世界樹

 二人は双子。繋がれた手から左右対称と見紛うばかり。
 少年の名はピライーバ。
 少女の名はピラムターバ。

 □ ■ □ ■

 天井に届くか届かないかという所まで山積みされた本は、奇跡的なバランスを保って積み重なっている。全てと言っていいほどに何らかの走り書きや関連性のある資料が挟み込まれ、今後に関わる事柄にはペンやらインク瓶やらハンカチや靴が挟み込まれている。食器が本と同じように納まっていると思えば、腐る事も許されぬほどに圧縮されたパンも見受けられる。隙間という隙間に地図や明細書が突っ込まれ、からからに乾いた珈琲の残骸が残るカップが至難の業で覗き込めば見える角度にある。
 それらは図書館にあるような書物の類いではない。
 ほとんどがあらゆる政に関わる重要な資料であり、一枚で国すら動かすような内容が記されているものばかりだ。僕が目を通せばスパイと疑われても仕方がないような重要資料の数々が、全く重要ではない形でその部屋にあった。
 その部屋の主はといえば、僕の顔を見て驚いたように紫の瞳を見開いた。
「サトリ、ふるさとが恋しくなったヨン?」
「体の水分が恋しいなら黙っていろ」
 おっさんの腕に絡み付いていたしびれクラゲのシクラが当然のように絡んできたのを一蹴すると、僕は改めておっさんに向き合った。おっさんも紫の癖毛を掻くと困ったように微笑んだ。
「私は異論ありませんが、それはロレックス君と論ずる事でしょう?彼は君と契約を結んでいる立場です。護衛の任務とはいえ四六時中一緒という訳にもいきませんでしょうが、彼は護衛できる距離を保って置かなくてはならないはずです。今回の件も、この町は魔物に襲われないという理由で安全であるという事、暗躍するような如何わしい組織は私が感知するだろう意味からロレックス君が決めた事のはずです。あの子が、君との契約を蔑ろにしている訳ではないのですよ?」
 そこで、おっさんが一呼吸置いた。
「だから君が勝手にして良いという訳ではないのですよ」
「なら、おっさんはルクレツィアが一人で世界樹に出向くのを許せるのかな?攻撃能力は追随を許さなくても、戦闘経験の浅い子供だ。一人でそんな魔物も動物も蛇だって出そうな場所に向かわせられるのか?それこそロレックスの護衛としての能力が欲しいところだろう?」
 僕がうっすら笑みを浮かべて言った言葉に、おっさんは返す言葉もなく眉間にしわを寄せる。
「本来なら護衛としては自分が向かうべきだ。しかし、立場上動く事ができない。だから認めたんだろ?」
「動こうと思えば、手段なんていくらでもあります」
 しかし、おっさんが言えたのはそこまでだった。大きく溜め息をついて掌に頭を乗せる。
「ブラックオーブの破片がもっと揃っていれば、今頃最終決戦迎えてますよ〜」
 何でも世界を崩壊に追いやる力を封印する器となるべき黒い石が、おっさんやルクレツィアの想像以上に足りていなかったのが現状であるらしい。僕が見た限り綺麗な球体になりそうな滑らかな面が破片にあり、全体がそろえば見事な玉になるのだろう。そう思うなら、その破片は玉になるのには半分にも満たない程度しかなかった。
 その為に次の手として考えている手段を行うために、世界樹と呼ばれる伝説の存在の力を借りようとしているらしい。
 理由は知らん。
 何をしようとしているのかも、正直訊こうとも思わない。
 僕が考えている間に、おっさんも考えを改めたようで僕に向かって指を突き付けた。
「了承する代わりに」
「シクラは絶対に連れて行かんぞ」
 今、自由に動けるのはシクラくらいだからな。おっさんがロレックスに義理立てして、シクラを護衛の代わりに付けようと思うのを看破するなど身支度と同時進行でしている。かといって、未開の地であろう世界樹にシクラとルクレツィアのコンビで踏み込ませるという冒険は流石の僕もさせたくはない。
「しかし、それでは傭兵としてのロレックス君の立場が…」
「サマルトリアは僕の故郷だ。暗殺希望があれば、とうに殺られている」
 そこでおっさんは瞬き数回程度の間に、僕の言葉から様々な事を嗅ぎとったらしい。
「君が旅するようになった時期から、ロレックス君は王国領外の護衛をサマルトリアから仰せつかった事になるのでしょう。ならばサマルトリア王国領内はロレックス君の護衛の対象外になるはず。国王陛下もサトリ君に対しては守護する立場であるようですし…」
 力なく垂れていた手がピンと開いた。
「では、サトリ君。いってらっしゃい」
 なんか、負けた気分なのは気のせいだろうか?

