廃墟

「帰ってきたんだ」
 ルクは口まで競り上がってきた感情をどうにもできなくて、言った。
 懐かしい空気を吸い込めば、何処かしらに異臭らしいいがらっぽさを感じたけれど、それも気にし過ぎだ。懐かしい故郷の匂い、ムーンブルクに漂う魔力と脹ら脛ほどの見渡す限りの草原が生み出す香りが胸に詰まって吐き出すのも辛かった。
 緑の平原に突き立った漆黒の城壁。
 以前はあの漆黒の城壁は美しい3本の塔で、その塔に吸い寄せられるようにたくさんの塔が建てられていた。塔には職人の住うことを記す旗が掛けられていて、魔力の生み出す風がその旗をなびかせて、遥か王宮の3の塔から天空に放たれていた。魔力を視認できる者ならば空が輝いて見え、勘のいい人ならば空気がムーンブルクに流れている事を感じるだろう。
 今は、その一切合切がなかった。
 アレフガルドの方角からやってくる季節風や、ロンダルキアの高みから気まぐれに降りてくる風に、滞った魔力の流れを掃いてどこかへ連れ去っていく。
 ルクの横から前に進み出たサトリさんが強風に目を細めて立ち止まり、顔を逸らすついでにルクを見た。乱暴なまでの風が金色のまっすぐの髪が吹き付けて、緑の瞳を縁取る睫を叩いて通り過ぎる。その空間空間を風が押すのでどんなに法衣を押さえても、サトリさん自身が一つの旗のようになってしまっていた。その風の具合に口がへの字になったのを、後ろからやってきたロレックスさんが笑った。
「マントくらい仕舞うか?サトリ?」
「いらん」
 そうかいそうかい。にやにやとサトリさんと風の格闘を見遣っていたロレックスさんはといえば、風の影響など全くない。皮を裏地に充てた頑丈な旅人の服は、その鮮やかな青い布地に皺一つ入れまいとどっしりと構えられていて、従順にロレックスさんに着こなされている。荷物を括りつけたベルトも着けながら戦えるように外れず緩まず特殊な傭兵ならではの方法だからか、風ごときじゃびくともしない。ただ、背中に背負った鋼鉄の剣だけが歩くたびに揺れている。
 そのロレックスさんが、ルクに並んで立ち止まった。
「大丈夫か?行けそう?」
「うん。平気」
 風の塔の船着き場にたどり着いた時には、港には救援物資などでかつてない賑わいを見せていた。ムーンペタへの道中もとても賑やかで、相乗りを頼む馬車に困らないほどだ。誰もが口にするのは凄腕の外交官。
 ムーンペタに着いてもそれは変わらない。噂の的は紫の髪の外交官。きっと王族に連なる方だとか、救世主だとか、次の国王だとか、王女の後見人だとか、いろいろ噂は交わされて留まるところを知らない。それでも分かるのはリウレムさんの、人々が求める方向に導く力の強さだった。お陰でムーンブルクはルクが知る以上に賑わっていた。
 本当に国王になってしまいそうだ。
 崩壊してしまったのに、滅んだとすら思ってしまったのに、こんなにも人々は明るく希望に満ちている。知らない所で復興の歩みを進めているムーンブルクは全く知らない国のようだった。
「リウレムさんに会いに行かなきゃ」
 ムーンペタの教会の一室にあるリウレムさんの書斎には誰もおらず、ジョウガさんも『ムーンブルクからは、しばらく戻られないと聞いています』と言う。最初はロレックスさんが一人でリウレムさんに会いにムーンブルクに行くつもりだったが、ルクも行くって頼んだんだ。
 ジョウガさんの話だと、もうムーンブルクは復興のための準備が着々と進んでいて、瓦礫もほとんどが片付けられたという。
 きっと、あの時を思い出すような酷さはほとんど残ってない。そう思ったんだ。
「話によれば復興援助者の宿舎もあるって話だし、今晩の宿にも困らないだろう。リウレムさんも夜になれば宿舎なりに戻ってくるだろうし、会えるのも時間の問題さ。ルクちゃん、そんなに気を張るんじゃないぞ」
 残っているかもしれない惨事の破片を見なくても良いというロレックスさんの言葉に少し安心すると、盛大に背中を押されて前につんのめりそうになる。
「ほらほら、サトリがぶつくさ言いながらあんなに先に進んじまってるぜ。怒られる前に追い付いちまおうぜ!」
 横に顔を出したのも一瞬。ロレックスさんがサトリさん目指してどんどん背中を押す!ルクも慌てて足が小走りにようになるが、押される力も手伝って宙を走っているようだ!
