夢見る我が街

 大昔、エラフィタには巨大な桜の木があった。その大きさはエラフィタの村を包む程に巨大だったが、大雨から人々を護った事と引き換えに折れてしまった伝説がある。その雨は一ヶ月も豪雨として降り続き、雨が止んで間もなく巨木が耐えきれずに折れた。雨が上がった時、村人達は見渡す限りに広がる海のような光景を見たという。その日を境に守護天使の像は朽ち果てて原型を留めず崩れ去り、村人達は守護天使が命を賭けて村を護ったと惜しみない感謝を捧げた。
 その伝説は帯びれ背びれが付いて羽も生えたらしいが、全くの嘘ではないだろう。エラフィタには家数軒分に相当する幹が折れた状態で鎮座しており、そこから伸びる若葉は毎年美しい桜を咲かすのだ。俺もアインツという世話になっている宿の従業員と訊ねた時に見ていて、記憶は新しく鮮明だった。
 だからだろう。その光景に俺は絶句した。
「なんてこった…」
 目の前には美しく花を咲かせた枝を抱き鳥を肩に乗せた美しい守護天使の像があり、その顔は誇らし気に巨木を見上げている。釣られて見上げれば、巨大な桜の大木は満開の花をつけて青空の代理と言わんばかりに桃色に天空を染めている。雨の様に散り降って来る桜の花弁は柔らかく、地面に降り積もり小川に溜まる。村人達は皆日々を充実した営みに顔を輝かせて行き交い、井戸端では女性達が洗濯をしながら談笑している。遠くで薪を割る音が聞こえて目を向ければ、俺が世話になった宿屋の主人にどことなく似ている若い男が汗を流して仕事に勤しんでいる。猫がのんびりうたた寝し、子供達がはしゃぎ、万屋の主人が売り物を磨いている。
 有り触れた平和な村の光景だった。ここが魔物も現れるビダリ山の頂上でなければ…。
 村の入り口で立ち尽くしている俺に、村人の男が話しかけてきた。
「おぉい、旅の人。後ろの方は大丈夫か? かなり顔色を悪くしているが…」
 振り返ると今回の依頼主であるエラフィタ出身のクロエさんが、棒を飲み込んだ様に直立していた。彼女は顔を真っ青にさせて今にも気絶しそうな面持ちで、一人一人食い入る様に人々を見ていた。男の言う通り顔色は悪いが、それはこの山を登った事の疲労感や魔物に襲われなくなった安堵から来るものではないと分かっていた。俺は男に詫びながらへらりと笑って言った。
「気にしないでくれ。直ぐに休むつもりで居るから」
 丁寧に俺からだって見える宿の場所を教えて去る男に礼を言うと、クロエさんに向き合った。年齢を重ねても皺一つにも品があり、結っている髪も白を帯びて灰色の色合いになっていても艶やかだ。老齢に達しているとはいえ、流石村人全員が現役の農民だけあって山登り一つ軽々とこなしてみせる。本人が事実の確認に奔走したい気持ちは十二分に理解しているつもりだが、体は若く無いのだから無理はさせたく無い。
「クロエさん、少し休憩しよう」
「はい。そうですね」
 歳を重ねると落ち着きでも出るのか、本人も状況の整理がしたいとでも思ったのだろう。俺が思った以上にあっさりと応じてくれた。
 宿屋に入るとやはり酷い既視感に苛まれながら、俺は宿の部屋に一つ借りて休息する事にした。天気がいいから外でお茶でもしていきなさいと、女将の計らいでウッドデッキに茶を用意してくれる。街全体を覆う程巨大な枝を上に見るウッドデッキは、当然ながら見事でまるで絵に描いたような世界である。
 ウッドデッキには先客が居て、筋肉隆々な体格がマント越しにも見える重装備の戦士が座っていた。完全に俺達からは背を向けているが、関心も湧かないのか振り返る事もしない。俺も戦士には気をそれ以上向けず、クロエさんを席に付かせて茶を啜る。
「この村…エラフィタだよな」
「そうです」
 クロエさんは俺が独り言の様に言った呟きを拾って、青白い顔でありながら凛とした声で答えた。
「桜の木や守護天使の像は私が生まれた頃には貴方が知っている通りの物になっていますから、このエラフィタとは異なります。ですけど住む人々は…私が若かった時代の人達です」
 少しゾッとしながら俺はクロエさんの言葉を反芻した。
