宿命

「こんにちわ、ドミールの里の皆様。私はガナン帝国将軍の1人、ゲルニックと申します」
 魔導師は極彩色の文様を散らした真っ青なローブを纏い、白い毛皮に見えたのは魔導師自身の羽毛です。顔は梟に酷似し、人間の耳に相当する場所から生えた翼が首元を覆っています。魔導師は出迎えた里長に慇懃に会釈をしました。
 私がエルシオンで出会った方と同名ですが、彼は人間であった筈です。ケネスさんも『なんてこった、鳥頭だぜ』と顔を引き攣らせています。ドミールの里の人々も軍隊が何用で里にやって来るのか見当もつかない事でしょう。私達がそんな疑問を考える間もなく、ゲルニックと名乗ったガナン帝国の将軍は言い放ちました。
「本日我々は、空の英雄グレイナルを殺害しに参りました。抵抗せず英雄の命を差し出すなら、我々はドミールの民を傷つけないと約束しましょう」
 言葉を終えぬうちに、ドミールの民の怒声が響き渡った。
 『グレイナル様は俺達が守る!』『グレイナル様の命を差し出すものか!』『お前ら全員返り討ちにしてやる!』そんなゲルニック将軍の言葉に真っ向から抵抗を示す内容ばかり。緊張から気を荒立てた何人かの戦士が、ゲルニック将軍に切り掛かりました。彼等の剣は兵士に遮られてしまいましたが、戦士達の華麗な剣捌きや身のこなしは兵士達を圧倒したのです。
 凄く強い…!
 目を真ん丸くした私の横で、ケネスさんが横で煙管を噴かしながらのんびりと言いました。
「ドミールの戦士はセントシュタインの近衛兵よりも強い奴揃いだ。俺達が出る幕なんてねーよ」
 世界で最も遠い大地ドミールは、空の英雄と呼ばれしグレイナルという方が統治しています。数百年前の戦争の勇者達の子孫も多く存続している地でもあります。そのドミールは年に一度、その地域が冬の時期を迎えた頃だけ行く事が出来ます。火山地帯の竜の大地は噴火が絶えず、熱された火山灰が粉雪の様に降り注ぎ溶岩の湖や川があるそうです。同じ大陸に属するナザム地方は断崖絶壁で隔てられているため、竜の地方の西の果ての鏡石の海岸から立ち入らねばなりません。周辺の魔物達は過酷な環境を生き残る猛者ばかりです。生き残る為には人間もまた強く無くてはならない。ドミールの里は火と戦士の里として名を馳せていたのです。
 寛いだ様子のケネスさんは熱い熱いと手で自らを扇ぎます。火山を登って里を目指す兵士の動きに警戒した里から、戦える者に配給されて拝借したドラゴンクローが危なっかしく頬の傍を掠めています。サンディは里に到着する前から『熱でメイクが崩れちゃう! ちょー無理。マジでヤバいわぁ』って言って、早々に姿を消してしまいました。彼女なら危険を察知して、民の女子供が隠れている洞窟に身を寄せている事でしょう。
 視線を戦闘に向けると、ドミールの戦士に敗れた兵士達が地面に倒れていました。死んではいないようですが戦いを続けるのは不可能、私にはそう見えます。
 後でホイミを掛けに行って差し上げないと…そんな事を考えていました。
「全く、役に立ちませんねぇ貴方達は…」
 穏やかな口調で言うと、ゲルニック将軍は自分を身を挺して守った兵士の背に手を翳したのです。
 手の平に集まる熱の力。このドミールに充満する炎の力に、瞬く間にゲルニック将軍の前に火球が形成されます。成人を殺す事も出来るだろう大きさに膨らんだそれを見て、兵士達が悲鳴を上げたのです。お許し下さい将軍と、懇願する兵士もいたがその言葉すら届かない。感情の伺えない顔が、冷徹な声色で言い放ったのです。
「役立たずは死になさい」
 『メラゾーマ』と紡がれた呪文と共に火球が放たれます。時を止めたようにゆっくりと兵士達に迫る火球を前にして、兵士達は酷く震えているのが見えました。渾身の力を振り絞れば避ける事も出来る筈。そうしない事を選んだ兵士達に、私は居ても立っても居られなくなったのです。気が付けば、その火球と兵士達の間に躍り出たのです。
