死を賭して

 谷に住う賢者はルビスに、禍つの運命を秘めた天の宝玉の伝説を語った。
 ヘマタイトは切断や研磨にて深紅の微粉を撒く。
 この粉を吸い込みし者は、永遠の命を得ると同時に残虐非道の限りを尽くすという。
 天のヘマタイトの名はブラックオーブ。他の六つとは異なる運命を持つ天の星。


 上空にあった太陽は白夜のように地平線の少し上を周回していた。
 夕暮れや朝焼けと見紛うような太陽の位置ではあったが、世界は茜色に染まったわけではない。天空を覆う大陸は雪に覆われて真っ白に輝き、それぞれの大地の照り返しで散乱した光が青白い光となって世界を満たしていた。
 溶岩から這い出た黒い体の一部らしきものだけが、光を吸い込むように漆黒を保っている。
「この世界を覆っていた殺意が肉体に納まるのを感じる。今までは寝返りだった行動が、覚醒されれば確実に世界が滅ぶでしょうね。まるで一夜の夢の如く…」
 天空の大陸から伸びる黒い肉体を見遣りながら、ラベールがモートに視線を移した。
 漆黒のイブニングドレスを着こなしていた女が、両肩を掴んで震えるとその背から巨大な漆黒の翼が突き出た。女が血溜りの深紅の三日月を白い肌に浮かべる。
「させねぇぞ!!」
 リュゼルが吠える。
 声が空気を突き動かし、リュゼルに光の風が集まる。風から鱗に覆われた四肢が突き出し、光を散らして竜の頭と巨大な翼が現れる。四肢が塔の屋上を崩すほどの勢いで蹴り出し、爪がモートの細い体を切り裂こうと弧を描く。軌跡の上を静止したように漆黒が舞い、そのまま上空の大地に飛び立ってしまう。
 垂直に上昇してゆく黒い翼を見て、ルクレツィアが焦ったようにリュゼルに言った。
「リュゼルさん!ブラックオーブの破片を守って下さい…!」
「任せな!!」
 ロレックスもハーゴンも流石に空からの敵には太刀打ちできないだろう。この場で同等に立ち回れるのは、竜の姿がとれるリュゼルだけだと思ったんだろう。その判断は僕も正しいと思う。なぜならモシャスなどの変化の呪文は持続時間が魔力に比例する。ハーゴンの魔力が波の人並み以上にあったとしても、ドラゴンの血を引いているリュゼルと比べれば短時間と言えるだろう。
 リュゼルの白銀色の翼が遥か上空にまで達すると、慌てて体を回転させるのが見えた。回転させたと同時に上昇の為の羽ばたきが、下降の為の運動へ移行し天空に存在する世界に侵入したのだと察する。
「では、私はそちらに行きます」
 ハーゴンがルクレツィアの横に歩み寄って、僕らを見上げた。
「悪魔達と決着を付けたいと思っているのですが、宜しいですね?」
 おっさんが少し思案したような顔つきになると、その紫の髪が頷くように揺れた。シクラを左腕に移すと、右手を差し出した。右手をハーゴンが掴んだのを認めると、おっさんは引き寄せるように腕を引く。逆にハーゴンが引き上げられると、次の瞬間に重力が逆転したらしくハーゴンは大きく回転してロンダルキアの塔の上に尻餅を付いた。
「すみません。支えられなかった…」
「いえ…仕方の無い事ですから、お気になさらず」
 おっさんの言葉にハーゴンは打った部分を擦りながら立ち上がった。
 そして腰に下げた巨大なメイスを握り、空中で一回転させる。空中に勢い良く放って尚高く舞う事のない重量を、ハーゴンは腕一本で支えて悪魔に切っ先を向けた。真近で見るのは二度目だが、味方として隣に立っていると心強い。
「サトリ君。流石に君の技に特化した剣技では、ポヴォイルの体勢を崩すのも難しいでしょう。攻撃呪文を扱えるとしても…です。彼女の相手は私がします。君にはラベールの相手をしていただきたい」
「シクラも手伝ってあげるヨン」
 おっさんの腕からシクラがふよふよと寄ってくる。一番近くにいたハーゴンの肩につかまると、僕に向かって触手を振った。
