星空の守人

 ベクセリアの北部の山脈を越えると、針葉樹林が広がる大地がある。海からは切り立った崖と浅瀬で船は停泊出来ず、山を越えて訪れる者もいない。人の手が全く加わっていない大地に、たった一つだけ人工の建物がある。その建物はアルマの塔と呼ばれた。
 下層は外からの植物と土が海風と山風で運び込まれ、一種の樹海のように鬱蒼としていた。塔の天井はどの階でも非常に高く、一つの階層だけで教会の大聖堂の床から天井に匹敵する高さがあった。日の光は中心部まで差し込み、根に押し上げられた石畳の下から湧き水がちょろちょろと沸き出している。
 外に比べ噎せ返る程濃厚な緑の階を上がると、植物は姿を消す。何に用いられたのか一切不明な広間があるばかりだ。何者かが住んでいた形跡も、用途すら察する事が出来ぬ程空間には何もない。僅かに残った柱の彫刻は、今では何処の国でもみる事が出来ない形式に則っている。荒削りで大胆な彫刻と思ったそれは繊細で微細な獣達の集合体だ。風雨に晒され丸みを帯び、漆喰が剥がれていようと遺跡のような塔の空間の存在感は損なわれない。
 天が近い。
 天使界のように吸い上げられる感じだが、それ以上上に昇る事の出来ない何かに押さえつけられる感覚がそこにある。それを発しているのがたった一つの存在である事に驚く者はここにはいない。その存在こそがこの塔の主であり、この地域に住む動物も魔物も問わずに畏れられていた。
「久方ぶりだな、ラヴィエル」
 遥か頭上、四方から高々と伸び上がった柱から橋のように中央にアーチを伸ばす。そのアーチは屋上の空中庭園の真ん中にある塔へ続く階段の真上で、見事に重なるのだ。その重なった部分に住まう存在がやって来た私に声を掛けた。
 不思議な響きを持つ声色は人間よりも、魔物に近い響きを持っている。しかし魔物が人間に向けるような敵対心と殺気をみなぎらせたものではなく、威厳に満ち親しげな温かさを帯びていた。
 地面をとんと軽く蹴れば、私の体は羽のように軽く宙を舞った。近くなった空気と空の示す通り、大地は下方に控えている。大きな翼で宙を掻けば一息で声の主の前まで上がる。
 そこには声の主の住処があった。声の主は猿に似た顔を持ち、竜の翼を持ち、獅子の体と尾を持っていた。無駄な所一つ見出す事すら困難なそれは、この世界に多数存在する生命の優れた点を繋ぎ合わせたよう。機械生命の洗練された形態を、生命に当てはめたようだった。立ち上る気配は圧倒的でありながら知性を感じさせ、野生と理性がその一つの体に納まっている。
 神話の世界に出て来る生物と言われれば、多くの者が納得する姿だろう。かつて、獣人達がこの地上の主であった時は神と等しく崇められていた。生物の頂点である竜とは呼ばれなかったが、それは獣人達が自分達の地位を高く見せたい見栄でもある。しかし、アルマトラは何一つ気に留める事なく受け入れあるがままに在り続けていた。
 アルマトラはグランゼニスの意図から生まれた存在だ。古の守護者であり、この世界に存在する竜の一体である。
 すでに塔に立ち入った時点で察せられてしまっていたのだろう。彼が常に居場所と定める所定の位置に、ゆったりと寝そべっている。アルマトラの横に居るスライムだけがぴょんと一つ跳ねてふるりと揺れた。
「人間達の町で貴方の夢を見た」
「あぁ、そうだ。夢の中にラヴィエルお前が居たのを覚えている」
 アルマトラが事も無げに言う。生命は睡眠を取り夢を見るがアルマトラも例外ではない。しかし神の意図から生まれた為か一般的大多数な者とは違う事が在る。
 彼の夢は現実に存在する。
 言葉は変だろう。天使界で説明し理解し得る事は長老のオムイ様でも難しい事だろう。しかし、言葉は間違っていないだろう。彼の夢は実態を帯びて現実世界に存在するのだ。夢の中で見た人間の姿、見上げた時に視界に捉えた鳥の姿、平地を歩む魔物の姿、その姿は時々に違い様々だ。もし、ドッペルゲンガーという存在が居るとしたら、それはアルマトラの事だろう。彼の夢は具現化し、世界の存在に干渉する事が出来る。人間と談話する事も、魔物と共に群れに混ざる事も出来てしまう。
 私は先日セントシュタインの古い宿屋で彼の夢を見かけたのだ。
「夢の中でお前は人々を見ていた。腰掛けている場所から一歩も動く事なく、只管に目の前を行き交う人々を見つめ、その会話に耳を傾けている」