 俺はアインツという少女の付き添いでエラフィタに行った時、クロエさんにラボオという人物を知らないか訊ねられた。俺は世界中を旅した事がある事だけは自慢出来る事で、知っていると返した。このビダリ山岳には良質な石が多く存在していたが、この大陸には王国がなかった事が幸いして岩切場としては栄えなかった。手付かずの良質な石を求める工芸家は多く、その代表的な人間がラボオという彫刻師だった。
 ラボオは有名な人間だった。世界に名を馳せる彫刻家として活躍していたが、非情に気難しい職人としても有名だった。素晴らしい作品を数多く手掛けた一方自分の作りたい物しか作らず、依頼はどんなに金を積まれても興が乗らねば一切引き受けなかった。俺がカラコタでラボオという芸術家が岩を食っていると噂に聞くんだから折り紙付きの貧乏だろう。クロエさんが知らない事が不思議だったが、田舎であるから芸術にはあまり縁がなかったのだろう。
 俺はビダリ山が最も温暖な気候になる時期に訪ねられるよう調節して、クロエさんをラボオが住んでいる小屋まで案内した。しかし、そこは鍵すらかかっておらずもぬけの殻だった。元々生活している雰囲気がないが、岩を切出しに向かったのだろうと俺は判断した。
 俺達は彼の小屋の裏に聳え立つビダリ山を目指した。
 そこで俺達は彼の彫った数々の独白を目にする事になる。ラボオは相当高齢で余命幾ばくもない事は分かっていたが、彼は最後の作品を山で制作していたそうだ。冬になれば家を越える程の雪に閉ざされるビダリ山で彫刻するなんて、考えられないが彼は生命を賭けていたのだろう。刻まれた独白は鬼気迫るものがあった。
 頂上に彼は最後の作品を遺す。
 そう、最後の作品がある頂上にあったのは、このエラフィタにそっくりな村だ。桃色の桜が舞い散り、人々が日々営みを続ける村。最後の作品は彫刻ではないのか?
「ここは夢の町だ」
 言葉は俺達の背後から響いた。振り返れば戦士が座っているのだが、彼の背中は微動だにしない。
 どうやら戦士はこの村の事もラボオの事情も心得ているらしい。それどころか、彼はこの『ラボオの夢』の中の住人ではないらしく、この村で営みが延々と続くだろう人間とは異なる雰囲気を醸していた。彼が傍らに置いているのは重量があり扱いに熟練の技術が必要とされる鉄球だ。傭兵でも扱っている人間を数える程度しか見た事はないが、破壊力の大きさとその攻撃範囲の広さはメリットでもデメリットでもある。俺ですら好んで使いたいとは思わない、そんな武器だ。
 俺が疑わし気に戦士を見ている間に、戦士は一つ指を指す。川の反対側には作りかけの彫刻や切出された岩が置かれた庭があり、こじんまりとした家が一軒立っている。窓際には美しい手編みのレースのカーテンが掛けられ、日当りの良い小さな庭には花や緑に溢れている。幸福なのが目に見えそうな家だ。
「ラボオがあそこに住んでる」
 クロエさんが息を呑んで、今にも駆け出してしまいそうな彼女の腕を俺は咄嗟に掴んだ。俺は驚く彼女を諭す様に見つめ、戦士を見た。
「夢は夢だ。だがラボオの爺さんの夢は奇麗だな」
 戦士は俺の視線を感じて問いたい事を感じたのだろう。返答と思わしい呟きの声色には、俺の想像以上に自虐的な響きが混ざっていた。戦士が振り返る。兜を被っている頭がこちらを僅かに向くと、クロエさんが小さく悲鳴を上げた。
 戦士は褐色の竜のごとき厚い皮膚を持った豚の獣人だった。厚ぼったい瞼の下には大きな目がぎょろりと動き、豚と同じつくりの鼻は呼吸の度にひくひくと動いた。兜を被っているせいで耳や頭部の状態は見えないので、豹頭よりも人間っぽく見えたがやはり豚頭は豚頭である。
「豹頭の次は豚頭か」
 俺の呟きに豚頭は驚いた様に目を見張り、にやりと笑った。それは粗野で無骨で馬鹿っぽいが、妙に人懐っこい面倒見の良い武人がするような愛嬌のある仕草だった。やはり豹頭の仲間かなにかなのだろう。あの豹頭の知り合いは獣人であっても変わり者に違いない。妙に人間臭い。
「ギュメイに遇った事があるのか。俺はゴレオンだ」
 話が早いと言いたげに豚頭は立ち上がると俺達に向き合った。彼はまるで世間話する様に躊躇いなく経緯を話始めた。
