旅の扉

 星々が頭上に煌めき、月が巡る。
 僕は練獄鳥の尾羽を松明代わりにして闇の中を旅しています。足下のぬかるみから手を出したマドハンドさんを踏みつけてしまって謝りながら薬草を差し出し、ダースリカントさんに道を尋ね、迷子のスライムベスを連れて歩いたり、徒歩で行けない場所はサラマンダーさんにお願いして運んでもらっていました。
 身を切り裂くような冷えきった夜空を見上げ、僕は小さく息を吐く。
 明けない夜の世界が僕の故郷です。このアレフガルドが何時から太陽の昇らないのかは知りませんが、太陽を知って語るべき老いたる者は夜空の冷たさが蟠る闇に呑まれて消えて行く。幼い子供を寝付かせるお伽噺で存在を知っても、誰一人見る事の出来ない光は幻に等しかったのです。
 我々には夜が明けない事が当たり前でした。
 それでも月の光で僅かに育つ作物で細々と生きている人々は常に満たされなさを抱いていて、人々の折れまい心を嘲笑うかのように闇は人々を包み込んでいます。太陽の光を知る老人が打ち拉がれ絶望する中、彗星の如く唐突に一人の男性が現れたのです。
 男性は若者や子供達に、太陽の眩しさと暖かさを説き始めました。人々の光と希望となるべき若き命が、闇の中で生まれ光を知らぬが故に光る事もできないのでは、この世界は滅んでしまうに違いない。そう大声で叫ぶ彼を、誰もが変な人と思った事でしょう。
 しかし彼は諦めませんでした。立ち上がり、剣を振るい魔物を倒し、人々を元気にしようと笑い気丈に振る舞ったのです。人々がそんな彼に希望を見出すのは容易かったのでしょう。立派な体躯の男性は人々の理想の勇者を演じ、人々は彼を勇者と讃えるようになりました。
 正直、愚かしい事だと思います。
 練獄鳥の尾羽が振り撒く青白い光が、ついに目的地を闇から照らし出しました。無惨に崩れた町の全貌は、言葉にしたくない光景でした。まだ火が燻っているのか、黒く燃え尽きた柱が赤い光を抱えています。僕が小さな町の中央の広場にたどり着くのはあっという間でした。噴水があっただろう広場には炎に責め立てられて追いつめられた住人達が、二度と立ち上がる事のない姿で横たわっていました。
 鋭利なもので斬りつけられ、激しい出血で大地を赤く染めて絶命した者。叩き付けられ身体が潰れた者、木々の枝に突き刺さって息絶えた者、炎に炙られた黒いもの、煙に巻かれ倒れてそれっきりの者。女子供は喰い散らかされて酷い有様でした。四肢の欠損なんて生易しい。腑を引きずり出され、人の形を留めていない肉塊の多い事。
 僕は短く黙祷をし、銀の竪琴を爪弾き鎮魂歌を捧げる。
 この常夜の世界では、人は弱者でした。高い城壁や湖に浮かぶ島に作られた町が最も安全でしたが、そこにこの世界の全ての人々が住む事は出来ませんでした。数少ない食料を奪い合い、諍いの果てに追いつめ、争いの為に人が人を殺す。町以外の集落に暮らす人々は、弱者である人に追い立てられた更に弱き人々だったのです。
 静寂が支配していた世界に、ざわめきが押し寄せてきます。大地に転がる瓦礫や生物だったものを踏みしだく音、唸り声のような呼吸、羽ばたく音、それらが僕を目掛けて押し寄せる。僕は鎮魂歌を奏で終える前に、多くの魔物達に囲まれてしまいました。
 集まって来た魔物達が、僕に次々と言葉を投げ掛けました。
 そんな辛気臭い曲じゃなくて、楽しい曲を奏でてくれよ。
 期待に輝くその瞳、僕の音を求めてくれる気持ちが何よりも嬉しいのです。
「では、ご要望に応じまして…」
 練獄鳥の尾羽の付いた帽子を取って慇懃に頭を下げれば、魔物達は待ってましたと拍手喝采。
