虹の橋

 ムーンブルクには雨季がある。アレフガルドからの乾燥した北風がムーンブルクの北の海で海水の水蒸気を吸い込んだ雨雲と、東からの風に乗ったこれまた大量の雨雲とぶつかって凄まじい量の雨を落としていく。この雨が恵みとなって豊かなムーンブルクの領土を築いてくれている。
 勿論、ローレシアにも雨が多い季節はあったが、ムーンブルクに比べれば雨が多いと言うのも申し訳ないほどに感じる。
 熱帯の大地デルコンダルも雨は多いが、短い時間で終わってしまいスコールと呼ばれている。サマルトリアは雨の代わりに雪が降る。色んな地方を知っていたつもりでいたが、この時期のムーンブルクには近付きたくない。俺はそう思う。
 朝方の土砂降りがようやく雨と呼べるくらいの弱さになってきたが、雨は今日一日は止まないだろう。ルクレツィアは出身国故の経験と、魔法を使う者だから感じる空の流れでそう思ったんだろう。その事を告げられると、俺は残念そうに項垂れた。
「暇になるからな。雨は好きじゃないんだ」
 皮を裏打ちした旅人の服を脱いで、黒一色の布地の服となっている俺は暇そうに椅子に座っている。テーブルの肘を立て、そこに顎を乗せる顔は虚ろと言っても良いくらいに呆然としている様に映るだろう。もう、旅の支度と呼べるものは済んでしまっているのだ。薬草も非常食の用意も済み、剣は研ぎ終わり、各国の情勢も情報屋から聞いてしまって目新しいものはなく、外で素振りなどの剣の修練も雨のお陰でできない。待ちの状態が辛くて仕方がない。
 正反対にサトリは、悠々自適に室内を満喫している。法衣を纏っていない分、とても寛いだ装いに見えてしまう。聖書を読んでいる時もあるし、どこかの国の事件を追った書物を読んでいると思えば、新聞を広げ、紅茶を飲んで、懐中時計などを分解して掃除していたり、ある意味忙しそうだ。羨ましくて憎らしく感じるほどだ。
 暇に苦悶するのをちらりと見遣ってきた。手にした本から顔を上げてサトリが言い放つ。
「チェスの相手でもしてやろうか?」
「お前リウレムさんにチェス挑まれたら、喜んで受けるか?」
 リウレムさんとサトリはチェスの勝負をする事がある。チェックメイトがあっという間に決まってしまいそうな展開が、次の瞬間には逆転してしまうような緊迫した試合運びをする。見ている側の方が白熱する試合なんだ。最終的にポーンでチェックメイトという結果に、声を荒げたのは最近のことだ。毎回リウレムさんに負けて怒りの果てにふて寝するのはサトリだ。
 俺から見れば、リウレムさんのチェスの腕はサトリは遥かに凌駕していると思う。サトリを遊ばしているかのような、サトリの行動を看破した駒運びである事を知ったのはつい最近だ。強いのは知っていても遊ばれている事実を知らないサトリは、試合に熱中しているのかリウレムさんの実力が凄いのかは流石に分からない。
 ちなみに、俺はテーブルゲームは苦手だ。あれは、遊びなんだからな。
「気分次第だ」
 『良く言うよ』と口だけ動かして、俺は顔を背けた。
 視線の先には天使の様に完璧な、見ほれるほどに美しい微笑を浮かべたルクレツィアが見える。相変わらず白と桃色の色彩のシンプルなローブを品良く着こなし、赤金の瞳に黄金色の髪が美しく映える。幼くてこの容姿なのだ、将来は絶世の美女と呼ばれてもおかしくはない。
 俺は暇で仕方がない、そんな顔で美少女に声を掛ける訳だ。
 仲間という関係でなければ、犯罪者のようだがな。
「ルクちゃんは暇じゃないのか?外ばっかり見てるけど…」
「ムーンブルクの雨季はいつもこうしてるんだ。魔法の勉強もした時はあったけど、あまりに面白くなくて飽きちゃったし…。侍女達にも仕事があり迷惑はかけられなかったし、城にいる猫は構い過ぎると嫌われちゃうし…」
 昔でも思い出してしまったのか、項垂れて金色の睫が瞳を隠した。でも、ここで謝ったら俺はルクレツィアが滅んでしまったムーンブルクを、失ってしまった数々の身内を思い出して悲しんでしまっているんだと決めつけてしまう。この止まない雨に憂鬱になっているのだと思って、軽く流さなくてはならない。
「だが…何もないのは辛いなぁ」
 俺はため息まじりに、明後日の方角を見た。再び暇で耐え難い沈黙がくるのかと耳が痛くなるのを身構えるのなら、いっそのこと無収穫でも情報屋や酒場に出向いてしまいたいくらいだ。俺は情報を得るためだったら酒場に行く事も厭わないのだが、リウレムさんと旅をするようになってからはご無沙汰になっていた。酒場で仕入れなくてはならないほど、情報収集が必要ではなかったからな。
「久々に、酒場でも行ってくるかなぁ」
「お前、未成年だろ?」
 サトリが本から視線をあげて俺を見る。確かに、サトリよりも年下の俺はローレシアでも未成年に分類される。
「酒は飲まないって。それに酒場のゴロツキ程度にゃ、負けはしないさ」
「まぁ、ここは魔法使いが多いムーンブルク。魔法使いが簡単に魔法を使って店を損壊させる…とはなるまい。しかし、今はムーンブルク復興のために各国からいろんな人間が来ている。手練の戦士や傭兵がいてもおかしくはないぞ」
 サトリ…お前は俺が酒場に喧嘩しに行くとでも思ってるのか?