 豚頭は俺達がこの地に来る数週間程前、光る果実という物を求めてラボオの爺さんの下を訪ね、岩に向かう背に譲って欲しいと交渉した。いったい光る果実を何で求めるのかは豚頭も良く分かっていなかったのだろう。爺さんは完成するまで待って欲しいと言い、豚頭もそれに応じて待っていた。そして作品は完成し、それはこの空間の時間を止めたような美しい石像の町となった。
 爺さんは完成した町を見下ろし満面の笑みで崩れ落ちた。豚頭の口調から察すると、爺さんはこの町の完成の為に己の限界を越えていたのを察していたのだろう。何時、命の灯火が消し飛ぶか分からない状況で、爺さんの持つ光る果実を奪う事を躊躇ったように聞こえた。意外に良い奴である。
 豚頭は爺さんを埋葬すると、持っているだろう光る果実を手に入れようと腰を上げた。
 すると、花弁が一つ豚頭の前を掠めた。音を立てる事は許されない石で出来た村が崩れ落ちるような爆音が豚頭を直撃した。頭上の木の枝が風に揺れ始める。小川の彫刻が透明となり、人々の声が響き渡り始めた。今まで動き出しそうな程立派な石像達は、まさに命を与えられた様に動き出した。
 豚頭は光る果実を驚きが残る中探し始めた。しかし、どこにもなかった。
 そこまで延々と役者顔負けの演技で要らない部分を大量に含みながら説明すると、豚頭はお手上げと言いたげに万歳した。
「爺さんのラボオは死んじまった。だが、あそこには若い頃だろうラボオが生きてる。嫁さんと仲良く暮らすのに一生懸命過ぎて俺の言葉も届きゃしねぇ」
 豚頭はそこでクロエさんを指差した。
「ラボオの嫁さんはアンタに似てる」
 俺は思わずクロエさんを見た。彼女は顔を真っ青に成せる程緊張し、胸の前に握りしめた手が真っ白になっている。まるで彼女こそ彫像のようだった。彼女は目をきつく閉じて考える様に黙り込むと、ゆっくりと深呼吸して俺を見た。自分を励ます様に目の中の光はちりちりと輝いている。
「ケネスさん。その家に訪れてみてもいいですか」
「分かった」
 俺は短くそう返した。
 元々俺達はラボオに会いに来たのが目的だ。老いていようが若かろうと死んじまっていようと、クロエさんをラボオに最も近づけてやるのが俺の仕事だ。彼女に危害が加わらないのならその正体不明に若いラボオに会わせてやっても良い。墓が良ければ、若いラボオそっちのけでも構わない。雇い主が満足する事に意味がある。
 立ち上がりクロエさんを身支度させる様に促して宿に入らせると、俺は扉に手を掛けながら訊ねた。
「ぺらぺら喋っていいのかよ?」
「俺は最終的に光る果実が手に入れば良いんだ」
 これからこの町の状況は変化する可能性がある。その中で俺達が光る果実を手にする可能性も全く無い訳ではない。その時、俺達は光る果実を大人しく豚頭にくれてやらねば、豚頭と戦う事になるのだ。まぁ、状況的には圧倒的に俺達が不利だろうがな。老女一人抱えて、鉄球振り回して壊れた石の破片が雨霰と降るのを想像するとゾッとするね。
「爺さんが渡すのを待たせてるんなら、俺達が貰っていく理由はねぇな」
「そうかい」
 豚頭が楽しそうに手を振っているのを、俺は扉を閉める隙間から見た。

 俺達は桜の巨木をぐるっと回り込む様にして、目的の家を目指した。擦れ違う村人達は旅人を珍しそうに見る者も居れば、親し気に挨拶してくれる者も居る。自分達が実は石像なのだと知っている奴は当然居ないのだろう。万屋の前を通れば主人が薬草の葉を丁寧に調合して瓶に詰めている。ころころかさかさと乾燥した薬が瓶に流れる様は、現実の道具屋で見るような夢とは思えない光景だ。
 クロエさんが急ぐばかりに縺れそうになる足を、何度か支えてやりながら坂を上る。目的の家は先程まで目の前だったのに、巨木の根のせいで村の端から端までの距離を歩かされた。ラボオが若い頃と言えば数十年昔になるだろうが、その数十年の差は微細すぎるのかエラフィタを通り掛かった程度の俺には分からない。しかしクロエさんは懐かしさを感じながら見回しているのは分かった。
