来れ我が街へ

 極寒の大地の空気というものは、時折空を呪いたくなる程に冴え冴えと澄んでいるものだ。空から雪が降る日は、バギクロスを空に放っても止まぬ。地面に降り積もった積雪はメラゾーマを放っても全てを消し去る事は出来ぬ。そのあまりの冷たさに、慰め程度にバーハを掛ける。見上げれば満天の星空に半月にも三日月にも寄らぬ半端な月が煌煌と輝いていた。
 静まり返った中にひっそりと建つ建物は、私がかつて見た時と変わらない。時計塔の文字盤の下で杖と本を持った守護天使の像が見守る中、このエルシオン学院内は知らぬが雪原は凍り付いているかの様に何も変化していなかった。
 積もった雪は音を吸い込み、人の気配を縮小させる。多くの人間がいる筈の場所には無音に近い静寂と、僅かに光る灯火の自己主張があるばかりだ。
 そんな中、ざくざくと音が近づいて来る。私はゆっくりと振り返った。
「ゲルニックさん、御早いですね。まだ深夜0時には時間がありますよ」
 小柄な少女は腰の丈程の積雪を、不慣れなかんじきに振り回されるように近づいてきていた。片手に持った槍は最早杖代わりだ。多くの生徒が毛皮のコートを着用する中、彼女は羽毛の薄いコートで驚く程薄着に見える装備である。鼻の頭を出来損ないのトナカイのように真っ赤にして、彼女は私の横にやってきた。
「子供が夜更かしとは感心しませんね」
「普段は明日の仕込みやら帳簿の整理で寝ていませんよ」
 私の言葉を少女は笑みで返した。
 彼女の名前はアインツ。エルシオン学院の修学旅行の宿泊候補の宿の従業員らしく、契約や視察を兼ねてこの学院にやってきたそうだ。見た目の幼さに私を始め学院長も驚きはしたが、大人顔負けの受け答えに宿の権限を委託されているのを納得させられる。
「都合良く、肝試し等という無意味な事を試したがる生徒が居て助かりました。事件の手掛かりが有ると良いのですけどね」
 普段は部外者が立ち入る事は認められないエルシオン学院。その中に私が入り込めたのもまた、少し事情があるからだ。
 今、この学院では生徒が行方不明になっている事件が頻発している。短い間に5件。行方不明になった5人は一期生から最上級生までとバラバラで、成績や出身地、性格と多角的に見ても特に共通点が見つからない。しかもエルシオン学院は文武両道、身体も知識も精神も偏りなく教育するのが初代校長の理念である。今ではエルシオン学院と言えば、各国の要人の登竜門的存在とも言える。行方不明の際に抵抗の形跡がないのも、相手が相当の手練なのか生徒が他所の評判以下なのか…。生徒態度を見た限りでは、私は後者を選ぶがな。
 結局、私はこの事件を解決すべく学院が雇った探偵に間違えられてしまったのだ。
 生徒に知識や武術を指導する教師が雁首揃えて、解決の意図すら見つけられないとは全く無能としか言い様が無いがな。
 私は顎をなぞる。指先を懐かしい肌の感触が撫でていくのが分かるが、この寒さの中では羽毛も悪く無いと思ってしまう。
「ゲルニックさんの根回しは巧妙過ぎます。生徒に危害が加わっては意味がありません。彼等が選択したとはいえ、彼等はその意味を理解する程の熟考は得ていない以上保護の対象とすべきです」
「おや、私は何もしておりませんよ」
 私が薄く笑って見下ろすと、アインツは頬を膨らませて碧の瞳で見上げてくる。非難の色は無いものの、言動から私がした事を全て看破していると言っていい。なかなか見所のある小娘の様だが、使い勝手は私にとってはイマイチだろう。ギュメイやゴレオンの下に付いた方が働きが見込める。
 直ぐに視線を落としたアインツは、手に握りしめていたのだろう懐中時計を開いて言った。
「そろそろ、深夜0時です」
 ふむ。私は言葉を聞いて見上げると、天使の像が設置された時計塔が騒がしくなる。