「どうせ、一緒に行く気はねぇんだろ?」
「当然だ。お前の苛つきを感じながら過ごさずに済むなら、これ以上の良案はない」
 『さっさと行ってこい』と言わんばかりに視線を強めた後、平然と本のページを繰っている。そんな喧嘩腰であった両方にちょっぴり非難めいた表情を向けていたルクレツィアに、俺は怒りを吐き出して普通どおりの口調で言った。
「じゃ、近くの酒場に行ってくるよ。ここだと…通りを挟んだ酒場だな。リウレムさんに聞かれたら、そこにいるって伝えてくれよ」
 扉を開けて宿屋のように広がる廊下と整然と並ぶ同じ質感の廊下に、所狭しと資料が入った箱が積み重なっている。そこは外交官の寮のような場所で、その数部屋を借りて生活している。
 階段を下りると共同スペースがあり、食事や談話をするための部屋がしつらえられている。
 暖色の質感の空間に花や茶器と焼き菓子が置かれ、魔法の施されたポットには暖かい紅茶が入っている。飾られた花は毎朝とはいかないが萎れてしまう前に交換するし、毎朝花々の微妙な変化に応じて飾り付けを微妙に変えテーブルの上で鮮やかに咲き誇る。朝の時間に焼いておくクッキーなどの焼き菓子は、木の実やチョコを練り込んでも素材の味を覆すことなく引き立て、花の傍に奇麗に並び盛られている。
 ここで暇を潰すにも、他の外交官が出入りする場所である為にゆっくりはできないだろう。
 俺はやっぱり、諦めて雨の降りしきる外へ出ざる得なかった。

 ■ □ ■ □

 酒場は俺が予測した通り、雨の為に暇で仕方がない人種で溢れかえっていた。しかし、年齢は平均的に高い。
 煙草の煙が外気の湿気によって室内に閉じ込められ、天井に雲のように蟠っている。氷が器を転がる音が、笑い声が、喧嘩っ早いやり取りが響いては、空気を割くように颯爽と店員が動き回る。誰かが床に転がる酒瓶を踏み砕き、床は滑りそうな具合で濡れている。そこは昼間だというのに深夜の酒場のような様相だ。
 …ちょっと、ヤバいかもしれないな。
 情報が得られるとは思っていないが、暇が潰せる程度の話はできると期待していた俺の希望は光景の前にかき消される。それでも俺は見回して酒を目当てにしていない人間を探す。
 カウンターにまで歩み寄り、見回して目が合った男は驚いた顔をした。いや、あからさまに驚いたわけではない。感情を殺すことを体得した人間のする表情、達観した人間の緩やかな感情の起伏と言えばいいのだろうか。少し、息を詰めたようだ。
 俺は彼の二つ隣の席で店主に飲み物を頼む。勿論、ただの水。
「チェスを一人でしているのか?」
 俺が声を掛けると、男は少し間をあけてチェス盤の駒を一つ動かした。
「ここにあったから、借りてるだけだ。ムーンブルクの雨は酷い。何も上手くはいかないから、敢えて動かん事に決めているのさ」
 男の声は静かで深く、酒場の喧噪すらその声の下に覆ってしまいそうな広がりを持って俺の耳に響いた。どこかで聞いた声の気がするが、粗野っぽい響きを含んだ語調で、思い浮かべる誰にも結びつかない。
 旅に必要な物を詰め込んだ鞄を引提げて、僧侶と分かる程度の質素極まりない旅の衣をまとい、履き潰れてボロボロになったサンダルが衣の隙間から見える。旅の厳しさを知る笑みの顔は神官とは思えぬ程に日に焼け、髪の毛は何日洗っているか想像もしたくないほどボサボサだ。どこの貧乏牧師かと思われても仕方ないだろう。
 飲んでいるのも香りの薄い安物の酒だ。それでも男は微塵も酔ってはいない。
「誰か相手を探せばいいのに、一人でしているのか。あんたはせっかちだな」
 はっきりと男は笑った。
「一つ、勝負でもするか?」
「いや、結構だ。テーブルゲームは遊びだ。実践の役には立たない」