 問題の家に辿り着くと、俺はクロエさんを制して扉をノックした。
「はぁい」
 明るい幸せに満ちあふれた女性の声が返って来ると、駆け寄る足音が軽やかに近づいて来る。扉が開くのは返答があってから瞬く間だった。開け放たれた扉の向こうには若い美しい娘が居る。真新しいエプロンを付け、食事の用意をしていたのか良い匂いを纏っている。豚頭の言葉通り目元や口元、全体の印象がクロエさんに良く似ている。
 ご近所の村人かと思ったら旅人で驚いたのか、娘は驚いた様子で固まってしまう。
 俺は丁寧にゆっくりと言葉を紡いだ。
「突然の訪問に驚かせて、申し訳ありません。私達は高名な彫刻師であるラボオ殿に会いに来たのですが、ご在宅でしょうか?」
 その言葉に娘はきょとんとした後、一瞬にして歓喜の感情を顔に昇らせた。若いラボオは腕はあっても無名の彫刻師なのだろう。奥さんを迎えても仕事で食っていけるのはまだまだ先という状態であろうが、こうして彼の彫刻家としての技量を見込んで仕事を頼もうかという来訪者だ。夫ともに夢を目指す奥さんとしても嬉しい話題だろう。まるで犬の様に喜びに落ち着きをなくした女性は、転ぶような動きで奥の部屋に案内した。
 家の中は暖かい雰囲気に包まれ、娘の趣味が溢れていた。織られた布やレースは柔らかく品があり、食器や花瓶は主人の作品なのか彫刻がさりげなく施されている。それらを見回す頃には娘は温かいお茶と焼き菓子を運んで来た。
「今、主人は村の人達と畑仕事に出ているんです。ちょっと呼んで来ますね」
 そのまま出て行くと、俺達は黙って出された物を見てしまう。これは…食って良い物ではないだろう。だが、美味そうである。
 すると視界の隅に動く物があった。振り向くとそこには小さなスライムが俺達を見ている。スライムは用心深く俺達を見ると、さっと奥に隠れてしまった。俺がスライムを追いかけようと席を立ち、勝手口横の物置きらしき空間を覗き込んだ時、扉が開く音が響いた。
 戻ってくんの早過ぎじゃねぇか? 俺が慌てて振り返ると、そこには若い男とクロエさんが向かい合っていた。
「ラボオ…」
 クロエさんが感慨深そうに、しかし唇だけは厳しそうに引き締められて男を見上げた。エラフィタ地方に多い彫りの深い顔立ちにがっしりとした体躯の男で、クロエさんを彫刻の依頼でやって来た人物とは見ていない様子で見下ろしている。節くれ立った手はそわそわと落ち着かない様子で体の横にあり、呼びかけたクロエさんにどう反応したら良いのか迷っている様子が見えた。
 彼女の瞳は一度も彼から逸れる事はない。まるで何かを決断するような力強い何かを帯びている。
「これから貴方は5年待って欲しいと説き伏せて、娘をこの家に置いて修行に行ってしまう。恋人の事なんか忘れて貴方は夢に只管向かって行って、ここに二度と戻らないわ」
 予言者の様に若者の未来をクロエさんは告げる。
「残された娘は貴方を待ち続ける。どんなに熱烈に告白を受けても、どんなに同情されて縁談を持ちかけられても首を縦に振らないわ。でも、いずれ限界が来て待つ事に疲れてしまう。娘は長年想いを寄せていてくれていた男と結婚するわ。どんなに帰って来ない男を想っていてもいい、自分を愛してくれなくてもいい、それでも彼女を求めてくれる男性と…」
 そしてクロエさんはきっぱりと言った。
「娘は幸せになるわ」
 その言葉に男は僅かに安堵の表情を浮かべるのを、俺は見た。次の瞬間凍り付いてしまうのも。
「でも彼が帰って来る故郷に居る限り、彼女は彼の事を忘れる事はないわ。例え待つ事に疲れてしまっても、男が帰って来た時迎えてあげたかった」
 クロエさんは男の手を取った。するとどうだ、色鮮やかな世界が色褪せていく。ラボオもあっという間に変化していき、身長は縮まり顔は眉間に深い皺を刻む。手は何億何兆と繰り返した行為に歪に変形し、若い時の面影は放置され伸びに伸びた髪と髭に埋もれている。ラボオは何もかもに疲れ果てた老人になってしまった。
「こんなに…帰りたがっていたのね」
 山を切り崩し彫り貫いたエラフィタという村の石像。これほど大規模な彫刻を一体、何年何十年掘り続ければ完成するのか想像もつかなかった。
