救出

「全能なるミトラの前に立ちて」
 紅蓮の髪に白髪をわずかに混ぜる叔父の凛とした声が、広間の高い天井に木霊した。
「ルビスよ。汝はこれなる若者ロトを唯一の夫と認め、永遠の忠実と絶対の信頼を持ち、世々の憂い数多の困難に遭おうとも、その愛を誓うことを誓うか?」
 天の宝石、ラムプロローグスの首飾り、七つのオーブの冠を紅蓮の雲のごとき巻き毛に燦然と輝かせた私は、その豪奢な深紅のドレスの美しさに隠しきれない歓喜に震え、真っ直ぐにミトラ神の象を見上げた。何を言うかは知っている。そう言うべきだと知っていた。
「誓います」

 □ ■ □ ■

「ロレックス、起きろ」
 いや、腹蹴りつけて起こす前に言って欲しかったぞ。
 俺は蹴り付けられるというよりも、腹筋にすら足跡が付くかもしれない踏まれ方をした痛みに腹を摩りながら頭を上げる。そこで、何かが違うと察知する。
 今はルプナガからムーンブルクの風の塔に向かう定期便に乗っている。そして昨日の夜はいつものようにルクレツィアが寝られないとの事で、俺とサトリが出来得る限り離れて床で寝るというスタイルで就寝したのだ。当然ながら、俺は床で寝ている。
 その床が、揺れていない。
 港に到着したといえど、停泊したといえど、必ずと言って良いほどの波による揺れと波に揉まれて軋む音が響いているはずだ。
 久々に聞く、耳にいたいほどの静寂に俺はサトリを見上げた。…と、上からバサバサと剣と荷物が降ってくる!!
「うわっ!?何だよ、いきなり!!」
「寝ている場合ではないぞ」
 怒りに飛び起きた俺の前にいるのは、緑の法衣にオレンジ色のマント、溢れ出す金髪の隙間に見え隠れするゴーグルの下には眠そうな緑の瞳があり、手には盾と鞘に納めたままの剣が握られている。説明する暇もないと言いたげに部屋を出て行ったサトリは、予定をかき乱されたようなヒステリックな怒りを押さえつけているようだった。
 魔物でも、出たのか?
 でも、静かすぎやしないか?
 俺も緊張して気配を探るが、全く何の気配も感じなかった。それでも鳥の声も風の音も魔物の声も、遠く、遠くから聞こえる囁かな波音に消されてしまっているのだろう聞き取る事もできない。手早く帽子をかぶりゴーグルで留めて、髪が邪魔にならない程度に押し込んで、剣を背負って荷物をベルトに固定して動きの邪魔にならないようにすると、俺は足早に部屋を出て甲板を目指す。
 甲板を目指す最中、人と何度もすれ違いぶつかりあう。
 ある人は蒼白で隣の人に恐怖の思いをぶつけ、ある人は腰が抜けたのか座りこんで神に祈りを捧げ、ある人は子供を抱いて必死に隠れるところを探し、ある人は部屋を内側から板で塞いでしまっているようだ。また勇気ある者なのだろう人は武器を持って甲板に向かい、状況がつかめない者が何事か確かるために戸惑うような足取りで甲板を目指している。
 尋常じゃない空気が彼等から沸き上がり、船の外の出来事をさらに曖昧にしてみせる。
 甲板に出る為に上る最後の階段から見た空は、もうすぐ夜明けなのか東の空が明るくなりはじめていた。
「…なんだぁ!?」
 甲板にいる人々の隙間から見えるのは、珊瑚の陸。
 色とりどりの珊瑚が草木のように陸を形成し、窪地には取り残された海水に海の生物が泳いでいるか遥か海底にまで続いている深さなのか深い蒼に染まっている。珊瑚の陸だけではなく黒曜石のように入り組んだ漆黒の陸地も混ざり、そこは複雑な文様を海水から引き上げたばかりで宝石のように輝いた。その珊瑚と岩の陸地の真ん中に取り残された俺達の乗った船は、がっちりと陸に乗りかかり、水もなく身動きが取れずにいた。
 そして、その船を取り囲むのは昇りはじめた太陽の光に陽炎のように浮かぶ人々。
 その数は尋常じゃなかった。
 陽炎のような幻だったが、群衆は土砂崩れのように、雪崩のように、決壊した堤のように、怒濤のように、一つ一つの顔に恐怖と混乱を滲ませて誰も行く手を選べない流れとなっていた。誰もがその巨大な流れに押しつぶされないようにするのが精一杯、逆らうことも留まる事もできない。その流れが、この船に押し寄せてくる!!