 それでも育ての親は馬鹿にしてはいけないと良く言ったものだ。それでも戦略は頭の良い人物に任すべきで、今の俺にとってそれはサトリでありリウレムさんだ。目の前に課題を課せられ、それに対する最善を尽くすのであって大局を見る事は最も必要な事ではなかった。
「じゃあ、簡単で単純な遊びにしよう」
 男はチェス盤に駒を並べる。透明度の高いクリスタルの精緻な細工のムーンブルク産の駒。盤も黒と白の他によく見なくては見えない精緻な金の魔法陣らしきものが刻まれている。この古めかしい木造の酒場には調度品としてあってもおかしくない、格調高い品物だった。
「それぞれ駒を前に出して、その駒に見合った話をする。王の駒はとっておきの話、だ。良い話をした方が相手の駒を得られる。多く駒を得た者が、互いの飲み物の勘定を払う。どうだ?」
「乗ろう」
 彼は傭兵の扱いに余程馴れていると思わされる。その外見で傭兵を雇う金銭を所持しているとは到底思えないが、彼は傭兵の好き嫌いを熟知している。やり易い故に相手が何者か掴めなくて歯痒かったが、それはこのゲームをすれば察せられるだろう。
 彼は早速クイーンを前に出した。
「おい、せっかちにも過ぎるだろ」
 キングはとっておき。クイーンはその次のはず。早速そんな話が出るだなんて、思うはずがない。
 男は俺の反応を見て笑いを堪えるように笑った。
 一冊の本と呼ぶのも抵抗のある物を差し出してきた。皮の表紙は腐食が激しく裏表紙は破れたように千切れて、中の羊皮紙が見える。羊皮紙は水を吸ったのか膨張して、本はさながら箒のように広がっている。インクは滲んで読めない部分が圧倒的で、虫に食われたもの、失われたページ、泥かなにかで汚れてしまった所も多い。読める文字も達筆で癖があったので読み難い。目を通しても内容は何も掴めなかった俺は、諦めて男に本らしきそれを返した。
「虹の橋って知ってるかい?」
 俺はビショップを出す。
「叶わぬもの、出来ぬ事の代名詞だな。虹の橋は渡る事のできない、虹に歩み寄る事すら叶わない。しかし一説には勇者ロトの時代に確立された術式の名称でもある。あまりに難しすぎて、誰もその術を行使する事ができなかった。だからそう呼ばれるとも言われてる」
「その通り。博識で模範的な回答だな」
 『それで…』と本を持ち上げる。
「私は今、その術式をはっきりと悟った訳だ。それは人の心の持ち様から生まれるデジャ・ビュ…既視感さ」
「没収」
「お、おい!話も最後まで聞かずに没収するかい!?」
「ビショップだったら没収しなかったかもな」
 このまま本に虹の橋の術式について記され、その解読に成功したと続いたなら奢ってやろうと思った。流石に思わせぶりな本を手渡しておきながら、このオチでは金銭は出せない。呪文の構造と術式について語られても困ったが、それはお伽話のように現実味のない面白い話と聞けば楽しいものだ。
 なにせルールは真実を話せとは言っていないのだ。嘘でも見合う内容が求められるのだ。
「じゃあ、次は俺だ」
 俺もクイーンを出した。折角だから虹に因んだ面白い話をしようと思う。
「ローレシアとサマルトリアの出来る前の北大陸の先住民は、黒い髪と瞳を持った魔力を持たない精霊だった。彼等は魔力を持たない代わりに、岩を切り開く術を知り、人が生きる事を拒む極寒の大地で生きる術を知り、七色の鳳を繰る事が出来たそうだ。鳳は遥か彼方の空の果てからやって来て、七色の光を描いて消えていく。虹は鳳が通り過ぎた道で、追えば鳳が住む精霊の大地へ行く事ができるんだ。しかし、叶わなかった。だから北大陸の先住民となったんだ」
「よく知ってるな」
 そう聞こえた気がしたが、独り言は呟きのように小さくて聞き取れなかった。
 男はそっとクイーンを俺に寄せると、キングを前に出した。