 □ ■ □ ■

 徐々にサマルトリアの山間部に入り込み、坂と開けて遠くまで見渡せる場所が多くなってきた。サマルトリアの城下町と城の緑の瓦屋根が森の緑に溶け込み、白亜の壁が遠目から人の住んでいる場所だと認識させている。僕が出てゆく前とは何もかわらない。
 しかし、それよりも遠くに目を凝らすと何か違う。南の方角から吹く風が若干焦げ臭い。
 南にあるのはリリザとリリザ砂漠と呼ばれる広大な砂漠、そしてローレシアだ。南風に砂漠の砂が混じり埃っぽい事は度々あったが、焦げ臭く感じることは今までなかった。
 やはり大陸が分断されてしまった噂は本当のようだ。キメラの翼でサマルトリアに直帰したが為に、噂以上のことは聞くことができなかった。数カ月前に強大な光の柱のようなものが天から降り注ぎ、西はドゥーロ高原、南はヤーベ山脈を残してリリザ街道がサマルトリアの森林に入る手前くらいまで切り裂かれてしまったそうだ。もう、徒歩で勇者の泉にもローレシアにもリリザにも行くことはできないそうだ。
 ふと、雪木犀の香りがして視線を上げた。
 木々が生い茂るものの日差しに透かされて明るい空間に、逆光のように黒く陰る人影が僕の行く先を遮るように立っている。道は一本道でも、街道ではなく獣道よりかはマシな程度の生活道で、すれ違うには道を譲ってもらう必要がある幅しかない。その人影はルクレツィアよりも年下の印象を受ける女の子だ。彼女はゆっくりと頭を下げる。
 僕も軽く会釈する。
 頭を上げて微笑んだ少女は上品な顔立ちで、素朴な枯れ葉色のローブを纏っている。磨き抜かれた木材のような光沢を持った髪を持ち、樹液を集めて固めた天然の宝石のような美しい瞳を持っていた。しかし、肌は健康的な色ではなくやつれた印象を与えていた。それでも、少女は無垢故の美しさがあった。
「あまり、無理をするな」
 僕の言葉に少女は無理をするような笑みを浮かべた。僕は彼女の頭に手を乗せて促した。
 少女は歩き出す。僕にしてみればゆっくり過ぎる歩調に合わすため、僕は隣に並んでも前に出ないよう気を使う。
 靴は獣の皮を鞣したような薄い靴で、人の街に敷き詰められた石畳では足を痛めそうな靴だ。しかし、このような自然では相応しいものだった。僕のような旅で履く丈夫すぎる靴は、この獣道ですら傷つけてしまいそうなほどで居たたまれなくなる。
 喧騒から切り離されたようなこの世界は、どんなところよりも魅力的だった。静かな小川の流れ、澄み切った空気に、光に透ける新緑の葉。柔らかい土の感触は優しく、見渡す空は高く、見通す山脈は広かった。故郷として第一に思い出すその穏やかな自然に、僕は王国の存続などどうでも良く感じられてしまう。
 彼女は僕が森や自然に対して感じている思いを感じてか、優しく目を和ませた。
 名前は知らない。
 それでも、物心付いた頃から知っていた。いや、生まれた直後から知っていたんだろう。
 真っ白な空、真っ白な大地、強風の吹きすさぶ大地に飛ばされるものも流されるものもない。何もない世界。その世界で手渡された二つの体温。渡したのは僕を生んですぐに命を落とした母親から、赤子を受け取ったのは彼女。僕を抱いていた母親は共に連れて行く事はできないと、僕を彼女に渡したんだろう。
 彼女は不思議な人だ。
 死の淵に立たされた僕を、幾度と無く迎えにきた。雪木犀の香りと共に…。
 やがて、目の前に雪木犀の巨木が見えてきた。