 私が普段過ごすセントシュタインの宿は古い歴史がある宿だった。今では唯一世界から宿王と認められた宿だとか、最近来たリベルト君の娘のあまりの手腕に宿王の再来が手腕を振るう宿など様々に取り立てられている。しかし、そこは戦時中は首都の中で最も戦前に近い武器庫だった。エレベーターには様々な武器や物資が積まれ上下に忙しなく動く時期、セントシュタインは敵国ガナン帝国の情報が最も早く届いていた。私は作戦会議が行われる席の端で、間諜や兵士や将軍が話す会話を聞いていたのだ。
 今は勿論そんな時代ではない。寂れた時期を除けば、そこは世界中の旅人が集まる情報の交差点だった。ルイーダという女主人がセントシュタインで旅人専門の仕事の斡旋をしていた為に、私は戦争が終わってもそこに居場所を据えていた。
 そこでアルマトラがすぅと息を吸い込んだ。
「天使界にも戻っていないようだな。天使界は大変な事になっていると思うのだがな…」
 その顔には若干苦々しいものが混ざる。宿の常連に愛煙家が居るのでその匂いが付いてしまっているのだろう。
「私一人が帰還しない事を訝しむ者はいないだろう。天使界の事をお前が気にする事はないのだ」
 視線を外し遠くを見遣る外で、アルマトラが嘆息したように息を吐く音が聞こえた。彼のその優しくお人好しな所を好ましく思ったが、時に重荷に感じる。
 広々と広がる世界が円を描く様に私に知覚されて行く。青い絵の具を何千色も用いた様に世界が様々な蒼で彩られ、光の屈折に黒や虹の色彩を宿す。遠くに飛ぶ鳥の群れが水平に行く様を、地面で動物の行く様を、遥か水平線に巨大な鯨が潮を噴くのが見える。数えきれぬ回数を営んだ日常がありながら、この視界に映らぬ場所でとてつもない変化が起きた。
「世界が動き出したんだ、アルマトラ」
 それは自分自身に言い聞かせる様だった。
 今までは今日が昨日と変わらぬものだと分かっていた。しかしそれは天使達の悲願である女神の果実が実った日、天使界が地上から放たれた光に打ち抜かれる前までの話だ。世界中を奔走した私の目に映ったのは昨日までの変わらぬ日々が、尽く拭い去られ変わり果てた世界だった。一見、普段と変わらぬそれは、注意深く見れば全身の毛が逆立つような戦慄に身を震わせる事態を潜ませている。世界の影という影に憎悪と絶望が息を顰めて、生命に食らいつくのを今か今かと待っているのだ。
 アルマトラも私と同程度の事を知っているのだろう。私の短い言葉に含まれた意味合いを全て理解しているようで、瞳には重く沈殿した意思が潜んでいた。一つ頷いて答える。
「そのようだな」
 巨体が身じろぎ傍らで微睡んでいたスライムが私の所に転がって来た。その大きな瞳を恨みがましくアルマトラに向けている前で、巨体は巨大な翼を悠々と伸ばし体を仰け反らせた。寝そべっていた時は見上げていた瞳が、黒く影を落とす巨体の中で冴え冴えと光を称えている。アルマトラの影の中にいる私に威厳ある声が落ちて来る。
「種族を越え愛を交わしたラテーナとエルギオスの事を忘れる事はない。その慈愛を完膚なきまでに叩き潰した人間を、私は許す事はない。時が過ぎ罪人が全て過去のものになろうと、彼等は救われず私の気持ちが救われる事がない。私は人間に手を差し伸べる事は決してない」
 口調は叱責に似た厳しさが籠めらていた。私も彼の協力が得られるとは微塵も考えていなかっただけあって、落胆もない。あるのは『あぁ、やはり』という納得だけだ。
 そしてアルマトラは一つ息を吐いて私に鼻先を寄せた。
「お前はもっと救われぬな、ラヴィエル。お前は孤独だ。嵐の中無力に立ち尽くす一本の若木のようだ。今にも折れそうではないか」
 アルマトラの言葉が的確で思わず目をきつく閉じた。ぎりりと歯を食いしばった音が奥から響く。
 私は孤独だ。天使を信用できず、人間を信じる事も出来ない。世界の流れを見ているだけの傍観者なのだ。
 悔しかった。エルギオス様を救えぬ己の無力が。そのエルギオス様が愛したラテーナを守りきる事の出来なかった己の無力が。両手に握り込み食い込んだ爪が皮膚を突き破り血を滴らすのではないかという程だった。それが自分の涙の代わりなのだと何処かで思っている。