 唇を軽くすぼめ迸るは軽快な口笛。賑やかなポルカの曲調に笑い声のように口笛を響かせ、軽快に弾む竪琴の音色の上を、堅い靴底が足踏みして跳ね回っています。幾重にも重なった踊りの輪の賑わいは、人の住む街ですら目に出来ませんでしょう。
 魔物の住処となった廃村で、一体何が起きているんだろう。周辺の魔物達は気配を消して慎重に歩み寄り、その賑わいを見て次々輪に加わるのです。大きくなり熱狂とした気配に、誰かが火を放ち黄金色に輝く夜気が世界を明るく照らしたのです。
 魔物達が踊っている。滅茶苦茶な踊りだろうが、そんなのは関係ありません。人々よりも嬉々とした活気ある表情で、ぞろりと牙を並べた口を大きく開けて、隣の種族の違う魔物と肩を組み、別の魔物の身体の一部を踏みつけたりして楽し気に踊っています。それは魔物達のダンスホール。その輪の中心に居るのは、若い人間の男である僕。草臥れた外套の下には、泥にまみれたブーツと緑を基調にしたゆったりとしたアレフガルドの伝統的な装束が翻る。緑の帽子に挿した練獄鳥の羽根をひょこひょこ動かしながら、僕は口を窄めて口笛を響かせ、軽快に竪琴をかき鳴らして魔物達と踊っている。魔物達も雄叫びを上げたり、笑い声のような声を上げたり、朗々と声を響かせ歌っているつもりの者も居る。
 あぁ、なんて楽しいのだろう。
 僕は微笑み、魔物達のリクエストに応じる。宴は月が沈む明け方まで続き、月の光が陰り満天に星が輝く昼間になってようやくお開きとなったのです。魔物達は労いに泉の場所を教えてくれ、食料も分けてくれました。身を切る程の冷たい空気に、はらりはらりと輝く氷が舞っています。
 白い息が吐いた傍から凍る。この世界で魔物の危険が無かったとしても、その寒さは生きとし生けし者の生命を脅かす程でした。雨風を凌ぐ事の出来ない町で休憩は危険なのです。
 荷物をまとめ手早く移動の準備を始めた僕の背後に、凍り付いた大地を踏みしめる音が近付きました。心の臓器を握り潰そうとする冷気が突き刺さりながら、僕はゆっくりと振り返ったのです。
『あまりに闇に近付きすぎれば、姿形も闇に属する者となろう』
 眠気を誘う常闇の底のような声は、低く穏やかでした。
 長身の偉丈夫の影が、星空から切り取られる。ふわりと翻る衣からは、闇の底に沈んでいる数々の匂いが漂った。洞窟の奥に淀む腐った水の匂い、死して忘れ去られた遺骸の匂い、陰謀を語る酒の匂い、眠りを包み込む乾いた匂い。それらはアレフガルドに有り触れた匂いだったのです。
 深々と被った兜にぎょろりと蠢く第三の瞳。それが、彼が人間ではないと僕に知らしめたのです。
 しかし、僕は彼が魔物と共に居る場面も見た事が無い。魔物達もそのような存在を知らぬと口々に話すのです。
 結局、僕は彼の名も知らず擦違い、短い言葉を交わすのでした。しかし、短い言葉の積み重ねは、彼が僕にとって最も会話をする存在となっていました。僕は控え目に笑い、凍り付かぬよう暖かい吐息で声を紡ぎました。
「魔物よりも人の方が恐ろしいですよ」
 僕は口の中で言葉が凍るのを感じていた。それ程に、声が冷えていた。
「人間が魔物になってしまえば、争いなど起きないでしょうに」
『神々はここを自らの領土とする為に、人間を送り込んだ。だが、人間は神々の要望に応える事が出来なかった』
 僕の冷えた言葉に、重苦しい声で彼は同意した。内容は理解できるものではありませんが、彼の声にははっきりとした遺憾の意を感じました。なぜ彼が人に対してそこまでの期待を掛けていたのか、僕には全く理解出来ませんけど。
 魔物達は人間より寿命が長く、アレフガルドの事を良く知っていました。
