紋章

 この世界に光が満ちる時、この世界は平和になるのだと精霊ルビスは言う。
 この世界には、精霊ルビスに導かれてやってきたのだと人々は言う。
 この世界からどうすれば元の世界に帰れるのか?と俺は問う。
 この問いだけは、誰も答えてはくれなかった。

 □ ■ □ ■

 もう故郷の空すら思い出せぬほど見慣れた空を見上げた。雲は退いて雪の心配はなくなったようだが風が冷たい。
 遥か彼方に見える崖の先端から鬱蒼と茂る森まで戻ってきて、時間的には夜の時間帯になったはずだ。森で野宿をするのは危険だとは解ってはいるが、世界の全てが凍えさせようと働くこの大陸は魔物よりも寒さの方が恐ろしかった。
 少し後ろを歩く女性に俺は歯が噛み合ないけれど声をかけた。
「ロゼ、今日はここら辺で野宿することにしよう」
「はい。おじさま」
 明るい雰囲気の女性がはっきりと元気良く答えた。
 ロゼはおそらくこの地で一番美しい女性だろう。
 彼女がいなければ、この地でただ一つの王城は廃墟と見間違えるほど陰鬱で暗かったし、町の人々は笑うという感情を全く知らずに一生を過ごしたかもしれない。彼女の輝く金色の髪は光を振り撒き、明るい声は閃光のように暗闇を突き抜け、笑顔は暗闇を遠ざける。まさにこの地の太陽だ。
「今日も寒いものだな」
 集めた木の枝にメラを放って火をつけるが、全く寒さは和らぐ気配がない。その火にロゼは小さい鍋を置くと、白い息を恨みがましそうに眺める俺を見て笑った。
「仕方ありませんわ。まだ保存食もありますし、シチューでも作って体を温めましょう」
「シチューか…。ここに来てからというもの、温かい物しか口にしていない気がするよ」
 この大陸から一歩も出ていないロゼを前にして言うなんて、俺って大人げないよな。この寒さが当たり前の世界で育った人々にとって、俺の今の言葉は贅沢でしかないのにさ…。
「そのかわりスカイドラゴンの肉とか食べれて良いと思いますけど…、最近のおじさまは剣で仕留めるよりも魔法で仕留める方が多いですから、食材は結構苦労しているんですのよ」
「そりゃないよな〜。俺なりに頑張ってるのに」
 俺が兜を脱いで潰れた髪をかき回すと、堅くて量の多い髪はぼさぼさに広がる。
 ロゼはくすくすと年相応の笑顔で笑った。
「普通はこんな所に来れる人は、私が知る限りおじさま以外に一人しかおりませんわ。食材に苦労する程度で済んでいるんですもの。おじさまは凄い方ですわ」
 ロゼは良く俺以外の旅人として吟遊詩人の青年を挙げる。会ってみたいと何度も考えたが、詩人は町に留まらず直ぐさま旅立ってしまう。魔物を退治し引き止められる俺とは真逆で、この狭い大陸で10年暮らしても会った事はなかった。
 よく分からないが、褒め言葉に聞こえる。
「ははははは。ありがとよ」
 俺はちょっと冗談めかして笑うと、本当に可笑しく感じる性質だ。
 少し楽しい気分になると、体が幾分か暖かくなってきた。火の熱が辺りの空気を少しだけ暖める頃には、ロゼがシチューを作り上げていた。シチューが鍋からなくなるまでの間たわいのない会話をし、体のあたたまる飲み物を飲みながら見張りに立って夜を越す。
 寒さで余裕を失っていた感覚と、飢えで余裕を失っていた精神が満たされ、会話してくれる友が寝静まる。
 夜がきたのだ。
 俺は薬湯を啜って体を温めると、ロゼが風邪をひかないように薪を足す。
 ぱちん。ぽきり。ぱち。ばち。ぱちん。たき火が爆ぜて音が響く。
 火の向こう側にロゼの美しい顔が見える。金色の髪が赤金に輝いて白い肌がオレンジ色になるのが見えて、一瞬だけ妻を思い出す。ロゼよりも体格も背丈も大きかったが、金髪で色白で真っ青な瞳をしている特徴は同じだ。ロゼくらいの年頃の時は俺と妻は仲間と旅の真っ最中で、いろんな所に行っていたものだ。
 妻も娘を同じように旅立たせるんじゃないかって、たまに心配になる。旅に出たことはお互い良い経験だったから、妻の事だきっとその経験を娘にもさせてやりたいと思うことだろう。可愛い子には足袋を履かせろと諺にもあった気がするし。
 ……本気で旅に出してそうで心配だ。
 しかも俺を探せとかいう口述で旅に放り出されていたら、すごく申し訳ないぞ。
「16歳の娘は……どんな子供に育っているんだろうね?」
 考えていたら旅をしているかもしれない娘が気になった。
 呟いても眠っているロゼに聞かれることもないだろう。
「どれくらいの背があって、どんな格好をしていて、どんな生活をしていて、どんな物が好きか、趣味は何か、そんないろんな事が俺には何一つ想像できないよ」
 それくらい離れていた。
 それくらい一緒にいなかった。
 国王の依頼でよその国に用事ができて、用事を済まして帰ってくると娘はとっくに生まれて首が据わっていた。
