切なき想い

 肩で切りそろえた黒髪は、星を称えた深夜のように黒い。碧の瞳は日に透かした新緑のように鮮やかな色。顔のバランスも整っているし貴族の幼い令嬢でも通じなくは無いだろう。体は旅のせいで年齢の割に筋肉質だけど、服のお陰で気にならない。それなのに大人しくて気持ちなんか胸の奥。落ち着いていて氷付いた水面のように波立ちゃしない。めんどくさい部屋の掃除、かったるい食事の支度、疲れるだけの買い出し、意味の分からない客引き、どれをとっても楽しそうにやってる。
 あたしはそんなアインツを、馬鹿な子だと思う。
 にこにことリッカ交わす明日の献立は確かに美味しそうだけど、どんなの作るにしても面倒じゃん。水を汲みに行って、泥だらけの野菜を洗って、火を起こして、何もかも考えただけで嫌になっちゃう。あたしは知ってるのよ。アインツくらいの子供の手は、ぽっちゃりとしてまだ赤ちゃんみたいに綺麗なんだ。なんで手がガサガサなのさ。クリーム塗らないで寝て血が出た事が何回あったと思ってんの? ばっかじゃない。
 あたしの嫌いな煙草男の灰皿を片付けながら、遠い異国の珍しい食材を手に入れる段取りを話してる。そりゃあ、珍しい物は興味ない訳じゃないわ。でもさ、そんな面倒な事して手に入れる程の価値あるの? 色んな国は確かに魅力的だけどさ、あんたが手にするお給料が増える訳じゃないのよ。馬鹿じゃない? 労働報酬に見合わないって言ってるの。もっとお金持ちに売りなさいよ。そうすりゃアインツ、あんたはとっくに大金持ちよ。下働きなんてする必要ないのよ。
 ルイーダは毎日爪を磨きながら酒場のお客さんとだらだら話してる。あんたその間、必死こいて部屋掃除してんのよ。客室だけじゃなくて従業員の部屋まで。酒場の常連と飲み明かして泥酔状態で脱ぎ散らかした衣類を綺麗に畳んだり洗濯したりして、布団干して香水と酒の匂いのする部屋の空気入れ替えて化粧品も空になったら新しいの用意してあげるとか。意味判んないわ。あんた、何で従業員の面倒まで見てやってんの? 本当に清々しい位、馬鹿よ。
 子供達の面倒を近所のおっさんに頼まれて、呼び込みできなくてお客が入らなくって怒られる。なんであんたが怒られんのさ? あんたは本当に馬鹿よ。怒られる理由なんて欠片も無いじゃない。
「サンディ。まだ、怒ってるんですか?」
 あたしの思考に割り入る様にアインツが話しかけて来た。
 アインツの声は穏やかだったけど、あたしの機嫌を窺うような響きは一切ない。本当にただ訊いて来る感じだ。
 海風に吹き払われ雲一つない頭上には、満天の星空が広がっている。黒い真っ黒な空に透明で綺麗な輝く宝石を散りばめてあった。その中に、大きな大きな金色の月がぽっかりと浮かんでいる。南風は花畑の香りを含んで甘いくらいだ。そんな世界を見ながらアインツは溜息を零した。
「ほらほら、綺麗な夜空じゃないですか。不満も怒りも無くなっちゃいそうですよ」
『あたしは怒ってんじゃないの。呆れてんのよ。アインツの馬鹿さ加減に…!』
 あたしが怒るとぱあっと光が強まるんだろう。前をゆらゆらと輝くランプの明かりより、明るくてピンク色の光鱗が火花のようにアインツの頬に当たった。アインツも眩しく感じるのか目を細めて、驚いた様にあたしを見た。
「私は馬鹿な事してませんよ?」
『いーいーえ! しーてーまーすぅ!』
 アインツの顔の前に飛んで留まると、その比較的通った鼻の頭をうりうりと押した。
『なんで部外者のあんたが、誘拐されたお嬢様の救助に行く訳さ?』
 あたしの訊くとアインツはうーんと唸った。
 唸りたいのはこっち。美少女のサンディ様よ!
