死者の町

 空とも海とも言えぬ遠くを見ていた男は、片手に担いだ長剣を担ぎ直した。
 七色の尾羽を持つ鳳が、メガロドアスの遥か彼方と、パンガシアノドン・ギガスの交わる海の果てから羽ばたいてやってくる。
 かつて壮絶な物語を綴り閉じられた大地が、再び開かれた瞬間だった。


 『虹の橋』は『闇の衣』を突破するための術式であると、ハーゴンは穏やかに言った。
 闇の濃度と光の密度の差が激しければ激しいほど、その境界線ははっきり示され容易に渡ることのできない壁となって立ちはだかる。それを勇者ロトは『闇の衣』と呼んだ。『闇の衣』と呼ばれる壁は渡るべき者を生き物から限定し始め、やがて空気や時間や魂の輪廻にいたる全ての流通が遮られ世界は閉じられてしまう。その世界は魔界になるか無に帰すかのどちらかだが、ほとんどは無に帰ってしまうものらしい。
 イーデンという大地はすでに閉じられてしまった世界であるらしい。
 無に帰ってもおかしくない悠久の時間が過ぎ去っているにも関わらず、存続しているだろうと彼は確信に等しい表現を用いた。かの地にはまだミトラ神が生み出した天の秘宝が数多く残されており、それ自体がその世界を存続させているに違いないと予言書に書かれていたからだそうだ。
 そこら辺はともかく。ハーゴンは話を区切った。
 闇も光も常に変動し、境界線が引かれ、人々の認識は固定されてしまった。古の時代のようにどの世界へも行けなくなった。それを今回は強引にでも繋げて誰かを行かせなければならない。
 その為にハーゴンが用意した『虹の橋』の術式である。
 極寒なるロンダルキア台地に組み込まれた広大で緻密な魔法陣。それに加えてベラヌールの力の流脈から旅の扉で引き入れて蓄積したものを動力とする。扉を開くのはミトラ神の両拇指。橋を繋げるのは世界樹の力であるらしい。
 かつて勇者ロトの時代にあった術式を、用意された道具以外で持ちいろうとすればこれだけの労力が必要とされたそうだ。
 そして、世界が開かれた。
 とかっこ良く言ったは良いが、現実は非常に厳しかった。
 俺は大人しくハーゴンの説明を聞いていたが、もう耐えきれずに叫ぶような声で言った。
「さっむ!!」
 俺はハーゴンの助言通り、厚着するだけ厚着してきたがその意味もあまりない程に世界は寒かった。目の奥まで凍り付いてしまいそうな冷気が、ラーミアに変化したルクレツィアが飛び進む事で生まれる強風が体を貫いてくる。体は即座に震え、歯が噛み合ない。ハーゴンが周りの寒気を遮断する術を施してくれていてこの温度だ。
「サトリ君が残ってくれていて本当に良かったですね」
「全くだ。ここに居たらどんな罵詈雑言を吐くか解ったもんじゃない」
 サトリには悪いが、向こうでリウレムさんと共に残ってもらった。イーデンでの危険が全く未知数であり、俺も我が身を守るだけで精一杯なら連れて行かないだけでもサトリの保身になる。勿論、ロンダルキアにはいけ好かない女に化けた魔族の大物がいたが、リウレムさんとシクラがいる。
 リウレムさんも俺の立場云々以前に旅の仲間として、サトリを守ると約束してくれた。
 俺はその気持ちを喜んだし、非常に頼もしかった。
「どちらにしても人数を割かねばならなかったのです。この選択が一番妥当であったでしょう」
 ハーゴンが生真面目に言った。未知の大地への警戒心が顔にまで滲み出ている。
 イーデンへ行くのは『虹の橋』の術式を用いれたが、帰りはその手段は使えない。その為に昔からあるイーデンから地上へ降りられる道を下って帰る事になるらしい。その時に道を見誤らないよう、ミトラの両拇指であるリウレムさんとルクレツィアが両方の世界から先導する役割をしなければならなかった。つまりイーデンとロンダルキアから手を伸ばして互いの手を握るようなものらしい。
