のろい

 『力を合わせて、救える限りの人々を救いましょう』
 私のそんな言葉に、太陽はたくましく微笑んで応じてくれた。
 しかしその時から我々は違うものと、なり始めていたんだと思うのです。

 □ ■ □ ■

 ムーンブルク国土を一望できるほどの高さを誇る、ムーンブルク城の三対の塔。
 その土台となっているのは当然ながら大聖堂であったが、主要機関は城外に配置されており他国ほど城としての機能はそれほどない。芸術的建築物としての評価が高く、その一端を担っていたのが空中庭園だった。四季折々に花々を咲かせ葉を茂らせ、時に鳥たちが羽を休めにやってくるこの庭園は、小さいながらに自然を城にもたらしている。その空中庭園の世話は誰がやっているかというと…
「なんで、庭仕事をしなくちゃならないんだよ…」
 僕は拳で流れてくる汗を拭うと、眼前にある自然を見ながら呟いた。
 外交官の職務に就いてからまだまだ3年の程度ではあったが、空中庭園の世話に年功序列などなく、もう主任を任されたり外交官長の任に就いている者でさえ同じように庭いじりをしているのだ。視線を巡らせれば若くとも中堅の先輩が苗木を地に埋めており、白髪の混じる幹部が木々の葉を刈り虫を捕っている。同期は僕から少し離れた所で草むしり。
 あまりぼんやりしていると怒られるのですぐさま作業に戻るが、心の中は不平不満でいっぱいだ。
 心底、信じられない。
 アレフガルドの闇の衣の力が薄まる前は、良くここから僕以外見ることのできないアレフガルドを眺めていたが、誰が庭の手入れをしていたかなど気にしたこともなかった。この城に働いている者はどのような身分であっても、僕が王位継承権の低い現国王の長男であり魔法の使えない出来損ないだと知っている。打ち解ける気などさらさら無く、ペタなどの田舎で悪戯の限りを尽くすガキ大将として野を駆け巡っている方が性に合っていた。実際、幼少の頃にはこの城には居なかったから、当然は当然だった。
 城の人間がどのような事をしていたかなど、全く知らない。だが優雅な生活を営んでいるという思い込みから、こんな事をしているとは夢にも思わなかった。
 3年この仕事をしていて思うが、僕は空中庭園の手入れは心底不満だった。大嫌いだ。力を入れ過ぎれば草木の茎は痛み、葉を切り落とし過ぎれば死んでしまう。農作業と明らかに違うのは、繊細な草花の扱い。ペタで長年親しんで来た農作業に慣れ切っていた僕には、いくらやっても慣れない作業だった。四季折々に入れ替わる花々の種類は覚えきれなくて、手入れのし方なんて上の空でやる気など更々なかった。第一、外交官とは人と対する仕事じゃないか。なんで、庭仕事をしなくちゃならないのさ。あぁ、腹立たしい。不満しか出てこやしない。
「庭仕事が嫌いかぁ?リウレム?」
「うわぁ!?」
 驚いて飛び退くと、うっかり先ほど抜いた草の上に尻餅をついてしまう。
「案外元気じゃん。仕事増やすぜ?」
 そう言うが早いか、先輩は葉巻きに火をつける。白い煙を前に吹き付けると、まっすぐ場内の方角を指差した。
 夕暮れとも朝焼けとも言える、濃紺と深紅の移ろいを刻んだローブをまとった人々が場内を行く。
 ある者は巨大な地図を何束も抱えて、ある者は資料の束が入った箱を持って、ある者は会議で出す飲み物を、椅子を、砂時計を。月に一回行われる外交官会議では国王も参加される大きな会議でもあった。今回可決されたのは新たに発見された新大陸、アレフガルドとの専属外交官の任命であり会議の結果人選が行われたはずだ。国王参加の会議は本当に数名の幹部のみの参加しか認められないため、僕が行くことはまずないのだが…。
「やっぱり俺の予想は当たるな。今度のアレフガルドの専属外交官の担当が、俺とお前に決まった」
 やっぱりなぁ…。
 もちろん外交官になって3年程度の経験を持った者が専属外交官になれるわけもなく、僕は先輩のサポートを行う事を主な任務とする。それでも僕はアレフガルドの要人との面識やパイプがあり、専属外交官として主に動く先輩よりもアレフガルドの状況を知っている。
 それに今のうちに外交官としての修練を行った方が良いという、幹部達の思惑があるに違いない。