 サンマロウは紅茶葉が良質らしくって、アインツが買い付けに来たんだ。そんなサンマロウじゃ一番の大富豪の1人娘が誘拐されちゃったんだって。誘拐犯は身代金を要求してるって話じゃない。ここまでは良くある話。でも、大富豪のお屋敷にはお金がないし、町の人間も恩人の娘の為にお金が払えないんだって。あたしの顔程ある宝石付けたおばさんが、お金なんかある訳ないじゃないだって。超ウケる、冗談上手過ぎ。
『誘拐された娘は誰かがどーにかするわよ。あんたが突っ走って助けに行かなくても、どーにかなるの!』
 あたしの言葉に今度こそアインツは驚いた。声を上げて目をまん丸にして僅かに体を反らすくらいに驚いた。
「誰かなんとかしてくれるんですか!?」
 疑いを知らない芽吹いたばかりの新緑の色があたしを見た。あたしがアインツのぱっちりとした瞳に映ってる。ピンク色の花火のようにちかちかした光の塊。眩しくて、自分の姿が見えなかった。
 まっさか聞き返されると思わなかったわ。サンディ様の不覚…なーんて訳が無いでしょ。あたしはアインツみたいに馬鹿じゃないの。
『当たり前でしょ! あのサンマロウって町に何人人が居ると思ってんのさ! 百人どころか数千人居るんじゃない!? 誰かが行くに決まってんでしょ!?』
 煙草男がサンマロウは世界最大の貿易都市だって言ってたけど、本当にいっぱい人が居る。商品の護送の為に雇われる傭兵達や、獲物を狙う盗賊達。値切る商人と足下を見る船員。セントシュタインみたいにのほほんとした平和ボケなんか一切無い、戦場みたいな殺伐とした空気がある。そんな町だもの。誘拐犯を転がせる腕利きなんか、犬が歩かなくたって見つかるんじゃないの?
 アインツは再び考え込む様に黙り込んだ。深呼吸一回分くらいゆっくりと考えて、アインツはそれはもう不思議そうに言った。
「サンディ。『誰か』って誰ですか?」
 馬鹿にだって女神の様に優しいサンディ様も、流石にぷちっと来たね。頭の中が真っ白になって、いつの間にかアインツに怒鳴ってた。
『誰かって言ったら誰かに決まってんでしょ! まさかあんな数千人も住んでそうな町の住人全員が、総スルーする訳無いでしょうが!』
 サンディ様の鈴を転がすような美しい声の発声量を超えてるから、喉が痛い。
 流石に馬鹿アインツでも判るでしょ。
 でもアインツは凄い馬鹿だ。理解のりの字も無い顔のまんまだ。
「でも『誰か』って名前の人間は居ませんよ」
 そんなセンスゼロの名前なんか聞いた事ないわ。あぁ。でも猫の名前を『まだ無い』とかにしたって言う変わり者の話は訊いた事ある。
 もう、勝手に納得しないで助けに行けばー? 魔物と戦うのだって、誘拐犯をぎゃふんって言わすのもアインツなんだし関係ないしぃ。あたしは疲れきってアインツの肩に座った。
 アインツは頑固な所がある。付き合いが比較的長いだろうし、世渡り上手そうな煙草男でさえお手上げなくらいびくともしない時がある。あたしが何か言ったって、アインツの決意なんか曲げられたりしないし面倒臭い。後々ねちねち言われてもウザイだけだし。人助け、アインツはそんなくだらない事に平気で命を賭けてしまう馬鹿だ。助けた時の見返りなんてこの子の頭には欠片も無い。
 川を越えて森へ入ると、アインツはもう誰の声も聞こえない程に集中し出した。アインツは耳を澄まし目を凝らして魔物達の動きを感じ取り避けるんだ。こうなると滅多に魔物に遭遇しない。その時のアインツは世界を取込んだ様に大きいような、世界に溶け出している程に透明に感じる。あたしの光も見える魔物が居るから、こういう危ない場所に居る時はアインツの服や鞄の中に隠れてる。
 水の匂いがしますね。川じゃない。留まっている。
 アインツが呟いて駆け出した。森独特の湿気と青臭さを感じる匂いが薄れて、乾燥した山の匂いが吹き込んで来る。獣道にもなってない斜面を、木々の枝に槍が引っかからない様に駆け上がると一気に視界が開けた。
 眼下に山の崖を背にして湖が広がっている。町中にある溜め池より少し大きい程度だが、湖は月明かりをキラキラと反射して輝いていて動物達が水を飲む為に集まっていた。目の前を梟が横切り水面に足を突っ込む。飛沫の間に魚が短剣のようにきらりと光った。