 お借りした水鏡の盾を構え、その面が鏡のように反射し輝きます。呪文を防ぐ盾術、ミラーシールドです。
 盾と火球が接触する。ミラーシールドの輝きが、粉雪のように小さく砕けながら火球を食い止めます。踏ん張った足が、徐々に圧されドミールの硬い岩盤が滑り易い氷のようになります。火球は威力が落ちる様子が無いのです。どうしよう、防ぎきれない。私は急に今は傍に居ないサンディや背後の兵士やドミールの人達が気になり始めました。
 ミラーシールドが崩れ始め、腕が震え熱を感じ始めました。受けてから瞬く間なのに、まるで1時間もそうしているかのようです。
 頭上を何かが飛び越える感じがすると、目の前に雷が落ちたようでした。金色に輝く光が真上からメラゾーマの火球を貫くと、火球は無数の火花のようにパッと散ってしまいます。圧力から急に解放されてつんのめると、ケネスさんの足がありました。
 ケネスさんがにやりと笑いながら、煙管を銜え直しました。その手元、ドラゴンクローからは先程の光の残滓がちらちらと光っています。
「アインツ。背後に庇うのも良いが、ちゃんと庇えるか相手の攻撃を確認した方が良いぞ」
 大丈夫じゃなかったですものね。私はケネスさんに頭を下げました。
「ケネスさんが助けてくれたから大丈夫です」
「それは、大丈夫の内に入らないから」
 ケネスさんが呆れた顔で言うと、私が背後に庇った兵士達も口々にお礼を言いました。将軍、俺達を助けてくれてありがとうございます! 将軍、やっぱり俺達の事見捨てちゃいなかったんですね! 将軍、帰って来てくれたんですね! それらの言葉にケネスさんが苦々しく煙を吐きました。俺はお前等の将軍じゃねぇわ、って顔に書いてあります。
 そんな私達を見ていたゲルニック将軍は、ホゥホゥと喉元を震わせました。笑い声だったのかもしれません。
「貴方がギュメイやゴレオンが言っていた若者ですか…。まぁ、貴方の対応は後で良いでしょう」
 すっとゲルニック将軍は手を頭上に掲げました。
「来なさい! バルボロス!」
 澄み渡った青空に一滴墨汁を垂らしたようでした。一点から沸き上がった黒雲が、頭上の青空を喰い尽くたのです。そして火山が爆発したかのような雄叫びが響くと、黒雲の雷の閃光は魔法陣を形作り漆黒の竜が現れたのでした。空を滑空し火山の回りを旋回し、火山の光を吸い込み漆黒の鱗が怪しく紫に輝きます。誰もが竜の姿を見上げ、畏怖と驚き声を上げました。
 竜の翼の音を凌駕する声を響き渡らせ、ゲルニック将軍は言い放ちました。
「さぁ、バルボロス。空の英雄グレイナルを殺すのです!」
 その言葉を止める手立てが、誰にあったでしょうか? この場にいる誰一人として、空を舞う竜に打撃を与える術を持たなかったのです。誰かが苦し紛れに弓矢を放っても、黒い竜の影にすら届かないのです。為す術無く守るべき空の英雄を殺されるのを見守らなくてはならないのか、そんな民の悲痛な声が立ち上り始めました。そして、何処かで爆ぜたのです。
「その術師を殺せ! 黒い竜を止めさせるんだ!」
 誰かがそう叫ぶと、油に火を注いだように瞬く間に広がりました。武器を持つ者の全員の瞳に殺意が宿り駆け出したのです。驚いて逃げる隙を逸しそうになった私を抱えて、ケネスさんはあっという間に崖の上に引き上げてくれました。ドラゴンクローが岩に食い込んで、2人分の体重を掛けても外れたりしません。
 ケネスさんに抱え上げられ、宙ぶらりんと崖の下の状況を見た私は叫ぶように言いました。
「どうしましょう! ケネスさん、どうしたら良いでしょう?」
「どうしようって言ったってなぁ…」
 眼下ではガナン帝国の軍勢とドミールの民が戦闘を繰り広げていたのです。バルボロスという竜の登場に混乱している民に、先程の強さはありません。統率された兵士達は的確に、淡々と人々の命を突き刺し削ぎ取って行きます。敵味方入り乱れた乱戦を止める方法等、誰が知っているんでしょう!