 アレフさんがほとんど開拓の行われていない、北大陸に建国しようと意欲的である事は結構有名である。ムーンブルクとデルコンダル間の船舶運航費のあまりの高値である事に目を付けたアレフさんは、未開拓の北大陸の陸路を確保しようと画策し動き始めようとしている様子があるのだ。アレフさん夫婦と交友関係にある僕だから、アレフさんの動きをより速く察知できた。とは言え流石に関係を築き上げた人物を遊ばせておいて、別の人間に一から関係を築かせるなどという手間をするほどにムーンブルクの外交官は暇ではない。
 アレフさんが建国作業に着手しようとした時には、阿吽の呼吸で接触や情報交換、そして適切な援助を行える人材が必要になる。
 それは僕の役目となるだろう。だからこそのアレフガルド専属外交官の補佐役として任命を受けることになったのだろうから。
「それだけお前の期待が厚いって事だよ。3年目で専属外交官の補佐ができるかっていうと、まぁ…確率的に半分半分だな」
 言い終わりが微妙であったのは、僕が王位継承権が順位が最下位であっても所有しているという意味も示唆しているんだろうと思った。王族の傍系が外交官になる事は決して珍しいことではなく、国王の良き相談役として要職に着いたりする事が望まれたりする。
 しかし、王族の専制政治は国民の反感を買うだろうに…。
「運がいいだけです」
「名誉なことだ。ちったあ喜べよ」
 僕の答えに先輩が軽く僕の頭を小突く。
 中年に差し掛かるだろう年齢の先輩は、奥さんと5人ほどの子供のいる家庭を持っており面倒見がいい。その脂っ気のないパサパサした髪に無精髭、目尻に皺が刻まれはじめた顔をにやりと笑わせて、つかみ所のない飄々とした調子で接してくる。この城では居場所が見いだせず一人でいることの多かった僕にとって、彼の干渉は非常にありがたかった。仕事の相談、業務の手引き、ほとんどを彼から学んだから、先輩というよりも先生というべき人物だった。
 しかし、僕は彼が苦手だ。
「じゃあ、この後のアレフガルドの基本調査記録の整理も任せちゃって大丈夫だな?国王陛下への口頭報告と文書報告も両方用意しておけよ」
 それって僕に徹夜しろってことですか?
 しかし、口答えすれば仕事が増やされるだけだと僕は身を以て知っていた。黙って小太りで大きな体を見上げると、二重顎の下をさすって先輩は口笛を吹いた。
 この人は…僕を補佐に指名したんだな?こき使う気満々で、自分が楽しようと考えてるんだろ!?先輩は呪文は得意だが動きは素早くないから、小回りと武術の心得がある僕は仕事もできてこき使えてボディーガードもできるのだから一石三鳥。考えが見えて、げんなりする。
「実感がないらしいが、お前の同期の外交官達よりお前は優秀だぜ」
 僕が報告書の提出と口頭での報告が大の苦手なのを知って尚、報告書の提出は人の倍出され口頭報告も人一倍やらすんだ。先輩に報告を行う前日など泣きながら資料を繰って報告書を書き綴っている。笑って無理難題や僕が苦手な事をやらせる先輩は、僕をいじめてるんじゃないかって思うほどだ。
 いや、絶対にいじめてる。扱いているってレベルじゃないだろ。
 反感の一つや二つ、無い訳がない。撫でくりまわされる頭の下から、精いっぱいの嫌みを込めて僕は答える。
「貴方のおかげです」
「しかし、お前が世話している林檎の木は、実りが悪いなぁ。ちゃんと世話してんのか?」
 先輩が見上げると、確かに林檎の木はようやく花を付けたばかりだ。育ちのいい木はもう果実が生っている物もあり、僕が今世話をしているこの木は非常に育ちが悪そうに見えた。元々、このような庭仕事に対して積極的でもないのだからそうなってしまうのは、誰もが見ても明らかだった。
 先輩は笑って林檎の木を見上げた。
「いいか、リウレム。お前がこれから立ち向かうのは人の心の闇だ。利害などは自然から生まれない、全て人の中から湧き出て世界を覆い国を動かし人を殺す。だから世界を知ると共に自然を知るといい。見ろ、この素晴らしき潤滑する世界を。この世界は完璧だ。不完全なのは我々だ。だから、この世界で生き続ける不完全な我々が今ここにいるのは大変な成果だ。誇れることだ」
 だから、とムーンブルクの空中庭園を見回して満足げに微笑んだ。
「お前が向き合っているのは今は木一つだ。だが、この庭園はこれだけ沢山の植物がある一つの生物だ。庭は小さい国家なんだよ、リウレム。お前の手入れの仕方や接し方一つで、この庭は枯れ果てるかもしれんし素晴らしいものになるかもしれん。人の国家も同じだ。”これでいい”という正解はどこにも存在しないだぞ」
「はぁ…」
 だからって、庭仕事をさせるのか?普通?