「ムーンブルクには昔、リウレムという賢き方が統治していた時代があった。正確には王位に就く事はなく『王』と呼ばれるのは、王位に就くものが誰もいなかった時代に代行として国を統治していたから。しかし歴代国王にはない外交力と統治力と人望…、ラルバタスという紫の髪の一族の最後の一人であった故に過去の人物でも最も有名な人物です」
 そこで、男の雰囲気が変わった。
 それは俺が男に対する認識を改めたのか、リウレムさんの話題になったからか知らなかったが、粗野な感じがなくなった。静謐な空気は教会の光のように上から無圧に降り掛かって、肌で感じる言葉で言い表せない何かを感じさせる。最近、そんな気配を感じた。
 そう、確か、ベラヌールで…。
「かの御方は『イーデンの書』という予言書を記されました。イーデンを崩壊させた力がこの世界に向かってくる事による世界の破滅と、それを回避するための術が記されています。信じられますか?そんな話?」
 俺は馬鹿だな。
 自嘲する笑みの後ろで冷や汗で寒くなる。思わず相手の見えない位置にある手は、剣の柄を握った。
 確かハーゴンと呼ばれている男だ。身だしなみがこんなに薄汚くて、口調がルクレツィアに語り掛ける言葉に比べれば懸け離れているほど砕けている。たったそれだけの違いで見分けられなかった自分は、もうサトリの悪口に反論出来る立場じゃねぇな。
「俺がもしその言葉を信用するとしたら、その事実を知っているからではなく崩壊を回避する術があるという希望があるからだ」
「頼もしいお言葉です」
 ハーゴンは嬉しそうな表情を堅苦しい表情で押さえたので、苦笑が彼の顔に浮かんだ。
「崩壊させる力は死に導く力を、器となるべき物に封印する。それがリウレム王が提唱した、世界崩壊を回避する術です。同時に一歩間違えればこの世界に破壊神を降臨させてしまう、危険な賭けだとも書かれています。破壊神の復活する術と世界の崩壊を防ぐ手段は、皮肉にも同じものだったのです」
 ハーゴンは立ち上がる。履き潰されたサンダルであるのに、背は見上げるほどに高かった。
「予言書にはイーデンに私と貴方方が共に行く事が記されています。私が悪魔と共に用意した虹の橋の術式を用い、ルクレツィア様とリウレム様のお力で扉を開き、私達は精霊の大地に最後の器を得に行くのです」
 そこでキングの駒を俺のところに押しやった。
「暫くは協力を結ぶ関係。ここは、私の奢りです」
 マスターを呼びつけて勘定を済ます。結局、勘定は一人分。俺は水しか頼んでいないから清算の仕様がないので、仕方なくハーゴンはチップを付ける事で俺への奢りとした。
 酒場の喧噪に飛び込もうとした所で、足取りが衣に完全に隠れる。
「私には命の恩人がいてね。もうミトラ神の元に行かれてしまったけれど、腐れ縁のように長い付き合いだった。ローレシアの傭兵で、いつも私をせっかちだと詰って、チェスはやらず嫌いでね。それでも、このゲームはとても好きで、嘘も本当もごちゃ混ぜで楽しんだものだ」
 一人の男は僅かに振り返り笑った。きっと、ルクレツィアも知らないだろう、友人に向ける笑みで…。
「君は、私の命の恩人にそっくりだ。そう…、とってもね」
 俺にクイーンが放られる。
 俺は思わず受け取ったクイーンを見下ろしてしまった。淡い酒場の照明に、暖色系の色を宿し笑うように瞬く。その仕草まで似ているんだろうか、俺は血の繋がった父親の事なんて何一つ記憶にない。本当の父親の友人である育ての親ですら、請わなければ教えることもしなかった。去った者の悪い事は言わない、良い事は噂で聞く。それは傭兵の子供の宿命だった。
 知らない人物とそっくりなんて出来るはずがないのだ。
 しかし二人が出会った状況も、文句でさえ、一緒であったに違いない。
 既視感を感じたんだ。
 過去を再生するようで…。
 彼の中で叶わぬ事、出来ぬ事と思っていた常識が覆されたのだ。