「大丈夫ヨン。サトリもちゃんと援護してあげるヨン」
 ふん。余計な世話にならんようにな。
 僕が剣を抜き放ちラベール達を見遣ると、敵は待ちかねたように微笑んだ。
「さぁ、始めましょうか」
 殺し合いを…と続くのだろう。凄まじい殺気と殺意が、吹雪の止んだロンダルキアの大地の雪を巻き上げる。この世界の存在そのものが殺気に追い立てられ恐慌を来たし、僕らに襲いかかってくる!ハーゴンの祝詞によって直撃は免れても、嵐のような流れに一歩も動くことができない。
「雪如きが鬱陶しいヨン!!」
 シクラが割れ金のように叫ぶ。
 すると雨なのだろうか、水滴が無数に降り出す。雪は水を吸い込み重くなり、地面に落ちて幾重の水溜まりになる。そして、シクラの触手が薙ぎ払うように振るわれると、その水溜まりは鋭い氷の槍となって天空めがけて伸び上がった!相手も流石に飛んで避けるのを認めると、僕らは走り出す。
 氷の槍は良い隠れ場になり、氷に移り込む姿が一種の幻となって目標を定めるのが難しい。
 やるじゃないか、クラゲ。
 飛び退ったラベールの真横に滑り込むように走り込むと、そのまま細身の剣で氷ごと薙ぐ。氷の微細な破片が相手に降り注ぎ、相手は防御の構えをとるしかない。踏み込んだ足を軸に切り込み、相手の懐に飛び込む。僕は一瞬で魔力を整え、ゼロ距離の最も威力の高いベギラマを見舞った!!
 甲高い女の悲鳴。焦げ付いた肉の臭いが、蒸発した蒸気のむせ返る湿気の隙間から感じる。
 奥の氷が塔の屋上ごと崩落する。ハーゴンは一撃で塔ごとポヴォイルの体勢を崩したのだろう。頼むから、足場は残してくれよ。
 周りの水が動く。水は流れながら魔法陣を描き、その内容からミトラ聖教の祝福の儀で使う魔法陣だと察する。おそらくハーゴンは悪魔が肉体の死が存在しないことを知って、聖なる力を持って消滅をさせるべく行動しているのだろう。消滅までは無理だとしても、この場から撤退せざる得ないほどの痛手を与える事は出来る。
「全なるミトラの御前に立ちて、我、凍てつきし大地の塔の主ハーゴン、その委ねられし権限を行使せんと願う!!」
 水の陣が呼応し輝く。水の流れは早まり、その光の微粒子を乱反射させ灼熱するほどの輝きに達する。
 その輝きの中で人影がゆらりと立ち上がった。笑みが肩を震わせ、笑い声が聞き取れる。そうだ、確かあいつはおっさんの片目を持っている。この状態になれば純粋な邪悪は身動きすら取れない筈だが、聖なる属性にも耐性のあるあいつは違うのだ。この方法でも大したダメージを与えられない可能性もある。
 …いや。そうじゃない。
 緩やかに動き出した影を見て、僕はその真意を理解した。
「魔法陣を踏み破るつもりか!?」
 僕は魔法陣を飛び越え、中に踏み込む。ラベールと距離を詰め、陣へ向かう足取りを遮る。
 『よく分かったわね』そう言いたげに、形の良い唇を微笑ませ目を細める。
「ミトラが威光を放ち恩寵を授けるが如く、かの禍つ星も輝きて死に導く。死に方は様々。ある者は命を奪われ、ある者は信念を折られ、ある者は性格を歪められる。憎悪は伝染し、悲嘆は感染し、希望と善意を討ち滅ぼす。世界に蔓延すれば、世界は死んでしまうのよ」
 ラベールはその赤と紫の瞳を細め呪文を唱えると、空気に含まれる微粒子が前触れもなく輝き爆発する。僕はとっさにそれを押さえ込む為の祝詞を口走るも、完全に防ぎ切る事はできない。陣を描く水は揺れた。だが断ち切られる事なく、輝きも鈍らず、そこにある。
「かつてそうなる折に、ミトラは決断した。全ての者が禍つ星の輝きにさらされてしまう前に、全ての命を絶とうと…。死より辛き恩寵への反逆、心の荒廃を無辜なる民に及ぶのを恐れたんでしょうね。この世界はどうかしら? そうなるのかしら? 私達にその狂った有り様を見せてくれるのかしら?」