 僕は反感が半分を占める脳裏で、その言葉の重みを十分理解できていなかった。おっさんの戯言なんじゃないかとすら思う。
「とにかく、国王陛下から正式な任命式がある。お前も参加だ。行くぞ!」
 手を乱暴に引っ張られ、僕はたたらを踏みながらも先輩についていく。先輩の巨大な背中でよく見えない視界に映らぬ外で、異様な気配とすれ違ったのを感じて振り返った。
 意外なものと目が合った。
 魔物だ。その大きさは見上げて首が痛くなるほどに反り返らなくてはならない大きさで、そんなものがいるはずないと改めて思い返す余裕すらなくなってしまうほどだ。青い肌は硬質な光を反射して日の下にそびえ立ち、一つの瞳が僕を見下ろしていたが太陽の下で黒くなった影の中で爛々と輝いて嫌にはっきりと分かる。腕は林檎の大木の幹を三本束ねたほどに太く、巨体に空が多い尽くされたかのように全く見えずにいる。その瞬間、息すらもできずこの場で殺されてしまうのではないかと錯覚した。
 するとその巨大な魔物が林檎の木に青々と茂る葉を指先で探って、林檎が生っているか探っている。しかし見つからないだろう。
 落胆するかのように丸くなった背中を見て、躓きそうになり再び体勢を直してその背中を見るとそこには女性がいた。獰猛的な荒れ狂う雷雲を思わせる髪、褐色の肌に浮かび上がった引き締まった筋肉。真っ赤な瞳が黒くなりはじめた血溜まりのように禍々しかった。
 人の女性だったが目を凝らせば、僕にはやはり魔物の姿が見えた。
 しかし魔力の優れ変化すら見分ける力を持ったムーンブルクの民の誰一人気が付かず、その魔物自身からも殺気が感じられないがために、僕は魔物よりも恐ろしい先輩に従うことにした。他人に見えぬものが僕には見えることは、別に今に始まったことではない。

 大聖堂に降り注ぐ極彩色の光は闇との対比で美しくきらめき、闇は重厚な空間を生み出した。数々の精霊の彫像がミトラへの賛美する姿で彫り込まれ、炎と水と大地と金属と木という五大属性の象徴が随所に示されている。
 親の顔を見るのはどれくらい久しぶりなことだろう。もう数年という生半可なものではない。この広大な城ではたった一人の存在に遭わずに生活するなど、拍子抜けするほど簡単であり、それがスケジュールも事細かに決まっている国王ならばなおさらだった。
 外交官の仕事に就いた今では城下町に一室を借りて生活している。王城に居るのは外交官としての勤務や、王城に居る知り合いに呼び出された時くらい。
 もはや子供という認識も持っているか疑わしい限りだった。
 その僕の思いは、親にも共通であったらしく任命式は非常にあっさりと進んでいた。
「二人とも、ムーンブルクの発展と繁栄の為に尽力を尽くすことを期待する」
 父親の声が響くと、静寂が落ちた。
 しかし、退出する足音は響かない。いや、僕に歩み寄る足音が響く。
「…!?」
 驚いて顔を上げると父親がすぐそばにいる。冷静に考えれば大聖堂を出るべく、国王が立っていた段をおりた所だっただけなのだ。
 紫の髪に白髪を混ぜ年齢を感じさせる皺を刻みながらも、威厳溢れる顔は厳めしく厳しい人間と感じさせる。僕の身長も相当のびたのか、思わず立ち上がった瞬間もう父親を追い抜いたと実感した。
「し、失礼しました」
 驚きのあまり礼節を欠いた立ち振る舞いをしておきながら、上ずった声で国王に謝罪する。こりゃ先輩に仕事増やされちまうなぁ、と己の失敗を悔いる。
 しかし国王は少しだけ顔を、そう、照れくさそうに崩して歩み去っていく。深紅のマントが扉の奥に消えた時、僕は大きく息をこぼして一番近い椅子に腰を下ろした。先輩が意地悪く横に立つ。
「味けねぇ親子の再会だなぁ?」
「別に離ればなれになっていた訳ではないでしょう?」
「分かっちゃいねぇなぁ。姿が見えなきゃ、生き別れと変わりゃあしないのさ」
