洞窟のワルツ

 城の廊下が生家の冬と同じ寒さを感じる様になって久しい。私は海風を凌ぐ為の外套を掻き寄せて、肌に感じる寒さだけでなく胸から込み上げる悪寒と戦っていた。そんな中で深紅の毛髪がランプを掲げ灼熱の色具合に染まるのを、私はどこか安堵した心地で見ていた。
「これは凄いな」
 ランプを更に高く持ち上げると、広範囲が照らし出す。堅牢な山々から切出した磨かれていない御影石の凹凸に、まるで生命の様に影がうごめている。壁に掛けられた王国の紋章を縫い付けたタペストリーは真新しく、床を渡る深紅のカーペットも柔らかい感触を足の裏から伝えて来る。その紋章を黒髪の少女が見上げると小さく小首を傾げる。
「何処の国の紋章でしょう? 見た事あります?」
 その鈴を鳴らすような可愛らしい声色に、深紅の髪の男がランプを片手に並んで見上げる。金糸で縫い付けられた山の王者たる大鷹の紋章は輝く様で、例え彼等がその紋章が意味する事を理解しなくても、相当の権力を保持していると解るだろう。それこそ他国に名が知れ渡る程であるだろうから、彼等は知っているかと訊ね合っているのだろう。
「どうだったかなぁ…」
 深紅の髪の男も黒髪の子に習うかの様に首を傾げ否定する。それはそうだ。この王国はもう亡い。
 するといつの間に真横に居たのだろう、肩を大きく叩かれる衝撃が走る。
「おい、豹頭。ぼさっとしてるんじゃねぇぞ。ダンジョンキャットお墨付きの宝の地図なんだから、ドラゴンに焼き殺されても笑えねぇぞ」
「ドラゴン出るんですか!? 私、初めて見ます!」
 碧眼を輝かせる少女に赤目の男は『そんな訳ないだろう』と可笑しそうに笑う。ランプを持っていない手で少女の頭を軽く叩くと、促す身振りをして進み始めた。
 アインツという少女とケネスという男。彼等に出会うのはベクセリア以降二度目になる。そんな二人との再会の場所は、オンゴリの崖という大地から隔絶された死の大地である。山は険しく切り立ち山を越えて脱出も出来ず、早い海流と鋭い浅瀬に海からも出る事は叶わない。波飛沫に塩害と赤茶けた岩肌が剥き出しの草木の生えぬ地には、その地で果てた数千にもなるだろう墓石が朽ち果てるのを待つ様に鎮座していた。そこに宝の地図が示す印が刻まれているのだと彼等はやってきた。
 黒い染みに塗れ黒い紙にすら見える古い宝の地図が示す場所には、確かに人一人が入り込む事の出来る穴があった。それは墓石の下にあり死者を土葬した空洞であると錯覚する。潜り込めばそこは私の記憶の奥底にあった城の廊下に酷く酷似していた。
 増々怪しい。しかし彼等は臆する事がない。
 只管に真っ直ぐ続く廊下には窓があっても、その先は真っ暗の暗闇で覆われていた。ケネスは試しにその窓を一つ開け放ち外を覗き込んで、何もない空間が広がっているのだろうと事も無げに言った。仮にその窓から飛び出せば再びここに立つ事も不可能だろうというのに、その口調は明るく暢気で首を擡げようとする恐怖を確実に押さえ込んでいた。
 窓枠と同じく部屋の扉も等間隔に配置されていた。アインツはその全てをまだ赤子のような福与かな手で開け放っては、ケネスに叱られるばかりだった。扉の先には様々な世界があった。最初の扉は兵士の修錬場の様な場所に通じ、次の扉の白銀の世界を覗き込みくしゃみ一つすると吹雪いて慌てて扉を閉めた。戦場が、長閑な田園風景が、深い森、紅葉の鮮やかさを映し込む水辺、生活感漂う部屋。どれ一つ同じ物はない風景が、扉の先にあった。
 また、不思議な事に廊下の絨毯の上には様々な物が落ちていた。まだ湯気の立つスープとパンを載せたテーブルであったり、床に打ち撒かれた米を食う鼠であったり、足の踏み場もない程に積み重ねられた血だらけの武器防具の山であったり。戯れにケネスがスープを飲もうとしたのをアインツが『一人分しかないですから我慢して下さい』と嗜められるのを微笑ましく見つめていた。