 人間らしき者も多かったが、ある者は翼の生えた者であったり艶やかな尾の持ち主であったり明らかに人間ではない。
 この船に取り付こうとするもの、乗っ取ろうとするもの、暴徒のように押し掛ける姿は醜悪で恐ろしかった。
「なんだなんだ、なんなんだ!?」
 俺は一番近くにいた水夫の肩をつかむと怒鳴るような声で訊いた。
 水夫は大きな鉄製の銛を構えている姿勢を崩さずに、今まで何度も同じことを訊かれたんだろう、うんざりしながらも大声で答えた。
「うちの船長が航海日数を少し読み違えたみたいでよ…!干潮になる時、浅瀬になる海域に入っちまってな。船底を浅瀬に引っ掛けて沈没しない為にやむなく停泊してたら、この幻が浮かび上がってきやがってよ…!!」
 水夫が気合いを込めて銛で薙ぎ払うと、幻も切り裂かれたように消えていくが、陸地いっぱいの幻は尽きそうにない。
 大きく振りかぶってがら空きになった背中の後ろで、幻が甲板に上がり込もうとする。水夫も銛の反動で直ぐには返せない事もあり、俺はとっさに幻の頭を蹴り上げる!瞬間、幻は小さい赤子を俺に突き付けた!
 『お願い、この子だけは…この子だけは…!!』
 抱きとめるように体に触れた赤子の幻は氷のように冷たかった。女の人の声にならない叫びのようなものが電気のように突き抜けると、体中の体温が凍らされていくような感覚に襲われる。四肢を押しつぶされ体中を突かれる衝撃に脳天がぐらつき、訳の分からない恐怖に体が言う事を聞かない。
「幻に迂闊に触れるんじゃない」
「うぶっ!!俺の腹は土台じゃねぇんだからよ、そう何回も踏むんじゃねぇよ!」
 ちくしょう、勢いつけて踏みやがったぞアイツは!!
 俺の腹を踏み台にして高々とジャンプしたサトリは、高めていた魔力の発動を振り下ろす手の勢いを加えて高々と宣言した。宣言されて呼応した魔力の力が火炎となり、数々の幻を焼き払う紅蓮のベギラマの炎になる。幻達は容赦なく焼き払われ、火の粉の舞う中で悠然と甲板に降りるサトリはにやりと満足そうに笑みを見せた。
「炎で焼き払えるか」
「ちょっと待てよ、ゴラァ!!」
 腹筋に力を入れない、防御もなしで本日二回も踏み付けられた腹を抱えながら、俺は捗腹前進で進むとサトリの足を掴む。サトリが疎ましそうに眺める視線を撥ね付けるように、俺もサトリを睨み返した。
「お前もこの幻に触れて分かったはずだ。一瞬の接触でこれだけの影響を及ぼすのだ、停泊中この幻に船内を蹂躙される事は非常に恐ろしい。下手をすれば僕らはこの幻達に殺されてしまうぞ」
「分かるけど…。分かるけどよぉ…!」
 サトリに踏み消されてしまった赤子のひんやりとした感触が胸と腕に残る。母親だったのだろう女性の悲痛な叫びが、脳内にまだ余韻を残していた。俺の大声の否定に、甲板で武器を振りかざし幻を払っていた者は皆手を止める事はなかったがその顔を曇らした。誰もが幻に触れて、必死な叫びを聞いていたんだろう。
 俺が思っている事は非常に甘い事だとも分かっていた。サトリの言葉が正しい事も十二分に理解できる。
「行こう。幻の中心に」
 清らかに響く声は、従いたくなるような希望を引き寄せるような力を持って甲板に響いた。
 甲板の誰もがその声の主を見た。そして驚いただろう。
 声の主はルクレツィアだった。その金髪を地平線に浮かぶ金色に染め抜かれた雲達と見紛うほどに風に任せ、赤金の瞳は今し方昇りはじめる太陽を思わせるほどに燃えるように力強かった。ローブは膨れ上がった魔力に風を受ける力を緩和させてゆったりと主の細い体を包み、甲板を踏み締めた足下は揺るがぬほどに堂々としていた。