「やめてよ、ロレックスさん!危ないって!!」
「ロレックス!何バカな事やってるんだ!」
「ふふふ、サトリ!流石のお前もルクちゃんを盾に取られてはベギラマは放てんだろ!!」
「ルクレツィアからはみ出た部分を狙って、ギラを当てる事だってできるんだぞ!」
「ならやってみろよ!」
「もう!二人とも止めてってばぁ!ロレックスさんも止まってよー!」
 本当に危なくなったら、ロレックスさんはルクくらい軽く抱き上げてしまうだろう。呆れて悪態をつくサトリさんの表情もどこか笑いを堪えているようで、高らかに笑うロレックスさんの声にルクも言葉とは裏腹に笑ってしまう。
 ルクはこの地に満ちた活気を、少しだけ理解した気がした。
 故郷が見れるのも、この二人が、今までに出会った人がいるから、行けるんだ。
 サトリさんを追い抜いて、もうじき王都ムーンブルクが見えてくる…。

 □ ■ □ ■

 塔とかはそのまま倒れたままだが、瓦礫や人の手で片付けられるものは殆ど片付けられ、人が通る大きな道は均されて馬車の轍がいくつも刻まれていた。新しく掘られたのだろう井戸からはきれいな水が流れて、そこを中心として復興支援者の宿舎などの施設が集中していた。真上に日が昇る時刻を
わずかに過ぎた時刻だが、作業に従事ていた人々は昼食を終えて休みの時間を寛いでいた。
 ある者は談笑し、ある者はチェスに興じている。そして食事の片付けに追われる賄いの女性が目敏くルク達を見つけると、その巨大な体格で休んでいた人々を押しのけて近付いてきた。ぽっちゃりとした頬に小さめの瞳が印象的な顔が親しげに綻んだ。
「お嬢ちゃん達、どうしたんだい?もしかして昼ご飯食べてないんじゃない!?」
 返事を待つどころの話ではない。そのふっくらとした手でルク達の背中を押すと、強引にテーブルに付かせる。
「じゃんじゃんお食べなさい!未来はあんた達若いもんが主役なんだからね!腹が空いてりゃ力も出んさぁ!ご飯のことは気にしない!気にしない!この木偶の坊達から差っ引いとくからさ!」
 なんだと!とか口がうまいや!とか良いカッコしい!とか野次が飛ぶが、それでもみんな楽しそうだ。
「木偶の坊言って何が悪いんだい!皆、リウレムさんに食わしてもらってる口だろう!」
「あんたもじゃないか!」
 やんややんやと囃し立てる声に、女性も嬉しそうに胸を張って応じた。
「そうさ、そうさ!でも旨い飯食えてるじゃないか!否定したら今日の夕飯の皮剥き手伝ってもらうわよ!!」
「やっぱ女将にゃ逆らえねぇや!」
 そうだそうだと笑いながら、少し前の状況に皆が戻っていく。
 女将と呼ばれた女性がテキパキと昼食の残りとは思えないご馳走を出されて、ルクは戸惑う。横を見ればサトリさんは早速食べてるし、ロレックスさんも『食べるか』と微笑んで一口野菜と肉が挟まったパンをほおばった。ルクも目の前に出されたサラダを抱き寄せて食べはじめると、早速パンを食べ終えたロレックスさんが飲み物を持ってきてくれた女将さんに話しかけた。
「リウレムさんって居ます?」
「リウレムさん?あぁ、あの外交官の兄さんね!」
