラが男を抜いて奥の闇に飛び込んだ!
 その白いマフラーが僅かに闇に閃くのを見遣ると、男は静かに俺に向き直って言った。
「無理して追えば死ぬ事にもなりかねない。君は私の相手をして少しでも生きながらえなさい」
「人を傷つけておきながら平然と言ってくれるな」
 俺が低い姿勢の構えをとって、白地に極彩色の文様が縫い込まれた男の法衣をつぶさに見つめる。巨大な棍棒すら軽々と扱う者の装束には到底見えないが、そのゆったりとした法衣からサンダルを履いた足が見えても足捌きが布地に覆い隠されてしまう。室内に向けて呪文を放つ事ができないなら、俺とサトリの剣で畳み掛けるしかない…。
「お願いやめて、ロレックスさん!」
 幼い甲高い声が響くと、ルクレツィアちゃんの白いローブが腕にしがみついてきた!涙に潤んだ暁色が金髪の奥から懇願するように俺を見てくる。
「ルクレツィア様、お下がり下さい。これは私が選んだ運命です」
 男が構えを解く事はなくとも、闘気が一気に畏まった気配に転じる。
「駄目よハーゴン!ムーンブルク大聖堂の大神官を勤めた貴方が軽々しく人を傷つけるなんてしないわ!お父様に直訴して、その直後に姿を眩まして、やっと会えたと思ったらこんな事をしてるだなんて!ねぇ、一体何があったの!?」
 俺の腕から体を離すと、ルクレツィアちゃんはハーゴンと呼ぶ男の両腕にすがりついた。黒い肩まで無造作に伸びた髪の奥で瞳が戸惑うように揺れる。本来ならこんな絶好の好機を逃さず切り掛かるところだが、ルクレツィアちゃんが邪魔で切り掛かることができない。ハーゴンは困惑したかのようにたたらを踏んだが、それでもルクレツィアちゃんを脇に退けようと、彼女の腕に優しく手を添える。
「ルクレツィア様が生きていらしたとは気付きませんでした。とりあえず、ご無事で何よりです」
「そんな事を言って欲しいんじゃないの!」
 ルクレツィアちゃんがハーゴンの腕を力強く握りしめ、ハーゴンのローブに皺と跡を刻み付ける。
 ハーゴンは短く、囁くように言った。
「このままでは世界は滅びます」
 ルクレツィアちゃんが短く息を飲み込んで力を抜いたのを見逃さなかったのか、ハーゴンが突き放し、サトリが乱暴にルクレツィアちゃんの首根っこをつかんで後ろに突き飛ばした!そのままハーゴンに細身の剣を滑り込ますのを棍棒が遮ると、横様から俺が棍棒を押さえて蹴り飛ばす!
 大きく間を開けて下がったハーゴンから視線を外さず、俺はサトリを怒鳴る。
「やりすぎだぞサトリ!」
「いつまでもお喋りしていては、おっさんに追い付けないぞ」
 確かに、強引にでもルクレツィアちゃんを引き剥がさなければ、リウレムさんとシクラの応援に何時まで経っても駆け付けることはできない。苦しそうに丸まりながらもどこか痛めた様子のないルクレツィアちゃんを認めると、俺はサトリに続いて剣を振おうとした。
「偉大なる父に繋がりし空気、恩寵の謳われし場よ。血流るること無きよう、光と闇を隔てよ!!」
「…!?」
 言葉が響き渡った瞬間、空気が変わり体が重くなる!
 体はだるくない。ただ重くなるだけだったが、驚きによって切断された緊張感が体を地面に伏させるほどに重くさせる。
「ボミオスか!?ちくしょう、大聖堂が燃えようが構うものか!…ベギラマ!!」
 サトリが叫ぶが、声の振動に続いて放たれるはずの炎が一片も巻き起こらない。愕然とする気配のサトリのさらに後ろでルクレツィアちゃんの声が諦めたかのように静まり返った場に響いた。
「無理だよ…。光が体を押さえつけ影が体を縫い留め、光は闇を伴えないから何の呪文も使えない。この礼拝堂に刻まれた存在が今、ハーゴンの祝詞に応えているんだ」
 さっきシクラが言っていた『呪文の力を封じ込めている力のある神官』とはこのハーゴンの事なんだ!さっきのルクレツィアちゃんの話ではムーンブルクの大神官を勤めていた訳だし、これくらいは雑作もない事なんだろう…。
 だが、どうする!?
 このままじゃあ、嬲り殺されてしまうぞ!!
「安心なさい。私は貴方達を殺したりはしません。大人しく待ちなさい」
 まるで聖書を読み上げるような厳かな声で、ハーゴンは俺達に言った。
 その声に反発したのは以外にも、大人しいルクレツィアちゃんだった。
「ハーゴン、何をしようとしてるの?あんな乱暴な人と協力までして、しなくちゃならない事って何なの!?…答えないとこの祝詞を打ち破るわ。ルクには例え神に通じた貴方の祈りでさえ覆す、サラマクセンシスの力がある!!」
「力を力で覆してはなりません。炎に水ではなく、土を、風を持って剃らす事もでき、鋼で切り裂くこともできる」
 すると、地面が無気味に振動し出した!