「沈んだ絶望を癒そう。魂を救おう。ルク達はここにいる。それができる」
 そして、ゆっくりと俺に振り返り微笑んだ。
「行こう。ロレックスさん」
「あ…あぁ」
 中途半端な返事を返しながら、ルクレツィアなのにルクレツィアではないような違和感を感じながら俺は彼女の差し出された手を取った。小さい手はしっかりと握り返してくるが、それでも小さい手に縋って体を起こして転倒させないように気を配りながら立ち上がる。
「勝手に決めるなルクレツィア」
 俺の真横でサトリが憮然とした態度で見下ろしている。意地悪くそんなサトリを俺は小突いた。
「サトリ、そんな文句をブツブツ言うんなら、部屋で寝てろよ。いつもだったら起床後の祈りの時間だろ?俺達がちゃんと幻を消し去ってくるからさ」
「冗談じゃない」
 サトリは眉間に皺まで寄せて俺とルクレツィアを見た。
「お前達二人が出かけていって僕が留守番しろというのか?そんな勝手な決定を僕が認めると思うなよ!」
「あーハイハイ。サトリ君が一緒に行きたがってますよ、ルクレツィア女王陛下」
「何勝手に解釈してるんだロレックス!僕はこれ以上予定を狂わされるのにも我慢ならんし、これ以上勝手に決められるのはご免だから、お前達に付いて行く事で言い様に扱われたくないから言っているんだ!」
 サトリ様が一緒に来て下さって、とってもありがたいです。自分で選択して下さい。俺が勝手に決めて後でとばっちり食らって大怪我しないと思えば、涙が出るほど嬉しいです。一生ありがたいと思う気持ちを秘め、今日という日を忘れません。って皮肉を口にしたら殺されるだろうなぁ…。
 それでもルクレツィア本人は、苛立ちも手伝って露骨に怒り出すサトリをきょとんとした表情で見上げている。それを見下ろしたサトリは疲れたようにため息をついた。
「ルクレツィア。あの幻をどう越えていくんだ?触れれば動けなくなるほどの悪寒が走る幻が、見渡す限りにあるのだぞ?」
「幻の力が働いているのなら、幻を呼び寄せればいいんだ」
 ルクレツィアが何もない空間に手を差し出すと、虹色の、七色の輝きが微風となって巻き起こる。微風が賢そうな輝きの宝玉をなし瞬き一つの間に瞳となると、そよ風が羽毛になり、沸き上がった旋風が瞬時に煌めく巨大な翼になり、たくましい爪足となり、尾羽となった。
 ラーミアだ。
 誰かがそう言った。もしかしたら俺自身だったかもしれない。
 伝説の不死鳥は翼を伸ばし細い首を傾げて小さい頭をツクレツィアちゃんの前に寄せた。その瞳は懐かしい者を見るかのように優しげで、はしゃぐような身振りが宝石細工のような尾羽の一本一本を輝かせた。ルクレツィアの手は久しき友人に触れるよう満遍なく幻の不死鳥の体を撫でると、幻は生きているかのように甘えた声で鳴いた。
「さぁ、行こう…」
 巨鳥が了承したかのように鳴くと、ルクレツィアが呪文の詠唱を始める。
 モシャスの輝きが鳥の幻の輝きを反射させ、直視できないほどに眩い輝きとなる。時間が止まったと感じるほどの刹那に、ルクレツィアの姿は完全に幻の巨鳥が実体化したような姿となった。幻であったものが生気に満ち、空気すら浄化してしまいそうな存在感を放ち、翼を広げたその姿を祝福するかのように透明な光を太陽が照らした。
 見ていた全ての者がその光景に見入った。
 幻は動きを止め、動きが止まった故に幻を払っていた者も降臨する神の使いの姿を見る事ができた。
 ラーミアが、ルクレツィアが、澄み切った声で高々と鳴いた。余韻が消える前に丸くなったその背は乗れと言わんばかりに動かず、瞳だけがちらちらと俺達を見遣る。すると、突如背中に衝撃が…!