 聞かれた男性に心当たりというか、合致したんだろう。女将さんはロレックスさんやサトリさんくらいの子供がいてもおかしくなさそうな年齢なのに、初恋の君を思い出すように心を弾ませて瞳をうっとりと彷徨わせた。
「いい男よねぇ。旦那に会う前なら、絶対に夫にしたいと思うわ!」
 その言葉に聞こえぬとでも思ったのか、サトリさんが『悪趣味な』と呟いた。ルクも空耳かと思うような音量だったのに、女将さんには聞こえていたらしい。きつく咎められた衝撃に喉にパンをつまらせたサトリさんと、そのサトリさんをからかってか飲み物を目の前で踊らす女将さんの死闘がテーブルを挟んで行われている。
「外交官の兄さんなら、昼食もそこそこに王宮に行っちまったぞ」
 背後から声を掛けられると、真後ろに陣取っていた支援者の一団がそこにいた。皆が筋肉隆々で埃だらけで真っ黒に日焼けしていて、ルクならおっかなくって声もかけられない。けれど声をかけたぼさぼさに伸びたヒゲの奥で人のよさそうな人物が、一緒にしゃべっていた男達に『なぁ?』と話を降った。
「何しに行くんだ?」
 ルクは顔を向けてきたロレックスさんに、首を傾げてみせた。
 王宮といえばあの真っ黒に煤焦げた、大地に突き刺さる剣のように残った場所の事だ。何をしにいくのか、見当も付かない。
「そりゃ、明日から王宮内の瓦礫の撤去作業に入るからさ。兄さんは作業をするのに危険じゃないか下見にいくんだとさ」
 そしておじさん達が感心しきりに言い出した。
「不思議な兄さんだよな。俺ぁ官僚っつったら奇麗な仕事ばっかりで、汚ねぇ仕事なんてしねぇ奴らだと思ってたけどよぉ、兄さんは違ぇぞ」
「そうそう、遺体の捜索やら検分やらで俺達と並んで作業してるしさ、作業の時には危ない場所をぴたりと言い当てるんだ。それに遺体を家族に見せて謝ったり宥めたりなんて、とてもじゃないが俺達にはできねぇさ」
「シクラって魔物も気が良くってよ。魔物のくせに人間が怪我してるって時は回復呪文唱えてくれるし、作業も手伝ってくれる。魔物と仲良くなれるって、そうそう出来る事じゃないよな」
 ルクはムーンペタで待ってなくて良かった。
 こんなに人に頼られて、仕事してるんじゃ、いつ帰ってくるかなんて分からないよ。
「ペタのお偉いさんは、兄さんがリウレム王その人じゃないかって言うんだ。よく分からねぇけど、兄さんが王様でも不思議じゃねぇよなぁ」
「あぁ、この人なら付いてっても大丈夫だって安心感があるんだよなぁ。そうでなきゃ、撤去作業なんて危なっかしくて、とてもじゃねぇができやしない」
 ……。
 ルク、女王になれるのかなぁ。
 目の前で楽しそうに話すおじさん達、食事の支度や片付けに忙しい女性の行き交う姿、さらに外には物資を積んだ馬車に行商の商人や、見物にやってきた旅人達の姿も見える。何もなかった廃墟から、魔法のように集まった人達。その人達をまとめ上げたのは、たった一人、リウレムさんなんだ。
 国王になれば、今よりももっと大勢の人々をまとめて行かなくてはならない。
 リウレムさんなら、きっとできる。
 でも、ルクは?
 まとめられる?皆の想いに応えられるの?