 僕はラベールの前に踏み込んだ。細身の剣の一閃が彼女の胸を霞めると同時に、盾を構えて突っ込み相手の体勢を崩す。そして首に刃を押し付けた。
 背後でハーゴンが祝詞を再開したのが聞き取れる。
「我等は彼等を許す故に請う!退けられし者に更なる悪行を重ねぬよう、その慈悲を請わん!」
 そうだ、それは慈悲だ。
 サマルトリアの暗がりで交わされる謀を、明るみで交わされる偽りを、僕は憎んでいた。どんなに病弱な子供であっても、いつ死んでもおかしくなくても、僕はそれを憎む事はできたのだ。今思えば最高の恩寵であり幸いだった。
 どんなに周りが闇であっても、光を知る者が全ていなくなる事はない。
 闇を覆すのがどんなに容易でなくても、覆すことができる日がくる。
「それはない」
「盲信よ。サトリ王子」
 黒い翼のようなうねりがラベールの下から這い出て、僕を跳ね上げる。防御が一瞬でも遅れれば胴が真っ二つになるほどの衝撃で、僕は空中で受け身を取る事もできず背中から塔の屋上に叩き付けられる。
 背中がびっしょりと濡れている。僕は陣を崩してしまったのか!?
「世界は狂い出してるわ。ラダトーム王権の崩御の本当の理由を民が知っているのかしら? サマルトリアの王権はどちらの手に握られ、どちらの身内が刃を握るのかしら? 世界最大の王国になるムーンブルクは今まで通りかしら? ローレシアに野望は巣食っているかしら? ミトラの両拇指ですら本来の権限を超過して、そんな世界の民を救おうとしているのよ。さぁ、どうするの? 王子? 貴方の信念はどこへ行くのかしら?」
 楽しくて仕方ない脳髄を揺さぶるような笑い声。声が空気を振るわすと、空気は片っ端から黒い冷気になり体を貫く。黒い風は服を切り裂きその下の肉を深く切り裂いた。深紅の血が溢れ出た瞬間に極寒の空気に触れて凍結する。
 祝詞を唱えていたハーゴンがいきなりの出来事に反応できず、シクラが気が付いて稲妻を放つ。黒い風と白銀の稲妻がぶつかり合い相殺しあい、氷が解け熱気が大量の湿気を含んだ。
 シクラが水の制御を中断した事によって、完全に魔法陣は崩れてしまっただろう。再び陣を築き上げられる時間は与えてはくれまい。
 今。
 今しかない。
 今、覚悟を決めなくてはならない。
 これ以上の窮地に立たされてしまえば、おそらく勝機はない。
 僕は天空に張り付いた白と黒と灰色の大地を見た。鮮やかな深紅の中に純粋な黒ではない滑るような漆黒がある。
 ロレックス…、お前に言いたい事があったんだ。
 僕は遠くに見える深紅の上に舞う白銀を見て、その上に乗っているだろう青い人影を追う。しかし、どんなに目を凝らしても見いだせず、声は決して届かないだろう。
 あいつはきっとうまく封印してしまうだろう。良いも悪いもあの単純な頭で割り切ってしまうあいつなら。
 詠唱を始める。
 これは旅の扉を開く為の呪文だ。この呪文は自らを旅の扉と同じ機能を持たせ、違う世界から力を持ち込む呪文だ。召還魔法に似ているかもしれない。しかし、別の世界の力とは別次元の力であり、己の制御下に置けるものでは絶対にない。
 自分の器を超える膨大な力を、自分を介して発動させる。世界最強の破壊力を持ちながら、命と引き換えになる呪文だ。
 視界が真っ白に染まっていく。もう、目の前の悪魔達の姿も見えない。自分の体も存在しているかも分からない。僕が炎で焼き払った故の焦げ臭い臭いがしない。シクラが使った力で噎せ返るような湿気が消える。ハーゴンが絶え間なく紡いでいた祝詞が途切れる。
 呪文が発動する。僕は…。
「僕はこの旅で、生きている事を実感した。この借りは…でかいぞ」
 声にならない声で呟く。いや…呟いたつもりだ。天地の区別を失い、足は空を蹴る。肉体の認識が定まらない。