 俺は思う。彼は帰る事を諦めた頃から、この村を作り始めたのだろう。自分が帰れなかった村の代わりになるように、自分が本当に望んで得られなかった未来を得たつもりになれるように。もしかしたら、置いて行った恋人への謝罪も込みなのかもしれない。
 クロエさんの言葉は村中に響き渡る程に重かった。この村の全てがラボオが抱いた強い強い望郷そのものだった。
 気が付けば周囲の音は無くなっていた。耳に痛い程の無音の中、クロエさんはラボオを抱きしめた。
「おかえりなさい。ラボオ…」
 ラボオの目から涙があふれた。涙は皺を伝い無造作に伸びた毛に染み込み、体が震え出す。今まで震える事なく正確だったろう手元は、まるで手にしていた物を落としてしまいそうに危なっかしくクロエさんの背中に回った。おずおずと抱きしめると、ラボオはクロエさんの肩に顔を埋めた。
「ただいま…クロエ」
 それはかつて想いを強く寄せ合い、距離を置いてしまっても忘れる事のなかった間柄だから通じる何かがあったのだろう。その言葉のやり取り以降は何も言葉が交わされる事がなかった。やがてラボオの体は透けて行き淡く輝き、ぼとりと金色に輝く果実が石の床に転がった。
 周囲は先程の暖かみのある家ではなく、冷たい石の家になっていた。先程の時間がぴたりと止められてしまった家の中に、俺とクロエさんは取り残されてしまった。俺はクロエさんに声をどう掛けるべきか悩んでいたが、突然歩き出してしまう。果実に見向きもせずに歩き出す彼女、俺は果実を拾いつつ追いかけた。手に持った果実は見た目のずっしり感に対して羽の様に軽かった。本当に持っているのか疑わしい程だ。
 先程、ラボオの妻が立っていただろう台所にクロエさんはいた。
 そこには二つの石像が台所に並んで食事の支度をしている。互いに幸せそうな笑顔をしているのが見え、その二人は先程ここに暮らしていただろうラボオ夫婦に良く似ていた。今にも動き出しそうな石像は本当に生きているのか疑ってしまう程素晴らしかった。この彫刻家の技量が人の域を超え、多くの人間に感動を齎すと見る者に感じさせる。
 クロエさんはそこで静かに泣き始めた。声もなく。ただ涙が落ちて石を叩く音が響く。
 気まずい。
 俺は気づかれず静かに家を後にした。外はすっかり無彩色だった。彫刻としてはこれ以上もない素晴らしさを持っていたが、実在する物に勝る事は出来ないのだろう。色褪せて魅力も減少した世界に、豚頭が俺を待っている様に立っていた。俺が黄金の果実を持っているのを見ると満面の笑みを向けて歩み寄って来る。
「なんでラボオを殺そうと思わなかった。この夢を形成している全てを壊す事は難しく無かった筈だ」
 俺の言葉に豚頭は足を止めた。
 この豚頭は下手をすれば人間以上に人情の厚い獣人だろう。だが、夢は夢だ。何時までも見れる物ではない事は分かっているし、今回の様に丁度良く俺達が現れるとは限らない。見ず知らずの他人に向ける同情にしては過ぎやしないだろうか? もしかしたら自分の同情と重ねていたのかもしれないな。望んでも手に入らない物は誰にでもある。望みは大きくても小さくても、望む心が強ければ手に入れるのが不可能に思う程難しいだろう。
「現実が辛ぇか」
 俺がそう言えば、豚頭は非常に驚いた様子で俺を見た。死んでしまった人間が目の前に現れたような驚きっぷりで、腰は抜かさなくても腰は引け後ずさる程だ。目玉が飛び出るかという程に俺を見ていたが、俺が黄金色の果実を放り投げると更に仰天してお手玉する。
「まぁ、何にでも終わりが来る。辛かろうと楽しかろうと、ずっと今は続かねぇさ」
 俺はふと見上げた先に鮮やかな色があるのに気が付いた。
 先程見たスライムだろう。全ての無彩色の中で、空色のように青々とそこに居る。ホッとした様に村の中を行き来する姿を見て、俺はそのスライムがこの地の事を昔から知っているのだろうと思う。突然動き出したのだ、そりゃあ驚くよな。
 世界で最も素晴らしい彫刻家が見た夢は、極彩色で届かぬ望みを手にした夢だった。