 そして形だけ葉巻きを銜える。ここでは禁煙なのでもちろん火はつけない。
「久々に会った子供が自分の背丈も超えるほどでかくなって、外交官っていう国の為の仕事をしてくれて嬉しくない訳がないだろうに」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだ。明日からは忙しくなるからな、頑張ろうぜ」
 先輩はそういい残して、大聖堂をえっちらおっちらゆっくりとした速度で歩み去っていく。背後で口笛の音がひゅうと響くと、そのまま扉が閉じた。
 誰もいないと思ったが、異様な気配に僕は振り返った。
 目の前に翳されたのは真っ赤に熟れた林檎の果実。生命力に満ちた深紅に色立つような甘い香りが漂い、その果実に貯えられた魔力はこのムーンブルク城で育たなければ蓄えることができない濃厚な魔力だった。間違いなくこの城で育った林檎だ。そしてこの城で林檎の木はたった一本しか存在しない。
 しかしそんな事は問題ではなく、内心は動揺でいっぱいだった。この城に立ち入る時点、この世界にやってくる時、どうしてこのような悪魔の存在に気が付かない!?これほどまでにはっきりと見える姿。禍々しい強大な魔力を秘めた黄金色の悪魔を、なぜ魔力に優れたムーンブルクの民ですら気が付かない?
 どうして誰も気が付かない!?
 僕はあまり表情に感情を出さないように意識しながら、その林檎の果実を持った金色の悪魔を見上げた。
「林檎、育てちゃったわ。ポヴォイルが寂しそうだったのでね」
「勝手なことを…」
「貴方がしっかり育てなかったからよ」
 返す言葉がない。そんな僕の様子に悪魔は嬉しそうに笑った。
「あははっ!良いわ。やっぱり今の貴方の方が好感が持てるわ。…隣、良いかしら?」
 先輩が口笛を吹いたのは彼女を見たからか。
 僕は何も答えず、彼女も時に気にした様子もなく少し離れた位置の同じ長椅子に腰掛けた。
 僕が睨み付けると、豪奢な金髪の下に深紅の瞳をいたずらっぽく笑わせている女性がいる。惜し気もなく香る色香に唇は瑞々しい果実のように艶やかに尖り、瞼に覆いかぶさる睫は重く眠たげに無防備に欲望を誘い、何気なく差し出された指先の細さは舞を踊るかのように滑らかだった。
 しかし目を凝らせば金色の悪魔がいる。
 自ら輝く黄金の体毛が流れる水流のよう尾まで輝き、ひねこびた角は鋼鉄よりも硬い質感でありながら象牙のように複雑な模様を抱き、翼は鏡のように周りを反射させ目まぐるしい迷彩が美しく目に映る。まるで彫刻が形になったように美しい巨体だ。退けられし者として数々の人々が想像した悪魔たちがいたが、邪悪で強力な力の持ち主だろうその悪魔は想像の産物の名で最も力を有しているとされたベリアルという名が相応しいと思わされるほどだ。
「貴方に会いに来たのよ」
 女性が含み笑いをした。
 少しだけ見開いた瞳、その動作一つで悪魔は僕の心の内を読み解いたようだった。
「私の名はラベール。お久しぶりね、ラルバタス」
「私の名はリウレムです。現在のラルバタスの継承者は現国王で、その呼称を私に使うのは不適切です」
「あら、そんな事ないわよ」
 ラベールはその細くしなやかな指先で、彼女自身の額を指差した。
「私には貴方の額に三日月の印が見えるわ。性別は違えど、何もかもが昔のままよ?人の輪廻に溶け込んでも、ミトラの一部である魂の匂いは隠せない。真下の竜脈に封印した天の斬血石の力の影響もなく、この地に生まれ落ちるなんておかしいと思わないの?どうして魔力に秀でた人間ですら見抜けぬこの変化を、貴方は見抜けるの?」
 言葉の意味が胸を突く。
 確かに僕は特別な生い立ちで、歴代の王族の中では異端と呼ばれるほどに変わった存在だった。
