水の羽衣

 波のように連なる山は白銀の雪の世界。
 夜にのぼる月明かりの下で見ることのできる光景は、とても奇麗だ。
 雲は山の表面をなぞり粉雪を振りまくのを見れば、滑り降りる霧は輝く空気になって風に囃し立てられ舞い上がる。漆黒だった木々に深い緑の色を与える月の明かりの下で、山に散らばる集落も火を灯し、雪に揺らめく炎が美しい光景に胸が踊る。
 霧雨は凍り、糸のように降り注いでいる。
「今日も寒いね」
 ラダトームから出てから…いや、このアレフガルドという所にきてから、口から出るのは大体この単語だ。
 吐く息も凍るこの世界では口数も自然と減り、会話を交わす時間はほとんどない。だから前を歩くガライさんとあたし達がいた世界で一年近く一緒に旅をしたのを、今、一番実感する。会話がなくても気まずくもならず、並んで歩く事が、共に旅する事が苦痛と感じない。幸いだった。
「マイラまでもう少しです。……あぁ、見えてきましたよ」
 煙かな…?何かが立ち上っている。
 その煙に揺らめきながら窓の明かりが見えてきた。丸太を組んだ防壁に、石積みの土台の上に木の造りの家々が並んで、森林の中にうまく溶け込んだ。そんな町並みには、屋根から落ちて盛り上がった雪以外雪が積もっていない。
 靴の底があったかい。
 あたしは手袋をとって地面に触れると、地面が暖かい。
「鍛冶産業も活発でここの技術はメルキドと同等と言われてるんです…が、そんなのには興味がないでしょうね。ここには温泉が出るんですよ」
「オンセン?」
「暖かいお湯のことです。ここからさらに山奥に入ると活火山帯があるんですが、そこから流れる地下水脈が暖められてここまで流れてくるのだそうです。その熱の恩恵を受けたのがこのマイラなんですよ」
 なるほど周りの森林から薪を拝借して暖を取る以外にも、地熱を利用して家に熱が上がってくるようにもしているんだろう。しかし、温泉かぁ…。文献で見た程度だったけど、実際実物を見るのは初めてだろうなぁ。
 煙がもうもうと上がる一角の脇の家にガライさんが入る。白か黒しかない色味のない世界から突然、暖炉の赤と暖まられた空気とランプの光と暖かみのある木目の壁にオレンジ色に輝く空間に飛び込んで、目が痛い。
「ガライ君じゃないか!一年…いや、もっと会ってなかったな。元気そうじゃないか!」
「お久しぶりです。お変わりないようで何よりです」
「君は変わったな…。何が変わったって訳じゃないんだが…、逞しく…いや、柔らかい印象になったんじゃないか?」
「そんな事ありませんよ」
「ほら、そんな返事。昔は素っ気なかったのに、今は少し優しくなった気がする」
 目を閉じたり開けたりして光になんとか慣れさせようとしている間に、ガライさんとこの家の主人が和やかに会話してる。家の主人があたしと目が合うと、ふっと目を和ませて奥を目で指した。
「…ほら、連れの子も一緒に暖炉の傍に寄りな、先客がいるけどな」
 その言葉にガライさんの背中がピクリと動いた。
「やっぱりここにいるんですね!」
 家の主人を押しのけ、マントとフードからざらざら雪を落としながらガライさんは奥へ走り込む!奥から甲高い女性の声が上がった。
「ガライ君!びっくりさせないで下さいな!」
 雪だらけのマントを家の主人の太い腕に押し付けると、ガライさんを追う。
 そこには美人な女性がいた。
 金の髪は雪のようにふわりふわりと暖炉の空気で舞い、エメラルドのように輝く瞳はびっくりしながらもガライさんへの再会を純粋に喜んでいるようで、白い肌は外の雪よりも生命力溢れる白さでピンク色に色付いた爪が美しかった。
 ガライさんの震える拳を見て、あたしは感じた。
 この人が、ロゼ姫なんだ。
 未だに追い着いて来ないカンダタを思うと、あたしはその上品に手に乗っけたティーカップを姫様にぶっかけて怒鳴りつけてやりたかった。でも、ガライさんはそうしない。震える拳でガライさんもどうしようもない感情を感じるが、きっと顔は穏やかだ。あたしにしてみればそのロゼという人は全くの他人だが、ガライさんにとって共に旅をした事のある仲間なんだろうから…。
 あたしは立ち尽くしながらガライさんを見守った。
「ガライ君!どこ行っていましたの!?」
 ロゼ姫はその美貌に満面の笑顔を浮かべて、ガライさんの肩を叩いた。
「ついに勇者が現れましたのよ!精霊ルビスに認められた勇者が、この闇を払ってくださるのよ!魔物を倒す剣技、魔法、きっと彼はアレフガルド創世記に現れた勇者の生まれかわりなんですわ!そんなオルテガおじさまが、ガライ君に会いたがっていましたのよ!」
 あたしは呆れて口の形が笑う形になってしまった。
 口を開いて何をいうかと思ったら、勇者と呼ばれる人がガライさんに会いたがっていたのに、どこに行っていたんだ!だなんて…。自分勝手にもほどがある。しかも勇者と認めておきながら『オルテガおじさま』だなんて…。
 ……?