 ともかくリウレムさんかルクレツィアのどちらかが、ロンダルキアに残らなくてはならなかったし、どちらかがイーデンに行かねばならなかった。リウレムさんが行けば目的の物の場所が特定できるが、イーデンの状況が分からぬ以上、モシャスを長時間維持できるルクレツィアがイーデンに行く方が良いという決定になった。それに予言書が読めるハーゴンが居れば、場所のおおよその位置は掴める。
 イーデンには俺、ハーゴン、ルクレツィアが行く事に。ロンダルキアにはサトリ、リウレムさん、シクラが残る事になったのだ。
「その件は安心してるけど、俺は少し不安だよ」
 俺は目を凝らして、イーデンと呼ばれた世界を見た。
 ラーミアに変化したルクレツィアは、ローレシア大陸を縦断していると言っても良いくらいの距離を飛行しているだろう。しかし、空は暗く、海には分厚い流氷と漆黒の海がモザイクのように連なっている。白と黒が世界を二分し、その境界線は灰色でうっすら明るく感じる。
 ルクレツィアのラーミアの七色の輝きがなければ、無彩色な世界で自分からも色が無くなっているのではないかと錯覚するほどだ。寒々しい気温からだけでなく、気持ちまでも凍えさせる。
「かつてアレフガルドは閉ざされようとしていた時代があったそうです。希望もなく心は荒み、優しさや善意は人々から失われかけていた。それを取り戻したのが勇者ロトであったとされます。勇者ロトが見たアレフガルドもこのように無彩色な世界であったとも、吟遊詩人ガライの残した伝承にあるほどです」
「世界が死ぬ時はこうなってしまうのだろうな」
「おそらく…は」
 ハーゴンが口を閉ざした。
 しばらく会話もなく過ぎ去っていた風景から、突如鳳の鳴く声が響いた。ルクレツィアの声掛けだと気が付くのに時間がかかったが、変化は目の前にあった。灰色の境界線から、白い固まりが浮き出されてくる。山脈の輪郭が黒い空にはっきりと描かれ、やがて平原の奥行きが見て取れるようになってくる。
 あれが、イーデン。
 それもまた無彩色な大地だった。見える全ては雪と氷に覆われて真っ白で、影は灰色と黒。丘が見えても希望が湧かない。
「ルクちゃん。陸地に降りて休もう」
「そうですね。予言書では破片はもっと奥地にある火山帯にあるそうですから、そこまで一気に飛ぶのは得策ではありません」
 俺は鳳の肩らしい部分を優しく叩く。鳳は一声なくと美しい螺旋を描いて地上を観察したと思うと、落ちるような重力の変動も感じさせずに舞い降りた。鳳は俺とハーゴンが降りたのを認めると、翼を広げて体を伸ばすと光りに包まれて小さくなっていく。ルクレツィアは小さい体をさらに小さくして震えた。
「…寒い」
 ハーゴンが無言でマントを肩にかけた。
「参ったな。火を起こす道具はあるが薪はないなんて…」
 俺は見回してまっさらな雪原に人工的な何かがあるのを見つけた。三角形の何か、それは手で持ち上げられそうなほどの大きさだ。何気なく持ち上げようとして、持ち上がらない。俺は首を傾げながら三角形の周りを掘り返してみる。三角形は下へ広がっていく。凍り付いて地面のように堅くなった雪に埋もれる、瓦の冷たく固い質感がグローブに引っ付きそうになった。
 それは、屋根だ。建物の。
 静止した空気に、ひっつきそうな寒気がまとわりついてくる。俺はそれらが浸透する前に素早く周りを見回した。見上げるほどにそそり立った岩だと思っていた黒い固まりは、よく見れば塔の壁だった。煉瓦は加熱されたのか真っ黒になっていて、その上で冷やされたからか酷くボロボロになっていた。しかし、この静止した空気が、崩壊すらも許さないだろうと思った。崩れるとは微塵も思えない。
「ここには、イーデンで最も大きい都市があったんだよ」