 今、この学院では肝試しが流行しているらしい。肝試し事態が随分と幼稚だが、知識が蓄積されても精神的には未熟という証拠だろう。それはともかく、深夜0時に時計塔の守護天使の像の額に触れるという行為が流行していた。触れば幽霊が出るそうだとアインツは調べた内容を告げてはいたが、そんなものは幽霊等という存在が我らに干渉等出来る実証が無い故に無意味だ。問題は行方不明になった生徒の半数が、その肝試しを実行した生徒であった事なのである。
「教師側が行う定時巡回の時刻ではありませんが、それでも学院内を一周して来て不振な人影は見当たりませんでした」
 アインツの一言に私は『そうですか』と一つ頷く。
 肝試しを行う事自体が今回の犯罪に直結するとは考えていない。ただしエルシオン学院に入学する者は、大抵裕福な家庭で将来有望と期待ある子供である。行方不明事件は身代金を目当ての誘拐として考えるのが、最も現実味のある仮説である。この人通りも巡回の監視をかい潜る事の出来る時間、生徒を狙い易い位置におびき寄せる。その狙いが肝試しの流行にあるのではないか。
 身代金が手に入るまでの間、誘拐した対象を目の付かない場所に隠す必要がある。生死を問う必要が無い分、建物内部の可能性もあるが宿屋の内装まで熟知したアインツは暖房の効きから腐敗の可能性があると否定した。ならば、保管は屋外。もしくは敷地外になる。これだけの豪雪ならば遺体の腐敗も出来ないし、生きて連れて行くとしても逃走経路は音も積雪が覆い隠してくれる。
 我々は誘拐犯が何処に子供達を隠しているかを、先ず第一に突き止める事から始める事にしたのだ。まぁ、突き止めたら解決まで時間も掛からんでしょう。
 アインツが小さく声を上げた。モザイオという何で入学出来たのか全く理解出来ない不真面目な生徒が、守護天使の像の額をべたべたと触っている。取り巻きらしい2人の人影も微かに視認出来、金髪の不良生徒は何やら興奮した面持ちで彼等に何かを言っていた。どうせ何も起こらない事を得意げに言っているのだろう。英雄気取りだが、ほんの数秒前まではビクビクと怯えていただろう。
 笑おうとするが寒さのあまり息を詰める。少し不機嫌さが首を擡げたが、アインツの視線が釘付けになっているのが見えて、不審に思った気持ちが踏みつぶした。彼女の口は先程の声を上げたものよりも、更に大きく開かれて今にも大声を張り上げそうな雰囲気だ。
 いったいどうした。私が問おうとした時、ぞぼっと静けさに沈む音が響いた。
 何の事は無い。雪が積もった所に、高い所から雪が固まって落ちた音だった。何処から落ちたのか。時計塔に不良生徒共がいるのだから手摺に触れた際に、手摺に積もったものが落ちたのだろう。見上げて、私は開いた口が塞がらなくなった。
 宙を生徒が舞っていた。冴え冴えとした空気に何時になく輝く月と、その月明かりを雪が反射してその生徒が浮かぶように照っていた。金髪のツンツンとした髪型が光を乱反射し、肉体は自らが青白く光っていると錯覚する程だ。先程まで自慢げに守護天使の像の額を触れていた得意げな顔は、まるで能面のように表情を失っている。おかしい。私がアインツの表情に気を取られるほんの一瞬前には時計塔に居た。彼が浮かんでいる空中は、その高さと大差ない。3階相当の高さから飛び出した?
 普通なら骨でも折れて仕方が無い高さを、不良生徒は何事もなく軽快に降り立った。取り巻きの生徒が悲鳴を上げのが聞こえた。浮いているか錯覚したが、着地の際の音は雪に吸い込まれても足は着いているようで両足は深々と雪に突き刺さっている。
 無表情のまま、不良生徒は歩き出した。
 不良生徒の後を追いかけ始めた我々だったが、その歩行スピードは想像していた以上に早い。日中に雪が掻かれ生徒が闊歩した為に、路肩に壁の様に聳えている積雪に比べれば平原の様に少ない。しかし、細かい溝が無数に刻まれた滑り難い石畳の上であっても、石畳に張り付いた雪だったそれは滑り易い氷の膜と成り果てている。雪の下の氷の層など意にも介さない。果たして構内で履く滑り易い革靴で、そのように歩けるものなのか…?