 俺の妻そっくり顔立ちと瞳の色に、俺から受け継いだんだろうふさふさとした黒髪の女の子。その小さい爪が工芸品かと思ってしまった、小さい小さい赤ん坊。
 今も一番覚えているのは初めて娘を抱いた時の重みだけ。
 その後、魔物退治に出かけて帰ってくれば、娘はとっくに一人で歩いていた。おぼつかない足取りで、あっちフラフラ、こっちフラフラ、倒れそうな娘をどう扱って良いのか分からなかった。あの細い体にどんな力加減で触れば良いのか分からない。俺の妻の腕が軽々と娘を持ち上げるのを見てもなんだか恐かったのを覚えている。
 どこからか依頼が来れば出かけなくてはならず、それを繰り返すうちに、家に帰れなくなってしまった。
 おそらく、娘は俺のことなんか覚えてはいないだろう。俺ですら覚えていないんだから。
「そんな俺はきっと娘にとって、見覚えのないおじさんだね」
「そういう風に思っていらっしゃってればね」
 !!!!!
 たき火を挟んで反対側にいるロゼの目がいつの間にか俺を見ていた。
 いつから起きていた…いや、それよりも今までの独り言が聞かれていたんじゃないか!?
「…ロ……ロゼ!起きていたのかい!?」
「『娘にとって見覚えのないなんたら』って辺りから起きていましたわ」
 むくりと起き上がったロゼが髪を結い直して、短剣を引き寄せる。
「もうすぐ明け方になりますけど、おじさまは眠っておりませんでしょう?少し眠られた方が良いですわ」
「いや、眠れる気分じゃないよ」
 心底びっくりして、すっかり目が冴えてしまったからな。
「お子さんの事を考えておられたのですね。あまり暗く考えていらっしゃると、闇に飲まれてしまいますわよ」
 昼のないこの世界では、実力的に一人旅が出来ても孤独に心を蝕まれてしまう。この地を旅する旅人の中には実力があっても発狂してしまうものもいる事を、ロゼは遠回しに言ったのだろう。
「気持ちだけでも明るくあれば、きっと何かが見えるものですわ」
「そうだね」
「……でも、今のおじさまの顔ではそのような事を言っても無駄かもしれませんわね」
「へ?」
 自分でも自覚してるけど、ロゼは俺以上に俺が浮き沈みの激しい性分だというのを知っている。時々、自分よりも大人ぶって諭しにかかるのだが、話し上手で聞き上手なロゼは魔法のように俺の沈んだ気持ちを浮かび上がらせてしまうのだ。
「おじさま。娘さんの事を考えるのはそんなに辛いことですか?」
「辛くはないよ。ただ、想像もできない事を悲しいと思っているんだよ」
「想像って、何もないところからでもできるものではないのですか?」
「で、できるけど…」
 実際やったことないよ…。
「『きっと娘はナイスバディで奇麗に着飾って男たちに言い寄られるほど美人なんだ』ってくらい、想像してみればいいじゃないですか」
「えぇっ!?」
「…ぷ。冗談ですわよ」
 き…気絶しかけたよ……。
 妻そっくりに成長した我が娘が見えた気がして、目がちかちかする。
「でも、娘さんが優しい方ならきっと考えて落ち込むのを知ったら、娘さんが悲しみますわ」
 ロゼの表情が沈む。
「『自分が生まれてこなければ良かったって』貴方が娘さんを後悔させてしまいますわ」
 あぁそうだ。ロゼは母親を亡くしているんだった…。
 でもここで『しまった!』って顔をしてはロゼに気を使わせてしまうから、俺は冷静を偽ってロゼに聞き返した。
「じゃあ、どうすればいいんだい?」
「想ってあげればいいんですよ」
 ロゼがにっこりと微笑んだ。
「『元気でいてくれるといいね』とか『楽しく暮らしているといいね』って想って、願って差し上げればいいんですわ」
 今の俺の年齢よりずっと若いままの妻。きっと丈夫な彼女の事だからきっと風邪一つひかないだろうけど、元気でいてくれるといいな。娘も一番華やかな年頃だろう。男遊びはちょっと許せないけど、だれか気の許せる友達がいて、楽しく暮らしているといいな。
 ……。
 なんだか考えると体が暖かくなる。
 吐く吐息がいつもより暖かくて、そのまま笑ってみせると気持ちが軽くなる。
「…幸せ者だね。こんな美人に心配してもらってさ」
 何度ロゼに励ましてもらったか分からないが、お世話になりっぱなしだ。
「おじさまはモテますものね。昨日は光り輝く美人様とお話になられてましたし」
「そうだったね」
 森の枝や葉の間から、空よりも暗く塔が天に向かって伸びている。
 その塔にはとても美しい石像があり、まるで生きているように存在していた。気になって夜も眠れないって訳じゃないけど王国の文献を調べれば、意志のある石像に語りかける力を持つ『妖精の笛』という秘宝が存在し、その秘宝を持っていたのがロゼだったのだ。
 そして妖精の笛を麗しい石像の前で奏でると、石像は精霊ルビスだった。
 奇麗ではあったが、俺の好みじゃない。
 それに好みのタイプを『俺の奥さん』って言わなきゃ、いろいろマズイだろ?