 ルクレツィアの金髪も赤金色の瞳も偽りない様子で俺を見つめていた。
「魔峰オーブの噴火で一気に熱された反動で、急激に冷やされたんだ。浸水した大陸は凍り、蒸発した海水が雪となって降り積もったんだ。この下には今も数十万の精霊達が眠っていると思う。彼等の住んでいた何もかもと一緒に…」
 俺は愕然とした。
 ハーゴンが祈りを捧げている。
 ルクレツィアも辛そうに視線を伏せた。
「墓参りかい? 太陽の神官」
 風を避ける必要もないくらい風も立たず、魔物を警戒する必要のないほどに何もなかった。それでも無気味で、気配を配らずにはいられない。いつもの数倍は敏感になっているというのに、その男が声を発するまで気が付けないなんて情けない。
 声は上からだった。
 さっき崩れそうで崩れないだろうと思った塔の上から、男が俺達を見下ろしている。俺が剣の柄に手をかけたのを、男がわずかに嬉しそうに目を細めた瞬間肩に担いだ長剣を振翳してくる!薄い刃の長剣が男の落下と共に軌跡を描いて振り下ろされるのを見て、流石に鋼鉄の剣では受け止められない代物だと直ぐさま察した。俺が大きく飛び退って避けると、目の前には巨大な雪の柱が立ち上った。
 雪の柱が粉雪になって静かに落ちてくる中を、悠然と男が歩み寄ってくる。
 針金のような直毛は銅のように輝き、表情は野生を感じさせる猛々しさを感じたが整った黙っていれば貴族のような顔立ちだ。片目には戦と雷鳴の女神キショウンの五芒星の入れ墨があり、その入れ墨が歪むほどの古い刀傷が走っている。彼が手にしている剣も片刃の稲妻がモチーフなのだろう大剣の幅と長剣の長さを持ったもので、放電しているようでうっすらと光っている。
 堂々とした佇まいを引き立たせる引き締まった筋肉が見える服装は、嫌にも寒々しく見えた。それでも、寒さを感じる素振りはない。
 男は俺の横に立ち止まると、唇の端を持ち上げて笑った。
「良い判断だったな」
 一瞬で頭に血が昇って、顔が火照った。やはりさっきの一刀を受けていれば、確実に自分は死んでいたんだ。相手の力量の凄まじさに、そして凄まじいからこその弱者を見下ろす目に憤りを感じた。
 しかし、男は意に介さずルクレツィアの前に進み出る。手が彼女の顎に掛かり、顔を上げさせる。
「色っぽいな、神官。イーデンの男という男は毎日でも命を落とす険しい道のりを辞さず、サラマクセンシスの神殿に通っただろうに…。無論、その姿だったらの話だが」
「やめて下さい!クリプトカリオン殿!」
 クリプトカリオンと呼ばれた男が仰け反って大声で笑った。快活な笑い声に、この地で逢えた最初の人物のまともさに安堵した。
「いや、悪い悪い。しかし、神官がどうしてそんな背格好で、人間なんぞ連れている。いや、人間でも精霊の臭いはするがな」
 謝罪はしたが、全く悪びれた様子がない。
 それどころか、俺とハーゴン値踏みするように見てくる。
「我々はブラックオーブの破片を求めにやってきたのです」
「こんな世界の果てへ?」
「世界の崩壊を防げるのなら、どこへでも行きます」
 ハーゴンの生真面目な返答に、クリプト…長いなぁ、男は面白くなさそうに顔をしかめた。
 気持ちは分からんでもなかった。きっと、俺に似た感性の人物に違いない。
「クリプトカリオン殿…その…亡くなられたのでは…」
 おずおずと訊ねたルクレツィアの問いに、男は『おうよ』と胸をたたいた。
「ルビスに大地の剣でぐっさりとトドメを刺してもらったよ」
 俺は呆れて物も言えない。随分と元気な幽霊さんというのは確かだ。
 幽霊と言えば最初にブラックオーブの破片を見つけた、珊瑚の丘の幽霊のように頼りない陽炎ではない。あの幻もここから精霊ルビスさんの思念を辿ってあの地へ流れ着いたのだとしたら、この男も幻なのだろうか?