「王宮って危ないのか?」
「そりゃ危ねぇよ、小僧。どこが崩れてくるかも解りゃしねぇんだ」
「でも、リウレムさんは行ったんでしょ?」
「兄さんは特別さ」
「いや、特別じゃないだろ」
 ロレックスさんの声が低くなった。
「誰かがしなくちゃいけない。リウレムさんがやらなければ、あんた達の誰かがしなくてはならなかったんだ。特別だなんだって理由つけて、甘えてんじゃねぇぞ」
 そう言い捨てると、口が開いて塞がらないルクに笑ってみせた。そしてルクの隣でようやく飲み物を手に入れたサトリさんに言い放つ。
「サトリ、さっさと飲み物飲んで王宮跡地に行ってみようぜ!」
「お前って奴は…ごほっ!ごほっ!!」
 盛大にむせるサトリさんの姿に、ロレックスさんは楽しそうで仕方ないように笑った。
 ルクはさっきのロレックスさんの言葉が分かり切れていないけれど、きっとルクに気を遣ってくれたのかもしれない。しょんぼりしてたのが、顔に出ちゃってたのかなぁ。ロレックスさんがルクの顔を見ていたかもしれないと思うと、恥ずかしくて前髪を少し多めに垂らした。
 王宮は手前にある大聖堂、そして奥にある執務が行われる場所、そして関係者の住う場所と大きく三つに分けられていた。でも、王宮の半分以上が大聖堂で構成されていて、ほかの二つは本当に小規模なもの。執務もほとんどが王宮の外に本部が構えられていたし、王族と大神官くらいしか王宮で暮らせる者はいない。
 だからだろう。
 王宮としては世界で最も美しいとされていたのは。
「俺はムーンブルクを話でしか聞いてなかったけど、廃墟でもこれだけ立派なんだな」
 ロレックスさんが大聖堂跡の丁度ど真ん中辺りで立ち止まって、天井を見上げた。まだ日が高いからか3本の塔のちょうど真ん中にある大聖堂の底にも、太陽の光が届いてくる。今は谷底から空を見上げるように黒々とそびえ立つ塔だけれど、もともとは水晶のように光を透かして輝き大聖堂には様々な伝説を記したステンドグラスと彫刻が荘厳に安置されていた。記憶にあった様々が足下の瓦礫になってたくさん残っていた。どれも炭のように真っ黒だ。
 少しだけ、あの光景を思い出して体が震える。
「この足跡はおっさんのだろうな」
 見上げる光に白くなった空から降り注いだだろう雨や風に埃が積もって、その黒はうっすらと灰色にくすんでいた。
 その埃の積もりに、足跡が奥へまっすぐ続いている。リウレムさんの靴跡なんだろう。下見にきた割にはわき目もふらすに進んでいるような気がする。奥といえば居住と宝物殿のあるエリアだ。ルクは特に考えもなく、その足跡の向かっている奥に歩き出した。
 歩いて足をついた時、足の裏から無気味な振動が伝わる。
「…!ルクちゃん!」
 焦ったようなロレックスさんの声が響き渡ると、ルクは視界に小石が上からぱらぱら落ちてくるのが見える。ううん。それだけじゃない。小雨のように砂が降ってくる!
「そのまま奥に走れ!ルクレツィア!」
 サトリさんの言葉に、目の前の暗闇に飛び込むと、重い振動に地面が揺れた。轟音が耳をつんざいて、耳を塞いで踞るルクは恐ろしくてただ過ぎ去るのを待つ。体のどこも痛くないけど、もしかして痛みも感じないうちにぺっしゃんこになっちゃんたのかなぁ!うわぁ!どうしよう!!
「ルクちゃん!大丈夫か!!」
 ロレックスさんの声だ!じゃあ、ルクは生きてるのかな?
 恐る恐る目を開くと、何も見えない。真っ暗だ!不意に体に触れる堅い感触。何も分からない状況のくせに、ロレックスさんの声は聞こえるのが余計に不安をあおる。手助けできない状況にいる頼れる人、自分はどうしたらいいのか、全く分からない!!