 そんな湖の奥には人一人入るのが精々の入り口を備えた洞窟がある。朽ちかけた板を連ね踏み抜いた分は新しい板をあてがった、吊り橋があって入り口に入れそうだ。人の出入りがそれなりにあるのか、森から洞窟までの道は踏み固められた道が続いてる。
 アインツが一歩見渡せる場所から身を引いて、身を隠すように座り込んだ。手元には町の人間が囁いていた噂がびっしりと書き連ねてある。その中の一つにこの辺の簡略した地図とバツ印。アインツが描いた盗賊達が指定した身代金引き渡しの場所だ。
「身代金の支払い場所に指定するくらいだから、もっと近いと思ってました」
 とっぷりと深夜じゃないですか。そんな事を呟きながら携帯食と水筒を取り出す。ビスケットみたいなブロックに、レーズンやナッツが練り込まれた携帯食だ。水分が無いと食えたもんじゃないけど、こんな魔物の出る森のど真ん中で焚火焚いて晩ご飯作る訳にはいかないしね。アインツはサンディ様の理解の良さを感謝して、町に帰ったらショートケーキをご馳走すべきよ。
 あたしが持てる大きさにしたのと、あたし専用のコップに紅茶を入れてくれる。紅茶は甘さ控えめだったけど、ここまで飲まず食わずだったから甘く冷たい紅茶を美味しく感じる。
 アインツはあたしが食べ終わるまで、湖と誘拐犯の指定場所を見ていたようだ。
「誘拐犯らしき男性が1人居ますね。屈強な体つきの大男ですが、身軽な装いで武器も魔物と相対するような物ではないです。恐らく指定場所が誘拐犯の拠点か、拠点は別にあって指定場所は前々から準備がされた場所なのでしょう。何の設備も無く魔物が徘徊する森に隣接した湖の洞穴に滞在出来る訳がありません」
 屋敷には指定場所と身代金の金額だけしか書いてなかったんだ。まぁ、身代金が何時までに払われないとお嬢様殺しちゃうぞ!って威勢のいい犯人じゃなかったみたいだしねー。町が最終的に支払いに応じるとしたら、どれくらい時間が掛かる事やら…。大富豪の屋敷にお金がないと判れば誰が払うあんたが払えのやり取りばっか雪合戦みたいにしてる町の人間を見てると、払われないんじゃないかって思っちゃうわ。お嬢様は町の恩人の娘であって、町の恩人そのものじゃない。お嬢様の両親はもう死んでしまっていて、彼女が死んでも町の人間は悲しくも何ともないんだ。
 そんな事を考えながらもそもそと携帯食を食べきると、アインツは近所に出掛ける様に行きましょうと出発した。
 アインツが見ていた入り口からは、誘拐犯達が何やら慌てていて簡単に忍び込む事が出来た。
 あの娘が逃げた。
 鉄格子がねじ曲げられている。
 そんな馬鹿な。あんな細腕の女の子がそんな事…。
 会話が洞の中で響き渡るって筒抜けなのもお構い無しだ。だって、2人の誘拐犯にとって、侵入者のアインツとあたしは居ないんだからね。そう、誘拐犯は2人組。彼等は誘拐したお嬢様が居なくなって顔が青ざめる程に慌てていた。
 兄貴、やっぱりあの子は普通じゃなかったんだ。誘拐犯に喜んで付いて来る時点で不気味だったんだよ。
 うるせぇ!
 ばきっと大男が頼りないひょろ長い男を殴り飛ばした。大男の影が怒りを滲ませて壁の上で暴れる。
 それよりもあの娘が居なきゃ、身代金が手に入らねぇ! 何処に行きやがった!?
 そこら辺は外から侵入して来たあたし達。侵入する前から入り口を見つめていたアインツも、女の子が出て来たら見逃す訳がない。となれば考えられるのは、洞窟の奥に行っちゃったって事だよね。
 奥に進み始めたあたし達の背中に、頼り無さそうな男の声が響く。
 洞窟の奥なんてそんな訳ない! 魔物が出るのに!
 そんな男の情けない様子を叱る様に、殴る音が響いた。男って野蛮ねー。ほんと、付いてけないわー。
 洞窟の奥は湖の水の源流らしくって、ちょっとした地底湖や川が流れていた。魔物も出るけどアインツは何気に強いので、負けたりしない。むしろ金属で出来たスライム三匹重ねがどうして倒れないのか、アインツが好奇心の赴くままに切り込んでメタルハンターと仲良くなったくらいだ。
 水の流れがある場所は良かったが、奥へ進むと水の流れは途絶えた。それどころか水が溜まり淀んでいるのか、腐ったような酷い匂いが漂い始めた。ルディアノも酷かったけどあそこは風がある分まだマシよ。毒の沼に頭から突っ込んだ感じ。
 あたしは既に頭がくらくらして来たけど、それは魔物も同じなんだろう。出て来る魔物の数は凄く少なくなっていた。
 こんな所にお嬢様が居るのかしら?