「サトリ!!俺の背中は土台じゃねぇんだぞ!」
 俺の頭上を越えて翻る深い木々の重なりのような色合いの法衣は間違いなくサトリだ。俺の背中を踏み台にする奴もサトリくらいしかいねぇ!俺の怒声に甲板の水夫達も同じ船に乗り合わせた戦士達も、場違いながらに硬い表情を崩した。何とかなりそうな希望が、彼等の心に明かりを灯したのが伝わってくる。
「必ず戻りますから、留守をお願いします!」
「おうよ、任せな!!」
 海の男達が荒波で鍛えた厚い胸板を叩いて応え、戦士達が死闘の最中で培った余裕から笑みを返した。俺は大きく頷いて、サトリに続いてラーミアに跨がった。
 鳥が地を蹴るために少しばかり身を屈め、軽く地面を蹴ったかと感じた次の瞬間には俺達はもう船の帆すらも見下ろしていた!ゆったりと翼が上下するのでさえ呼吸をするよりも静かで、通り過ぎ突き抜けていく風の方が煩いと感じるほどだ。それでも風の衝撃が少ないと感じるのはサトリの後ろに座っているからで、先頭にいるサトリは風の抵抗をもろに受けて息すらできないかもしれない。
 水平飛行でできるだけ急上昇を押さえた飛び方をするルクレツィアは、少し船の周りを旋回する。その間に俺はルクレツィアが飛びやすいように、体の方向を傾けたりする術を探る。意外なほどに柔らかく滑りやすい鳥の背で安定した格好を見いだした時、自分でも早くに勘をつかんだ事に驚いた。サトリも馴れてしまうのが早かった。無言のやり取りの中で互いに慣れたと感じると、巨鳥は少し高度を上げて幻がやってくる方角を目指して進路を定めた。
「すげぇな、ルクちゃんは」
 俺が感心して呟くと、サトリはどうでもよさそうに応えた。
「ムーンブルク王家はミトラ神の両拇指を始祖とする一族の末裔だ。その血筋ではない魂に刻まれた記憶が、神託を受け未来を見るといわれている。一々驚いていては僕が疲れる。ルクレツィアは普通じゃないのは今に始まった事ではないだろう」
「もう少し言い方があるだろ、サトリ」
 今、振り落とされても文句が言えないぞ。
「こんな幼子がイオナズンぶっ放せるなんて、呪文や魔法に通じた者から見れば異常だ。唱える呪文と発動する魔力の量に見合った年齢や体力に満たない者が、器以上の力を発揮して力を行使すれば肉体が滅ぶとさえ言われている。僕でさえ、呪文が使えるようになったのはここ数年…体力が十分に付いたと思われる年齢になってからだ」
「へぇ…」
 広がる海に昇る太陽と雲が彩られる東と、藍色から浮かび上がる白亜の山を戴く山脈の続く大陸の向こうにある月。幻は飛ぶ風に煽られて光る風になり、地面に広がる珊瑚が風のように流れる様を見ながら言っていたサトリが、心底うんざりしたように俺に顔を向けた。
「お前、本当に呪文や魔法に対する知識がないな」
「俺は魔力をコントロールするセンスが全く無いんだ。いつも暴走やら暴発やらで、親父から魔法を使うなと命じられてしまったんだな」
 俺の説明にサトリがなるほど、と視線を前に戻した。
 制御するセンスがなければ魔力を扱うことも感じることも難しい。特に感じることに関しては自分の魔力を制御しなくてはならない事もあり、呪文を唱える以上の難易度を誇る。とにかく制御ができない者は、呪文についての知識を知ることを極端に嫌う。制御ができないだけで魔力自体はあるのだから、知れば無意識下で発動し魔法の暴走につながってしまう事件もあるにはある。
 呪文を学ぶということを諦めて武術に特化することで今の実力になった俺の選択を、サトリなりに感じたようだった。
「暑くなってきたな…」
 俺は下から感じてくる熱気にじわりと汗をかいている事に気が付いた。
 下に広がるのは幻で霧がかっているようだが、黒々とした大地が見える。海水に濡れたような輝きではなく、岩自体が磨かれたような光が見え、よく見れば溶岩が水に触れて固まったかのような複雑な文様が全体に施されているかのようだ。
 旋回し出した視界の先には、真っ赤な溶岩の見える河口が見える。