 何も知らない彼等なら怪しさを通り越し不思議にすら思えるだろう。だが、私はこれらが示す存在を確信すらしていた。
「この洞窟……誰かなのかもしれませんね」
「アインツ、洞窟は人物の名称ではありません」
 神妙な呟きを真面目な口調で返すやり取りは、一見笑いを誘う内容だったがケネスの顔にも笑みはない。私ですら的確過ぎる表現に体を強張らせる程だった。しかし先を並んで行く二人は私の反応を窺う等する訳もなく、目の前に現れた美しい黄色い着物に目を奪われていた。銀杏の葉を銀糸で織り込み、最高の職人の手で染め抜かれた金と見違える程美しい色彩。その着物には見覚えがある。我が主が恋人に送らんと作らせた一品だ。
 まるで美術館の見事な芸術を目にしたような感想を一言二言述べて歩き出した。二つ程扉を開けては閉めて、その一つの隙間から流れた血腥い匂いにアインツは無言に扉を閉めて呟いた。
「上手くは言えないんですが、私達まるで誰かの夢の中にいるみたいじゃありませんか?」
 落ちていた銀色の指輪を二つ取り上げて、再び床に降ろしたケネスはその問いに答えた。
「無論、宝の地図はガセネタが圧倒的に多いのは事実さ。だけどダンジョンキャットは多くの発見をした。武器防具、アイテム、魔物。どれもが新発見で、高額でそれらは買い取られていった。ダンジョンキャットの発見は幻じゃない」
 その言葉に、ここは彼等にとって宝の地図が示した場所であった事を思い出した。宝の地図というのは昔から存在したし、その地図の示す先に宝が眠っていると信じる冒険者を私も多く目にした事がある。しかし私が知る限り、あるかどうかすら定かではない宝で富を得た冒険者は誰一人いない。彼等が得た地図はその富を得た冒険者から得たのだろうから、信頼はある程度出来るのだろう。少なくとも彼等はこの探索をちょっとした遠足の様に捉えているようで、この地図で富を得ようという考えは無い様に見えた。
「そうなんですか…」
 肩を落とし背を丸くさせながらも扉を開ける。そこには天にも届かんという大木が燃えている。その炎は夜空の星々を消し去り夜を漆黒に染め上げていた。
「変な事なんて今に始まった話じゃないだろ。ルディアノでもそうだけど、お前疑問だらけだな」
 その扉を見遣り、ランプの炎で煙管に火を入れて大きく煙を吸い込むとケネスは言った。
「過去に戦争があったかもしれない。戦争の事実が揉み消されちまって今は全く残っちゃいないかもしれない。沢山人が死んだだろう。そこには俺達が全く理解出来ない思惑と欲望を持った、悪い奴らの暗躍があったかもな。でも、あるかどうか解らない事を不安に思う必要はないさ。俺等は笑って生きてりゃ良いの」
 深紅の髪と深紅の瞳、ランプの炎と棚引く煙の奥に精悍な横顔が滲む。その顔があまりにも我が師に似ていて私は思わず息を詰めた。そうでなくても、彼の言葉には心当たりがあった。世界を混乱の渦に落とし込んだのは我々なのだ、そう言ったら彼等はどんな顔をするだろう? 過去等一切残っていない現在を生きる彼等を見ると、私は深い罪悪感と安堵に身が裂かれる思いを抱えた。
「争い奪う事で多くの物が得られるなんて今は誰も思わない。どんなに日々が苦しくたって、盗んででも得られるのはその日の飯だけで自分の手元にゃ残りゃしない。みーんな知ってるさ」
 難しい顔をしたかと思えば、ケネスは笑いながら煙を輪にして空中に吐き出した。
「俺にとっちゃあ常識や当たり前って言って、皆が平和で暮らせるならちっとも変とは思わんがね」