 確かに私が乱戦に混じっても何も変わらないでしょう。でも…このままでは…
 私はケネスさんの腕を振り払おうと力を込めた瞬間、頭上の空気が降って来るような巨大な雄叫びが響き渡りました。先程のバルボロスの雄叫びとは違う、力強く雄々しい声でしたが火山が爆発したかのように凄まじい衝撃が走り抜けたのです! 兵士も民も身を竦め動きを止め時間が止まったと錯覚する程でしたが、私はその中で唯一動いていたのです。
 私が彼の腕を振り払おうとした事に加えて、彼が驚いてしまった事で私を抱えていられなくなったのです。私は空中に飛び出しました。でも、私は落ち着いていました。だって、地面はそんな遠く無いから着地は安全に出来るって、分かってたんです。
 周囲はまだ驚きから立ち直っておらず、身動きする者は殆どいませんでした。ですが、私は気が付きました。火山が爆発したような衝撃はむしろ酷くなっていて、火砕流でも向かって来ているんじゃないかという轟音に変わっていたのです。
 何事だろうと見上げた私の視界いっぱいに…
 白金色の竜の顔があったのです!
「うぁ…っ!」
 吃驚して声も出ません、というか首が絞まって声が出ないです!
 竜に私のマントが引っかかってしまったようで、苦しいです! わわ! どうしよう! 目の前の風景が全部線になって流れて行くものですから、私が今、空中に居るのか地上スレスレに居るのかすら分かりません。ただ、凄い速度で移動する竜に引っかかっているのだけしか分からないんです。
『儂の角にしっかりと捕まれ』
 その言葉が響いた瞬間、急制動が掛かって放り出されます。身体が地面に叩き付けられると思ったのですが、そこは白金の竜の頭部でした。手を伸ばせば、竜の角も真っ白い毛髪のような毛もあって捕まる所に事欠かなそうです。
「は、はい!」
 言葉に従って急いで捕まると、竜は僅かに輝きだしました。竜から沸き出した光は、竜の首地方独特の硫黄臭さすら払拭し清涼な森の中を思わせる程に清らかにして行くのです。とても懐かしい暖かい気配に包まれています。そう、天使界の世界樹の根元に立っているようです。
 竜は翼を広げ、大きく伸びをします。ふわりと空気が動いたと思った瞬間、その身体は空中を浮かんでいたのです。あの雲すら貫いていたドミール火山すら眼下にあります。こ、怖い。私は天使界にいた時も、人間界を覗くの好きじゃなかったんです。だって、上手く飛べないんですもん。
 私は怖々と竜を覗き込みました。この竜が、空の英雄グレイナルさんなんでしょうかね?
『バルボロスよ、望み通り出て来てやったぞ!』
 宣誓する言葉の先には、バルボロスと呼ばれる漆黒の竜がいました。まるで鏡合わせのように白金の竜とそっくりですが、その顔に浮かんでいたのは邪悪な笑みです。バルボロスの返答は、殺意に満ちた咆哮でした。バルボロスの喉元が異様に膨らみ、球状にまで圧縮されたブレスを放ちました。火炎でも雷でもない不気味な黒い力が蠢く力を、白金の竜は白く輝くブレスで向かい打ちました。ぶつかり合った力は周囲の空間を巻き込んで、消滅しました。白い煙に見える程に濃厚な力の名残が、漆黒の竜と白金の竜の間を漂います。
 漆黒の竜が感心したように言いました。
『流石だな、グレイナル…。我が滅ぼされ、老いていると侮っていた』
 そして漆黒の竜は私に視線を向けました。異様な感じのする光を帯びた深い紫の瞳は、言い様の無い悪寒を感じさせました。
『不完全な力であっても我を退けられる、そう思うておる事だろう。違うか、グレイナル? それは甘い考えだ』
『儂等がどのような存在であるのか忘れたか、バルボロス。哀れな奴よ…』
 睨み合っていた両者は、同時に動きました。魔力の残滓を引き裂き、切り裂こうとする爪から身を捩って避け、噛み付こうとする顎を尾で打ち上げる。その衝撃は黒雲を吹き飛ばして青空をのぞかせ、溶岩を跳ね上げて大地を燃やします。
 攻防の最中、ついにグレイナルさんの尾が漆黒の竜の腹を打ち据えました。黒雲に突き飛ばした姿を追って、グレイナルさんも雲の中に突撃します。毒の沼の瘴気のような雲の中で、私は反射的に盾をかざしました。そして凄まじい衝撃に弾き飛ばされそうになったのです。雲の切れた軌跡から、私がバルボロスの尾からグレイナルさんを守ったのだけは分かります。強力な一撃程、防がれた時の隙は大きいというもの。グレイナルさんは顎を限界まで開いて、漆黒の竜の喉元に牙を突き立てたのです!