「どうやら海底火山の火口のようだな」
 呟いたと思うとサトリは呪文を口走り、黄色い粉のような光が俺達を包む。
「念のためのトラマナだ。外部からの強烈な力を中和する力があって瞬間的になら魔法すら遮断するが、さすがに長時間保たせるなら遮断できるのは熱気くらいだ。暑いと思える程度なのは僕のおかげだから感謝しろよな」
 はいはい、感謝感謝。
 口に出すと近付くだけで燃えるとされる溶岩の溢れる洞窟に、トラマナを解かれて蹴り落とされそうなので、心の中でサトリに感謝する。
 空気は暑くて圧縮され押せば返すほどの抵抗を感じてしまいそうだ。
 ラーミアの翼が風を切るように落下する速度で火口の奥深くに立ち入っていくなかで、両脇には溶岩の滝が滝のように落ち、形成されては崩れた岩肌が無気味な橋や柱となして空と火口の底を繋ぐ吹き抜けを彩った。ふわりと浮いたような感じが伝わったかと思うと、ラーミアはすでに火口の底に足をおいた。舞台のように固まった岩が鎮座した場所から見上げれば、熱気の渦巻く空気と遥か上から滝のように落ちてくる溶岩が圧巻だ。
 俺達が通ってきた河口が点に感じるほどの高みにある。
 そして視線を前に戻すと呪文を解いたルクレツィアが無気味な岩に向かって立っている。隣に歩み寄ったサトリが岩を見上げて呟いた。
「不気味な岩だな。邪悪な魔力を感じる」
 その岩はどこからか滴ってくる溶岩によって形成された無気味な岩だった。
 真っ黒い岩肌に深紅の溶岩の光が照り返され、真っ赤に染まった空間に一点だけ取り残された漆黒のようだった。見方によっては鮮明な鱗に覆われた蛇に見える部分があったり、口を開けて笑う悪魔のような顔に見える部分があったり、角を生やした人ではない者の髑髏のようでもある。しかし、それよりも気になったのは、ルクレツィアが行こうと言ったはずの幻の中心であるはずなのに、ここには幻が一つもない。
 サトリの言葉の通り、嫌な感じがする。
「逆にこの空間自体が聖なる気で純正に保たれている気がする」
「そう…この空間はルビス様そのものだからだよ」
 ルクレツィアが悲しそうに目を伏せて、次の瞬間意志のこもった瞳で岩を見上げた。
 どこからか声が聞こえる。女性の声は威厳のある声で、威圧のこもったような重みのある声をルクレツィアに投げ掛けた。
『お久しぶりです。サラマクセンシス。それをどうなさるおつもりですか?』
「この宝玉は私が預かります」
『災いの星。天の至宝の一つ、七つ目の宝玉、天のヘマタイト。私達はこの世界に再び災いが起きぬよう、この天の宝玉を封じる事にしたのではないですか。サラマクセンシスとラルバタスが作り上げたムーンブルクも崩壊するほど、破壊の力が強まっている…。今、封印を解く事は危険です』
 違う。ルクレツィアはそう言いたげに首を振った。
「世界の崩壊の要因が多すぎるのです。かつてのイーデンのように、疑惑が満ちて互いが互いを疑い、他者を蹴り落として伸し上がろうなどという野心が覆い、正当なる血統は崩れようとしてます。この混乱をやり過ごせたとしても、きっと世界は滅んでしまう」
 その言葉にサトリが苦々しく視線をそらした。
 異母妹との覇権争いに疲れた男の顔は、故郷を疑ってしまって信じられなくなってしまった眼差しを伏せ、家族と何を話したのかは知らないが優しい言葉など知らなさそうに唇だけが噛み締められていた。俺の知らない苦労と言えばいいだろうか?ただ息苦しくなるような感性が、一時でありながらも依頼という切っ掛けであったとしても、軽い同情としてではなくサトリの苦しみを共有していると錯覚してしまうほどに、共に旅をしたと思わされた。
 これが家族意識なんだろうか。
 これが絆なんだろうか。
「なぁ、どうにかできないのかよ?」
 完全に部外者だと思った。だって、ミトラ神って神様の一部の末裔のルクレツィアと、世界で最も偉大な精霊ルビス様の会話だ。それでも、口を挟まずにはいられなかった。
 どうにかしたい?
 何もできないのが歯がゆい?