「お父様もアレフガルド中の人間が一丸になってオルテガおじさまを応援しておりますの。リムルダールにアレフガルド中から集まった勇士達が集結していて、ついに魔の島へ総攻撃を仕掛けるんですの!その指揮官はオルテガおじさまなのよ!勝利は間違いなしね!ガライ君、ようやくこのアレフガルドの闇が払われるんですよ!」
 闇を払う勇者オルテガ。
 オルテガ父さんと同じ名前の人。
 その人が、このアレフガルドの闇を払う戦争の火蓋を切るの?
 何も知らないくせに。
 ガライさんがどんなに苦労してアレフガルドに光をもたらすか模索してるのか、
 カンダタがどんな思いであたし達を先に行かせたのか、
 セルセトアさんがどれほどの決意であたし達に選択肢を与えてくれたのか、
 母さんがどれほどの苦しみを抱えながら待っているのか、
 あたしが、何も知らないから知らないなりに理解しようとしてるのか、
 何も知らないくせに。
 あたし達はあたし達で世界を救おうとしてるのに…、どうして、そんな所にいて、そんな事を始めようとしてるのさ……!!
「どうしましたの?」
 声が遠くに聞こえる。吹雪いてきたのか地鳴りのように響く音が、あたしの心に冷たい風を流し込んで冷静さを与えてくれる。
 ふらりと動き出したガライさんの胸をあたしは押しとどめた。
「外が吹雪いてきたよガライさん」
「ですが、時間がありません」
 感情も凍り付いたように冷えきった顔のガライさんの目に、視線を合わせる。
 その『時間がありません』はいろんな意味の『時間がありません』だろう。闇を払う際に出てしまう多くの犠牲。闇を払うのに、アレフガルドを救うのに打ち破る存在が無いなら、一刻も早く話し合いに行けば犠牲はゼロで済むかも知れない。
 それでも
 あたしは首を振った。
「今日は、止めよう」
 たしかにたくさん人が死ぬとしても、その中にオルテガ父さんがいるとしても、今日じゃない。今じゃない。
 吹雪の中じゃ、さすがにフバーハでも防げない厚く積もった雪の大地がある。腰まで浸かって進むなんて、あたしやガライさんも、きっとカンダタだってできないよ。
 そうだ、きっと、カンダタだって止める。どんなに友が危険にさらされていようと、目の前の仲間を守らなくてはいけないと考える。
 あたしはガライさんの瞳を黙って見つめた。
「そうですね」
 ガライさんが息を吐いて瞳を閉じる。開いた瞳にいつもの温和な感じが感じ取れると、あたしは少しホッとした。
 ロゼ姫がガライさんの背中から伺うように覗き込んで、あたしと目が合った。
「あら、ガライ君に同伴者がいるなんて珍しいんじゃありませんの?」
 その人のせいではないのに、言葉の一つ一つが、口調やイントネーションの些細な変化に心が逆立てられる。あたしはすっと視線をそらした。

 久々に体の芯から暖まった気がする。
 アレフガルドに来てから、ずっと野宿ばかり。アリアハンの真冬より厳しい気候に疲れていたのか、温かい飲み物で手を温め、あたしの意識はぼんやりとしていた。ガライさんがロゼ姫に説明する声をとても遠くで聞いている。
「あの子がオルテガおじさまの娘さんなんですのね。おじさまから幾度かお聞きした事がありますわ」
 ロゼ姫はあたしの名をガライさんから聞くと、早速あたしに話しかけてきた。
「おじさまは大変家族の事を気にかけておりましたのよ。家族の事の無事を、常に祈っておりました」
 そんなの…関係ない。
 帰って来てくれさえすれば、母さんはどれだけ救われただろう。いっその事、家族の事なんか口の端にも上らなかったら憎めるのに、宙ぶらりんな気持ちであたしは暖炉の火を見つめた。
「娘さんには後悔の念を抱いていたような気がしますわ。何もしてやれなかった…と、ご自分を責めている事がありましたもの」
 それこそ関係ない。父親という存在がいるはずなのに、父親の記憶がないまま、この年齢まで育ったんだから。
 むしろ娘に憎まれた方が幸せなのかな?