 この大樹は先住民がこの地に住んでいた時代から、御神木と崇められてきた。万病に効く効力を持つとされ、葉を煎じれば病は治り、朝露を煎じれば悪霊を祓うとされた。花は花嫁と新たなる命の祝福に用いられ、この大樹の元で祝い事を行ったとされる。今まで歩いてきた道は、遥か昔に先住民が刻んだものだった。
 サマルトリアの国旗に記されている葉も、この雪木犀が元である。しかし、人々の記憶から遠ざかりもはやお伽話で子供騙しだと言われるようになったのは、先住民の意向とアレフの裁量だったとされる。サマルトリアが建国される時には、この大樹は人々の期待に応えてゆけるほど、若くはなかったからだ。
 雪木犀の大樹は古く、もうこの地では最も古い老木だろう。視界に収めきれないのに、花も葉の宿っていない枝も多く、新しい枝が芽吹く様子はない。はらりはらりと葉が木から剥がれ落ちて、地面に積もる。新芽はもう芽吹かず、朽ちるだけだろう大樹だった。その前に僕は立ち止まった。
 彼女も僕の数歩後ろで立ち止まる。
 世界は静かだった。
 崩壊するなんて遠いお伽話のように感じさせるほど、静かだった。ほとんどの者が知らない真実は劇薬だったが、知らないが故に繰り返さなくてはならない生きる為の日常は麻酔のようだった。
 その静けさが恐ろしくて、泣きたくなる。
 耳が痛くなるほどの静寂に、心音すらかき消されてしまうだろう。
 大変な事態が訪れた時になってしまったら誰もが手の届かない所に行ってしまう。ロレックスもルクレツィアも、共にいるとは思わない。いや、彼等から離れてしまうのは、きっと僕だろう。ロレックスには家族はいるが、それは傭兵の暗黙の結束が生み出した家族であり血の繋がりがあるとは必ずしも言えるものではない。ルクレツィアは家族も故郷も何一つ残ってはいない。僕だけだろう。家族も故郷も確実な繋がりというものがあるのも…。
 その静寂は、静かだからではなかった。
 不安が細波のように広がる。あらゆる気持ちをも叩いて潰す細波が、胸に覆い被さってあらゆる感情を押しつぶす。感情の起伏ができない息苦しさが、更なる不安を呼び起こし細波は荒波に変わる。
 僕の気持ちも静寂に耐え切れなくなって…くる。
『良いかい、サトリ。命をどうしようなんて考えてはいけないよ』
『なぜ?』
 かつての僕の主治医はそう言って、飲み物を勧めた。熱い飲み物はカップの中で湯気を立てて、僕と主治医の間を遮っていた。
『病気を治そう、命を救おう、言うのは簡単だよ。難しい、実行に時間がかかる術ではあるが言葉通りの結果が得られる事もある。確立してしまえば、法則に乗っ取った方法で、その分野での延命率は上がる。しかし医者は一人で病気が治せる訳じゃない。薬草は大地が、知識は先人が、経験は患者が与えてくれる。あたし達はそれらに支えられ、患者を助けられる。一つでも欠ければ失ってしまう、危うい均衡の元であるけどね』
 それではまるで、救う手段は完璧ではないと言いたげではないか。
 僕は苛立を隠せなかった。
『あんたは病に伏せる僕を救った身だ。僕の考えが理解できない訳じゃないだろう』
 僕の主治医は、自分のカップを持って中身を少し飲んだ。そのまま、視線は器の中に注がれる。
『サトリ。自分の病気が治るって、元気な自分を想像したことはあったのかい?』
『そんな昔の事は覚えていない』
 正直、言葉に詰まりそうになった。
 今は健康そのもので、目の前の主治医は体力がついて病気に対して抵抗力が付いたからだろうと診断した。体力のない子供の期間だけの病気とは決して珍しくなく、大人になって体力が付けば自然に治癒するものは少なくない。
 そう診断したのは目の前の主治医自身だ。なぜ、そんな事を問う?