 疑問を浮かべた瞬間、金髪は派手に転んだ。受け身も取らずに地面に叩き付けられるが、悲鳴一つ上げない。痛みなど無かったように立ち上がり再び歩き出す。
「あの守護天使の像の額に触れると、暗示系統の呪文でも掛けられてしまうのでしょうか? そのような細工は見受けられなかったのですが…」
 私がそう呟くと、アインツは少し迷ったような合間を置いて言った。
「背が高くて、非常にがっしりした体格で、整髪料で髪を整えて、服装も今とは型に違いはありますがスーツで…」
 うん?
「片眼鏡を掛けておられて、口元に髭を蓄えられております」
「何の話だね?」
「教鞭を片手に憤怒の様相で少年の背後に幽霊が立っておられる……と言ったら信じて下さいますか?」
 あそこら辺に。そう言ってアインツが示した先には、再び派手に転んでこめかみの辺りから出血している不良生徒の背中がある。確かに常識を逸しているのは分かるが、そのような根の無い世迷い事の親戚に縋る程ではない。これもメダパニやマヌーサの延長線上と捉える事が現実的なものの見方である。
「そんな幼稚な怪談紛いな事よりも、考えなくてはならない事があるでしょう?」
「失礼しました」
 アインツは即座に詫びると、この先には初代校長であるエルシオンの墓があるだけだと説明した。
 こういう切り替えの早さは心地いい。私の先程の切り返しに『でも』とか『しかし』と言う無能は、私の想像以上に多い。黙って萎縮するならともかく、上官である私に逆らい噛み付こうとするのだから不快にならないわけがないのだ。そういう部下を多く殺しても不快さも一緒に消える訳ではない。
 ギュメイやゴレオンの元なら発揮するだろうと評価はしたが、不快さが軽減するなら所属を許しても良い気がする。
 それにしても『エルシオンの墓』か…。
「あんなゴキブリみたいな男も死ぬもんなんですねぇ…」
 私の呟きにアインツが不思議そうに見上げて来る。私が何でもないと先を促すと、彼女は説明を続けた。
「それ以前は旧校舎跡地だったそうです。エルシオン卿が亡くなられた後暫くして、老朽化や耐久性を鑑みられて取り壊されたとの事です。地下階が存在したらしいのですが、現在は閉鎖されて状態は不明です」
 説明が終わる頃には校舎の前に整備された庭が終わりを告げる。美しく切り込まれた木々と積雪の間に作られた石畳の歩道に刻まれた不良生徒の足跡は、真っ直ぐ迷いなく更に拓かれた場所の石塔に向かっていた。おそらくはエルシオンの石像でも建っているのだろうが、それは雪に埋もれて石で出来た高い何か程度にしか分からない。まぁ、あんな男の顔は石像だろうが見たい物ではない。
 不良生徒はその岩の裏手に回ると雪を素手で掻き始めた。雪の冷たさに悲鳴を上げる訳でもなく、ただ無表情に作業に没頭していた。掻いて退けられた雪が落ちる音が、積もった雪に吸い込まれて妙に静かであった。やがて重い音を響かせ何かが動く音がした。
 アインツと共に追いかければ、墓の後ろには石で出来た戸があった。腕の細い生徒如きが一人で動かす事が出来る重量ではなく、結果的に私がバイキルトを唱えてようやく開く事が出来た。
 開いた瞬間、内部の温かい空気に乗って言葉にし難い酷い匂いが鼻を突いた。
「うぅ、毒の沼の瘴気でもこんなに酷い事のは初めてです」
 アインツは真っ青になって雪の上に踞ってしまうが、私もあまりの酷さに後ずさってしまう。内部の密閉された空間で、旧校舎は朽ちているのだろう。永久凍土の中であっても、僅かに染み込んだ雪解け水に木は腐り、腐ったが為にガスが発生して内部が温かくなっているのだ。
 足跡すら新たに降った雪に消されてしまう程の時間が経って、ようやく私達は内部に入る決意を固めた。アインツも一度充てられた部屋に戻り、毒消し草の汁に浸した布を持ってきて使えと渡してきた。気休めにしか感じられない布ではあったが、ないよりはマシである。内部の空気はそれ程に黒く淀んでいた。