 バルボロスの叫び声が空間を震わせました。
 噛み付いた喉元は弾け切れんばかりに膨らみ、鱗を通しても魔力がバルボロス自身を脅かす程に高まっている事が分かります。グレイナルさんは巻き込まれる事を恐れて、尾で打ち付けて突き離したのです。間髪入れず放った黒と白のブレスは正面から衝突しましたが、不安定だった黒を打ち砕き白いブレスがバルボロスを直撃したのです。
 グレイナルさんに捕まる手を握りしめていた私は、光が納まるのをじっと待ちました。命中した光の残滓から、バルボロスが移動する様子が窺えなかったのです。やがて力なく空中に留まるのがやっと、そんなバルボロスが見えたのです。
 グレイナルさんは項垂れる竜を諭すように語りかけました。
『バルボロス、儂等の争いが如何に無益な事か分からぬのか? 世界の均衡が乱れる事が、最終的にあの御方の目覚めを妨げる事になるのだぞ?』
 辛抱強く答えを待つように、グレイナルさんは留まっていました。バルボロスはぎこちなく翼を広げ、憎々し気にグレイナルさんを睨みつけました。
『我は…負けぬ…』
 バルボロスの瞳から紫の光が迸ります。同じ紫の光が黒雲の中を駆け巡り、雷のようにバルボロスを貫いたのです。紫の光が太陽のように眩しく光り輝き、グレイナルさんが私を庇う為に翼を翳してくれました。
 グレイナルさんの翼が退けられた時、恐ろしい程に強い力を帯びた漆黒の竜が目の前にいました。その力は余りにも不自然に引き出されたのか、バルボロスと呼ぶのも躊躇う何かで満たされていました。まるで悪霊に憑かれたような変貌振りです。私は腹の底から沸き上がる不快感に、吐き気すら感じました。
『我は更なる力を得たのだ』
 漆黒の竜の言葉は、鳥肌が立つ程に憎しみが込められていました。グレイナルさんに向けるだけではない、この世界の何もかもを憎むような強い憎悪が込められているのです。その憎悪を向けられて、どうしてなのか私は戸惑いました。
『己の非力さを思い知れ!』
 吐き出した言葉に追随して、漆黒の竜の全身から紫の光が迸りました。光は撓る鞭のように、叩き付ける拳のように次々とグレイナルさんに迫ります。
 グレイナルさんは力を溜めるように身構えると、身体が輝き出しました。グレイナルさんにしがみついている感覚はあるのですが、まるで太陽になってしまったかのように見えなくなってしまいました。そして、白い光は無数の紫の光を尽く防ぎ切ったのです。
 グレイナルさんが光るのを止めると、目が眩んだのか目の前が真っ暗になってしまいました。
「…あれ?」
 なんでしょう…。酷い脱力感です。ちゃんと捕まってないと落るって分かるんですけど、指先に力が入りません。
 真っ暗い中で、漆黒の竜の嘲笑う声が聞こえます。
『今の攻撃を防ぎ切った事は称賛に値する。だからこそ、グレイナル…見せてやろう』
 真っ暗でもグレイナルさんが慌てているのが分かります。空気が凄く強い力に引き寄せられて、何かがどんどん膨れ上がっているのが分かります。漆黒の竜が黒いブレスを大きく大きく限界まで膨らませているようでした。
 ですが、グレイナルさんが何処かに降り立った衝撃が酷く優しく感じられました。どうして着陸しちゃったんです? 真っ暗な中でグレイナルさんの顔がある方に、一生懸命目を凝らします。
「どうしたんです、グレイナルさん? 早く…早く、ブレスで相殺しないと…」