 …だが、過去の自分は大人になれば病気が治るなど思う暇などなかっただろう。
『そう、治すという行為は自己満足じゃないかって思う。サトリ、君には良く思わされた。回復呪文ではどうにもならない体力、薬でどうにか繋いでいた命。生きながらえるだけ引き延ばされる苦しみに、苦しさしか知らないが故に耐えていた君を、楽にさせたいと思ったことが何度あっただろうね』
 拳を握って心の弱さを吐く。
『今はこうして元気だよ?でも、死んでしまったら、もっと早く楽にしてやれば良かったと思うことだろう』
 僕は自分の掌を見つめる。
 人を殺す呪文も、人を癒す呪文も行使できる、類い稀な手の平だろう。神官で人を殺める呪文を嫌う者は圧倒的に多い。だが、僕はミトラの御心を知るために死の呪文も学んだ。かつての病弱さ、死の淵に立った回数もあって習得は難しいものではなかった。
 頼まれれば癒し、毒も呪いも浄化するに違いない。僕にはそれができる。
『それは主張できなかったから、そう感じるんだろう。本人の意思があれば、選択を尊重するべきだ』
 しかし、目の前の先人は首を振る。
『主張には多くのものが含まれる。本心とは限らない。対象の置かれている環境、時間と共に移り行く心理、病気の進行、あらゆる条件から導き出されるものであって、純粋な本心そのものとは思ってはいけないよ。それよりも本人の些細な表情の方が、よっぽど本心を語ってくれる』
『じゃあ、僕はどうすればいいんだ?』
 癒す術も、浄化する術もある。蘇生の術だとて行使できる。
 自分で決定する事もできない、相手に選択させる事もできない。ならば、何が正しい?
『受け入れる事。それは本人とその周りの者達全てに対して…』
 湯気の立たなくなったカップの向こうで、かつての主治医は天を仰いだ。
『生を諭す事は容易い。しかし、死の存在を忘れてはいけない。死は別れであり、終わりではあるけれど、悲しいで終わらせてはいけないんだ。死は揺るがない。終わりは恐れるほど恐ろしいものではない、悲しみを感じさせない、悔いのない終わりを迎えさせることが重要なのさ』
『それは…、僕の問いの答えではないぞ』
『全力を尽くすことは簡単さ。後悔することも簡単だ。難しいのはただ一つ、納得し受け入れる事だけ』
 そして視線は戻された。その目は、まっすぐ僕を見ている。
『どんなに私達、病を癒し命を救う者が頑張っても無理だ。本人と、本人の心を携えてこれからを生きてゆく存在の問題なのだから』
 ……
 ………
 難しい限りだ。
 未だに理解に苦しむ。
 これが人生経験の差だというのなら、僕がこの言葉を理解するのにどれだけの月日が必要なのか分からない。答えが欲しいのは、今、この瞬間だというのに…。
 もう、樹は朽ちる。時間の問題だろう。手に触れる木の皮は触れる度に剥がれて崩れ、痛々しい内部を曝け出す。
「僕は、ようやくお前を見つけた。命の恩人たるお前を…」
 成すべき事の結果は見えている、成さざる事の結果も見えている。この老木には何を尽くしても朽ちてしまうだろう。回復の呪文も、蘇生の呪文も、浄化の呪文も、僕にできる全ての手段もこの大樹を生き存えさせる手段にはならない。なんて…無力なのだろうな。僕は…。
「恩を忘れる僕ではない…」
 僕は手の平をそっと木の肌に添わせた。
 目を閉じて空を見上げる。天から降り注ぐ昼の日差しが瞼を貫通して、視覚に痛みが走る。
 蘇生呪文は確かに難しい呪文で、誰でも覚えられるものではない。
 しかし、使える者を探そうと思えば簡単に見つかるものだ。
 蘇生呪文は回復呪文と違って、負傷者など呪文を施す者の体力を使わない。しかし回復するにあたっては消費されるべき体力に見合った力を、施す者に与えなくてはならない。呪文を施す者に与える力は、唱える者にとって様々だという特色がある。神官など教会に勤める蘇生呪文の使い手は、ほとんどが己の体力を与える。だが稀に自然界に流れる魔力を施す者に与える者や、強力な力を持つ道具を媒介として力を行使する者もいる。
 人には人の体力を与えるのが一番相性がよく、人の体力を動物や植物に与えても人ほどの効果は得られない。蘇生呪文の難しさは、術の際に与える力の浸透性である。しかし人は人以外に蘇生呪文を施す機会はない為、その問題性の重要性は大きくはない。
 だが、僕が今蘇生呪文を施すのは、人ではない。