 『私にとって常識や当たり前という言葉で、他者の命を奪う事はあってはならない事だと思うがね』恩師の言葉が蘇る。稀に見る寒波の影響で不作となり、間引かれる為に殺されるはずだった自分に差し伸べられた手。敵国の捕虜を処刑せず優遇し、敵国の将軍にすら敬礼する横顔。魔物の群れを前に不利を承知で剣を構えた背。そして処罰が言い渡され死を宣告されたにも関わらず凛と立つ姿。
 私は彼等がここに居る理由を知った気がした。
「ケネスさん、何か凄いなぁ」
「アインツ、俺は一応年長者なんですけど…」
 にっこりと不安の影すら消えた顔で見上げる少女を、男は疲労感漂う様に脱力し見下ろした。彼等はこうやって二人で旅をしてきたのだろう。
 赤い絨毯が伸びる一本道の廊下はついに突き当たり、そこには一枚の大きな両開きの扉があった。扉は廊下の最深部に位置し、絨毯が導く道の終点と言いたげに鎮座する豪奢なつくりだった。大鷹の彫刻には金箔が貼られ、左右の扉には守護天使を模した彫刻と領土に実る作物が美しく配されている。木は珍しい赤みを帯びた木材であり、塗料もないのに深紅のような色鮮やかさと木目の濃淡が美しい階調を演出した。
 アインツが扉の引き手に手を掛けるのを、私は手で制した。
「その扉は私が開ける」
 それは玉座の間の扉だった。
 師が己の人生の全てを賭けて、そして敗れた場所に続いている。
「きっと、この先には私の師が待っている」
 私の言葉に碧色の瞳が真ん丸に見開かれる。私の顔をたっぷりと三回は深呼吸出来る合間見つめると、そのまま扉に手を掛けた。私が更に静止しようとアインツの肩に手を掛けようとした時、横からケネスの手が伸びて私を制した。ケネスの顔を睨みつけようとすると、顔面に煙が直撃した。鋭敏な嗅覚と目を閉じ損ねて、私は思わず涙目になって後ずさる。
「喜びに満ちあふれた再会じゃないみたいだから、扉開ける緊張感くらいはアインツが肩代わりしてやるってさ」
 ケネスの明るい口調に続いて扉が開け放たれる音が響く。重く耳障りなその音は、随分昔から問題視されていた。しかし前国王は新しい国王を任命し戴冠する時に、この扉の油を注し直そうと考えていたらしい。その思惑が汲まれる事なく、扉は油を注される機会を永久に失ってしまった。
 中を覗き込んだ二人は『あ』と揃って声を上げた。
 二人が僅かに開いた扉の奥は絢爛豪華な謁見の間があった。天井に下げられたシャンデリアの光が降り注ぐ中、深紅と金で縁取られた絨毯や旗が燦然と輝いている。美しい曲線を描く手摺は黄金で、美しい金細工と共に宝石が惜しげもなく配されている。調度品は格調の高さよりも目が痛い程の華美さを伴い、繁栄と贅の限りを尽くした空間だった。その中央にこれ以上似つかわしい人物はいないだろう男が立っていた。
 紫色に妖気を立ち上らせる剣を手に、深紅の瞳と髪の男が立っていた。歳の頃合いは壮年を半ばに過ぎた頃合いであったが、がっしりとした骨格と隆々とした筋肉をもっていた。彼の衣類は囚人の如く粗末なものだったが滴る程の血を吸い肉片を張り付かせていた。周囲には流血はなく彼に切られた人間は誰一人いない。しかし、当時はそこに数十人という臣下と兵士がいて、彼は剣一本を引っさげ牢獄から脱走し立ち塞がる者全てを切り倒してそこにいた。血肉と脂に切れなくなった剣ではあったが、最終的には骨を打ち砕かれ手足をもがれた者もいた。その事を如実に語る様に、その場には噎せ返る程の血の匂いが立ちこめていた。
 私は扉を潜り彼の前に進み出た。
 あの時は彼の前には腹を切り裂かれ重傷を負ったサンドネラが床に倒れていた。普通の女なら失神しても可笑しく無い深手であったのに、妖艶な微笑を浮かべ師を見上げ死の色を濃厚に宿した紫色の唇が己の復活を謳った事を覚えている。そして報国の将軍として国民から絶大な支持を受けていた彼は流刑に処せられた。魔法の掛かった手枷と足枷を嵌められ死の大地オンゴリの崖へ向かう船に乗り込む最後の瞬間まで、私は師の言葉を一言も聞く事はなかった。