『サトリ…!!』
 シクラの煩わしい甲高い声が聞こえる。
 ハーゴンの制止の声が響く。
 ルクレツィアの悲鳴が
 おっさんの怒声が
 あぁ、僕はまだ生きている。呪文を唱えなくては…。
 僕は最後の力を振り絞り、唇を動かし喉を震わせた。

 □ ■ □ ■

 夢と思いたくなる想像を絶した世界の姿だ。
 ルクレツィアとリウレムさんが手を繋いでいるのを見れば、互いに頭が擦れ合いそうなほど近いというのにその手から視線をそらしてしまえば遥か彼方を見るように遠ざかる。リウレムさんから少し離れた位置にいるサトリを見遣れば、爪先程度の大きさになってロンダルキアの塔の上にいた。きっと、向こうからも同じように見えるのだろう。
 見上げた世界はロンダルキア台地を中心に空いっぱいに広がっている。
 地平線に近い所にローレシアのある大陸が見えるが、その大地は火口から這い出た巨大な爪に引っ掻かれてしまったのか真っ二つに引き裂かれている。
 未だに腕しか見えない巨大な姿は、全貌が這い出たらどれだけ大きいにか想像も付かない。それだけじゃない。見ているだけで体の奥底から恐怖感が込み上げてくる。圧倒的な害意や殺意を直感が感じて、人間はその防御反応で恐怖を感じるんだろう。沸き出すように現れたそれだったがまだ溶岩の底がから這い出る気配はない。
 それを確認したのをずっと昔に感じてしまう。
 俺達はずっとモートと呼ばれる黒い魔物と空中の攻防を重ねていた。いや、早すぎて黒いというだけしか分からない、奴の素早い動きにリュゼルが翻弄される。俺が接近した奴に向かって稲妻の剣で斬りつけると、稲妻が敵に向かって放たれ切り裂こうとする。リュゼルもその隙に敵を火口に落としてやろうと、その鋭い爪を向ける。
 空を飛ぶ者同士、互角の勝負かと思えばそうではない。敵はリュゼルよりも二周り以上小さく素早い。それにリュゼルは俺を乗せているからか思った動きができないでいた。更に火口から這い出ようとするそれは、でたらめにその黒い腕や翼を伸ばし空中をかき混ぜるものだから何時突風が吹くか判らなかった。気を抜いて腕や翼に薙ぎ払われて地上に叩き付けられようものなら、俺らは即死間違いなしだ。
 気の遠くなりそうな、天も地もなくなってしまいそうな攻防の末、俺は敵の翼を切り落としリュゼルが溶岩に突き落とす事ができた!俺は思わず歓声に似た声をあげた。
「やったか!?」
「いや、滅ぼす事はできねぇだろうな」
 リュゼルがモートの沈んでいった溶岩を一瞬だけ見遣って言った。
「高位の魔族はその存在そのものの主だ。その存在そのものが世界から消えぬ限り、主であるそのものが滅びる事はない。恐らく今この瞬間に、魔界か世界の暗い場所で生まれ変わっているさ。今の戦闘での勝利という意味では、勝利だ。だが、本当の敗北は奴らには無い」
 そして飛行態勢を整えながら、金色の瞳をわざわざ合わす為に顔が向けられる。
「さぁ、これからどうするんだ?」
「破片を火口の周り、怪物を囲むように配置しろと言われた」
「判った」
 リュゼルは黒い怪物の一部をすり抜け、白銀の矢の様に飛んでゆく。間隔を置いて大地に降り、すぐ飛び立つ事を繰り返す。
 彼の体は透けるほどに薄く細い鱗の連なりで、まるで鳥の羽毛のように身体を覆っている。俺が想像していた竜のそれとは違う鱗は掴みやすく振り落とされる心配は全くと言ってなかったが、鱗であるが故にチクチクと服越しに居ずらさを感じさせた。
 少しでも触れてしまえば即死してしまいそうな一撃が、風のように突き抜けていく。そんな中を抜けるために繰り返していたアクロバットのような乱暴な飛行が穏やかになり、リュゼルは態勢を整えるために空中で静止する。