「……ザオリク」
 光は森の靄に磨かれて輝き、静かに立ち尽くす木々に鮮やかな彩りを施した。流れるせせらぎの光が底まで届いた光の中で星の川のように輝き、苔蒸す岩肌をより一層緑深きものとし、木々の深い影に光を当てる。木々の影の奥に白く光が美しき階調を演出し、静寂を目に見させる。遠くから聞こえる動物たちの声が朝を祝福し、遠くに見える山々と横切る鳥の雄々しさが喜びに己を輝かせた。
 目を凝らせば長く年を重ねた木のガサガサとした木の皮まで見えそうな、深い香り。触れられそうな現実味。
 森を感じる。流れ込むだろう力を集めて、木に注ぐ。
「……」
 呪文はうまく発動したらしい。肌にまとわりつく空気は懐かしいものだ。
 幼かった僕は病弱だったからか夢から覚めるように意識が回復するまでの間、よくここにやってきた。病気であって怪我ではないために、蘇生呪文の効果が見込めない僕にとっては生死の境であったこの空気は城で過ごす時間と同等を過ごす場所だった。
 遠く、風が吹き込む方角に少女が見える。
 先ほどまでは数十歩と離れていなかったのに、今では目を凝らさなくてはならないほどに遠く霞んで見える。
「私はピラムターバ。雪木犀の主です」
 声は目の前で話されているほどに、近く大きく響く。
「僕はサトリ。命を救ってもらった人間だ」
「覚えています。最近はこの地に来られなくなられて相見える事がありませんでしたが、とても大きくなられましたね」
 まるで母が我が子に向けるような慈しむ眼差し。
 優しくて、心が痛む。
 彼女の視線が少し下がった。僕もつられて足下を見遣ると、そこには小さな若木が芽吹いている。鮮やかな緑は色彩のない世界に痛く眩しく存在した。若々しく生気に満ちた若木は雪木犀の葉を宿し、やがて花を咲かせるほどになるだろう。この大樹の落とした種から芽吹いた、彼女の子供なのだろう…。
「私の故郷は二つあります。一つはオトシンクルスの森、一つはサマルトリア…」
 僕は朽ちてゆく木に触れたまま、動けないでいた。四方八方に伸びた枝が崩れ、砂野ような木屑が霧雨の如く降り掛かってくる。手に触れた部分が崩れて、慌てて触れ直すとその場から崩れてゆく。
「私には兄がいます。もし、会う事があればピラムターバは幸せだったと伝えて下さい」
 枝が折れて地面に落ち、パッと数千の塵となる。力を流すことを怠れば、一瞬で跡形もなくなってしまうだろう。轟音を響かせて巨大な枝が、幹だったものが地面に落ちる。分かってはいた。肉体は、彼女の体である大樹はもう朽ちている。もう、戻る事などできない。蘇生呪文は、もはや死を早める呪文でしかなかった。
「兄は喜んでくれます。それは、私の喜びです」
 彼女は微笑んだ。
 この上なく、嬉しそうに。
 それは彼女の身内である兄を思うた笑みかもしれない。サマルトリアを故郷と言ってくれた程の思い出かもしれない。
「この樹は…、貴女は…僕にとっての世界樹だ」
 僕も笑うしかなかった。応えられる表情は、もうそれしかなかった。
「僕を生かしてくれて…感謝する」
 彼女がどんな顔をするのか恐ろしくて、顔が見れなかった。落とした視界の下から香る新緑の香りが彼女の応えのような気がした。
 どんどん崩れて低くなった大樹の欠片に触れるうち、僕は膝を付いている。大樹は切り株ほどになる。根が砂になり浮かんでしまって、触れる手が離れそうになる。
 そして…、何も手に触れるものは無くなった。
 そうして、どれくらい経っただろう?
 視線が映すのは極彩色の世界。もう夕暮れになるのだろう朱と紺の移ろいを雲に宿し、木々に暗い闇を落とす。どんなに視線を彷徨わせても、少女を見つけることはできなかった。
 心にポッカリと開いた空虚感。
 それを通ってゆく風を感じながら、僕は思った。
 これが、納得していないって事なのか…と。受け入れていないということなのだろう…と。
 新緑の香りが鼻に触れる。先ほど見た時と変わらない雪木犀の若木が、風に揺らいだ。まるで母の死など悲しくもないようだ。それもそうだろう。こんな若木の傍に大樹があれば、地中の養分は全て大樹が摂ってしまって成長することなどあるはずがない。彼女が死したからこそ、芽吹いたのだ。揃いも揃って親不孝ものばかりだ。
 僕は若木を見下ろして微笑んだ。
「…じゃあな」
 世界樹の兄妹はやはり世界樹だろう。
 僕は…そう思う。