 足の裏からジンジンと伝わってくる振動に、ハーゴンは優しく笑った。
「私はリウレム王の予言を成就するだけです。では、私はこれにて」
 ハーゴンがローブを翻して奥へ駆け出していくのを、ルクレツィアちゃんの声が追いかける。
「私は太陽、ミトラの右拇指。声に乗せる魂の振動に、世界よ応えよ!!」
 体が重みから解放されると、つんのめりそうになりながら俺は即座にハーゴンを追いかける!後を追うサトリとルクレツィアちゃんの足音を聞きながら、俺は速度も落とさず追いかける。薄暗い通路を横切り、使われていない牢屋を通り抜け、水が高い所から落ちる水路を進み、数えきれない階段を駆け降りた先に光が見える。外の光ではない金色の輝きを追い付いてきたサトリに向かって顎をしゃくった。
「見ろ、サトリ」
 サトリが見遣ると、そこには巨大な黄金の鉱脈から黄金色の空気が流れ出し、青い空気の渦に吸い込まれているのが見えるはずだ。黄金色の空気は時折静電気のような爆ぜる光と音を立て、遠目で見ている俺達ですら毛が逆立つほどの力を感じて近付けない。
「旅の扉…かもしれん。ここまで追ってきて、おっさんもあの女もハーゴンとかいう気に入らん奴もいないのでは、あの扉に入っていってしまったのかもしれん」
 ここまでくる間に血溜まりはなく、リウレムさんも重傷を負うような怪我はないようだ。それでも…深追いをするだなんてらしくない。
「そうかもな…」
 俺達が腕を組んでその力の渦を見ていると、しばらくしてルクレツィアちゃんが追い付いてきた。同じように旅の扉に吸い込まれる膨大な力に後ずさりしたが、それでも睨み付けるように旅の扉の先を見ようと目を凝らしていた。
「昔、ムーンブルクにはリウレムという王様がいたの」
 ぽつり、と気にならないほどに自然にルクレツィアちゃんが言った。
「神託を受け取る力に優れ予知能力は歴代王族の追随を許さなかったリウレム王は、生涯を賭けて一冊の予言書を書かれていたそうなの。それが『イーデンの書』…この世界の崩壊が記されている、この世界でたった一冊しかない書物。ハーゴンはきっと『イーデンの書』を見つけたんだ」
 真剣なルクレツィアちゃんには悪いが俺はちょっと話についていけない。首を傾げて真剣な赤金色を見つめた。
「イーデン?」
「神々が精霊達に与えた世界の名だ。神話でも滅多に登場しないが、遥か昔に崩壊しその地から逃れた精霊達が人間と交わって呪文が使えるようになったそうだ。…なるほど、イーデンの崩壊を隠語として用いたのか」
 サトリの言葉にルクレツィアちゃんが小さく頷いた。
「『イーデンの書』は王家でも最重要機密だったの。ルクもリウレム王が書いた世界の崩壊の予言書としか知らない。だから逆にムーンブルク王家以外の者が世界の崩壊を知っている訳がないのに、ハーゴンは世界が崩壊する事を知っていた。きっと『イーデンの書』を手に入れたハーゴンはとても熱心な信徒だから、ミトラ神の神官の末裔で神託を受け取る力に秀でたリウレム王の言葉に素直に盲信できたんだと思う」
 話がでかくなってきたなぁ。
 それでも嘘とは言えなかった。ムーンブルクが滅び世界中が薙ぎ払われた衝撃波、あんなデタラメな力を崩壊の予兆と考えるだけで背筋が冷えた。
「じゃあ、世界はもうすぐ滅ぶってんのか?」
 俺の声にルクレツィアちゃんの雲のような髪がふわりと顔を覆ってしまったが、わずかに唇が『わからない』と動いた。
「おっさんは知っていたのか?」
 知っていたらそれどころじゃないんじゃないのか?第一深追いし過ぎて俺達もこれ以上追うのは危険なくらいで、身の安否なんか当然分かるものじゃない。追いかけて問うには無理があった。帰ってくる見通しもなかった。それにリウレムさんが『イーデンの書』を書いたリウレム王だとしたら、どうしてこんな遥か未来の時代にいるんだ?
 それ諸々を問う言葉に答えられる者は、ここにはいなかった。
 それよりも…
「ハーゴンって奴を締め上げた方が早い」
 ハーゴン…。
 生きながらえなさいと言った男の顔を思い出す。
 実力など神官などの官職とは到底思えないほどだったが、かといって力を求める粗悪な乱暴さは微塵も感じなかった。俺達を殺すまいとした気配りは随所に見えた。後々聞けば、ハーゴンは確かに大聖堂を襲撃したが、呪文で信徒を攻撃していたのはリウレムさんがラベールと呼んだ女の方だったそうだ。元々ルクレツィアちゃんがハーゴンに声を掛けたから始まった戦闘だったらしく、ルクレツィアちゃんが声をかけなければ何事もなく隠密に成し遂げていたのかもしれない。
 ルクレツィアちゃんは完全に顔を髪で隠してしまう。
「でもハーゴンは世界を壊そうとしているはずがない。ルクは信じてる…」
 俺が黙って黄金の光を吸い込み続ける旅の扉を見つめていると、サトリが剣を納めて振り返った。
「戻るか」
「そうだな」
 世界が動き出した気がする。
 それは世界が動き出した理由を朧げながらに知ったからだった。