 目の前に今まで飛び回っていた火口が一望でき、怪物の姿も視界に納められる。ルクレツィア達がいる場所は遠い遥かにあって、俺の目では彼女が立っている火口の一環も見分け得ることができない。
「改めて見れば見るほどに全くでかい火口だな。この姿でこんなに飛んだのは初めてだぜ」
 羽ばたく音の合間にリュゼルの声が響く。
 確かに、火口は広い。火口の淵は山脈を連ねたように凹凸に富んでいるが、一概に言えるのは、溶岩を見る事のできる側は垂直の絶壁なのだ。城も山すら納められてしまいそうな漆黒の絶壁は徐々に赤みを帯び、最終的に深紅の沸騰する溶岩の海に到達する。俺が海と表現したのも、溶岩は這い出そうと蠢く者によって盛大にかき混ぜられ、嵐の海のように波立り深紅の飛沫を上げていた。
「どうだ、ロレックス。ブラックオーブとやらは全部置けたのか?」
 俺は改めて袋の中を覗く。一欠片も残ってない。中身は空だ。
「あぁ、残ってない」
「じゃあ、始まるな」
 リュゼルの黄金色の瞳がじっと火山帯を見遣った。
 変化は直ぐに始まった。天に張り付くロンダルキア台地に届くほどに伸び上がった翼が、赤黒く粘りのあるような滴りを宿し徐々に丸みを帯びて溶解していく。溶岩からは赤黒い液体がゆっくりとした速度であるが、吸い出されるように浮かび上がってくる。俺達の世界からも雫のように小さい物が滴って集まってくる。雄叫びを上げようと開いた口からは声は出ず、空気でも抜けていくような洞穴を通り抜ける風のような音が響いた。上からも下からも溶解し出した粘る物は一点に集まり、巨大な球体になっていく。血溜まりのような赤黒い球体に完全になってからも、時折腕が伸び上がり鋭い爪が形成されるが力尽きたように赤黒いものになって球体に解けていく。
 四方八方から遥か彼方に追いやられた太陽の残光を受けて、俺が置いた石の破片が取り囲む。
 石が球体に触れると、まるで吸い込むように球体が小さくなっていく。石の間隔が小さくなればなるほど、球体は縮小していく。
「あれは…人間の手か?」
 リュゼルが呻くように呟いた。
 時折最後の足掻きの様に球体から飛び出すものが、今までは獣のような竜のようなものであったのが人の一部に見えてくる。人の足に。人の頭に。人の手に。まるで原型が人であったかのように、今でははっきりと見える。なんで…そんなものに見えるんだ?
 握っている剣が電撃の青白く光を放つ。
 なぜか目の前の存在を打ち倒さなくてはならない気がした。仇敵なんて居やしないのに、まるでそんな類いに出会ったかのような思いが沸き上がってくる。激しい言葉で表現できない感情は、俺のものではない。
「なぁ…」
 俺はぼんやりとリュゼルに声を掛けた。
「あの、人間みたいなやつ。ぶっ倒せそうじゃないか?」
「はぁっ!?何言ってんだよ!?」
 リュゼルが意外そうに反応した。もう、何事もなければ無事に封印が済んで全てが丸く収まるのに、何を言っているんだと言いたげだった。それもそうだろう。俺だってそう思う。
 俺は帽子に手を突っ込んで頭をかきながら、この場にそぐわないほどのんびりと言った。
「何となく思うんだけどさ…、俺達って物を壊そうとか殺そうと思わなければそんな事しないじゃん。こいつだってそうなんじゃないか…って思うんだ。足掻いて手を伸ばそうとするあれがその意志だとしたら、あの人間みたいなやつを倒せば大人しく石に納まってると思わないか?」
「あのなぁ…」
「ちょっと突き刺すだけ。やらせてくれよ」
 俺が両手を合わせて頼み倒す。胡散臭そうに首を巡らせて見つめていた金色の瞳が、ふっと鱗の瞼を下ろして前を向く。
「まぁ、液体っぽいし刺しても何にもなさそうだしな。でも、何があるか分からんしすれ違い様にやれよ。俺様までお前の好奇心のとばっちりはごめんだからな」