 俺が思案している間も、二人の会話は続く。
「その剣は、炎十字の剣なのですか?」
「そう。俺がこうしているのも、この神が造り賜うた古き血の一族の家宝のお陰かも知れないな。ちょーっと、俺好みに変質しちまってるのかなぁとは思うけど、確かにこの剣は炎十字の剣さ」
「確かに、その剣の力が関係していることは間違いないでしょう」
 でも…とルクレツィアが男を見上げた。
「貴方は悔いを残してらっしゃるんじゃないですか?」
「悔い…か」
 男は少しだけ息を止めて、一気に吐き出した。
「ルビスと本気で戦ってやろうと思ってたのにアリナの野郎がしゃしゃり出て来やがってよぉ、結局胸板貫かれちまったじゃん。女に止めに入られなくたって、俺がルビスに殺されるって先ずあり得ないだろ?まぁ、ルビスを好いていたから殺すのもできなかったろうがな…。とにかくあんな死に方じゃあ成仏なんて出来る訳ねぇさ。その日のアリナに本気で相手してやって気絶するほどグッタリさせて、森の長老殿に投げ付けてやれば良かったと…」
「おいおいおいおい、ルクレツィアが困ってるだろ」
 金髪の下の真っ白な肌が、赤金の瞳に負けないくらい真っ赤になっている。それを指摘すると、男はニヤニヤと笑った。
「というか、そんな理由じゃないんじゃないか?」
「あん?」
 男の瞳が鋭く光った。俺はその瞳を見て、やはり理由は別の所にある事を察した。
 大体、ガキ大将気質を持っていても、根は臆病といっても良いくらいに慎重な性格の人らしい。さっきの一撃でもし俺を完全に見下した人間でゴミの様に扱っているとしたら、判断させる時間など与えずにバッサリと殺してしまってるはずだ。そうでなくとも、あれだけの力量があるなら、故意に手加減されなければ腕くらいは切り落とされていたに違いない。
 こうして絶対的な力を見せつけられていると、何でもできそうではないか。
 それなのに、こんな所でぶらぶらと油を売っている。
「あんたは何かしたくともできないから、こうしているんじゃないのか? あんなに力があるのに、幽霊だろうと自分で右も左も決められそうなのに、それでもここに留まっていなくてはならない理由があるんだろ?」
 俺は腕を組んで寒さが染み込んでくるのに抵抗した。
「きっと、黙って待ってられる人種じゃないだろうからさ」
 男は笑った。抜き身の剣がバチバチと音を立てて、光を爆ぜて彼の荒ぶる感情を視認させる。
「小僧、剣を抜きな」
「死ぬ戦いはしたくないな」
「俺は弱い者を虐げたりはせん」
 さぁ、と構えとも言えない無造作な構えが剣の切っ先を急かすように揺らす。
 どうにも剣を交えないと納得しなさそうな空気である。俺はルクレツィアとハーゴンを見遣って、それから剣を抜いた。一般的な鋼鉄の剣。ローレシアの傭兵が傭兵として認められた時、贈られるごく普通の剣だ。
 俺は走る助力を加えて大振りの一閃の速度と強さで、男の長剣に叩き付けた。魔力を帯びた剣は、打ち付けた振動に震えもしない。次の瞬間、剣を受け止めていた長剣の刃が振り下ろされるのを、俺は紙一重で避け相手の腹に蹴り込む力を加えて大きく飛び退った。魔法を警戒して予想以上に遠くに着地した俺の回りに、粉雪が土埃のように立つ。
 嬉しくて仕方なさそうに男は笑った。
「良い腕じゃないか」
 冗談抜かせ。
 俺は、汗で滑りそうな手を何度も握り直す。
 男は十分に強い。型は貴族が身に付けそうな優雅な型が基礎にあったが、その上に実践で積み重ねた経験と野獣のような動きがあった。身長だって俺の頭2つ分はあるし、筋力は重くもなく動きは速い。相手の武器は見た目の大きさに似合わず軽く、重心も安定したバランスの良いものだ。しかも、相手には魔法があるのだ。
「怖じ気づくな」
 また切っ先を急かすように泳がす。
 そうだ、この男は弱い者を虐げたりはしないと言った。言葉は偽りではないだろう。彼は今、俺との対戦に満足する事を望んでいるのだ。俺は片方の頬に力を入れて、笑みのような表情を浮かべた。
 俺は再び駆け出す。男の懐に飛び込み切り込もうと見せかけて、横薙ぎに薙ぐと男は飛び上がりついでに蹴りあげる。蹴りを避けて俺は地面の雪ごと切り上げ、盛大に男に雪をぶちまける。雪に体勢を崩すことなく、男も電流の魔力を帯びた剣の軌跡で雪を七色に輝かせた。
 自分の技量の扱いは互いに良く似ていた。相手も俺と同じ剣と体術を使うからか、くり出される攻撃を予測されてしまい互いの攻撃は当たらない。右手の剣は左手に瞬時に握られ、剣撃は瞬き一つで武術に切り替わる。紙一重で避けられたと思えば間髪入れずに次の攻撃をくり出すし、まるで踊っているかのように互いの手の内まで感じられてしまう。
 魔法を使われれば勝機はなかったが、彼はこの長く感じる攻防の中で一度も使ってはいない。
 しかし、勝負をそろそろ決めるとしたら、魔法を使ってくるに違いない。
 横から振り向き様に切り払う、力と隙の大きい斬り込みをしようとした瞬間、男の目つきが変わる。五芒星が一瞬光った気がし、俺は僅かに目を細め顔を動かす。
 熱が顔のすぐ横を霞めた。
 視界に黒い髪の毛が散った。
 構わず俺は男の喉元に鋼鉄の剣を突き付けた!