 舌が上手く動きません。言葉が届くかも疑わしかった言葉に、白金の竜はこう答えたのです。
『駄目だ』
「どうして…です?」
『老いた儂が再び空を舞い戦えるのも、お主の力があってこそなのだ』
 後悔を噛み締める声でした。
 意味が分からないです。ケネスさんみたいに、もっと詳しく答えてくださいよ。グレイナルさん、私は大丈夫ですから戦いましょうよ。グレイナルさんが死んでしまったら、ドミールの里の皆が泣いてしまうんですよ。悲しくて辛くて、自分を責めて、ガナン帝国って所に復讐するかもしれないんです。傷ついて、死んだりして、それでも誰も救われないんです。だから…
『あの里の最後を…な』
 漆黒の竜の感情の無い言葉が響き渡りました。
 極限まで高められた力がゆっくりと押し出されたのを感じました。こちらに迫って来ないで、横切って行く。どこへ? ドミールの里へ?
 沢山の人が生活する里が破壊されてしまう。命が散り、歴史が失われ、何もかもが無に消えてしまう。火山にこれだけ強い衝撃が加えられれば、噴火は竜の大陸全土に被害を齎すでしょう。火山灰は世界中に闇を齎し、多くの国が影響に曝されるでしょう。
 そして…
 サンディやケネスさんも…死んでしまう!
「駄目じゃない! 大丈夫です! だから、諦めないでグレイナルさん!」
 叫び声と共に視力が復活し、手に力が入る。鬣を握りしめるとグレイナルさんは素早く舞い上がり、ドミールの里に迫る脅威の前に立ちはだかりました。目の前に迫る漆黒の球体には、ドミールの里を破壊するには十二分な力が蓄えられていました。バチバチと爆ぜる雷撃一つ一つが、危険な毒蛇みたいにのたうち回っているのです。
 グレイナルさんは朗々と声を張り上げます。その声は歌声のように高く低く、遠く近く、空間を震わせ光を満たして行きます。光は徐々に集い円を描き文字になり、星のような明滅を繰り返し始めたのです。
 その輝きを見ながら、私も息を整えようと勤めます。気を抜くとひっくり返ってしまいそうです。
『礼を言う』
 私は意味が分からず、グレイナルさんを覗き込みました。どうしてこのタイミングでその言葉が出るのか、全く分からなかったのです。
『バルボロスに一矢報い、儂の里を守る事が出来る。儂の誇りは保たれた』
 そして身体が浮いた。手が、鬣から離れてしまう。急いで角を掴もうと思っても、空を切るばかり。
 グレイナルさんの顔が見える。真っ白い鬣が白髪のようで、鱗は光沢を失い片寄る様が老人の皺のようだ。彼は口を薄く開いて巨大な牙をぞろりと見せながら、くしゃみを堪えるように笑った。
『生きろ』
 落ちる。落ちてしまう。
 黒い雲と青い空のコントラストの中で、黒い玉と向き合う白金の竜の姿が見えた。
 魔法陣が黄金色の光を散らしながら、黒い玉を削る。削って、削って小さくする。でも、全部削り切る事は出来ない。削り切る事の出来ない黒い玉をグレイナルさんは受け止めた。強烈な風が吹き荒れて、ドミールの里の風車や桶が空に舞い上がった。翼が黒い光に千切り飛び、鱗が一枚一枚引き剥がされて粉砕される。悲鳴も何も聞こえない。ただ、風が吹き荒れる音しかしない。グレイナルさんが飲み込まれて、玉は完全に動きを止めた。
 ついに黒い玉が霧散すると、そこには何も無かった。
 空と、雲しか無かった。