 いや、腹立たしかった。腹が煮えくり返りそうにムカついた。
「俺達だってあんた達に比べればちっぽけな存在かもしれない。あんた達みたいな世界をよく知ってる奴らに、この世界を任せた方が良いに決まってると思う。それでもな、俺達は生きてるんだ。動けるし、思うし、考えるし、感じるんだ。皆、それぞれに正しいと思うことをする。その全てを否定してまで、その全ての考えも知らずに勝手に決めるんじゃねぇよ!」
 俺は天を仰いだ。
 点に見える空の青、取り巻く火口の赤、灼熱する空気。その全てが綺麗事のようで、自分の言っている事も綺麗事で吐き気がした。でも言わずに居られない。言わずには居られないんだ。遥か遠くにいるだろうあの青の向こうの神さんに、近くに居るだろうルビスさんに聞こえるように、俺は叫んだ。
「もう一回言うぞ!俺達は生きてるんだ!俺達だってどうにかしたいって考えたりするんだよ!それをまとめりゃ凄い力になるだろうし、悪い方向にはいかねぇだろうが!?まるで俺達を蚊帳の外みたいに扱って決めやがって、ムカつくぜ!俺達は確かに弱いかもしれないけどよ、何もできねぇ訳じゃねぇんだぞ!!」
 肩で息をする俺の耳には滝つぼに落ちる溶岩流の音すら届かなかった。耳鳴しそうなほどに痛い静寂をやぶったのは、意外にも肩に置かれた手だった。
「ロレックス。僕の事を散々我が儘だ何だと言ってきたが、お前も人の事言えないじゃないか」
「…っな!!」
 怒りに顔が歪んで鬼の形相になってるだろう顔を思いっきり振り返ると、言葉とは裏腹にすっきりとした表情のサトリの顔がそこにある。
「神を侮辱するつもりはないが、お前の言葉を否定する事はできないな」
「あ?」
 サトリが意味深に唇の端を持ち上げた。
『ロトは確かに遥か昔に死んでしまった』
 声の方向をふと見た先に彼女はいた。
 淡紅に染まった夜明けの雲のような髪に赤々と燃える深紅の瞳、自負に引き締まった唇が喜び微笑み、ほほが上品に赤みをさした。朝を告げる時の太陽のような、闇夜を照らす篝火のような、荒野に一輪と咲き誇る炎芍薬のような、炎の女王のような風格だった。
 見たことがあると思った瞬間、目が合った彼女は眩しそうに懐かしそうに深紅の瞳を和ませた。
『それでも、どこかに生きているのね』
 信じていた。信じている。長い月日が経って疑う自分に苦しんだけど、また信じていけそうよ。
 悪戯めいた仕草で肩を竦めると、自嘲気味に微笑んだ。彼女はそのおどろおどろしい岩を瞬時に灼熱させて溶かすと、その中から小さな小さな破片を拾ってルクレツィアに手渡す。俺達を順繰りに、一人一人顔を見るように視線を向けて、最後にルクレツィアで視線を止めた。
 ルクレツィアが懐かしそうに笑い返した。
「もう大丈夫じゃないかと思うんだ」
 二人だけにしか分からない含みの籠った言葉に、ルビスさんが微笑んだ。
 ルーラの光が青白く俺達を包み、俺達はゆっくりと火口の入り口を目指して上がってゆく。ルビスさんは俺が見える限りではずっと見送ってくれていた。やがて、彼女の赤が溶岩の赤に溶け込んで見えなくなっても、きっと見送ってくれているだろう。
「幻が消えたな」
 サトリのつぶやくような言葉に顔を上げると、そこには霧一つない珊瑚の島と乗り上げた船があった。それよりも空気が澄んでいた。早朝の爽やかさのような、真冬の澄み切った気配のような、混じりけのない純粋な空気が潮風に乗って頂上に立つ俺達を迎えた。
「ルビス様の迷いが消えて希望が灯ったからだよ」
 彼女の心が弱ったのが原因で封印が解れて幻が現れたんだ…と小さく付け足して、ルクレツィアは俺を見上げた。
「ロレックスさんが、ロトさんと同じような考えの人だったからかも。ミトラ神の前で誓いをかわした夫が完全に失われたわけじゃない、彼の理念や志が今生きている人の中にあるんだって、彼女の最も大事な人の大事な部分を垣間見て救われたんだよ。一番救われたのはルビス様だ…ってルクは思うんだけど」
「あのなぁ、俺は違うぞ」
 心の中で皮肉でも思ってるんだろうサトリを睨み付けると、ルクレツィアが笑った。
「分かってる。違うよ。私達じゃないもの、同じなはずがない」
 そして手に握った小さい漆黒の破片を見た。
「これが天の黒き至宝。死に導く巨大な力を封じられる唯一の器」
 俺達がそろって見下ろす中、雲の切れ間から覗いた太陽が漆黒の破片に鋭い光を当てた。希望のはずなのに、不気味な何かを感じずにはいられない。
 遮る物のなく広がる世界。広すぎてどうすればいいのか、分かるわけがない。
 それでも、どうにかなる。
 一人では決して出来なかった旅が確信を与えてくれる。