 私は慇懃に頭を下げた。
「お久しぶりです。ギュメイにございます」
 深紅の瞳が値踏みする様に私を見た。時代も姿も心も、あの頃とは何もかもが違う。何者だと問われても仕方がなかったが、彼は静かに剣を構えただけだった。
「交わす言葉は必要ない。刃を交えれば全て伝わる」
 相変わらぬ師らしい言葉。
 僅かに反る片刃の長剣は王国領土で採れる良質な鋼を用い、密度の違う鋼を組み合わせた職人業が成せるものだ。この剣を制作出来る職人は今はなく、この剣を用いる事に特化した武術を体得した人間も居ないだろう。
 躊躇いなく師が踏み込む。様子を見る為の一撃かと思いきや、腕ごと持って行かれそうな重い一撃だ。あまりの素早さと重さに剣を交える一瞬前に腕が切り飛ばされる幻影が走り、どうにか流し両腕が無事だと確認する間もなく突きの動作が迫る。まるで吹雪の如く容赦がない。一撃は重く早く、感情は激しく辛く、私を容赦なく壁際に追いやって行く。突きつけられる体を切断させる事を連想させる一撃。心を凍てつかせ恐怖で縛られる事はいけない事だと解っているが、心臓は鼓動を止めたかのようで四肢が凍り付いて冷たくなっているのが解る。私は人間では有り得ない柔軟さを齎す骨格に感謝した。人間の骨格であったら肉を捉えられ骨まで絶たれていただろう。
 彼の剣から感じられるのは、彼の忠誠の対象を殺した存在への憎しみ。それは今や我が主やその愛人に留まらず、彼の忠誠の対象が滅ぶ事を許した世界にすら向けられているようだった。師を知る私から見れば狂っていると言い切って良い変貌振りだった。
 たった1人の悪女。その悪女が王子に寄り添い始めた頃から、順調に回っている筈の歯車が噛み合わなくなってきた。名君として君臨していた王の心を知らず、己に一生王位が渡らぬと父王を殺す王子。葬儀すら行われず、名すら刻まれず埋葬される先王。沸き上がる疑問の声に剣を振り下し血に塗れる石畳。突如税収が跳ね上がり搾取されやせ細る国民達。続々と投獄される良識者。積み上がる死体。
 王国の伝統を尽く棄て帝国を建国する新王。考える事を止め、ただ殺されぬよう立っている臣下。妃の高笑い響く黄金の部屋には、零れんばかりの豪華な食事と数々の贅沢。その様子を満足そうに見ている王。虐殺が略奪が侵略が、妃が一つ望めば平然と行われた。世界が荒れる。彼女の望みのままに。
 全てが彼女の為だった。全てが。
 さぞかし無念であろうと解っていた。その同情が僅かな隙を生み出し、師はそれを見逃さなかった。
 刃が向かって来る。体が跳ね上げられ喉を突かれると、熟練の剣士の感覚が悟る。しかしその切っ先は大きく横へ逸れた。
「怒ってんのは解るけど、殺しちゃ駄目だろ」
 煙草の匂いが付きまとう深紅の毛髪が私の目の前にあった。私と師の間に割って入ったのはケネスであると直ぐに理解し、彼では勝てぬのになんて無謀な事をするのだと救われた事よりも怒りが湧いた。しかしそんな私を一瞥し額を小突くと、私は大きく姿勢を崩して後ろに転倒する。
 固い石畳に背から倒れるかと思ったが、背後に回り込む気配と共に己より小柄な体に支えられた。
「大丈夫ですか、ギュメイさん?」
 優しい言葉の割に飛び出そうとする私にしがみつく力は強い。ケネスから教わったのか関節を固定させる体術の応用であるらしく、戦闘に秀でた戦士でも容易に振り解く事が出来ずに居る。目の前ではケネスと師が刃を交えているが、ケネスは受け流す事に終始しており師に一撃を加えられる状態でも決して攻撃はしないでいる。それでいて師が彼を追い抜いて私を攻撃しようとする動作は徹底的に妨害していた。