 不甲斐なさと悔しさは不信を助長させた。天使界はエルギオス様が行方不明になった時、あっさりと『エルギオスの悲劇』として捜索を中断させた事に疑惑を抱かざる得なかった。ナザム村には手掛かりが全く無かった訳ではない。侵攻した国の名は世界中に轟いていた。生き残った村人が人前で真実を口にしなくとも、姿の見えない天使ならば彼等が1人で居た時に漏らす独り言から翼の男がどうなったか悟る事が出来ただろう。
 結局…。
 天使はエルギオス様を見捨てたのだ。歴史上最も力ある上級天使と称えられていた彼が、ナザム村の村人の恨みを一身に受ける存在になった事を認める事が出来なかったのだ。結局上級天使としてエルギオス様の後継を担う事になった兄でさえ、守護天使として任された地域を捨てて捜索に行く事は出来なかった。結局、今から調べても証拠は時間によって砂の様に風化しているのだ。正攻法で私程、エルギオス様に近づく事は出来ないだろう。
 行方不明とし『エルギオスの悲劇』として後世の天使達に信じ込ませ、ただ人間だけに罪を背負わせたのだ。そうに違いない…そうに…。
「気に病む事はないラヴィエル。今、この状況を打破出来る者が存在するだろうか? 恐らく居るまい。私達が300年挑戦し決着がつかぬ事を、どんな天才や勇者が現れて解決するというのだ? 事態は水面下で進み、そしてその水面より下に挑む者がどうなるか解りきっていた。どんな挑戦を私達がしたとして今が変わる事はないだろう」
 アルマトラの労りの言葉が甘く響いた。
 今、天使はこの地上の悪意に滅ぼされつつある。地上の人間の守護者として降りていた天使達は尽く拘束され、天上にある天使界の重鎮達は事態の全貌にすら辿り着けずに居る。完全に天使達が劣勢であり、天使達がどのような力を持ち意識を持っているかを知る私には敗北の二文字が見えていた。敵に一矢報いる事が可能かどうかも疑わしい。
 人間達は天使の助力を得る事は叶わず、これから降り注ぐ厄災に立ち向かう必要があった。むしろ天使達よりも日頃魔物と相対し力を持つ者が多く存在し、総合した数も天使の数百倍に相当する人間の方が望みが在る。だが、もはや天使も人間も私にとってどうでも良い存在だった。三百年前の惨劇の結末は、未だに私の中に暗い影を落としていたのだから。
 私の未来に対する冷ややかな眼差しを感じたのか、アルマトラが囁いた。
「ラヴィエル、世界は常に変化し留まる事がない」
 私は目を閉じる。覆う闇にアルマトラの声が響く。
「私はかつて神の愛した過去を守護する者として生まれ、人間を滅ぼす事が私の使命だった。しかし、今や人間の存在する過去は大きくなり、古の守護者たる私は人間を滅ぼす理由を失った。普遍ならば、可能性もなく完璧ならばこのような事等有り得ない」
 羽ばたく音が、そして声が遥か頭上からやってくる。
「可能性を信じるのだなラヴィエル」
 可能性。
 私はその言葉を反芻するうちに、1人の若い天使を思い出す。
 上級天使だけが許される弟子の採用。今まで弟子を誰一人受け入れなかった兄が、ふと幼い女の天使を弟子に招いた。黒髪に碧の瞳、翼は小さく小柄であらゆる面で同年代の天使から劣っていた。兄でさえ何故彼女を弟子に招いたのか良く分からないと言ったが、私には兄がその子を弟子に招いた理由が分かった。
 アインツです。よろしくお願いします。
 下げられた小さな頭の上に輝く小さい輪に祝福を授けながら思った。エルギオス様に弟子として迎えられた時、私達はこの子の様に頼りない小さな天使だった。エルギオス様が語る言葉の一つ一つが輝いて見えていて、私達はそれを太陽を見る様に見上げていた。でも、今になって解る。エルギオス様が、そんな私達を愛おしそうに眩しそうに目を細め見下ろしているのを…。その視線が人間にも向けられている。あの方の前では全てが平等だった。
 アインツという兄の弟子は、兄の後を継いで兄が守護していた場所の守護天使を任されたそうだ。
 あの子はどうなってしまったのだろう。不安が胸に満ちて、今直ぐにでも飛び立ちたい気持ちに駆られる。
「星空の守人たる汝等が地上の守護者として在る事は驚くべき変化だ。信じる価値が在る」
 師匠としては未熟な男だ。こちらこそよろしく頼む。
 大丈夫です。
 そう言って微笑むあの子の返事が、頼もしかった。