「わぁぁぁぁぁあああっ!見えないよ!何も見えないよ!どうしたらいいの!?どうしよう!!」
「落ち着け、ルクレツィア。レミーラは唱えられるか?」
 レミーラ…、レミーラ…。
 サトリさんの低い声に少しだけ冷静になった気がして、大きく息を吸って手のひらに光を生み出す。
 生み出された光が眩しくてよく見えなかったが、徐々に周りが見えてくる。目の前に広がるのは奥へ続く、住居や宝物殿のある所へつながる通路だ。振り返るとすぐそばには崩れた岩がいくつか転がっていたが、もっと奥は完全に大きな岩ががっちりと塞いでいた。いや、岩じゃなくて崩れた城の一部なんだろうけど、あれだけ大聖堂に降り注いでいた光も入り込めないほどに塞いでいる。
「ルクちゃーん。怪我してないかーい?」
「うん。どこも怪我してないよ」
 再び瓦礫の向こうからロレックスさんの声が聞こえてきた。
「ルクレツィア、今の崩落でこの大聖堂もかなり危険だ。僕達は一旦ここを離れようかと思う。僕のベギラマやルクレツィアのイオナズンでこの瓦礫を取り除くことは容易いが、更なる崩落を招く危険がある」
「それで、ルクちゃんはこのままリウレムさんと合流して別ルートで出口を探してもらった方がいいと思う。これだけ大きな城だからな、王族だけの脱出口ってのもあるだろうし、ルクちゃんならリレミトも使えるだろうし…」
 そこでロレックスさんが言葉を止めて、声を深めた。
「これからリウレムさんに会うまで独りだけど…大丈夫?」
「うん。頑張ってみる」
 ルクが誰もいないのに頷くと、瓦礫の奥からさらにロレックスさんが言った。
「俺も大丈夫大丈夫聞いててさ、ルクちゃんにいろいろ無理させちゃって悪いな。本当に、恐くなったら呪文で出てきていいからな。リウレムさんも大人だし、シクラもいるからどうにか脱出するだろうからさ。あんまり頑張るなよ」
「僕らも回り込んで他に侵入口があるか探ってみる。無理して怪我でもされたら困るから、無茶する必要はない」
 光が滲む。
 目をきつく閉じると閉じた間から収まらなかった分が一斉に溢れた。レミーラの力を貫通して雫が手のひらに落ちると、もっとあふれてくる。
「あ、ありがとう」
「ロレックス、ルクレツィアを泣かせるな」
「俺かよ!!」
 瓦礫の向こうでサトリさんに叩かれたんだろう批難を浴びせるロレックスさんのやり取りに、ルクは唇の端が持ち上がって気持ちが明るくなるのを感じた。こんなに優しくしてくれて、思ってくれる人がいて、ルクは…、ルクは幸せだな。
「ルク、行ってくるよ!ロレックスさんとサトリさんは、さっきの女将さんの所で待ってて!」
 あまりグダグダしてると二人がここから離れられないかもしれない。ルクは駆け出して、通路に残った足跡を追った。
 瓦礫やガラス片が大量に散乱する通路は、石像が壊れて倒れていたりとおっかない。光でそれらが映し出されると、さらに奥はもっと真っ暗になってルクを待ち構えているんだ。行かなくてはならないと、行けると、二人にもらった勇気のおかげで行く気はあった。けれど、もともとルクが持っていた恐がりがひょっこり顔を出して立ち止まると進めなくさせる。
「恐いよぉ……怖いよぉ…」
 声に出さなきゃ息もつけないほど、胸が苦しい。吐きそうになる。
 でも口にできる言葉がそれしかなくって、よけいに恐くなって泣きそうになる。せっかく二人に励ましてもらったのに、どうして、こんなに…。
 ついに下を向いて立ち止まった。
 立ち止まればよけいに恐くなるのは分かってる。それでも沈んだ気持ちが足を枷を嵌めたかのように重くさせて動かなくさせて、息苦しく感じる自分の臆病さが情けなくなって、ついにレミーラの光を抱いてしゃがみ込んだ。どうしてこんな気持ちになって立ち止まるのかすら分からない。だから、よけいに、苦しいんだ。
 鼻先に小さい空気の流れを感じた。
 目を開けるといつの間にか、そこには紫の蝶がいた。
「…あ」
 励ますようにルクの鼻先をひらひらと飛ぶ蝶は、幻でレミーラの光を透かして輝いた。羽ばたく度に光る粉をまき散らし、懐かしいうっとりするような香りをたてた。蝶は光を浴びて朝焼けのように輝くと、ゆっくり前に向かって羽ばたいてゆく。