 アインツの手は年相応に燃える程の熱を帯びている。彼女の声が耳元で柔らかく響いた。
「御師匠様と貴方の間に何があったのかは私達は何も知りません。でも辛そうな顔で戦われちゃ、御師匠様も悲しいですよ」
 私は驚いて精一杯背後を見遣る。アインツは切なそうに眉根を寄せ、私の肩にぺたりと頭を付けた。
「ギュメイさんは凄く頑張ってます。私達はギュメイさんの全部を知ってる訳じゃないですけど、悪い人じゃないのは知ってます」
 彼女の手から力が抜け、滑り落ちる様にその手は背中を押す様に肩に触れた。
「自信を持って下さい。私達、ギュメイさんの事応援してますから」
 大丈夫。アインツが呪文の様に囁いた。
 その言葉に押される様に私は立ち上がった。ケネスが煙管を銜えた口を笑みのつもりで歪ませると、道を開ける様に身を引いた。
 ケネスが身を引いた為に彼は再び躊躇いなく斬掛かって来る。
 優しい励ましの言葉を掛けられたのはどれくらい久々だったか思い出せず、ただあまりの懐かしさに浮かんだ思い出が温かく身が軽くなる。師が亡くなり私も随分と剣技が上達したのだろう。まだまだ若造であった時あれほど早かった踏み込みが、目で捉え対応する為に体が動く。受け止めた一撃を跳ね返す時に感じた腕の痺れは今はなく、心地よい拍子の中で踊るかの如く次の一手を考える余裕がある。
 凄く頑張っているとは、随分と大きな事を言ってくれる。君達は私の事を何一つ知らないではないか。だが私が性根まで腐っていたならば既に師に斬り殺されていたに違いない。
 私は脆弱で愚かな人間だ。師が私を死ぬ運命から救い出す為に手を差し伸べた様に、私が師を死ぬ運命から救う為に差し伸べられなかった事が今でも悔しい。正義を貫く事が如何に難しい事か知っているくせに、悪である事は辛い。だが、どんな時でも主の忠誠だけは決して違える事はしなかった。これからもそうだ。
 それくらいしか貴方に誇れる事はないかもしれない。
 徐々に打ち合いは速度を増す。互いの一手を予め決めているかのように淀みない攻防は、やがて剣舞そのものの型を準えるものになってきた。一つでも型を違えれば、一瞬でも早くとも遅くとも、間合いを一歩でも見誤れば重傷を負わされてしまう舞い。死と生が紙一重の武踏。長く続く程に心地よい疲れと緊張から、その切っ先に宿る感情は何も伴わない純粋なものになっていく。
 武人の精神にとって最高の状態になるだろう無心に限りなく近いのだろうと思った。
 互いに大きく振りかぶる。その研ぎ澄まされた一瞬、その空間の何もかもが静止した様に感じられる。己の気と力を刀身に集中させ、その軌道の中にある全てを断ち切る奥義。
 ひゅうっ。その呼吸は私なのか師匠から漏れたのか解らない。その音すら聞き取れる程静謐に、しかし雷光よりも早く互いの刃が交わる為に奔る。空間さえ引き裂くような軌道が、真っ向からぶつかりあう。雷鳴よりも壮絶な音は瞬く間に心身を突抜き、私は己の刃が抜けたのを感じた。師の手には剣はなかった。
 壁に剣が突き立った音が鈍く響いた。
「レパルド師匠…」
 刃を納め姿勢を正して礼をする。師は私を見て苦笑するとすっと手を前に出した。
 頭上を覆う真っ黒い深淵の闇から、一つ雪が落ちてきた。床に音もなく落ちて行くと、その軌跡は美しい白い波を描き刃となる。雪華。雪の下で芽吹き、雪解けより僅かに早く蕾を膨らませ咲く深紅の花を銘にした名刀だ。忠誠を誓った時賜り、忠誠を否定された時剥奪された師の魂そのものだ。
 師はその刀を手にすると血の滴る囚人服は、栄光の勲章が光る軍服に変わった。洗練された所作で礼をし、師は雪が解ける様に消えた。
 私が師を見届けると袖が引かれるのを感じ見下ろすと、アインツがにこにこと笑っていた。