 魔力を感じる機能が生まれた直後から際立って高かった僕は、将来強力な魔法使いの素質を備えていると異常なまでの期待を持たれた。魔力を感じる事は呪文を使う事よりも難しく、誰もが呪文を学び魔力を知ってから意識してから感じるといった順序をたどっているのが一般的だった。もちろん、優秀な賢者は呪文を学ぶ前から魔力を認識している例はある。しかし僕は生まれて間もなく、人が五感を駆使して世界を認識するのとほぼ同時に魔力をも認識していたと僕の幼い頃を知る人間は言う。それは歴史上類を見ないことだ。
 だが、呪文が使えなかった。
 故の王位継承権の順位格下げとなったのだ。剥脱されなかったのは、ただの保険でしかない。
 僕を惑わそうとでもしているのだろうか?悪魔の問いは確かに的を得てはいたが、僕の心を無駄に自信過剰にさせるだけかもしれないとも思った。利点は、あまりない気がするが。
「僕は国王陛下の子供ではない。そう推測もできましょう」
 そうだ、認めてはならない。
 僕は、それだけは認めてはならないのだ。
 あってはならない事なんだ。
 認めれば穢してしまうのだ。ムーンブルクの栄光も血筋も存在さえも。ラルバタスの神聖さもその一部を預け賜うたミトラの恩寵もサラマクセンシスさえも。否定し穢し辱める。僕はただのリウレムとしてこの世界に存在しなくてはならないのだ。
 その言葉にラベールは含み笑いを堪えられず、零すように笑い声をあげながら、戯けた手付きで林檎の果実を椅子の上においた。
「でも、呪文が使えないのは思い込みよ。貴方の魔力は全て、ミトラの生み出した存在を見る為に、ミトラの恩寵に満ちた世界を知るために、ミトラの言葉を聞く為に使われている。貴方なら、きっと未来までもが見えるでしょうね。そうなるべくして、そうなったんですものね?ラルバタス?」
 林檎の果実は静かに椅子の上で、日に光を浴びて輝く。その向こうで悪魔は楽しそうに立ち上がった。
「神の一部が神に背いても、しなくてはならない事…。貴方がする事をとても楽しみにしているわ」
 それは今までガキ大将として振舞っていた時の短絡的な怒りでも、癇癪じみた憤りでもなかった。じわじわと胸から沸き上がる思いは言葉にできぬほど苦しく、自分が関わったものを汚された屈辱の味が食いしばった歯の間から漏れた。自らにすら隠していた事を、知りたくもなかった現実も、悪魔の言葉のわずかな切っ掛けで昔を思い出すように吹き出してくる。突き付けられる。
 そう、きっと、遥か昔のことなんだろう。
 遥か昔の僕の事なんだろう。
 僕は一人になっただろう空間で、思いっきり林檎を叩き潰した。

 □ ■ □ ■

 太陽が昇りはじめる。
 月が空に融ける直前の銀の輝きを持って紫の空を照らし、太陽が君臨する前の黄金色の輝きを放って赤い空の中にいる。
「私は初めて貴女に逢った時、貴女の額に白金色に輝く太陽の印を見たのです。貴女こそ正当なるサラマクセンシス、太陽であり、ミトラの右拇指であるのだと思ったのです」
 ルクレツィア様の瞳が驚いたように見開かれた。
 私は彼女の前に膝を折り、そっと小さな手を取る。
「私は貴方に仕えましょう。この地を照らす太陽であろうとする貴女の為に、人々を導く月となりましょう」
 私達はもうミトラの一部であってそうではない。人を救うことにも拒否すら思うだろう危険な賭けをしてでも、人の運命に干渉するという禁忌を手に入れた。私達は一部でありながら、ミトラに逆らう異端なる存在でもある。しかし、そう望んだのだ。遥かな昔、多くの人々が死に絶えた地を目の当たりにして。
 ルクレツィア様がまっすぐ私を見て、ゆっくりと言った。
「お願いします。リウレム・ブルクレット・ムーンブルク…」
 私は頷いて、昇り始めた太陽と沈み始めた月の彩る空を見上げた。
 太陽と月が共に天に昇っていられる時間は、多くないものが定め。かつて、君は言った。
 だから、私は『今』ここに居るのだ。
 この、刹那なる奇跡の時間に…。