 私達は布と共に持って来たランプに明かりを灯し、内部を進み始めた。
 窓があっただろう場所は膨れた木の板が打ち付けられ、床に散乱した様々な書類が戸棚が腐って崩れた直後の状態で溶けている。あまりの瘴気の濃さに松明すら灯すのを躊躇いはしたが、黒い空気に遠くまで光が届かなくても手元を照らすランプで十二分だった。床は何人もの足跡がくっきりと刻まれていた。脇目も振らず進んでいるようで、歩いていない場所は分厚い埃が雪のように積もっているか、腐った何かが泥のように床を覆っていた。行方不明となった生徒達であろう足跡を頼りに進んだ。階段を下り、崩れた部屋を跨いで、とてもかつては学び舎とは思えない地獄のような場所が続く。
 やがて、泣き叫ぶ声が聞こえた。閉鎖された空間を通り抜ける風の様に不気味で、地獄の底に住む魔王の遠吠えの様に恐怖心を掻き立てる。声は複数。先程の不良生徒の罵声や、女生徒らしい甲高い声、瘴気にやられたのか何かが喉の奥で絡む咳も聞かれる。声達が聞こえてくる扉は、私達が目にした中で初めてのまともな扉だった。
 アインツがランプを無言で私に渡し、槍を短く構えて扉を蹴り破った。
 悲鳴が響き渡り、瘴気の黒い空気が床に溜まった何もかもを巻き上げて渦巻いた。混乱の坩堝と化すかと思ったが、生徒諸君が暴徒と化す様子はない。私がアインツに続いて部屋に入ると、生徒達はこの空間に限り非常に状態がいい椅子に座ったまま、恐怖で顔を引き攣らせているのが見えた。
「はて」
 私は思わず首を傾げた。
 部屋は現在のエルシオン学院でも一般的な教室の造りそのものだ。生徒達が座っている椅子は随分と古い物で、幾つか残っている机も朽ちかけてはいるがまだ教科書を乗せる位の利用価値は存在している。一段高くなった場所に教壇があり、黒板がある。部屋に明かりは無かった。それでも部屋には生徒は居ても犯人らしき存在が居なかった。
 先に踏み込んだアインツも教壇の真横に立って、戸惑ったまま奥に穂先を向けている。
「君等が行方不明になった生徒一同かね?」
 一番手近に居た女生徒に訊ねると、彼女は瘴気に痛み浮浪者の様に絡んだ髪の中で僅かに頷いた。頷いたように見えただけで、彼女は今にも倒れそうな状態だった。何故椅子に座っていられるのか理解に苦しむ程の酷い顔と、僅かに四肢の痙攣が見られる。
「私は学院から依頼を受けて君等を捜索に来た。まぁ、拘束されている様子も無いし、まだ元気な者は衰弱した者を支えなさい。早くここから出ますよ。全く、ここは空気が悪くていけない」
 私がそう言い終えたと同時に、彼ら全員が首を竦めた。まるで稲妻でも真横に落ちてきた様な反応で、中には泣き出した者も居た。
 なんなんだ。
 どう見ても拘束する者が存在しないのに動かない生徒達。身体的に衰弱しているならまだしも、先程の金髪不良生徒ですら青ざめた表情で動こうとしない。呪文で拘束されている様には見えない。状況が全く理解出来ない中、アインツの声が唯一の理解ある内容を言った。それでも十分現実離れした内容ではあったが。
「ゲルニックさんは、エルシオン卿と面識がおありなのですか?」
「この件と何か関係があるのかね?」
 私が聞き返すと、また生徒達が一斉に怯えた反応をする。アインツも困り果てたように私の顔を見た。
「信じて頂かなくても結構なのですが、聞いていただきたい。この件はエルシオン卿が関わっておられるようなのです」
 今回の連続した行方不明の原因は、あまりの生徒の質の低下に怒ったエルシオン初代院長の仕業である事。エルシオンは不甲斐ない生徒達をこの旧校舎の教室に軟禁し、補習授業を課しているのだという。生徒達が椅子から動けないでいるのは、教壇にエルシオンが立って弁論を奮っており、更に彼の力が作用しているからなのだそうだ。