 自分を責めている幻のロトを消す事ができる唯一の現実のロト。
 ならば『ありがとう』と告げてやればいいのだ。そうすればオルテガ父さんの気持ちは晴れるのだ。その後は知らない。関わりたくない。ありがとうを告げた奇麗な幻のロトが、これから彼を支えてくれるだろうから。
 勝手なものだ。親も、自分も。
 嫌になる。考えを打ち消せと、目紛しく語られる父親の事で混乱した頭の片隅で理性が囁いた。
「ロゼ様、ロトちゃんは慣れない山道で疲れてるんです」
 ガライさんが的確に真実を言って、ロゼ姫の言葉を遮った。
 同情と良心と『あたしよりも父親を知っているという』僅かだがそんな意味を含んだ優越感を帯びた声が途切れて、あたしは安堵した。そのままソファーに寄りかかる。首筋から左頬が埋もれる柔らかいソファーに身を預けると、瞳を閉じて暗闇に意識を預けた。

 □ ■ □ ■

 少し寒いと感じて目が覚めた。
 薄暗い室内に暖炉の薪が、その真っ黒になったさらに内側に赤い熱を抱き込んで燻っている。隣の部屋のカウンターにランプが灯っていて、身を乗り出すとソファーに横たわっていて、誰かが毛布をかけてくれたのに気が付いた。
 静かだ。きっと、吹雪が止んだんだろう。
 そこで扉が閉まる音が小さく耳に届いた。誰かが外に出たのだろう、それで寒気を感じて目が覚めたんだ。
 もしかして…ガライさん!?あたしを置いて行っちゃうの!?
 あたしはかけてくれた毛布をマントのように羽織って小走りで入り口の戸にかじりつくと、一気に開けた。
「…わっ!」
 なにか眩しいものが目の前を横切った。
 視線で追う。
 村の中央に向かって幾千の光の糸が伸びている。幾千の光が粉雪の一つ一つに触れて雫となし、己の金色の燐光を七色に変えるドレスにして舞う。粉雪が次々に雨に変えられ、それをまとう光は羽ばたく度に黄金の光を水の力で七色に変える。神秘的な紅玉の瞳と目が合えば恥ずかしげに目を伏せ、新緑の緑の髪に鼻先をくすぐられその髪と同じ印象を持つ香りを振りまきながら悪戯っぽく笑い、絹のような質感の小さな指で爪を撫でられその小ささに驚く。
 水の羽衣をまとう舞姫は数千の妖精。妖精の舞う空は、月の昇らない時間帯、太陽の昇らない空、新月の漆黒のような空から降り注ぐ白い粉雪の中で、黄金の川を描き、その飛沫を七色に変えて、全く現実から離れた光景は恐ろしいまでに奇麗だ。
 その妖精の舞踏会の中心にロゼ姫がいた。
 黄色のドレスをふわりふわりとなびかせるように軽やかに踊り、跳ねる度に軽やかに巻きあがる雪が妖精達の熱で七色の水の羽衣になる。舞う仕草に流れるように滑らかに差し出された手が粉雪を払えば光を受けて純白に輝いた。
 滑らかな手首の動きとは相対に指先は鋭くのばされ、腰の動きはドレスの洗練された膨らみ方と異なって激しく乱暴といってもいい。足は雪の舞う光に隠されていたが、スッテプなんか影も形もない。
 子供が戯れるような踊りを踊る人の無邪気さにガライさんの言葉を思い出す。
『ロゼ様は妖精と、とても仲良しなのです。人を支え、妖精とも心を通わせる優しい方。悲しい過去も辛い思いも、全てを吹き飛ばす、そんな心の強さを持っていらっしゃる方なんです』
 悲しい思いなんかした事なさそうに見えるのは、無神経なほどに明るく感じるのは、強いからなんだ。
 彼女の踊りを見てるとそう思う。
 どれだけ眺めていたんだろう、舞踏会が終わり、雪は止み、妖精達は淡雪が空気に解けるように光を弱めて闇の中に消えていった。その余韻に浸るように立ち尽くしていたロゼ姫は、ふっとあたしに振り返って笑った。
 いい笑顔、と、思わせる笑み。
 その笑みがあたしに、そしてそのさらに向こうに向けられているのを感じる。
 あたしと血の繋がったオルテガ父さん、あたしと旅したガライさん、この世界を救う為に動き出した二人となんらかの繋がりのあるあたしは、きっとその二人に通じているんだろう。あたしを通して彼女は、彼女の知るオルテガ父さんを思い出し、その身内であるあたしにたどり着く。彼女の知るガライさんから、あたしを通して、あたしと旅をした彼女の知らないガライさんにたどり着く。
 だからあたしはロゼ姫の笑顔を見て、ガライさんと旅しただろうロゼ姫にたどり着いた。そしてロゼ姫とも旅しただろうオルテガ父さんにも…。
 不思議な感覚だった。
 知ればその人は他人ではなくなるのは、当然のことなのに…。
 あたしは知っている人はもちろん、思い出にもない人とも繋がっている。一つの輪のように、片方があればやがて結ぶ輪のように。
 それを初めて実感した。
「人間だって捨てたものではありませんのよ」
 あたしに言った言葉なのだろうか?それともあたしを通してオルテガ父さんに言った言葉?それともガライさんに?
 でも、それはどうでもいい事だった。
 ロゼ姫に、オルテガ父さんに、初めて好感を抱いた事の方が重要だった。
 もう妖精はいないのに、あたしは闇の中で初めて光を見た。