「よっし!」
「いい気になるな、小僧」
 男が剣など意に介さずに俺の頭を鷲掴んだ。
「魔法を使わなかったから、手加減されているのは知っていたさ」
「まぁ、それを差し引けば結構本気だったな」
 見上げたその顔は嬉しそうで、白い歯が持ち上げた唇の間に栄えて見えた。
 背後から盛大なくくしゃみが上がった。振り返ればルクレツィアではなく、ハーゴンが鼻を啜っている。二人に魔法で援護されていたら、きっと勝機が見いだせただろう。それでも、寒い中黙って見守っていた。
 そんな二人を見ていた男が鼻で笑った。
「世界なんぞ、本当に救えると思ってるのか?」
「少なくともハーゴンはその為に国を追われてまで、ここに来る為の様々な事をしていたみたいだぞ」
「ふん、馬鹿な奴らだ」
 視線は完全にハーゴンに向けられていたが、言葉には俺も含められてるような気がするんだが…。
 まぁ、こんなお伽話のような事を実行しようとしているんだ。言いたくなる気持ちも分かる。世界の崩壊を防ぐ? どんな勇者の仕事だよ。邪教の烙印を押された神官なら立場は逆だろうに、なんでなんだろうな。世の中訳分からなくて、面白いくらいだ。
「クリプトカリオン殿…?」
 歩み寄ってきたルクレツィアが戸惑ったように男を見上げた。その顔は、思った以上に晴れ晴れとしていた。
「いい暇つぶしになった。さっさと行け」
「あ、はい」
「武運を…祈ってる」
 大きな手がルクレツィアの金髪をかき乱した。
「…うわわっ!やめてよ!!」
 ハーゴンが慌ててルクレツィアを引き寄せて、引き離した。息を乱しているルクレツィアの背中を、ハーゴンが擦っている。確かに結構な時間が経っているだろう。そろそろ、出発してもいいかもしれない。
「小僧」
「俺はロレックスって名前なんだが…」
 俺が振り返って見上げると、男は苦く笑った。でも呟いた口の動きは『悪かったな、小僧』だった。
「クリプトカリオン・レグナスだ」
 大きな手が俺の手に重なった。そして新たな重みを乗せられる。
 稲妻を形にしたような鋭いイメージの彫刻が、滑らかな湾曲した片刃の剣全体に施されている。持った手に痺れるような感じをさせるほど、目に見える電流の力が光って剣の刃を覆っていた。手渡された剣は俺の手の上に留まり、手渡した手は離れてゆく。
 見上げると、もう、そこには男の姿がなかった。
 この剣のお陰で存在していたとしたら、自ら手放す事は死を意味するはずだ。
 再び、あの海の彼方から誰かが来るとしたら…。その者が新たなるこの国の住民だ。
 剣からあの男…クリプトカリオン・レグナスの声が聞こえてきそうだった。いや、きっと、そう言ったんだ。彼はこの世界を好いていた。だから世界を壊された事への復讐に似た憤りを、燻り続けていたんだろう。だから託したんだろう。代わりに…。俺の代わりに、やれ…と。
 もう、この地に人はいない。
 もう、この国は死者の国ではない。
 託された剣は登る太陽の光を受けて燦然と輝いた。