 そこまでアインツが説明すると、私は鼻で笑う。
「エルシオンが後世の生徒共の質の低下と嘆いているのなら、所詮それは自身の詰めの甘さを認めたく無い身勝手な話です」
 馬鹿馬鹿しいと吐き捨てれば、生徒は悲鳴を上げてお伽噺で出て来る魔王でも見るように壇上を見上げている。中には声を殺して泣く者も居る。アインツは露骨に動揺して私と壇上を交互に見遣った。アインツの視線の先を人差し指で指差しながら、私は訊ねた。
「そこにエルシオンが居て私の声が聞こえているというのですね?」
「はい…そうです」
 仮にエルシオンが居て、私にエルシオンの声が聞こえていない事はある意味幸いと言えるでしょう。聞こえていたらイオグランデくらい放って木っ端みじんにしないと気が済まなくなる。
 私はすぅっと息を吸い込むと、腹の底から声を発した。
「ガナンの誘いを断りこんな土地の安い僻地に場違いな学校なんぞ建てて高い理想を掲げたが、これが貴様の希望と未来とはお笑い種ではないか!いや、愚かで馬鹿者な貴様にこれ以上似合う結末も無いがな!」
 老朽化が随分と進んでいるのだろう。私の大声にびりびりと空間が震えている。
 下らない理由で巻き込まれた、そう思うと腹立たしさが募る。私は更に声を張り上げた。
「貴様の事だ、私の選択が間違っている等と優越感を持ちながら講釈を垂れるだろうが聞く耳が勿体ないわ! 生徒の質の低下? 貴様の理想が果てしなく高いだけではないか! 絵空事ばかり抜かしおって、現実も見えん貴様は世界一の愚か者だ!」
「ゲ、ゲルニックさん」
 両手で耳を押さえながらアインツが真っ青になって声を掛けて来た。私はアインツを見遣ると生徒を指差した。
「生徒の口に毒消し草を突っ込んで、動ける者を動かしなさい」
「は、はい!」
 返事をしたアインツの動きは素早かった。布に浸す様に持ってきた毒消し草の汁を入れた瓶を荷物から取り出し、生徒達の口に数滴ずつ垂らして声を掛けて歩いた。身体を折り曲げ咳き込む姿、椅子から転げ落ちて失神する者、泣き叫ぶ者。見ていてイライラする。依頼でなければ焼き殺してしまいたいくらいだが、久々に大声を出した余韻なのか、私の気持ちは珍しく波立っていた。
 先程追っていた不良生徒の金髪を見つけると、私は持っていたランプを押し付ける。
「君が来た道を辿って助けを呼びに行きなさい」
 不良生徒の顔が驚きから瞬時に緊張に引き締まる。数時間前には守護天使像の額に触れて、小事を馬鹿のように自慢していた姿等想像出来ないくらいである。彼は周囲を見回してまだ歩けそうな生徒を一人伴い、ランプを掲げ出て行った。
 著しく状態の悪いだろう女生徒を見ていたアインツは、そんな彼等を見遣って心配そうな声を上げた。
「大丈夫でしょうか?」
「私や君が助けを呼ぶのは容易い。だが、ここに居る動けぬ者は衰弱が酷いのです。看病や周辺の警戒が必要なら、私達が残り動ける者が助けを呼ぶのが効率がいいのです」
 そして私はこう付け足した。
「君は彼等が助けを呼んで来れないとでも思っているんですか?」
 アインツの丸い碧の瞳がさらに真ん丸くなった。ふるふると首を横に振ると、再び生徒の対処を続けた。
 私がもう一度周辺を見遣ると、教壇の上に光る果実がぽつんと置かれていた。先程は確かに無かった筈だが、それは淡い金色の光を放ち存在していた。アインツは果実の存在には気が付いていないようで、生徒達の襟元を緩めたり楽な姿勢に変えたりで忙しい。この地に落ちた女神の果実。探していた目標を見つけ、私は歩み寄って果実を持ち上げた。
 " 私は大切なものを見失っていたようだ。だが貴様の正当性は私が存在する限り認めん "
「そうでなくては張り合いが無い」