「でも、この板ってなんか意味でもあるのかな?」
 精霊ルビスがくれた物を俺は掲げて見る。丸い厚めの板に鳥が羽を広げた紋章が掘られている。
 同じ紋章のついた盾と鎧と兜と何故か真っ二つに折れた剣が、今掲げて見ている丸い板と一つのセットで精霊ルビスから与えられた。武具一式は普通の鋼とは違った軽くて丈夫な不思議な材質で出来ていて、『神様のお力』を感じられそうな高級感が漂っている。
 板も試しにインパス唱えてみたが、取り立てて効果のあるような代物であるという感じはしなかった。
「おじさま自覚無いんですの?魔法の威力もすごく上がってるし、昨日だってライデインのさらに上の魔法使っていらしたじゃない」
「そうそう。ギガデイン……って、やっぱりこの板の力かな?」
 俺がそう答えるとロゼは完全にあきれ顔になってため息をついた。
「『板』『板』って繰り返したら金とルビーでできた紋章が可哀想じゃありませんの?もっと気の利いた名前とか付けられませんの?」
「たかが板に名前を付けるのか?」
「せめて紋章と言えばいいじゃありませんか」
「確かに紋章は掘られてはいるが、これは紋章じゃなくて紋章が刻まれた板だぞ?」
「あー言えばこー言うの屁理屈おじさまね」
 ロゼは俺の隣にやってきて腰を下ろした。まるで弟を叱りつけるようなお姉さん口調で俺を睨み付けながら言う。
「おじさまは同じ紋章のあしらわれた武具一式に身を包んでおりますのよ。きっとその紋章はおじさまのトレードマークになるに決まっておりますわ。そしたら『おじさまの紋章』って呼ばれる事になりますのよ」
 おじさまの紋章って…。
「ここは時代を先取りして、おじさまの好きな名前とか当てはめたら宜しいんじゃなくって?」
「好きな名前…」
 そうして真っ先に思い付いたのは家族だ。
 10年前から全くかわらない、時間の止まった家族。
 まだ三十路一歩手前の妻と6歳の娘が、住み慣れた家の玄関に立って俺を見送っているのが最後だ。だが俺は知ってる。俺を見送る妻は決して一人ではなかったんだ。一番最初に俺を見送った時から、妻のそばに寄り添う娘がいた。
 最初は妻のお腹の中。次は妻の腕の中。次は妻と手を繋いで。次は妻の服の端を握って。
 俺の大切な人を守る優しい子。俺と妻を守ってくれる強い子。
 お前がいなかったら俺は旅にも出られなかった。妻一人で家に残すことはさすがにできなかったが、俺は妻を一人で守れるほど強くはなかったから、お前がいてくれて本当に良かったと思った。お前がいなかったら俺は家に帰れなかっただろう。
「じゃあ、ロトにしよう」
「ロト?随分と変わった名前ですこと」
「変わった名前なんてひどいなぁ…。ロトは俺と妻で決めた、たった一人の大切な娘の名前なんだぞ」
「いい歳こいて頬を膨らませないでくださいまし」
 笑いながら見下ろした黄金の紋章。俺の期待も希望も、その紋章に込めたってバチは当たんないだろ?
 だってさ
 この紋章にはこの地の人々の全ての期待が寄せられる。その紋章を持つ俺はその期待を背負って
「…ふぅ」
「おじさま!?一体どうしたんですの!?いきなり気絶なさらないで下さい!!」
 ごめんロト。俺、駄目な父親だ。
 こんな面倒臭い事を終わらせて、早く帰りたいよ。