 でもあたし達がお嬢様を見逃したりする訳ないと思うから、きっと居るんだろうなー。あー、いるんだー。かったるいなぁー。
 あたしがだらだら考えてる時、唐突にアインツは呟いた。
「サンディは私が居なくなったらどうするんですか?」
 あたしがアインツを見ると、アインツは沼気が漂い始め視界が良く無い先を見つめるばかりだ。
 アインツが居なくなったら? なんであたしがいちいちそんな事に答えなきゃいけないのさ。突然過ぎて場違い過ぎ。空気読みなさいよ。まぁ、優しいサンディ様は聞き違えたかもしれないって思ってあげるのよ。あたしが無視を決め込もうとした時、またアインツが呟いた。
「『誰か』が来てくれるのを待つんですか?」
 声は淡々としていた。アインツは何時もそんな声で、感情らしい感情があんまり籠っていない。
 リッカと楽しそうにお喋りしている時の声とか、ルイーダさんに頼まれて料理を運ぶ時の声とか、客引きしてる時の声とかみんな一緒だ。あたしも付き合い長いと思う方だからあれだけど、凄く嬉しい時や怒ってる時は少し違うのは判る。でも大抵は一緒だ。
 気味が悪いと思うんだ。笑いたければ大声で笑えば良いのに、泣きたければ喚いてボロボロ涙流せば良い。怒りたければ握りこぶしで殴り掛かれば良いし、イライラしてれば表に出して相手に判らせれば良いんだ。アインツはどんな時も微笑んでる。
 他人事みたいに、少し遠くから、人を見てるみたいだ。
「『誰か』って何処の誰なんですか?」
 アインツが振り返った。緑の瞳が真っ黒に塗りつぶされた影の中で猫みたいに光ってる。
 何時もは微笑んでいる口元が見えるからそうでもないけど、瞳しか見えないとその感情の無さに硝子玉みたいだと思う。責めるように見てたら大声で怒鳴り返してやった。あたしを馬鹿だと哀れむようなら逆に哀れみ返してやる。からかってるなら笑い飛ばして馬鹿にしてやるわ。
 でもどれでもない。だから心底不気味だった。
『……何が言いたいのよ』
 アインツは答えた。
「『誰か』は『誰か』である限り、世界中の何処にも居ないんですよ」
 アインツの言葉に、何故か背筋が凍った。
 言葉には凄く強い意味があるような気がして、その言葉に押しつぶされて息も出来ない。
「ねぇ、サンディ」
 アインツが言った。北風のように冷たくて静かな声をあたしに吹き付ける。
「私は皆の『誰か』なんです」
 意味が分からなかった。アインツの声は凄く真剣で金属みたいに固かった。声の質は何時もと同じ淡々としているんだろうけど、暗い中でようやく見える口元は真一文字だし目元も笑ってなかった。なんとなくアインツが真面目に話しかけているんだって思った。
 でも、意味が分からない。判らな過ぎて、解れなかった。
『…あんたである必要がどこにあんのよ?』
 アインツは微笑んだ。
 アインツは確かに馬鹿だ。大馬鹿物だ。そう片付けようとした時、あたしの頭の中にはアインツの声が響いていた。
 『誰か』は『誰か』である限り、世界中の何処にも居ないんですよ。
 あんた、何処にも居ないの?
 あたしの目の前に居るじゃない。
 あたしが言葉を失って見つめている先で、アインツは微笑んだまま暗闇を目指して背を向けた。
 黒い闇が立ち籠める、水みたいな濃い毒の瘴気が満ちている。その奥で赤い光が無数に瞬いている。黒い霧の奥でカサカサと肌を逆撫でる音と気配が蠢いている。何か居る。それも凄く沢山。それがサンマロウの人々から忘れられた、ズオーという毒蜘蛛とその子供だって今のあたしには判らなかった。でも、凄く恐ろしくてアインツが殺されるんじゃないかって気持ちが膨らんで行った。
 お嬢様の事なんかどうでも良いじゃない。
 そんなことより、アインツ逃げちゃおうよ。お嬢様がこんな所に居るなら生きてる訳ないじゃない。
『アインツ…』
 あたしが呼ぶとアインツは振り返った。そんで、彼女の言葉に泣きそうになった。その表情も言葉も普段は何ともないのに、今この時だけは凄く残酷な言葉に聞こえた。
 大丈夫です と微笑んでた。