 触れた瞬間に懐かしい声を聞いた。先程までエルシオンに対する怒りを覚えていたからか、それは私の記憶が生み出した幻聴だろうと片付けた。それでも、かつての思いが鮮明であったのだろう。私は思わず声に出して答えてしまった。
「何かおっしゃいました?」
 なんでもない。振り返る事なく訊ねて来たアインツに、そう答えながら果実をローブの中に隠した。

 ■ □ ■ □

 程なくして多くの教員が駆けつけてきた。このエルシオンは文武両道を謳う学び舎であり、教職に就く者もみな逞しい者ばかりであった。男性職員が動けなくなった者達を瞬く間に担ぎ上げて、颯爽と部屋から連れ出して行った。事件は明ける前に真相が生徒達を駆け巡り、朝食前だというのに元気な被害者は大講堂で武勇伝を演説でもするかの様に披露していた。アインツはエルシオン卿の話には触れなかったが、生徒達の話を聞いてか教職員達は皆が志を改めたようだった。
 事件の余韻が忙しなく過ぎ去り一部で授業が再開される頃には、私は依頼達成の報酬を受け取り、アインツは商談を纏めたようだった。扉が開かれた正門前で、私達は別れになるだろう挨拶を交わしていた。
 分厚い修学旅行参加者のリストと詳細な予定を鞄に纏め小脇に抱えたアインツは、洗練された一礼した。
「やはり一日で生徒さん達は真面目にはなりませんね」
 忙しくなりそうです。アインツはこれからの大変さを思い浮かべたのか、苦笑に似た微笑を浮かべた。
「ゲルニックさん、大変お世話になりました。セントシュタインを訊ねた際は、是非、私が勤めている宿にお越し下さい。私、買い出しに出掛けて居なければ客引きしていると思いますので、お気軽にお声掛け下さい」
 会釈される小さい頭を見下ろしていると、その向こうからこちらに駆けて来る人影がある。アインツが頭を上げて振り返る頃には、あの不良生徒が息を荒げながら立っていた。
「お、俺…今度、生徒会長に立候補することになったん、です」
 なんともぎこちない口調である。とてもではないが生徒会長が勤まるとは思えん。
 私が半眼で見下ろすのを何と重ねたのか、不良生徒は身震いしたが後ずさりはしなかった。
「今まで将来楽に生きられるからって、エルシオンに来てた。でもランプを渡された時、その、なんていうか…」
 歯切れが悪く、赤い制服の袖口から覗く手の動きはまるで女子の様。苛立ちを覚えても、視線が泳いでいる不良生徒は気が付かない様子だった。
「あんた等は俺がどんな奴かって知ってた筈だ。それなのに…」
「そんな情けない顔を曝しに来たのでしたら、時間の無駄なので私は帰りますよ?」
 ぴしゃりと言い放つと、間髪入れずアインツが言う。
「モザイオさんは立派な生徒会長なれます。頑張って下さいね」
 まるで天使の笑顔でも見たかのように、不良生徒の顔色は輝いた。彼は大声で礼を言ってまた走り去って行った。あまりの大声で周囲が立ち止まって笑っていたが、直ぐさま人々は流れ出した。何事も無かったように。
 アインツも旅装束の裾を直し改めて頭を下げた。
「では、またご縁がありましたら」
 ふわりと羽の様に軽く、アインツは日差しに煌めく雪原を歩き出し去って行った。
 一人になり白い息を吐くと、殺意を抱いたと錯覚する程鋭い風が吹き抜ける。誰も極寒と凍土の大地に見向き等しなかった。例え何があっても、訪ねる目的となる事も無い不毛の土地だった。何を植えても寒さに殺され、何を飼育しようと大きくなる事は出来なかった。それでも人が住んでいた村は、一際強い寒気に一つ一つ雪が飲み込んだ。何も無くなった。寒さと雪は絶望を覚える程に強大だった。
 見上げれば立派な煉瓦作りの校舎と、時計塔に守護天使の像。行き交う教員と生徒達。響き渡る声は、雪も吸い込めず風も払えない。
 理想は高かった。
 人の居ない大地であったのは、最早忘れ去られる程の昔である。