 そして、遥か通路の奥からやってくる光に溶けて消える。
「…ルクレツィア様じゃないですか!」
 ランプの光を翳して、リウレムさんが驚いたように駆け寄った。さっきの蝶と同じ色の髪と瞳が、ランプとレミーラの光で曙の輝きのように灼熱した色に見える。腕に絡み付いていたシクラがひんやりとした触手をのばして、ルクの頬に触れた。
 溢れ出た安心感にどっと涙が出る。吐き気が嗚咽になった。今まで、誰かの前で泣くなんてしなかったのに、どうしてもできなかった。
 優しい人々、希望を持って臨んでいる未来、賑わいが、笑い声が、世界そのものが、全部が全部、今の感情になんの関係のない何もかもを巻き込んで、ルクの感情をもみくちゃにした。宿命も、使命も、これから先の未来の神託も、何も知らないで生きている人々が不憫でならなかった。誰にも言えるものではない真実を抱え込まなくてはならない、かつての自分が味わった苦悩がルクが追いつめられた事によって吹き出した。
 …。
 ……。
 ………。
 歩く足音だけが鈍く、単調に空間に響いていた。泣きつかれていつの間にか眠っていたのかもしれない。ルクはリウレムさんに背負われていた。
 目を開けないで寝た振りをしながら、リウレムさんの背中に預けていた体がじんわりと暖かくなるのを感じる。心臓の鼓動を聞きながら、落ち着いてゆくのを感じる。頭の少し上でシクラの独特の声が響いた。
「リウレム、大分奥まで進んだけどこの先には何があるヨン?」
「さぁ?今では誰も知り得ない、ムーンブルクの秘密…らしいんだけどね。なんでムーンブルクの民は漏れなく魔法の力に優れ呪文の才に溢れているかとか、どうしてムーンブルクをミトラの両拇指という神様の一部が御自ら作ったのかとか、なぜって疑問の答えそのものがあるんだよ」
 リウレムさん、シクラとお話しする時は敬語使わないんだ。
 やっぱり、誰にでも特別って人がいるみたいで少し残念。
 そこでリウレムさんが声を小さくした。それでもルクは彼の背中から言葉を聞く。
「この地下には巨大な魔力の流れがある。その魔力はかつて世界を滅ぼした破壊神の器を封じ込める時に、神官達が生み出した大規模な竜脈であり魔力の坩堝となるべく生み出された空間そのものなんだ。この地で生を受けた者はその膨大な魔力の余波を、母体に居る時から蓄積し影響を受けているために魔力の才に秀でた者が例外なく生まれる」
「じゃあ、リウレムは?」
 初めて聞く話なんだろう、シクラが恐る恐る聞くのが分かる。
「さぁ…ね」
 ルクを背負い直すと、リウレムさんは再び歩き出した。
 吹き上げる風がルクの髪を持ち上げて巻き上げる。
 そこは断崖絶壁のような空間に膨大な魔力が渦巻き、侵入する者を立ち所に肉片も残らぬほどに粉砕するほどの激流となっているはずだ。神官達はこの場所を突破できるものが、ごく限られた存在でなければならないとした。ルクでも突破できない。力に力をぶつけてもどうにもならない、そんな空間だ。
 そこを越えるのは、力を凌駕する者でなくてはならなかった。
 それは
 全ての力を統治する神でなければできない事だった。
「このままではこの目の前にある力と変わらぬものが世界に降り注ぐだろうな。ここだけじゃなく、世界が廃墟になる」
 リウレムさんが歩みを止めた。
 足を止めたついでに大きなため息がこぼれて、体の力が抜けたようだ。ルクを支えてくれていた腕の力が緩んで、落ちないように思わずしがみついたのを感じてかリウレムさんは笑った。寝たふりを知っていたよと、言いたげに。
「まぁ、ルクレツィア様が狸寝入りできるんだから、まだ平和なんでしょうね」
「い、いじわる!!」
 頬が熱くなる。
「はいはい、それでは二人でブラック・オーブ回収して、ロレックス君とサトリ君の所に戻りましょうね」
 真っ暗な闇の中で光る明かりが、今、目に映る限りの希望を照らし出してくれる。
 久々に見る笑顔のリウレムさんとシクラに、ルクは怒ろうか笑おうかちょっと悩んだ。