 彼等は謳う。アレフガルドは、魔物の始祖と精霊の勇者の戦いで誕生した…と。彼等の戦いは大地を生み出し、始祖が勇者に斬りつけられた傷から夥しい数の魔物が生まれた。戦いの結末は誰も知らぬまま、静かに横たわる魔物達と芽吹き始めた生命の世界を、天上界の神々は見捨て闇が拾った。他所から闇に惹かれて魔物や悪行の限りを尽くした人間がやって来る事があったが、新参者も古兵も大いなる闇の前には平等だった。闇の中で命は生まれ育ち死ぬ。
 ある日、神に導かれ人間達がやって来た。先導する人間は正義感に満ち神の言葉を語り光り輝いてすら見えた。光る人間は多くの人々を率いて魔物の住処を奪い町を作り、怒った大いなる闇は真の闇で世界を覆ってしまった。そうして、今のアレフガルドになったのだ…と。
 僕は昔話を語ったスノードラゴンの美しい声色を思い出しながら言葉を紡いだ。
「天上界の神々は、なぜ人をアレフガルドに導いたのでしょうね?」
 魔物には人災であり、人には死の旅。なぜ、神はこのような事をしたのか僕には分からなかった。
『ここを神々の領地とする為だ』
 彼は即答する。
『だが、この地は神々の領地にはならぬ。神々はこの地を閉じようとするだろう』
 意味が分からなくても、なぜか体が痺れるような衝撃のある言葉でした。口の中が乾き、痺れる舌をようやく動かして、バカみたいに質問しました。
「閉じられたら…どうなるんですか?」
『魔は光を逃れてこの地に流れ着き、闇の中で過ごし、いずれ転生の時を迎える。その循環が閉ざされれば世界の均衡は崩れ理は失われる』
 氷を帯びた空気に翻る衣が、星々の光を遮り一寸も見えぬ闇を穿つ。だが彼は光を反射する事無く、ただ黒い塊のようにそこに佇んでいた。彼は瞳だけ冴え冴えをした光を帯び、神々を心から侮蔑するように言葉を吐き捨てました。その言葉に秘められた呪詛は、聞く者の耳を腐らせ魂を鷲掴む程の力を秘めていたのです。
 僕には理解できなかった。ただ、彼の逆鱗に触れまいと身を縮ませ、生命を脅かす寒さから逃れる事ばかり考えていたのです。長話が過ぎたのでしょう。指先の感覚が失われ、歯が噛み合わない。肺が軋み、内蔵から体温が奪われて行く。指先が凍傷で壊死するか、寒さが甘美な幻惑を率いて永遠の眠りを齎すか、僕の周囲で死神が相談しているようでした。彼はそんな僕を見て、意味ありげな笑みを浮かべたような表情になった。
『其方はどうする? 世界と運命を共にするか?』
 舌が凍り付いてしまっていた。もう、返答すら出来ない。目を開ければ冷気が目を凍らそうと牙をむき耐えられぬ程に傷んだが、僕は彼を見た。凍り付いた歪な視界の中で、彼の口元が笑いの形を作ったのがはっきりと見えた。
 視界が青い光で満たされる。渦巻く光がアレフガルドの冷たい空気を吸い込んでいて、僕の衣が光に吸い寄せられるようにはためいた。
『光も闇も渡る事が出来る人間なら、神の領地へ行く事が出来るだろう』
 旅の扉は神秘の扉。竜脈を通じて途方も無い距離を一瞬で結ぶとも、次元を越えて異世界に通じるとも言われています。彼の言葉が示すのは後方。アレフガルドではない、神々の支配する世界に通じている。余りの大きな分岐点に、僕の胸は押しつぶされそうな程に傷んだ。もしかしたら肺が凍って潰れ掛かっているのかもしれない。
『神々が遣わす勇者、闇を滅ぼす宝玉、理を語る賢者…、神々の領地で何を得て来るのも良い。其方が戻らず、神々の領地の民になるも良い』
 僕の心を見透かすように彼は言う。