 俺は利き手で剣を構えると、もう片手でしっかりとリュゼルの鱗を掴んだ。稲妻の彫刻の施された剣は青白い光を放ち、バチバチと音をたてて電気が刃を伝っていく。そして、しっかりとリュゼルに告げる。
「おう。迷惑はかけないさ」
「じゃあ…いくぞ!!」
 白銀の竜が体勢を変える。遥か下方に見下ろす位置にまで上昇すると、翼を畳むほどに狭め足を折り矢のように空を滑走する。勢いが乗ると竜はその体を回転させる。どうやらリュゼルは球体の真上をすれ違うように通過するつもりでいるらしい。確かに重力に引かれて液体が零れて掛かった日には泣くに泣けん。俺は鱗にへばりつきながらも、俺の真上に掛かるだろう赤黒い球体が十分な距離に届くのを息を詰めて待った。
 徐々に小さくなっていく球体は、人間の大人ほどの大きさにまで縮小していた。
 俺は剣を握った手の位置を修正し、握った手を緩めた。クリプトカリオンには悪いがリュゼルの勢いも手伝った一撃に、俺が引っ張られてしまっては元も子もない。
 目の前に球体が迫る。
 赤黒い球体は光沢を宿し、リュゼルの燐光を反射して輝きながら迫る俺達を映している。
 俺の視力が限界まで時間を引き延ばした。今までの感覚では瞬き一つで通過していた筈なのに、視界いっぱいに球体に映った俺の姿が見える。帽子の色は不気味な紫に、唇を引き結んだ顔は黒く、ゴーグルに球体に映り込んだ俺が球体と合わせ鏡のように無限に果てしなく並んでいる。まだだ、まだすれ違ってはいない。
 差し込んだ剣の刃は青白い光を宿して、赤黒い球体を難なくゆっくりと刺し貫いたのが見える。まるで水に突き刺したような手応えだった。すると赤黒い球体の中に何かがいて、俺の腕はその何かの重みをしっかりと感じた。手を離さなければ、この重みの主に引かれてリュゼルの背から離れてしまう。しかし、俺は驚きに手を離すのが一瞬遅れた。
 赤黒い球体から何かが、稲妻の剣に刺し貫かれた事によって押し出されるように出てきた。
 覆うようにまとわりついていた赤黒い粘液は、押し出され球体から離れていくと触手のように貫かれたものから離れていく。それは黒い巻き毛を持つ体躯の良い男だった。漆黒の瞳が驚いたように、厚い胸板を貫いた片刃の稲妻の剣を見遣り、そして俺を見た。
 俺は考えるより先に剣を手放した。男の前に精一杯伸ばした手は、十分届く位置にあった。
「捕まれ!!」
 いや。男の唇は拒否の言葉を紡いでいた。
 男の瞳が俺を重ねて誰かを見いだしたように細められた。そして漆黒の瞳の嵌った目が穏やかに閉じられ、口元はうっすらと緩んだ。まるで安心しきって眠ろうとでも思うかのように…。そんな彼の顔に笑窪がはっきりと刻まれたのがやけに印象的だ。彼は落ちてゆく。ゆっくりと大岩でも落とすように。
 瞬間、胸板を貫いていた剣が真っ白に灼熱した!!思わず手を離し顔を庇った視界が真っ白に染まる。
 突然と感じる唐突さでリュゼルが態勢を滑空から旋回に移行するための制動に、俺は成す術無く体を鱗に押し付けなくてはならなくなった。
「大丈夫か?」
 旋回し始めたリュゼルは何も見なかったかのように言ってきた。制動の時のあまりの衝撃に動けなくなった俺は、その問いに呻くしかできなかった。
「それより見てみろよ。封印が終わったみてぇだぜ」
 リュゼルは先ほどまで球体であった物の周りをゆっくりと旋回していた。破片が割れ目のつなぎ目も分からないほどにぴったりとくっつき、綺麗な宝玉になって空中に浮かんでいる。
 それはイーデンの世界の太陽と、俺達の世界の太陽の光を浴びて、燦然と白金色に輝いた。
 今、垂直に向かい合う世界は遥か彼方まで続く。挟まれたわずかな空を白夜の太陽が月をも蕩かす。
 現実離れした光景は、現実離れした思い出を香辛料に心に焼き付く。
「早く戻ろう」
 俺の声色に安堵の色はなかった。
 俺の居場所はあそこにある。