 神々の世界からアレフガルドに戻る事もできる事を、アレフガルドの運命を変える力がある事を教えてくれる。そして僕がアレフガルドを捨てて生きる事も全てを許してくれる。この世界の全ての生命が滅びる事も厭わない残酷さと、この世界が変わってしまう事も許す無慈悲さも、一つの存在には重い決断に違いない。
 僕に選択を選ぶ余地はなかった。拒否すれば眼前に迫った死が僕を飲み込む。
 旅立たねば、今、世界に殺される。
『希望は光。闇がなくては光の価値はないが、それを知る光は光を知る事によってさらに輝く事ができる』
 やはり。僕は思う。彼こそが『大いなる闇』なのだ。
 僕は光から目を逸らし、闇に目を凝らした。一層暗くなった視界の中で、彼がより濃く暗い闇として見る事が出来ました。
「ぼ…僕は…吟遊詩人のガライです」
 がちがち鳴る歯を噛み締め、僕は名を名乗りました。
『我が名はゾーマ』
 彼の名乗りを聞き、僕は深々と頭を下げた。
「いってきます。ゾーマさん」
 僕は踵を返し青い光に向かってゆっくりと歩き出した。故郷を捨て、友を捨て、世界の希望を背負わされ、僕の旅が始まった。

 □ ■ □ ■

 見なれた闇色を紅に変えて太陽が昇りはじめます。この世界にやってきて、ずいぶんと時間が経ちました。
 僕が太陽を見た時、正直目が潰れてしまうかと思いました。灼熱した炉を覗き込んでいるようで、暖かくなって来た空気と身体に身体が燃えてしまうと本気で怯えて森の影に飛び込んで震えたものです。それから空の色を、植物の色彩を、魔物達の姿を食べる事も忘れて魅入ったものでした。訪れた街の人々の笑顔に、人間はこんな表情をする事が出来たのだと驚いたものです。
 それなのに今では失笑してしまいそうなくらい、当然な事に感じられてしまう自分がいます。
 最初はあのアレフガルドと言うの僕の故郷の時と大して変わらない一人旅でしたが、今では2人の仲間と一緒です。仲間達と旅を始めて、僕はゾーマさんの言葉が少しだけ分かった気がします。先を行く2人を眺め、僕は思わず笑みを零しました。
「……どうしたの?ガライさん?」
「気持ち悪いな。ニヤニヤしやがって」
 僕を見つめる二人を、僕は眩しく感じて目を細めました。
「いえ…」
 僕を含めアレフガルドの人々は隣人の死を、まるで物を見るかのように感じていました。故郷がどうなっても、僕は良いと思っていたのです。ゾーマさんが何故、そんな僕を送り出してくれたのか知りません。でも、あの時は確かに生きたかった。世界に牙を向けられ、死と生を迫られて僕は生を選んだ。
 そして選んだ先の幸せを、僕は噛み締めている。
 日が沈んでも日が必ず昇り、明日が必ず存在する世界。その世界で生きる人々が喜怒哀楽を心から表し、生きていく日々を祝う。ロトちゃんが何の見返りも求めず輝くように笑う事に、自分の事しか考えていない己を深く恥じた。カンダタさんが僕等を支え護っている事に気が付いた時、僕は今まで感じた事もない安堵を覚えた。手探りで上手く行かない事ばかりだけど、僕の行ないに彼等もまた応えてくれる。喜んでくれたり笑ってくれたり、その動作1つ1つに自分が誇らしく感じて胸が暖かくなる。
 あぁ、この感覚を知っている。
 魔物達が、僕の音を求めてくれた時。刹那の楽しみを分ち合った時の、悦び。
 太陽なんて要らない。故郷が変わらないままでも良い。ただ、アレフガルドの人々に僕は望むようになった。
 生きて欲しい。
 生きて、知って欲しい。
 生きた先に、こんなに素敵な事がある事を。
 それは言葉にすると、きっと『希望』という意味になるはずだ。
「何でもありません」
 そのためにどうすれば良いのかは、きっとこの旅が教えてくれる。